福の神(ふくのかみ)(脇狂言)
▲アト「この辺りの者でござる。何かと申す内に、年の暮れになつてござる。いつも嘉例で、出雲の大社(おほやしろ)へ、年を取りに参る。又こゝに、いつも同道致して参る人がござる。これを誘うて、すぐに参らうと存ずる。誠に、毎年毎年相変らず、年を取りに参ると申すは、めでたい事でござる。いつも参る事でござる程に、定めて待ち兼ねて居られうと存ずる。何かと申す内に、これぢや。
{と云ひて、案内乞ふ。出るも常の如し。}
▲アト「何かと申す内に、年の暮れになりました。
▲小アト「誠に、近い春になりました。
▲アト「扨、いつもの通り、出雲の大社へ年を取りに参らうと存じて、誘ひに参りました。
▲小アト「定めてお出なされうと存じて、心待ちを致してござる。追つ付け御同道申しませう。
▲アト「それならば、さあさあ、お出なされ。
▲小アト「心得ました。
▲アト「扨、只今も、路次(ろし)すがら、独り言に申してござる。毎年相変らず年籠りを致すは、ありがたい事ではござらぬか。
▲小アト「仰せらるゝ通り、足手息災で年籠り致すは、めでたい事でござる。
▲アト「何かと申す内に、これでござる。まづ神前へ参りませう。
▲小アト「一段と良うござらう。
{と云ひて、二人、扇広げて拝む。}
▲アト「扨、いつも福の神のお前で、年を取りまする。いざ、参りませう。
▲小アト「良うござらう。
▲アト「扨、何と思し召す。去年参つたを、昨日や今日のやうに存じましたが、もはや、一年経つてござる。
▲小アト「仰せらるゝ通り、光陰矢の如しでござる。
▲アト「いや、福の神のお前でござる。いざ、拝を致しませう。
▲小アト「一段と良うござらう。
{と云ひて、二人、扇披(ひら)き、拝む。}
▲アト「扨、こなたには、豆を御用意でござるか。
▲小アト「成程、用意致してござる。
▲アト「それならば、いざ、囃しませう。
▲小アト「一段と良うござらう。
▲アト「福は内、福は内。
▲小アト「福は内、福は内。
▲アト「鬼はそと。
▲小アト「鬼はそと。
▲アト「福は内、福は内。
▲小アト「福は内、福は内。
{これより二人共、かわりがわりに「福は内」「鬼は外」と云ひて、脇正面より楽屋の内を目がけて打つ。シテ、内より笑ひて出る。色々仕様あり。口伝なり。}
▲アト「これへ賑々(にぎにぎ)しくお出なされたは、どなたでござる。
▲シテ「汝等が年月歩みを運ぶ福の神、これまで出現してあるぞとよ。
▲アト「はあ、ありがたう存じまする。まづ、かうお通りなされませ。
▲小アト「まづ、これへ御来臨なされませ。
{小アト、葛桶を出し、腰をかけさせる。}
▲シテ「やいやい、汝等はこの年月、福の神を信仰して歩みを運ぶが、何のために歩みを運ぶぞ。
▲アト「私どもは、富貴になりたさに、歩みを運ぶ事でござる。
▲シテ「富貴になるには、持たいで叶はぬ物があるが、持つたか。
▲アト「それは何でござる。
▲シテ「元手がなければ、富貴にはなられぬ。
▲アト「元手と仰せらるゝは、定めて金銀米銭の事でがなござらう。左様の物がござれば、福の神へお願ひ申しは致しませぬ{*1}。ござらぬによつて、かやうに歩みを運ぶ事でござる。
▲シテ「扨々、愚かな事を云ふ。元手といふは、金銀米銭の事ではない。たとへば、仁義礼智信の五常を守り、神を敬ひ、下(しも)を憐み、心を正直正路(しやうろ)に持つ、これを、元手を持つたと云ふ程に、さう心得い。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「汝も、さう心得い。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「扨、最前から、何かと云うたれば、口が渇く。急いで造酒(みき)を上げい。
▲アト「畏つてござる。
{と云ひて、扇を披き持つて、}
▲アト「造酒でござる。
▲シテ「日本大小の神祇、別しては松の尾の大明神大明神、その後は、福の神がたばる。
▲アト「ちと申し上げたい事がござる。
▲シテ「何事ぢや。
▲アト「日本大小の神祇は御尤もでござるが、別しては松の尾の大明神と改めさせられたは、どうした事でござる。
▲シテ「汝等は、小賢しい事を云ふものぢや。松の尾の大明神は、酒神ぢやによつて、初穂を参らせねば機嫌が悪いによつて、初穂を参らせて、その後はこの福の神が、思ふ儘にたばる事ぢや。
▲アト「これは、御尤でござりまする。
▲シテ「扨、いよいよ富貴になりたいか。
▲アト「富貴になりたうござりまする。
▲シテ「それならば、富貴になるやうを云ひ置かう程に、さう心得い。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「汝も、さう心得い。
▲小アト「はあ。
▲シテ「{*2}いでいで、このついでに、いでいでこのついでに、楽しうなるやう語りて聞かせん。朝起き早うして慈悲あるべし、女夫(めをと)の中にて腹立つべからず、人の来るをも厭ふまじ。我等がやうなる福天には、いかにも御仏供(おぶく)を結構して、扨、中酒には古酒(ふるざけ)を、嫌といふ程盛るならば、嫌といふ程盛るならば、嫌といふ程盛るならば、楽しうなさでは叶ふまじ。
{正面へ出て、大きに笑ひ留めて、入るなり。}
校訂者注
1:底本は、「お願ひ申せは致ませぬ」。
2:底本、ここ以降、全て傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.)
福の神(フクノカミ)(脇狂言)
▲アト「此あたりの者で御座る、何彼と申す内に年の暮に成て御座る、毎も嘉例で出雲の大社へ年を取りに参る、又爰に毎も同道致して参る人が御座る、是を誘うて直ぐに参らうと存ずる、誠に毎年毎年相かはらず年を取りに参ると申すは目出たい事で御座る、毎も参る事で御座る程に定めて待兼て居られうと存ずる、何彼と申す内に是ぢや{ト云て案内乞出るも如常}▲アト「何彼と申内に年の暮に成ました▲小アト「誠に近い春に成ました▲アト「扨毎もの通出雲の大社へ年を取に参らうと存て誘ひに参りました▲小アト「定めてお出被成れうと存じて心待を致して御座る、追付御同道申しませう▲アト「夫ならばさあさあお出被成れ▲小アト「心得ました▲アト「扨唯今も路次すがら{*1}独り言に申して御座る、毎年相かはらず年籠りを致は有がたい事では御座らぬか▲小アト「仰らるゝ通り足手息災で年籠り致すは目出度事で御座る▲アト「何彼と申す内に是で御座る、先神前へ参りませう▲小アト「一段とよう御座らう{ト云て二人扇ひろげて拝む}▲アト「扨毎も福の神のお前で年を取まする、いざ参りませう▲小アト「よう御座らう▲アト「扨て何と思し召す、去年参つたを、きのふやけふのやうに存じましたが、最早一年立つて御座る▲小アト「仰らるゝ通り光いん矢のごとしで御座る▲アト「いや福の神のお前で御座る、いざ拝を致しませう▲小アト「一段とよう御座らう{ト云て二人扇披拝む}▲アト「扨こなたには豆を御用意で御座るか▲小アト「成程用意致して御座る▲アト「夫ならばいざはやしませう▲小アト「一段とよう御座らう▲アト「福は内福は内▲小アト「福は内福は内、▲アト「鬼はそと▲小アト「おにはそと▲アト「福は内福は内▲小アト「福は内福は内{是より二人共かわりかわりに福は内鬼はそとと云て脇正面より楽屋の内を目かけて打つシテ内より笑て出る色々仕様有{*2}口伝なり}▲アト「是へ賑々しくお出被成たはどなたで御座る▲シテ「汝等が年月あゆみをはこぶ福の神是迄出現して有るぞとよ▲アト「はあ有難う存まする、先かうお通り被成ませ▲小アト「先是へ御来臨被成ませ{小アト葛桶を出し腰をかけさせる}▲シテ「やいやい汝等は此年月福の神を信仰してあゆみをはこぶが何の為にあゆみをはこぶぞ▲アト「私共は富貴になりたさにあゆみをはこぶ事で御座る▲シテ「富貴になるにはもたいで叶はぬ物があるがもつたか▲アト「夫は何で御座る▲シテ「元手がなければ富貴にはなられぬ▲アト「元手と仰らるゝは定めて金銀米銭の事でがな御座らう、左様の物が御座れば福の神へお願ひ申せは致ませぬ御座らぬに依つて、加様にあゆみをはこぶ事で御座る▲シテ「扨々おろかな事をいふ、元手といふは金銀米銭の事ではない、たとへば仁義礼智信の五常を守りかみをうやまひ、しもをあはれみ心を正直正路にもつ、是れを元手を持つたといふ程にさう心得い▲アト「畏つて御座る▲シテ「汝もさう心得い▲小アト「畏つて御座る▲シテ「扨最前から何彼といふたれば口がかはく、急で造酒をあげい▲アト「畏つて御座る{ト云て扇を披き持つて}▲アト「造酒で御座る▲シテ「日本大小の神祇別ては松の尾の大明神大明神、其後は福の神がたばる▲アト「ちと申上たい事が御座る▲シテ「何事ぢや▲アト「日本大小の神祇は御尤もで御座るが、別ては松の尾の大明神と改めさせられたはどふした事で御座る▲シテ「汝等はこざかしい事をいふ者ぢや、松の尾の大明神は酒神ぢやに依つて初穂を参らせねば機嫌がわるいに依つて、初穂を参らせて其後は此福の神が思ふ儘にたばる事ぢや▲アト「是は御尤で御座りまする▲シテ「扨いよいよ富貴に成たいか▲アト「富貴になりたう御座りまする▲シテ「夫ならば富貴に成るやうをいひ置う程にさう心得い▲アト「畏つて御座る▲シテ「汝もさう心得い▲小アト「はあ▲シテ「いでいで此ついでに、いでいで此ついでに、たのしうなるよう語りてきかせん、朝をき迅して慈悲あるべし、女夫の中にて腹たつべからず、人のくるをもいとふまじ、我等がやうなる福天には、いかにもおぶくを結構して{*3}扨中酒にはふる酒を、いやといふ程もるならば、いやといふ程盛ならば、いやといふ程もるならば、たのしうなさでは叶まじ。{正面へ出て大きに笑留めて入るなり}
校訂者注
1:底本は、「路次さすがら」。
2:底本は、「色々仕様有あり」。
3:底本は、「結搆して」。
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