塗附(ぬりつけ)(脇狂言)

▲アト「この辺りの者でござる。いつもとは申しながら、当年の様な、めでたい年の暮れはござらぬ。又、嘉例で、親方達へ歳暮の礼に参る。又こゝに、いつも同道致す人がござる。これを誘うて同道致さうと存ずる。誠に、去年かやうに罷り出た事を、昨日や今日の様に存じてござれば、はや一年になつた。月日の経つは、早いものでござる。何かと云ふ内に、これぢや。
{と云ひて、案内乞ふ。出るも常の如し。}
▲アト「まづ以て、めでたい年の暮れでござる。
▲小アト「仰せの通りでござる。
▲アト「扨、いつもの通り、親方達へお礼に参らうと存じて、誘ひに参りました。お出なされうか。
▲小アト「成程、お供申しませう。
▲アト「それならば、さあさあござれ。
▲小アト「心得ました。
▲シテ「唯今も路次(ろし)すがら、独り言を申してござる。そなたと同道致したを、間(ま)のない様に存ずれども、早一年経ちました。
▲小アト「光陰矢の如しと申すが、月日の経つは、早い事でござる。
▲アト「扨、何と、お仕舞ひなされたか。
▲小アト「仕舞うたと申さうやら、訳もない事でござる。そなたは、とくとお仕舞ひなされたか。
▲アト「いかないかな。烏帽子を塗り直さす隙(ひま)もない程に、取り込まうて、仕舞ふ段ではござらぬ。
▲小アト「誠に、そなたの烏帽子は、いかう剥げてござる。
▲アト「何と、いかう見苦しうござるか。
▲小アト「余程剥げました。さりながら、身共も烏帽子を塗り直さうと存じて、え塗り直しませなんだ。
▲アト「誠に、そなたの烏帽子も、殊の外損じてござる。
▲小アト「春になつたらば、言ひ合(あは)せて塗り直しませう。
{と云ひて居る内、シテ出るなり。}
▲シテ「塗り物、早漆、塗り直し。しかも上手です。
▲アト「これへ塗師(ぬし)が参る。この烏帽子を、春塗り直すために、近付きになりませう。
▲小アト「一段と良うござらう。
▲アト「なうなう、これこれ。
▲シテ「私の事でござりまするか。
▲アト「成程、そなたの事ぢやが、唯今、塗物師のやうに呼ばはつてお通りあるが、わごりよが塗師か。
▲シテ「中々。私は塗師でござりまする。何なりとも、御用があらば、仰せ付けられて下され。
▲アト「いや、言葉を掛くるは別の事でもない。お見やるごとく、両人の烏帽子が、殊の外損じてあるによつて、春にもなつたらば、この烏帽子を塗り直して貰ひたいによつて、近付きにならうと思うて、言葉を掛けた。
▲シテ「それは、心安いお事でこそござれ。春と仰せられうより、正月早々召す様に、年内塗り直させられたら、良うござりませう。
▲小アト「いや、年内と申すは、今日ばかりぢやぞや。
▲シテ「されば、唯今申す通り、早漆とは、私の家ならではござらぬ。唯今塗つて、その儘役に立つ事でござる。
▲アト「それは調法な事ぢや。それならば、急に塗つて貰ひたい。わごりよの宿を聞いておいて、持たせてやらう。
▲シテ「いや、宿へ遣はさるゝには及びませぬ。乃ち、こゝで塗つて進じませう。
▲小アト「こゝで塗つても、その儘役に立つか。
▲シテ「全くそれが、早漆の名誉でござる。乃ち、こゝで塗り直させられて、お間に合(あは)せまする。
▲アト「これは、いかさま名誉でござる。何と、こゝで塗り直させませうか。
▲小アト「いかさま、これは親方達へ、きれいな烏帽子を着て参つたらば、良うござらう。
▲アト「それならば、こゝで塗り直してたもれ。
▲シテ「畏つてござる。――まづ、御両所様共に、お下(しも)にござりませ。
▲二人「心得た。
{シテ、塗道具を取り出して、面白く、しかじかを云ふ。}
▲アト「何(いづ)れ、これは調法な事ぢや。こち衆は、方々に親方達を懇意にする程に、塗師細工を肝(きも)を煎(い)つてやらうぞ。
▲シテ「それは近頃、忝うござる。向後(きやうこう)、頼み上げまする。
▲小アト「その紙袋は何ぢや。
▲シテ「これは、砥(と)の粉でござる。お烏帽子が、殊の外角剥(かどは)げが致したによつて、地錆(ぢさび)と申す事を致さねばなりませぬ。
▲アト「又それは、何とおりやる。
▲シテ「これは、石漆(せしめうるし)でござる。
▲アト「扨、何と、烏帽子を脱いでやらうか。
▲シテ「いかないかな。お脱ぎなさるゝには及びませぬ。召させながら、その儘で塗り直しまする。
▲アト「それは、上手な事ぢや。
▲シテ「さらば、地錆(ぢさび)を仕(つかまつ)りませう。
{と云ひて、へらを持つて地錆(ぢさび)をする心持ちあり。}
地錆(ぢさび)を致しませねば、漆が斑付(むらづ)きになりまする。
▲アト「扨々、甲斐甲斐しい事ぢや。その漆は、何といふ漆ぢや。
▲シテ「これは、吉野でござる。
▲アト「それは、何に使ふぞ。
▲小アト「これは、上塗(うはぬ)りに使ひまする。
▲シテ「色々の漆がいる事ぢやなう。
▲アト「それぞれに使ひまするによつて、難しうござる。
{と云ひて、又塗る体。}
▲小アト「身共は、漆に負ける。何とぞ、顔へ付かぬ様に頼むぞ。
▲シテ「付けてくれいと仰せられても、付けは致しませぬ。そつとも、お気遣ひなされますな。
▲アト「扨も扨も、そなたの烏帽子は早、新しうなりました。
▲小アト「そなたのも、美しうなりました。
▲シテ「まづ、塗り仕舞ひました。扨、風呂へ入れまする。かうお寄りなされませ。
▲アト「風呂とは、何とする事ぢや。
▲シテ「風呂と申す物へ入れませねば、烏帽子が干(ひ)ませぬ。かやうの処では、旅風呂と申す物がござる。まづ、これへお寄りなされませ。
▲二人「心得た。
{と云ひて、舞台のまん中へ両人を寄せて、紙袋を着せる。二人の烏帽子の中より、黒き糸を通し置く。それを引き出し、両方をきつと結び付けたその上へ、紙袋を着せる。その間に塗師、道具をしまう。}
▲アト「これは、いかう窮屈な物ぢや。
▲シテ「もそつと御堪忍なされませ。その内に、漆が干まする。
{と云ひて、息をしかけて見る。}
▲アト「まだか。見てたもれ。
▲シテ「忙(せは)しう仰せらるゝ。大方、良うござる。干切れました程に、風呂を取りませう。
{と云ひて、風呂を取る。二人、引き合うて、}
▲アト「これは、烏帽子が離れぬ。
▲シテ「どれどれ、離して進じませう。
{と云ひて、両方より引く。二人共、「あ痛、あ痛」と云ふなり。}
▲シテ「早う干るやうにと思うて、しめしをきつう掛けたによつて、干過ぎたさうにござる。
{と云ひて、棒を真ん中へ入れて、こぢ離せども、離れぬ心なり。}
▲アト「やいやい、これは何とする。早う離してくれねば、親方達への礼も遅なはる。どうぞ、思案はないかいやい。
▲シテ「かう取つ付いては、只は離れぬと見えました。幸ひ、松囃子の時分でござる。拍子にかゝつて離して見ませう程に、各々も、囃させられい。
▲アト「烏帽子さへ離るゝ事ならば、囃さう程に、どうぞ精を出して、離るゝやうにしてたもれ。
▲シテ「それならば、方々も囃させられい。
▲二人「心得た心得た。
▲シテ「《ノル》{*1}日本一の早塗師(はやぬし)が、烏帽子は塗りに塗つたれど、離すやうを知らいで、囃子物で離いた。げにもさあり、やよ、がりもさうよの、やよがりもさうよの。
▲二人「いかにやいかにや塗師殿。正月は近付く、親方達のお礼に、烏帽子は着(き)いで叶はぬ。早う離し給へや。
{これより段々、くり返しくり返し囃す後、留め。二人こける。シテは、烏帽子を棒にかけて留めるなり。但し、しやぎり吹き出す内に、二人、烏帽子の紐を解きて、上へ抜ける様にこしらへて置くなり。}

校訂者注
 1:底本、ここ以降、全て傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.

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塗附(ヌリツケ)(脇狂言)

▲アト「此あたりの者で御座る、毎もとは申ながら、当年の様なめでたい年の暮は御座らぬ、又嘉例で親方達へ歳暮の礼に参る、又爰に毎も同道致す人が御座る、是を誘うて同道致さうと存ずる、誠に去年斯様に罷出た事を、きのふやけふの様に存じて御座れば、はや一年になつた、月日のたつは早い物で御座る、何彼といふ内に是じや{ト云て案内乞出るも如常}▲アト「先以目出度年の暮で御座る▲小アト「仰の通で御座る▲アト「扨毎もの通り、親方達へお礼に参らうと存じて誘ひに参りました{*1}、お出被成れうか▲小アト「成程お供申ませう▲アト「夫ならばさあさあ御座れ▲小アト「心得ました▲シテ「唯今も路次すがら独り言を申て御座る、そなたと同道致たを、まのない様に存ずれ共{*2}、早一年立ました▲小アト「光陰矢の如しと申が月日のたつは早い事で御座る▲アト「扨、何とお仕舞被成たか▲小アト「仕舞たと申さうやら、訳もない事で御座る、そなたはとくとお仕舞被成たか▲アト「いかないかな、烏帽子を塗直さす隙もない程に取込うて、仕舞段では御座らぬ▲小アト「誠にそなたの烏帽子はいかうはげて御座る▲アト「何といかう見苦しう御座るか▲小アト「余程はげました、乍去身共も烏帽子を塗直さうと存じて、得塗直しませなんだ▲アト「誠にそなたの烏帽子も、殊の外損じて御座る▲小アト「春に成つたらば言合て塗直しませう{ト云て居る内シテ出る也}▲シテ「ぬり物、早漆、塗直し、しかも上手です▲アト「是へ塗師が参る、此烏帽子を春塗直す為に近付に成ませう▲小アト「一段とようござらう▲アト「なうなう是々▲シテ「私の事で御座りまするか▲アト「成程そなたの事じやが、唯今塗物師のやうに呼はつてお通りあるが、わごりよが塗師か▲シテ「中々私は塗師で御座りまする、何成共御用が有らば仰付られて下され▲アト「いや言葉を掛るは別の事でもない、お見やるごとく、両人の烏帽子が殊の外損じて有るに依つて、春にもなつたらば此烏帽子を塗直して貰ひたいに依つて、近付にならうと思うて言葉を掛けた▲シテ「夫は心安いお事でこそ御座れ、春と仰せられうより、正月早々召す様に、年内塗直させられたらよう御座りませう▲小アト「いや年内と申すは今日ばかりぢやぞや▲シテ「されば唯今申通り、早漆とは私の家ならでは御座らぬ、唯今塗つて其儘役に立事で御座る▲アト「夫は調法な事ぢや、夫ならば急に塗つて貰ひたい、わごりよの宿を聞ておいて、もたせてやらう▲シテ「いや宿へ遣はさるゝには及びませぬ、乃爰で塗つて進じませう▲小アト「爰で塗つても其儘役にたつか▲シテ「まつたく夫が早漆の名誉で御座る、乃爰で塗直させられてお間に合まする▲アト「是はいかさま名誉で御座る、何と爰で塗直させませうか▲小アト「いかさま是は親方達へ、きれいな烏帽子をきてまゐつたらばよう御座らう▲アト「夫ならば爰で塗直してたもれ▲シテ「畏つて御座る、――先御両所様共に、お下に御座りませ▲二人「心得た{シテ塗道具を取出して面白くしかしかを云}▲アト「何れ是は調法な事ぢや、こち衆は方々に親方達を懇意にする程に、塗師細工を肝を煎つてやらうぞ▲シテ「夫は近頃忝う御座る、向後頼上まする▲小アト「其紙袋は何んぢや▲シテ「是はとの粉で御座る、お烏帽子が殊の外かどはげ{*3}が致したに依て、地さびと申す事を致さねば成ませぬ▲アト「又夫はなんとおりやる{*4}▲シテ「是はせしめ漆で御座る▲アト「扨何とゑぼしをぬいでやらうか、▲シテ「いかないかな、おぬぎ被成るゝには及びませぬ、めさせながら其儘で塗直まする▲アト「其は上手な事ぢや▲シテ「さらば地さびを仕りませう{ト云てへらを持つて地さびをする心持有}地さびを致しませねば、漆がむらづきに成りまする▲アト「扨々かいがいしい事ぢや、其漆は何といふ漆ぢや▲シテ「是は吉野で御座る▲アト「夫は何につかうぞ▲小アト「是はうは塗につかいまする▲シテ「色々の漆がいる事ぢやなう▲アト「夫々につかいまするに依てむつかしう御座る{ト云て又塗る体}▲小アト「身共は漆にまける何卒顔へつかぬ様に頼ぞ▲シテ「つけてくれいと仰せられてもつけは致しませぬ、卒度もお気遣被成ますな▲アト「扨も扨もそなたの烏帽子は、はやあたらしう成りました▲小アト「そなたのも美しう成りました▲シテ「先ぬり仕舞ました、扨風呂へ入れまする、かうお寄り被成ませ▲アト「風呂とは何とする事ぢや▲シテ「風呂と申す物へ入れませねば烏帽子が干ませぬ、かやうの処では旅風呂と申す物が御座る、先是へおより被成ませ▲二人「心得た{ト云て舞台のまん中へ両人をよせて帋袋をきせる二人のゑぼしの中より黒き糸を通し置く夫を引出し両方をきつとむすび付けた其上へ帋袋をきせる其間に塗師道具をしまう}▲アト「是はいかう窮屈な物ぢや▲シテ「もそつと御堪忍{*5}被成ませ其内に、漆が干まする{ト云ていきをしかけて見る}▲アト「まだか見てたもれ▲シテ「世話しう仰らるゝ、大方よう御座る干切ました程に風呂を取ませう{ト云て風呂を取二人引合うて}▲アト「是は烏帽子がはなれぬ▲シテ「どれどれはなして進じませう{ト云て両方より引二人共あいたあいたと云なり}▲シテ「早う干やうにと思うて、しめしをきつう掛けたに依つて干過たさうに御座る{ト云て棒をまん中へ入れてこぢはなせ共はなれぬ心なり}▲アト「やいやい是は何とする、早うはなしてくれねば、親方達への礼もおそなはる、どうぞ思案はないかいやい▲シテ「かう取いては唯ははなれぬと見へました、幸ひ松囃子の時分で御座る、拍子にかゝつてはなして見ませう程に、各々も、はやさせられい▲アト「ゑぼしさへはなるゝ事ならば、はやさう程に、どうぞ精を出してはなるゝやうにしてたもれ▲シテ「夫ならば方々もはやさせられい▲二人「心得た心得た▲シテ「《ノル》日本一の早塗師が、烏帽子はぬりにぬつたれど、はなすやうをしらいで、はやし物ではないた、実にもさあり、やよがりもさうよの{*6}、げにもさうよの▲二人「いかにやいかにや塗師殿正月チはちかづく{*7}、親方達のお礼に、烏帽子はきいで叶はぬ、早うはなし給へや、{是より段々くり返くり返はやす後とめ二人こけるシテは烏帽子を棒にかけて留るなり但ししやぎり吹出す内に二人烏帽子のひもをときて上へぬける様にこしらへて置なり}

校訂者注
 1:底本は、「誘ひに参(き)ました」。
 2:底本は、「存じれ共」。
 3:底本は、「殊の外どかはげが致した」。
 4:底本は、「夫はなん おりやる」。
 5:底本は、「御勘忍」。
 6:「やよがりもさうよの」は、底本のまま。同様の囃子詞は、後の「麻生」「末広」等にもある。
 7:「正月チは」は、底本のまま。