蚊相撲(かずまふ)(脇狂言)
▲シテ「隠れもない大名。
{名乗り、「文相撲」に同断。アト、呼び出して、上下の街道へ行く事まで、何(いづ)れもしかじか悉く、「文相撲」の通り、少しも違はず。}
▲小アト「これは、江州守山に住む、蚊の精でござる。この度、都へ登り、人間に交はり、人の血を吸はうと存ずる。誠に、人程、賢い者はござらぬ。夏になれば、蚊帳を吊り、又は蚊やり火を拵へ、要害をして蚊を防ぐによつて、何とも気の毒にござる。
{このしかじか、常の通り。「若い時、旅をせねば」と云ふ。しかじか云ひて廻る内に、アト、見附けて、言葉をかけて同道する。しかじか云ひて、一遍廻り、扨、国を問ふ。「江州守山」と云ふ。芸を問ふ。弓・鞠を云ふ。扨、都に着き、アト、シテを呼び出す。シテ、過(くわ)を云ひて、目見へをするまでの科白(せりふ)、「文相撲」の通り、少しも違はず。この類、同断なり。}
▲シテ「彼奴(きやつ)か。
▲アト「彼奴(きやつ)でござる。
▲シテ「扨々、興(きよう)がつた面(つら)ぢやなあ。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「あの面(つら)でも、何ぞ芸があるか。
{アト、弓・鞠を云ふ。国を問はず。段々あつて、得た芸を云ふ。「相撲を取る」と云ふ。扨、相手の事あり。シテ、身拵へする。これまで、文相撲同断。小アト、身拵へをする時、太鼓座にくつろぎ、嘴を面の口へ差し込んで出る。アト、行司する。小アト、ぶうぶうと云ひて寄るなり。シテ、目を廻し、ひよろひよろするを、アト、捕らへるまで、「文相撲」などと、少しも違はず。}
▲シテ「扨々、合点の行かぬ事ぢや。やつと手合(てあひ)をするといなや、身共が鼻の先が、ぶうと云ふかと思うたれば、しくしくとして、目がくらくらくらとした。彼奴(きやつ)が国は、どこぢや。
▲アト「江州守山ぢやと申しまする。
▲シテ「あゝ、皆まで云ふな。疑ふ所もない。彼奴(きやつ)は、蚊の精ぢや。
▲アト「それは、どうした事でござる。
▲シテ「江州守山は、蚊所(かどころ)ぢや。劫(こふ)を経た蚊は、人程もあると聞いた。蚊の分として、人間に交はり、血を吸はうとするは、扨々、不敵な奴ぢやなあ。
▲アト「何(いづ)れ、横着者でござる。
▲シテ「扨、今のは、身共が勝ちか、負けか。
▲アト「余り、お勝ちとは見えませぬ。
▲シテ「蚊に負くるといふは、口惜しい事ぢや。何としたものであらうぞ。いや、蚊帳を吊つて、その内外(うちと)で取らうか。
▲アト「それでは、手合(てあひ)がなりますまい。
▲シテ「それならば、蚊やり火をたいて、その蔭で取らうか。
▲アト「それでは、彼奴(きやつ)が煙たがつて、え傍へ寄りますまい。
▲シテ「いや、思ひ出した事がある。も一番取らうと云へ。
▲アト「畏つてござる。
{と云ひて、小アト、出るなり。シテ、笛座より、大団扇を、左に持ちて出る。太郎冠者、行司する。手合(てあひ)する。ぶうぶうと云ふを、シテ、扇(あふ)つ。シテ、柱の傍まで扇つて、上座へ戻ると、また、ぶうぶうと云ひて、シテの傍へ寄る。また扇つて、順に廻る。扇ち扇ちして、柱の傍まで行く。悦ぶ。上座へ戻る。笑ふ内に、小アト、シテの小股を取る。「取つたぞ」と云ひて、引廻し、打ちこかして、小アト、入るなり。シテ、そつと起きかへり、真中正面にて、団扇を捨て、}
▲シテ「蚊の要害、何の役に立たぬ物ぢや。
{と云ひて、入らんとする。アトを見附けて、「文相撲」の通り、アトを打ちこかし、ぶうと云ひて、蚊の真似をして、小廻りして入るなり。右は、仕様はいろいろあるべし。口伝なり。}
底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.)
蚊相撲(カズモオ)(脇狂言)
▲シテ「隠れもない大名{名のり文相撲に同断アト呼出て上下の街道へ行事迄何れもしかじか悉く文すもふの通りすこしも違はず}▲小アト「是は江州守山に住、蚊の精で御座る、此度都へ登り人間に交り、人の血をすはうと存る、誠に、人程かしこい者は御座らぬ、夏になれば蚊帳を釣り、又は蚊やり火を拵、要害をして蚊をふせぐに依つて、何共気の毒に御座る{此しかじか常の通若い時旅をせねばと云ふ文ずもふ抔のしかじか云も吉{*1}しかじか云て廻る内にアト見附て言葉をかけて同道するしかじか云て一遍廻り扨国をとふ江州守山と云芸をとふ弓鞠を云扨都に着きアト、シテを呼出すシテ過を云て目見へをする迄のせりふしかじか文相撲の通りすこしも不違此るゐ同断なり}▲シテ「きやつか▲アト「きやつで御座る▲シテ「扨々きやうがつたつらじやなあ▲アト「左様で御座る▲シテ「あのつらでも何んぞ芸が有か{アト弓鞠を云国をとはず段々有つて得た芸を云相撲を取と云扨相手の事有シテ身拵する此迄文}角力同断小アト身拵をする時太鼓座にくつろぎ嘴を面の口へさしこむで出るアト行司する小アトぶうぶうと云てよるなりシテ目を廻しひよろひよろするをアトとらへる迄文角力抔と少しも不違}▲シテ「扨々合点のゆかぬ事ぢや、やつと手合をするといなや、身共が鼻のさきが、ぶうといふかと思うたれば、しくしくとして、目がくらくらくらとしたきやつが国はどこぢや▲アト「江州守山ぢやと申まする▲シテ「あゝ皆迄いふな、うたがふ所もない、きやつは蚊の精ぢや▲アト「夫はどうした事で御座る▲シテ「江州守山は蚊所ぢや、かうを経た蚊は、人程もあるときいた、蚊の分として人間に交り、血をすはうとするは、扨々不敵なやつぢやなあ▲アト「何れ横ちやく者で御座る▲シテ「扨今のは身共が勝か負か▲アト「余りお勝とは見えませぬ▲シテ「蚊にまくるといふは口おしい事ぢや、何んとした者で有うぞ、いや、蚊帳を釣て、其内外で取うか▲アト「夫では手合がなりますまい▲シテ「夫ならば蚊やり火をたいて、其蔭で取うか▲アト「夫ではきやつがけむたがつて、得そばへ寄りますまい▲シテ「いや思ひ出した事がある、最一番取うといへ▲アト「畏つて御座る{ト云て小アト出るなりシテ笛座より大団扇を左りに持て出る太郎冠者行司する手合するぶうぶうと云をシテあをつして柱のそば迄あをつて上座へ戻ると亦ぶうぶうと云てシテのそばへよる亦あをつて順に廻るあをちあをちして柱のそば迄行悦上座へ戻る笑ふ内に小アトシテの小股を取るとつたぞと云て引廻し打こかして小アト入るなりシテそつとおきかへり真中正面にて団扇を捨て}▲シテ「蚊の要がひ何の役にたゝぬ物じや{ト云て入らんとするアトを見附て文ずまふの通りあとを打こかしぶうと云て蚊の真似をして小廻りしているなり右は仕様はいろいろあるべし口伝なり}
校訂者注
1:底本のままだが、文意がとり難い。
コメント