船渡聟(フナワタシムコ)(脇狂言)

▲アト「矢橋(やばせ)の浦の船頭でござる。今朝、一番船を渡してござる。又、戻りを乗せて参らうと存ずる。
▲シテ「これは、都辺土の者でござる。某(それがし)、矢橋に舅を持つてござる。今日(こんにち)は、最上吉日でござるによつて、聟入を致さうと存ずる。誠に、舅は酒好きぢやと承つてござるによつて、かやうに樽肴を用意致して、参る事でござる。いや、何かと申す内に、大津松本ぢや。これから船に乗りたいものぢやが。いや、幸ひあれに舟が見ゆる。ほうい、船頭。船に乗らうやい。
▲アト「何ぢや、舟に乗らう。
▲シテ「中々。
▲アト「それを、今朝から待つてゐた。さらば、船を寄せて、乗せうぞ。えいえいえい。さあ、お乗りあれ。
▲シテ「心得た。
{と云ひて、舟のふちを踏まへて、ぐれつく心持ちをするなり。両人、ひよろひよろとするなり。仕様、口伝。}
▲シテ「あゝ。
▲アト「おゝ、あぶない。そなたは、近江舟に乗つた事はないか。
▲シテ「今が初めてゞござる。
▲アト「ぐれつく舟ぢや。静かにお乗りあれ。
▲シテ「これは、こぼれ物ぢや。ろくな所に置いて下され。
▲アト「心得た。おゝ、これは、良い物をお持ちあつたなう。さあさあ、ろくな所に置いた程に、かまへて静かにお乗りあれ。
▲シテ「船をじつと留めて置いて下されい。
▲アト「心得た。
{舟に飛び乗るなり。}
▲アト「最前の麁相(そさう)とは違つて、いかう乗り振りが上がつておりある。
▲シテ「さうもおりない。
▲アト「さらば、舟を出すぞ。
▲シテ「一段と良からう。
▲アト「えいえい。扨、わごりよは、どれからどれへお行きある。
▲シテ「身共は、都辺土の者ぢやが、矢橋へ用事あつて、参る事でおりある。
▲アト「都辺土と仰(お)せある程に、その前な物は、京酒であらう。
▲シテ「おゝ、良い推(すい)良い推。京酒でおりやるとも。
▲アト「あゝ、一つ呑みたいなあ。
▲シテ「一つ呑ませたいなあ。
▲アト「何ぢや、呑ませたい。
▲シテ「中々。
▲アト「扨々、わごりよは、心良い事を仰(お)せある。それならば、近頃云ひ兼ねたが、何と一つ、お振舞ひあらぬか。
▲シテ「はて、ざれ事を仰(お)せあるわいなう。
▲アト「いや、ざれ事ではない。真実でおりある。
▲シテ「何ぢや、真実ぢや。
▲アト「中々。
▲シテ「これはいかな事。この様に念を入れて封のしてある物を、呑まうといふ事があるものか。
▲アト「されば、云ひ兼ねたと云ふは、そこの事ぢや。今日(けふ)は、嵐は強し、寒うはあり、手が凍(こゞ)えて、櫓が押しにくい。その沢山な内を一つなど、振舞ふ分は苦しうあるまい。
▲シテ「一つなど、振舞ふ分は苦しうなけれども、あとが、たぶつく。
▲アト「それは、良い仕様がある。
▲シテ「何とするぞ。
▲アト「たぶつかぬ様に、この沢山な水を詰めて、お行きあれ。
▲シテ「これはいかな事。その様な、むさとした事が、何となるものぢや。それはならぬ。
▲アト「何ぢや、ならぬか。
▲シテ「中々。
▲アト「ならぬものを、無理に呑まうでもない。京酒と聞いたによつての事ぢや。呑む事がならずば、その匂ひなりとも、かゞしておくれあれ。
▲シテ「何ぢや、匂ひなりともかゞせ。
▲アト「中々。
▲シテ「あゝ、そなたも、よつぽどの好きぢやなう。
▲アト「随分と、好きでおりある。
▲シテ「匂ひ程の事は、心安い。これへ寄つて、かゞしませ。
▲アト「心得た。
{シテ、樽を差し出す。アト、そばへ寄りて、樽を前へ寄せてかぐ。}
▲アト「むゝ、うまい匂ひがする。匂ひをかゞぬ内は、さうもなかつたが、匂ひをかいだれば、虫が取りのぼせて、どうも堪忍がならぬ。この上は、いやでもおうでも、お振舞ひあれ。
▲シテ「いや、こゝな者が。最前から、事を分けて云ふに、聞き分けのない、くどい事を云ふ。ならぬわいやい。
▲アト「いや、ここな者が。ならざならぬで良いものを、目に角を立てゝ。ならざ呑むまいものを。
▲シテ「又、何の用に呑ませようぞ。
▲アト「おれがその酒を呑まぬというて、何と思ふものぢや。
{と云ひて、舟のふちを踏み踏み、ぐれつかす心。シテ、驚き、こける。}
▲シテ「あゝ、船頭、舟がかへるわいやい、舟がかへるわいやい。
▲アト「舟をかへさうと、酒を呑ませうと、お主(ぬし)次第ぢや。
▲シテ「やいやい、どうなりともするわいやい。早う止めてくれい、止めてくれい。
▲アト「何ぢや、どうなりともするか。
▲シテ「おゝ、どうなりともする、どうなりともする。早う止めてくれい。
▲アト「どうなりともするならば、そりやそりや。それ、止まつた。
▲シテ「扨は、どうあつても、呑まねば置かぬか。
▲アト「置かぬかといふ事があるものか。さあさあ、一つお振舞ひあれ。
▲シテ「して、盃があるか。
▲アト「いや、盃はないが。おう、幸ひこゝに、垢取りがある。
▲シテ「それは、むさからうぞや。
▲アト「むさければ、これ、水が清めでおりある。
▲シテ「かまへて一つぢや。
▲アト「はて、堅い事を云はずとも、まづ一つ、おつぎあれ。
▲シテ「どぶどぶどぶ。
{と云ひて、つぐなり。}
▲アト「おう、あるぞあるぞ。
{と云ひて、受けて呑む内に、樽の口をする所を、}
▲アト「むゝ。
{と云ひて、呑み呑み止める。}
▲シテ「これは、何とする。
▲アト「一献酒(いつこんざけ)は、呑まぬものぢや。
▲シテ「はて、一献でも大事ない事を。
▲アト「さあさあ、おつぎあれ。
▲シテ「どぶどぶどぶ。
{と云ひて、つぐ。}
▲アト「おう、あるある。
{と云ひて、アト、呑む内に、シテ、口をする。}
▲アト「扨も扨も、良い酒ぢや。ほ、早、口をしたか。
▲シテ「又、口をせいでならうか。
▲アト「これをお主(ぬし)へ差さうものを。
▲シテ「戴きたうおりない。
▲アト「かう云ふも、もう一つ呑みたさの事ぢや。何ともう一つ、お振舞ひあらぬか。
▲シテ「一献の所を二献まで呑ませて、もはや、云ひ分はあるまい。
▲アト「云ひ分の、あるのないのといふ事ではない。舟の中では、我人(われひと)祝う事ぢや。今のは二献で、献が悪い。どうぞ、もう一つ呑ませて、献を合(あは)させておくれあれ。
▲シテ「いや、も、この上は、ふつつりとならぬ。
▲アト「何ぢや、ふつつりとならぬ。
▲シテ「中々。
▲アト「はあ。それならば身共も、ふつつりとならぬ。
{と云ひて、棹を捨てゝ、下に居るなり。}
▲シテ「やいやい、船頭、舟が流るゝわいやい。
▲アト「舟を流さうと、酒を呑ませうと、お主(ぬし)次第ぢや。
▲シテ「やいやい、どうなりともする、どうなりともする。
▲アト「何ぢや、どうなりともするか。
▲シテ「早う留めてくれい、留めてくれい。
▲アト「それは、心安い事ぢや。そりやそりやそりや。止まつた。
▲シテ「いかに船中ぢやというて、その様にはなぶらぬものぢや。
▲アト「なぶると思へば腹が立つ。こりや、若い者。機嫌を直して、もう一つ、お振舞ひあれ。
▲シテ「扨々、迷惑な事ぢや。どぶどぶ、びしよびしよびしよ。
{と云ひて、つぐなり。シテ、樽を振つて見て、}
▲シテ「ほ、これは、いかう残り少なになつた。
▲アト「やれやれ、ようこそお振舞ひあつた。これで身共も堪能した。これ程にはあるまいけれども、向うに良い酒がある程に、詰めてお行きあれ。
▲シテ「せめてさうなりとも、せずばなるまい。
▲アト「最前から、何かと云うて、遅なはつた。その代わりに、精を出して、舟を着けやうぞ。
▲シテ「早う着けておくれあれ。
▲アト「えいえい。そりやそりや、船が着くは。
▲シテ「誠に舟が着くは。
▲アト「えいえいえい。さあ、舟が着いた。上がらしめ。
▲シテ「心得た。
▲アト「又、戻りにも、身共が舟に乗せうぞや。
▲シテ「いかないかな、わごりよの舟に乗りたうおりない。なうなう、もつけな船に乗り合(あは)せて、舅へ志の酒を皆にした。扨も扨も、苦々しい事ぢや。いや、何かと云ふ内に、舅の宿はこの辺りぢやと、承つた。まづ、此処(こゝ)で尋ねて見やう。
{と云ひて、案内を乞ふ。女、出るも、常の如し。}
▲シテ「都辺土の者でござるが、もし、誰はこゝではござらぬか。
▲女「都辺土と仰せらるゝは、京の聟殿ではござらぬか。
▲シテ「まづ、その様な者でござる。
▲女「やれやれ、遥々(はるばる)の処を、良うござりましたなう。
▲シテ「これは、今日参つた印でござる。
▲女「ござるこそ嬉しけれ。何の持たせに及ぶ事でござる。さあさあ、かう通らせられい。
▲シテ「心得ました。
{と云ひて、入れ違ひ、シテ、脇座に下に居る。女、樽を取りて、後見座へ置いて出る。}
▲女「やれやれ、良うござつたなう、良うござつたなう。
▲シテ「扨、舅殿は、どれにござります。
▲女「これのは、在所に謡講があつて、参られてござる。
▲シテ「どうぞ、お目に掛かりたうござる。
▲女「行(い)て呼うで参りませう。
▲シテ「それは、忝うござる。
▲女「もはや戻られさうなものぢやに。何をしてゐらるゝ事ぢや知らぬ。さればこそ、あれにつゝくりとしてゐらるゝ。なうなうなう、そこな人。
▲アト「かしましい。何事ぢや。
▲女「何事と云ふ事があるものか。折々は、内へも戻つたが良うござるわいなう。
▲アト「何を云ふぞいやい。今日(けふ)は、仕合(しあはせ)が良いによつて、も一(ひと)かへり、せうと思うて、待つて居るわいやい。
▲女「まだそのつれな事を仰(お)せある。内には客がある。
▲アト「客とは。
▲女「聟がわせた。
▲アト「どこの。
▲女「京の。
▲アト「いつ。
▲女「今。
▲アト「何んぢや、今。
▲女「さあさあ、お帰りあれ、お帰りあれ。
▲アト「これはまた、忙(せは)しない。来るなら来ると、前披露から云ひたいものを。壁に馬を乗りかけた様な。
{と云ひて、聟を見て、肝をつぶし、橋掛りへ逃げる。女、後より付いて行き、}
▲女「何とさせられた。
▲アト「京の聟といふは、あれか。
▲女「成程、あれでござる。
▲アト「これはいかな事。京の聟は、づゝと器量の良い聟と聞いた。あれは、さんざんの不男ぢや。あの様な者を、聟にする事はならぬ。早う往(い)なせ。
▲女「これはいかな事。あの器量の良い聟殿に、どこに難があるものぢや。その上、遥々(はるばる)わせた者を、何と帰さるゝものぢや。さあさあ、早う行(い)て、会はつしやれ。
▲アト「あゝ、まづ待て待て。
▲女「何と、待てとは。
▲アト「これには段々、様子のある事ぢや。
▲女「様子とは。
▲アト「あの聟は、もし、樽肴を持つては来なんだか。
▲女「成程、持つて見えました。
▲アト「身共が舟に乗せてな。
▲女「して、何と。
▲アト「何が、嵐は強し、寒うはあり、あれが呑まさうとも云はぬ酒を、舟を流しつ、かぶらかいつして、無理に酒を呑うだれば、今面目なうて、どうも会はれぬ。そなた、良い様に云うて、往(い)なしておくりやれ。
▲女「何ぢや、無理に酒を呑うだ。
▲アト「中々。
▲女「ゑゝ、腹立(はらだち)や腹立や。おのれ、その酒を呑むといふ事があるものか。と云うても、会はさねばならぬ。さあさあ、お出やれお出やれ。
▲アト「あゝ、まづ待て待て。
▲女「何と、待てとは。
▲アト「今言ふ訳ぢやによつて、どうも会はれぬ。良い様に云うて、往(い)なせておくれあれ。
▲アト「それならば、さまを変へて、出させられい。
▲アト「今更、さまの変へやうもない。
▲女「そなたの髭が、常々、見たむない見たむないと思うてゐまする程に、その髭を剃つてお出やれ。
▲アト「何ぢや、この髭を剃れ。
▲女「中々。
▲アト「いや、こゝなやつが。西国方の大名衆も、矢橋の浦の大髭が舟と云うて、身共が舟ならでは召されぬ様になさるゝ。何ぞや、あの聟に会はぬというて、この大事の髭を剃る事は、ならぬわいやい。
▲女「いやいや、どうあつても、剃らねばならぬ。
{と云ひて、女、アトを捕らへ、橋掛り板着へ座らせ、無理に髭を剃る。その間、文句、色々云ふ。}
▲アト「これは何とする。
▲女「何とゝ云ふ事があるものか。
▲アト「こればかりは許してくれい。
▲女「いやいや、剃らねばならぬ。
▲アト「ほう、ほう。こりや、剃つたか。
▲女「おゝ。扨、剃つたとも。
▲アト「何と、見知りはせまいか。
▲女「いやいや。相好(さうがう)が変つた程に、見知りはしますまい。
▲アト「それならば、出よう程に、そこの首尾を頼むぞ。
▲女「心得ました。なうなう、これのが戻られました。
▲シテ「ゑい。舅殿、お帰りなされましたか。
▲アト「聟殿でござるか。
▲シテ「不案内にござる。
▲アト「初対面でござる。
▲シテ「早々参る筈を、何かと延引致してござる。
▲アト「聟殿は、かねてお暇なしと、承つてござる。
▲女「これは、今日(こんにち)のを、持たせてござる。
▲アト「ござるこそ嬉しけれ。何の、これに及ぶ事でござる。女共、盃を出せ。
▲女「心得ました。
▲アト「やれやれ、遠方の処を、良うござつたなう。
▲シテ「はあ。
▲女「お盃、持ちました。
▲アト「何と、それへ参らぬか。
▲シテ「まづ、上がつて下されい。
▲アト「それならば、某から初めませう。
▲シテ「良うござりませう。
▲アト「こりや、身共は酒を呑まぬぞ。
▲シテ「はあ、舅殿には、御酒(ごしゆ)は上がりませぬか。
▲女「これのは、たべられませぬ。
▲アト「扨、これを聟殿へ進じませう。
▲シテ「戴きませう。
▲アト「女ども、持つて行(い)てくれい。
▲女「心得ました。
▲アト「たべ汚してござる。
▲シテ「幾久しう、めでたうござる。
▲アト「その通りでござる。
▲シテ「これは、慮外でござる。
▲アト「はあ。聟殿は、酒がなるさうな。
▲女「一つ、参るさうにござる。
▲アト「なうなう、聟殿。こなたは、酒を一つ参るか。
▲シテ「一つ、たべまする。
▲アト「それは、良い事ぢや。もう一つ参れ。
▲シテ「それならば、もう一つ、たべませう。
▲アト「女共、丁度(ちやうど)つがしめ。
▲シテ「これは度々、慮外でござる。
▲女「丁度(ちやうど)参れ。
▲シテ「おつと、ござる。
▲アト「聟殿は、酒がなつて、良い事ぢやなう。
▲女「左様でござる。
▲アト「身共も、あの様に呑み習ひたいものぢや。
▲シテ「扨、これを、慮外ながら、舅殿へ上げませう。
▲アト「どれどれ、戴きませう。
▲シテ「たべ汚してござる。
▲アト「苦しうござらぬ。
{女、つぐを受けて、ちやつと引きて、}
はて扨、呑まぬを知つてゐて、つぐ程にの。
▲シテ「はあ。舅殿には、かつて、御酒(ごしゆ)を上がりませぬか。
▲アト「かつて、たべられませぬ。
▲シテ「一つ上がると、承りましたが。
▲アト「いや。私は、酒の匂ひをかぎましても、その儘酔ひまする。
▲シテ「はあ。
▲アト「扨、もう一つ参らぬか。
▲シテ「いや、もうたべますまい。
▲アト「それならば、女共、盃を取つておかしめ。
▲女「心得ました。
▲シテ「扨、申し、舅殿。見ますれば、最前から、窮屈さうになされてござるが、それはどうした事でござる。
▲アト「不審、尤でござる。ふだん浜辺に住みますれば、口ひゞが切れまして、風が当たればしみまするによつて、かやうに致して居りまする。
▲シテ「御尤ではござれども、重ねてお顔を見知るためでござる。ひらにおとりなされませ。
▲アト「やはり、この儘、置いて下され。
▲女「あの様に云はせらるゝ程に、とらせられい。
▲アト「おのれが何を知つて。すつ込うでゐよ。
▲シテ「左様ならば、私がとりませう。
▲アト「いや、許して下されい。
▲シテ「いやいや、私がとりませう。
▲アト「どうぞ、この儘置いて下され。
{シテ、無理に袖をのける。}
▲シテ「これはいかな事。あれは、最前の船頭ぢや。
{イロカゝル}
いかにやいかに舅殿、何しに髭を剃つたぞ。
▲アト「南無三宝、見知られた。
{イロカゝル}
今は何をかつゝむべき。矢橋の舟をかぶらかいて、酒を呑うだ故なり。
▲シテ「いやいや、それは苦しからず。とにもかくにも、舅殿に参らせんがためなり。
▲アト「志は嬉しけれど、面目なうは存ずる。
▲シテ「さらば、暇(いとま)申さん。
▲アト「あら名残多しや。
▲シテ「こなたも名残惜しけれど、あの日を御覧(ごらう)ぜ。
▲アト「{*1}山の端にかゝつた。
▲二人「銘々ざらり、ざらりざらりと、梅はほろりと落つるとも、鞠は枝に留まつた。鞠は枝に留まつた留まつた。留まり留まり留まつた。とつとつと。{と云ひて、両人留め様、向ひ合ふ。「宗論」等の通り、違はず。アトより入る。シテ入る。女入るなり。}

校訂者注
 1:底本、ここ以降、全て傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.

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船渡聟(フナワタシムコ)(脇狂言)

▲アト「矢橋の浦の船頭で御座る、今朝一番船を渡して御座る、又戻りをのせて参らうと存ずる▲シテ「是は都辺土の者で御座る、某矢橋に舅を持つて御座る、今日は最上吉日で御座るに依つて、聟入を致さうと存ずる、誠に、舅は酒すきぢやと承はつて御座るに依つて、斯様に樽肴を用意致て参る事で御座る、いや何彼と申内に、大津松本ぢや、是から船にのりたい者ぢやが、いや幸ひあれに舟が見ゆる、ほうい船頭、船にのらうやい▲アト「何ぢや舟にのらう▲シテ「中々▲アト「夫をけさからまつてゐた、さらば船をよせてのせうぞ、えいえいえい、さあおのりあれ▲シテ「心得た{ト云て舟のふちをふまへてぐれつく心持ちをする也両人ひよろひよろとするなり仕様口伝}▲シテ「あゝ▲アト「おゝあぶない、そなたは近江舟にのつた事はないか▲シテ「今が初めてゞ御座る▲アト「ぐれつく舟ぢや、静におのりあれ▲シテ「是はこぼれ物ぢや、ろくな所に置て下され▲アト「心得た、おゝ是はよい物をお持あつたなう、さあさあろくな所に置た程にかまへて静におのりあれ▲シテ「船をじつと留めて置て下されい▲アト「心得た{舟に飛のるなり}▲アト「最前の麁相とは違つて、いかう乗振が上つておりある▲シテ「さうもおりない▲アト「さらば舟を出すぞ▲シテ「一段とよからう▲アト「えいえい、扨わごりよはどれからどれへお行ある▲シテ「身共は都辺土の者ぢやが、矢橋へ用事有つて、参る事でおりある▲アト「都辺土とおせある程に、其前な物は{*1}、京酒で有らう▲シテ「おゝよいすいよいすい、京酒でおりやる共▲アト「あゝ一トつ呑みたひなあ▲シテ「ひとつ呑ませたいなあ▲アト「何ぢや呑せたい▲シテ「中々▲アト「扨々わごりよは、心よひ事をおせある、夫ならば、近頃いひ兼たが、何とひとつお振舞あらぬか▲シテ「果ざれ事をおせあるわいなう{*2}▲アト「いやざれ事ではない、真実でおりある▲シテ「何ぢや真実ぢや▲アト「中々▲シテ「是はいかな事、此様に念をいれて封のして有物を、呑うといふ事が有者か▲アト「されば云ひ兼たといふはそこの事ぢや、けふはあらしはつよし寒うはあり、手がこゞえて櫓が押にくい、其沢山な内を、一トつ抔振まふ分は苦敷有まい▲シテ「一つ抔振舞ふ分は苦敷なけれ共、跡がたぶつく▲アト「夫はよい仕様が有る▲シテ「何とするぞ▲アト「たぶつかぬ様に、此沢山な水をつめておゆきあれ▲シテ「是はいかな事、其様なむさとした事が、何と成者ぢや、夫はならぬ▲アト「何ぢやならぬか▲シテ「中々▲アト「ならぬ者を無理に呑うでもない、京酒ときいたに依つての事ぢや、呑事がならずば、其匂ひなり共かゞしておくれあれ▲シテ「何ぢや匂ひ成共かゞせ▲アト「中々▲シテ「あゝそなたも余つぽどのすきぢやなう▲アト「ずい分とすきでおりある▲シテ「匂ひ程の事は心安い、是へよつてかゞしませ▲アト「心得た{シテ樽をさし出すアトそばへ寄りて樽を前へ寄せてかぐ}▲アト「むゝうまい匂ひがする、匂をかゞぬ内はさうもなかつたが、匂ひをかいだれば、むしが取のぼせてどうも堪忍がならぬ、此上はいやでもおうでも、おふるまいあれ▲シテ「いや爰な者が、最前から事を分ていふに、きゝ分のないくどい事をいふ、ならぬわいやい▲アト「いや爰なものが、ならざならぬでよいものを、目に角をたてゝ、ならざ呑まいものを▲シテ「又何の用にのませようぞ▲アト「おれが其酒を呑ぬというて、何と思ふ者ぢや{ト云て舟のふちをふみふみぐれつかす心シテ驚こける{*3}}▲シテ「あゝ船頭舟がかへるわいやい、舟がかへるわいやい▲アト「舟をかへさうと、酒を呑せうと、お主次第ぢや▲シテ「やいやいどう成共するわいやい、早うとめてくれいとめてくれい▲アト「何ぢやどう成共するか▲シテ「おゝどう成共する、どう成共する、早うとめてくれい▲アト「どう成共するならば、そりやそりや、夫とまつた▲シテ「扨はどうあつても、呑ねばおかぬか▲アト「おかぬかといふ事が有物か、さあさあ一トつお振まいあれ▲シテ「して盃が有か▲アト「いや盃はなひが、おう幸ひ是に、あかどりがある▲シテ「夫はむさからうぞや▲アト「むさければ是、水がきよめでおりある▲シテ「かまへて一トつぢや▲アト「果かたい事をいはず共、先一トつおつぎあれ▲シテ「どぶどぶどぶ{ト云てつぐなり}▲アト「おうあるぞあるぞ{ト云て受て呑内に樽の口をする所を}▲アト「むゝ{ト云て呑々とめる}▲シテ「是は何とする▲アト「一献酒は呑ぬ者ぢや▲シテ「果一献でも大事ない事を▲アト「さあさあおつぎあれ▲シテ「どぶどぶどぶ{ト云てつぐ}▲アト「おうあるある{ト云てアト呑内にシテ口をする}▲アト「扨も扨もよい酒ぢや、ほ、早口をしたか▲シテ「又口をせいでならうか▲アト「是をおぬしへさゝう者を▲シテ「いたゞきとう折ない▲アト「かういふも最一トつ呑たさの事ぢや、何と最一トつお振まいあらぬか▲シテ「一献の所を二献まで呑せて、最早云ひ分は有まい▲アト「云ひ分の有のないのといふ事ではない、舟の中では、我人祝う事ぢや、今のは二献で献がわるい、どうぞ最一トつ呑せて、献を合させておくれあれ▲シテ「いやも此上は、ふつつりとならぬ▲アト「何ぢやふつつりとならぬ▲シテ「中々▲アト「はあ夫ならば、身共もふつつりとならぬ{ト云て棹を捨てゝ下に居るなり}▲シテ「やいやい船頭、舟が流るゝわいやい▲アト「舟を流さうと、酒を呑せうと、おぬし次第ぢや▲シテ「やいやいどう成共する▲アト「何ぢやどう成共するか▲シテ「早う留めてくれい留めてくれい▲アト「夫は心易ひ事ぢや、そりやそりやそりや留つた▲シテ「いかに船中ぢやといふて、其様にはなぶらぬ者ぢや▲アト「なぶると思へば腹が立つ、こりや若い者、機嫌を直して、最一つお振まいあれ▲シテ「扨々迷惑な事ぢや、どぶどぶ、びしよびしよびしよ{ト云てつぐなりシテ樽をふつて見て}▲シテ「ほ、是はいかう残りずくなになつた▲アト「やれやれようこそお振まいあつた、是で身共もたんのうした、是程には有まいけれ共、向うによい酒が有程に、つめてお行あれ▲シテ「責てさう成共せずば成まい▲アト「最前から何彼といふておそなはつた、其かわりに精を出して、舟をつけやうぞ▲シテ「早うつけておくれあれ▲アト「えいえい、そりやそりや船がつくは▲シテ「誠に舟がつくは▲アト「えいえいえいさあ舟がついた、上らしめ▲シテ「心得た▲アト「又戻りにも、身共が舟にのせうぞや▲シテ「いかないかなわごりよの舟にのりとうおりない、なうなうもつけな船に乗り合せて、舅へ志の酒を皆にした、扨も扨もにがにが敷事ぢや、いや何彼といふ内に、舅の宿は此辺りぢやと承はつた、先此処で尋ねて見う{ト云て案内を乞女出るも如常}▲シテ「都辺土の者で御座るが、もし誰は爰では御座らぬか{*4}▲女「都辺土と仰せらるゝは、京の聟殿では御座らぬか▲シテ「先其様な者で御座る▲女「やれやれはるばるの処を、よう御座りましたなう▲シテ「是は今日参つた印で御座る▲女「御座るこそ嬉しけれ、何のもたせに及事で御座る、さあさあかう通らせられい▲シテ「心得ました{ト云て入違ひシテ脇座に下に居る女樽をとりて後見座へ置て出る}▲女「やれやれよう御座つたなう、よう御座つたなう▲シテ「扨舅殿はどれに御座ります▲女「是のは在所に、謡講が有つて参られて御座る▲シテ「どうぞお目に掛りとう御座る▲女「いてようで参りませう▲シテ「夫は忝う御座る▲女「最早戻られさうな者ぢやに、何をしていらるゝ事ぢやしらぬ、さればこそあれにつゝくりとしていらるゝ、なうなうそこな人▲アト「かしましい何事ぢや▲女「何事と云ふ事が有る者か、折々は内へも戻つたがよう御座るわいなう▲アト「何をいふぞいやい、けふは仕合がよいに依つて、もひとかへりせうと思ふて、まつて居るわいやい▲女「まだ其つれな事をおせある内には客が有る▲アト「客とは▲女「聟がはせた▲アト「どこの▲女「京の▲アト「いつ▲女「今▲アト「何んぢや今▲女「さあさあお帰りあれお帰りあれ▲アト「是はまたせはしない、くるならくると前披露から云たい者を、壁に馬を乗りかけた様な{ト云て聟を見て肝をつぶし橋掛りへにげる女跡より付て行}▲女「何とさせられた▲アト「京の聟といふはあれか▲女「成程あれで御座る▲アト「是はいかな事、京の聟はつゝと器量のよい聟ときいた、あれはさんざんの不男ぢや、あの様な者を聟にする事はならぬ、早ういなせ▲女「是はいかな事、あの器量のよいむこ殿に、どこに難が有者ぢや、其上はるばるはせた者を、何と帰さるゝ者ぢや、さあさあ早ういてあはつしやれ▲アト「あゝ先まてまて▲女「何とまてとは▲アト「是には段々様子の有事ぢや▲女「様子とは▲アト「あの聟は、もし樽肴をもつてはこなんだか▲女「成程持つて見えました▲アト「身共が舟にのせてな▲女「して何と▲アト「何が嵐はつよし寒うはあり、あれが呑さう共云わぬ酒を、舟を流しつかぶらかいつして、無理に酒を呑うだれば、今面目なうてどうもあはれぬ、そなたよい様に云て、いなしておくりやれ▲女「何んぢや、無理に酒を呑うだ▲アト「中々▲女「ゑゝ腹立や腹立や、おのれ其酒を呑と云ふ事が有者か、といふてもあはさねばならぬ、さあさあお出やれお出やれ▲アト「あゝ先まて先まて▲女「何とまてとは▲アト「今言訳ぢやに依つて、どうもあはれぬ、よい様にいふていなせておくれあれ▲アト「夫ならばさまをかへて出させられい▲アト「今更さまのかへ様もない▲女「そなたの髭が、常々見たむない見たむないと思うていまする程に、其髭を剃つてお出やれ▲アト「何んぢや此髭を剃れ{*5}▲女「中々▲アト「いや爰なやつが、西国方の大名衆も、矢橋の浦の大髭が舟というて、身共が舟ならでは召れぬ様になさるゝ、何んぞやあの聟にあはぬというて{*6}、此大事の髭を、剃る事はならぬわいやい▲女「いやいやどう有つても剃ねばならぬ{ト云て女アトをとらへ橋がゝり板着へすわらせむりに髭をそる其間文句種々云ふ}▲アト「是は何とする▲女「何とゝ云ふ事が有者か▲アト「是計はゆるしてくれい▲女「いやいや剃らねばならぬ{*7}▲アト「ほう、ほう、こりや剃つたか▲女「おゝ扨剃つた共▲アト「何と見知りはせまいか▲女「いやいやさうごうがかはつた程に見知りはしますまい▲アト「夫ならば出う程に、そこの首尾を頼ぞ▲女「心得ました、なうなう是のが戻られました▲シテ「ゑい舅殿、お帰り被成ましたか▲アト「聟殿で御座るか▲シテ「不案内に御座る▲アト「初対面で御座る▲シテ「早々参る筈を、何彼と延引致て御座る▲アト「聟殿は予てお暇なしと承はつて御座る▲女「是は今日のをもたせて御座る▲アト「御座るこそ嬉しけれ、何んの是に及事で御座る、女共盃を出せ▲女「心得ました▲アト「やれやれ遠方の処を、よう御座つたなう▲シテ「はあ▲女「お盃持ました▲アト「何んと夫へ参らぬか▲シテ「先上つて下されい▲アト「夫ならば某から初めませう▲シテ「よう御座りませう▲アト「こりや、身共は酒を呑ぬぞ▲シテ「はあ舅殿には、御酒は上りませぬか▲女「是のはたべられませぬ▲アト「扨是をむこ殿へ進じませう▲シテ「いたゞきませう▲アト「女ども持つていてくれい▲女「心得ました▲アト「たべよごして御座る▲シテ「幾久敷目出たう御座る▲アト「其通りで御座る▲シテ「是は慮外で御座る▲アト「はあ、聟殿は酒が成さうな▲女「一トつ参るさうに御座る▲アト「なうなう聟殿、こなたは酒を一トつ参るか▲シテ「一トつたべまする▲アト「夫はよい事ぢや、最一つ参れ▲シテ「夫ならば最一トつたべませう▲アト「女共丁度つがしめ▲シテ「是は度々慮外で御座る▲女「丁度参れ▲シテ「おつと御座る▲アト「聟殿は酒がなつてよい事ぢやなう▲女「左様で御座る▲アト「身共もあの様に、呑習ひたい者ぢや▲シテ「扨是を慮外ながら、舅殿へ上ませう▲アト「どれどれいたゞきませう▲シテ「たべよごして御座る▲アト「苦敷御座らぬ{女つぐを受てちやつと引て}果扨、呑ぬを知つていてつぐ程にの▲シテ「はあ舅殿には、曽て御酒を上りませぬか▲アト「曽てたべられませぬ▲シテ「一トつ上ると承りましたが{*8}▲アト「いや私は酒の匂ひをかぎましても、其儘酔まする▲シテ「はあ{*9}▲アト「扨最一トつ参らぬか▲シテ「いやもうたべますまい▲アト「夫ならば女共、盃をとつておかしめ▲女「心得ました▲シテ「扨申舅殿、見ますれば最前から、きうくつさうに被成て御座るが、夫はどうした事で御座る▲アト「不審尤で御座る、不断浜辺に住ますれば、口ひゞがきれまして、風が当ればしみまするに依つて、斯様に致して居りまする▲シテ「御尤では御座れ共、重てお顔を見知る為で御座る、ひらにお取被成ませ▲アト「矢張り此儘置て下され▲女「あの様にいはせらるゝ程にとらせられい▲アト「おのれが何を知つて、すつこうでゐよ▲シテ「左様ならば私が取ませう▲アト「いやゆるして下されい▲シテ「いやいや私が取ませう▲アト「どうぞ此儘置て下され{シテむりに袖をのける}▲シテ「是はいかな事、あれは最前の船頭ぢや{イロカゝル}いかにやいかに舅殿、何しに髭をそつたぞ▲アト「南無三宝見知られた{イロカゝル}{*10}今は何をかつゝむべき、矢橋の舟をかぶらかいて、酒を呑うだ故なり▲シテ「いやいや夫は苦しからず、兎にも角にも舅殿に参らせんが為めなり▲アト「志は嬉しけれど、面目なうは存ずる▲シテ「さらば暇申さん▲アト「あら名残おゝしや▲シテ「こなたも名残おしけれど、あの日を御らうぜ▲アト「山の端にかゝつた▲二人「銘々ざらり、ざらりざらり、と梅はほろりとおつるとも、鞠は枝にとまつた、鞠は枝にとまつたとまつた、とまりとまりとまつた、とつとつと{ト云て両人留様向ひ合ふ宗論等の通り不違アトより入るシテ入る女入るなり}

校訂者注
 1:底本は、「其前なは物」。
 2:底本は、「ざれ事をおせあるないなう」。
 3:「驚」の字、不鮮明。或は別字か。
 4:底本は、「もし者は爰では御座らぬか」。
 5:底本は、「此髭を刺(そ)れ」。
 6:「あの聟にあはぬというて」は、底本のまま。
 7:底本は、「剃らぬばならぬ」。
 8:底本は、「承りましたか」。
 9:底本は、「はあん」。
 10:底本は、「「今は」。