牛馬(ぎうば)(脇狂言)

▲アト「この所の目代でござる。当所御富貴に付き、市(いち)あまたござれども、重ねて牛馬の新市(しんいち)をお立てなさるゝ。何者にはよるまい、早々参つて一の杭につないだ者は、市司(いちつかさ)を仰せ付けられ、万雑公事(まんざうくじ)を御赦免なされうとの御事でござる。まづ、この由を高札(かうさつ)に打たう。
{と云うて、シテ、柱へ打ちて、大小の前に居る。}
▲小アト「この辺りに住居(すまひ)致す馬口労でござる。当所御富貴について、市あまたござれども、重ねて牛馬の新市をお立てなされ、何者にはよるまい、早々参つて一の杭につないだ者は、市司を仰せ付けられ、万雑公事を御赦免なされうとの御事でござる。まだ深更(よふか)にはござれども、一の杭につながうと存じて罷り出でた。まづ、急いで参らう。誠に今こそ、かやうな馬口労を致せども、一の杭につないでござらば、ゆくゆくは安楽に身命をつながうと存ずる。いや、何かと申す内に、市場ぢや。扨も扨も、夥(おびたゞ)しい事かな。まだ一の杭は上(かみ)にあるさうな。もそつと上の方へ参らう。誰も参らねば良いが、心元ない事ぢや。さればこそ、身共が随分夜をこめて参つたによつて、何者も居ぬ。まづ、一の杭につながう。なうなう、今日(こんにち)の一の杭には、某(それがし)がつないでござるぞや。まだ夜深な。ちと、まどろまうと存ずる。
▲シテ「させいほうせい、させいほうせい。この辺りに牛を商売致す者でござる。
{これより、小アトの名乗りの通り。}
誠に、只今こそ、かやうの卑しい商売を致せ、一の杭につないでござらば、ゆくゆくは金襴緞子・どんきんを商はうと存ずる。何かと云ふ内に、市場ぢや。扨も扨も、夥しい事かな。あれからづつと、あれまでぢや。まだ一の杭は、もそつと上(かみ)さうな。上に参らう。いうてもいうても、かやうにめでたい御代に生まれ逢ふが、仕合(しあはせ)でござる。これはいかな事。身共がずいぶん夜をこめて来たと思へば、早、何者やら先へ来て、臥せつてゐる。どうでもきやつは、一昨日(おとゝい)あたりから、うせをつた者であらう。身共もずいぶん夜をこめて来たに、きやつより後(あと)へさがるといふは、口惜しい事ぢや。何としたものであらうぞ。いや、致しやうがござる。
{と云うて、小アトより前へ出て、牛をつなぐ心ありて名乗り、座へ行きて。}
しいしい。そこもとへ。今日(こんにち)の一の杭には、某がつないでござるぞや。まだ夜深な。ちとまどろまう。
▲小アト「むゝ、寝た事かな寝た事かな。これはいかな事。やいやいやい、そこなやつ。
▲シテ「はあ。
▲小アト「おのれは何者ぢや。
▲シテ「私はこの辺りに、牛を商売致す者でござる。お前は何方(どなた)でござる。
▲小アト「身共を知らぬか。
▲シテ「いや、存じませぬ。
▲小アト「身共は馬口労ぢや。
▲シテ「何ぢや、馬口労ぢや。
▲小アト「中々。
▲シテ「牛に食らはれた。所の目代殿でもあるかと思うて、よい肝を潰(つぶ)いた。そちが馬口労なれば、身共は牛を商売するが、それが何としたぞ。
▲小アト「よし、何を商売せうとも、身共が居る前を退(の)け、といふ事ぢや。
▲シテ「退(の)きたければ、おぬし、退(の)かうまでよ。
▲小アト「扨は、退(の)くまいといふ事か。
▲シテ「又、何のやうに退(の)かうぞ。
▲小アト「おのれ、退(の)かずば目に物を見するぞ。
▲シテ「そりや、誰が。
▲小アト「身共が。
▲シテ「そちが目に物を見すると云うて、深(ふか)しい事はあるまいぞいやい。
▲小アト「かまへて悔やむなよ。
▲シテ「何のやうに悔やまうぞ。
▲小アト「憎いやつの。踏め踏め。
▲シテ「突け突け。
▲二人「出合へ出合へ。
▲アト「まづ、待て待て。これは何事ぢや。
▲小アト「お前はどなたでござる。
▲アト「所の目代ぢや。
▲小アト「目代殿ならば、急度(きつと)御礼を申し上げまする。
▲アト「礼には及ばぬ。まづ、何事を論ずる。
▲小アト「私は、この辺りに住居致す馬口労でござる。当所御富貴について、市あまたござれども、重ねて牛馬の新市をお立てなされ、何者にはよるまい、早々参つて一の杭につないだ者は、市司を仰せ付けられ、万雑公事を御赦免なされうとの御事ではござらぬか。
▲アト「その通りぢや。
▲小アト「それ故私も、随分夜をこめて参つて、まんまと一の杭につなぎまして、まだ夜深にござつたによつて、しばらくまどろうてをりましたれば、いつの間にやら、あれ、あの横着者が参つて、私の鼻の先に臥せつてをりまするによつて、退(の)けと申せば退(の)くまいと申す。それを申し上がつての事でござる。あの様な横着者は、急度仰せ付けられませ。
▲アト「扨は、そちが早う来たか。
▲小アト「成程、私が早う参りました。
▲アト「まづ、あの者の口を聞かう。
▲小アト「お聞きなされませ。
▲アト「やいやい、これは何事を論ずる。
▲シテ「まづ、御前はどなたでござる。
▲アト「所の目代ぢや。
▲シテ「目代殿ならば、急度御礼を申しまする。
▲アト「礼には及ばぬ。何事ぢや。
▲シテ「私は、この辺りに牛を商売致す者でござる。当所御富貴につき、市あまたござれども、重ねて牛馬の新市をお立てなされ、何者にはよるまい、早く参つて一の杭につないだ者は、市司を仰せ付けられ、万雑公事を御赦免なされうとの御事ではござらぬか。
▲アト「成程、その通りぢや。
▲シテ「それ故私も、随分夜をこめて参りまして、まんまと一の杭につなぎまして、まだ夜深にござつたによつて、しばらくまどろうて居りましたれば、いつの間にやら、あれ、あの横着者が参つて、先に居る私に退(の)けと申しまする。退(の)くまいと申せば、あの瘠せ馬に、この牛を踏ませまする。この正しい御代に、あの様な横着者は、急度仰せ付けられませ。
▲アト「扨は、汝が早う来たか。
▲シテ「成程、私が早う参りました。
▲アト「はて、両人ともに同じ様な事を云ふ。やいやい、あれが早う来たと云ふぞよ。
▲小アト「よし、前後の差別は差し置かれませ。まづ、このめでたい市始めに、あの牛が何と、一の杭につながるゝものでござる{*1}。この馬と申すものは、めでたいもので、春の初めの駒くらべ、或いは児若衆(ちごわかしう)のお寺通ひ・お里帰りなどにも、皆、この馬ならでは召しませぬ。とかく、あの様な卑しい者は、づつと市末(いちずゑ)へ仰せ付けられませ。
▲アト「やいやい、今のを聞いたか。
▲シテ「成程、承りました。尤も、きやつが申す通り、馬と申すものは、華奢(きやしや)なもので、春の初めの駒くらべ、児若衆のお寺通ひ・お里帰りなどにも、馬ならでは召しますまい。さりながら、又この牛に、唐耒(からすき)と申すものをかけまして、大地をくはつくはつと鋤(す)かせまして、扨、それへ米(よね)をおろしまして、成長致せば、供御(ぐご)に調味致して、上々(うへうへ)へも進上致し、下々(したじた)もたべての上は、駒くらべもなりませうが、この供御を進上申さずば、いかな児若衆でも、頤(おとがひ)で蠅を追はつしやれて、お寺通ひもお里帰りも、行つたものではござりますまい。
▲アト「これも尤ぢや。今のを聞たか。
▲小アト「成程、承つてござる。とかく、きやつはあの様な卑しい事ならでは、え申しますまい。その上この馬には、めでたい系図がござる。あの牛にも、その様な事があるか、お尋ねなされませ。
▲アト「心得た。やいやい、あの馬には、めでたい系図があると云ふが、牛にもその様な事があるか。
▲シテ「馬にある系図が、牛に無うてなりませうか。まづ、あれから云へと仰せられませ。
▲アト「心得た。さあさあ、まづ汝から云へ。
▲小アト「畏つてござる。
《語》それ馬は、馬頭観音の化身として、仏の作る法の舟、月氏国より漢土まで、馬こそ負ひて渡るなれ。周の穆王の八疋の駒、楚の項羽の望雲騅、安禄山の下流まで、いづれも千里を駈けるなり。斉の管仲は旅に発(た)ち、俄に大雪ふるさとに、帰らん道を忘れつゝ、馬を放ちてその後を、しるべとしつゝ帰りしも、馬の徳とぞ聞こえける。又我が朝に名を得しは、天(あま)の斑駒(ふちこま)を始めとして、光源氏の大将や、馬に稲飼(いねか)う須磨の浦。暁南鐐(なんれう)木の下や、夜目無(よめなし)月毛鬼足毛。源太佐々木が名を得しは、生月(いけづき)磨墨(するすみ)太夫黒。雲の上にも望月の、駒迎へせし逢坂の、小坂の駒も心して、引く白馬の節会にも、牛の練り入る例(ためし)なく、仏の前には絵馬を掛け、神には立つる幣(へい)の駒。胡馬北風に嘶(いばふ)れば、悪魔はさつと退(しりぞ)きぬ。めでたき事を競ひ馬。されば本歌にも、逢坂の、関の清水に影見へて、今やひくらん望月の駒とこそあれ。いつの習ひに、望月の牛とはござるまい。
▲アト「これは聞き事な系図ぢや。さあさあ、汝も急いで語れ。
▲シテ「畏つてござる。
《語》それ牛は、大日如来の化身として、牽牛織女と聞く時は、七夕も牛をこそ寵愛し給へ。偽山(ゐさん)和尚と云つし人、その身を牛になしてこそ、異類の法をも見せしむれ。許由といへる賢人は、王になれとの勅を受け、うるさき事を聞くぞとて、頴泉(ゑいせん)の滝にて、耳を洗ひし水をさへ、樵夫(せうふ)は牛に飼はざりし。仏の作る十牛や、法の花咲く牛の子の、桃林の春は面白や。今は昔に業平も、丑満つまでの御契り、さこそ心を筑紫牛。野飼(のがひ)の牛の一声(ひとこゑ)も、草臥す笛にや紛(まが)ふらん。又或る詩に曰く、風枯木を吹けば晴天の雨と、女牛(めうし)吟ずる声を、男牛(をうし)聞いて、月平砂を照らせば夏の夜の霜と、この両牛の吟ずる声を聞いてこそ、今の世までも詩には引かるれ。又或る歌に、浪路分け、都へ登る筑紫牛、草につきてやさかりなるらん。忝くも、北野の御詠歌に、牛の子に、踏まるな庭のかたつぶり、角(つの)ありとても身をな頼みそ。や、今思ひ出したり、一天の君も、御車に召さるれば、牛こそ曳き申せ、いつの習ひに、瘠せ馬の曳いた例(ためし)はござるまい。
▲アト「これも聞き事な系図ぢや。やいやい、これでは埒があかぬ。この上は、何ぞ勝負にせい。
▲小アト「それならば、駒くらべを致しませう。きやつもするか、お尋ねなされて下され。
▲アト「心得た。これでは埒があかぬによつて、一勝負(ひとしやうぶ)と云へば、あれは、駒くらべをせうと云ふが、汝もするか。
▲シテ「いや、私は駒がござらぬ。
▲アト「その牛になりとも乗れ。
▲小アト「これはいかな事。牛に乗つて、何と、駈けらるゝものでござる{*2}。
▲アト「それでは、汝が負けになるぞよ。
▲シテ「左様ならば、是非に及びませぬ。この牛ぢやと申して、何の、瘠せ馬程、駈けぬ事はござるまい。成程、駒くらべを致しませう。
▲アト「それならば、これへ出よ。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「汝も、これへ出よ。
▲小アト「心得ました。
▲アト「両人ともに、まづ乗れ。
▲二人「畏つてござる。
▲アト「扨、さあさあさあと、三つ声をかけて、三つ目の声から駈け出せ。
▲二人「畏つてござる。
{アト、さあさあさあと、声をかける。三つ目より小アト、はいはいはいと云ひて、駈ける。シテは、させいほうせいと云ひて、二人駈ける。小アト、一ぺん廻り、橋掛りまで行きて、「勝つた」と云ふ。シテは、むち打ちあせり、後より行く心持ちあり。}
▲小アト「やあ、勝つたぞ勝つたぞ。
▲シテ「こちも勝つたぞ。遅うても淀、速うても淀と云へば、明後日(あさつて)の今時分までには追ひ付かうぞいやい。
▲小アト「勝つたぞ勝つたぞ。
{ト云ひて、小アト、駈けて入る。シテ、させいほうせいと云ひて、あせりあせり、入るなり。}

校訂者注
 1:底本のまま。注2と同様の表現。「ござらうか」の意味であろう。
 2:底本のまま。注1と同様。

底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.

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牛馬(ギウバ)(脇狂言)

▲アト「此所の目代で御座る。当所御富貴に付市あまた御座れども、重て牛馬の新市をおたてなさるゝ、何者にはよるまい、早々参つて一の杭につないだ者は、市司を仰付られ、万ざう公事を御赦免なされうとのお事で御座る、先此由を高札に打う{ト云ふてシテ柱へ打て大小の前に居る}▲小アト「此あたりに住居致す馬口労で御座る、当所御富貴について、市あまた御座れども重て牛馬の新市をおたてなされ、何者にはよるまい、早々参つて一の杭につないだ者は、市司を仰付られ、万ざう公事を御赦免なされうとの御事で御座る、まだ深更には御座れ共、一の杭につながうと存じて罷出た、先急いで参らう誠に今こそか様な馬口労を致せども、一の杭につないで御座らば、ゆくゆくは安楽に身命をつながうと存ずる、いや、何彼と申中に市場ぢや、扨も扨もをびたゞしい事かな、まだ一の杭は上に在るさうな、最そつと上の方へ参らう、誰も参らねばよいが、心元ない事ぢや、さればこそ、身どもが随分夜をこめて参つたに依つて、何者もいぬ、先づ一の杭につながうなうなう、今日の一の杭には某がつないで御座るぞや、まだ夜深な、ちとまどろもうと存ずる▲シテ「させい、ほふせいさせい、ほふせい此辺りに牛を商売いたす者で御座る{是より小アトの名乗りの通り}誠に、唯今こそか様のいやしい商売を致せ{*1}、一の杭につないで御座らば、ゆくゆくは金らん緞子どんきんを商ふと存ずる、何彼といふ内に市場ぢや、扨も扨もをびたゞしい事かな、あれからづつとあれまでぢや、まだ一の杭は最そつと上さうな、上に参らう、いふてもいふても、か様に目出たい御代に生れ逢ふが仕合で御座る、是はいかな事、身共がずいぶん夜をこめて来たと思へば、早何者やら先へ来てふせつてゐる、どうでもきやつは、一昨日あたりからうせおつた物で有らう、身共もずいぶん夜をこめて来たにきやつよりあとへさがるといふは口をしい事ぢや、何とした物で有らうぞ、いや致ようが御座る、{ト云ふて小アトより前へ出て{*2}、牛をつなぐ心ありて名のり座へ行て}しいしい{*3}、そこもとへ、今日の一の杭には、某がつないで御座るぞや、まだ夜深な、ちとまどろもう、▲小アト「むゝ寝た事かな寝た事かな、是はいかな事、やいやいやいそこなやつ▲シテ「はあ▲小アト「をのれは何ものぢや▲シテ「私はこのあたりに、牛を商売致す者で御座る、お前は何方で御座る▲小アト「身共を知らぬか▲シテ「いや存じませぬ、▲小アト「身共は馬口労ぢや▲シテ「なんぢや馬口労ぢや▲小アト「中々▲シテ「うしにくらはれた所の目代殿でも有るかと思ふてよい肝をつぶいた、そちが馬口労なれば身共は牛を商売するが、夫が何としたぞ▲小アト「よし何を商売せう共、身共が居る前をのけといふ事ぢや▲シテ「のきたければおぬしのかう迄よ▲小アト「扨はのくまいといふ事か▲シテ「又なんの用にのかうぞ▲小アト「おのれのかずば目に物を見するぞ▲シテ「そりや誰が▲小アト「身共が▲シテ「そちが目に物を見するといふて、ふかしい事はあるまいぞいやい▲小アト「かまへて悔なよ▲シテ「なんのように悔うぞ▲小アト「憎いやつの、ふめふめ▲シテ「つけつけ▲二人「出合へ出合へ▲アト「先まてまて、是は何事ぢや▲小アト「お前はどなたで御座る、▲アト「所の目代ぢや▲小アト「目代殿ならば、急度御礼を申上まする▲アト「礼には及ばぬ、先何事を論ずる▲小アト「私は此あたりに住居致す馬口労で御座る、当所御富貴について、市あまた御座れ共、重て牛馬の新市をおたて被成、何者にはよるまい、早々参つて一の杭につないだ者は、市司を仰付けられ、万ぞう公事を御赦免なされうとの御事では御座らぬか▲アト「其通りぢや▲小アト「夫故私も、ずゐぶん夜をこめて参つて、まんまと一の杭につなぎまして、まだ夜深に御座つたに依つて、しばらくまどろうてをりましたればいつのまにやら、あれあの横着者が参つて、私の鼻の先にふせつてをりまするに依つて、のけと申せばのくまいと申す、夫れを申上つての事で御座る、あの様な横ちやく者は、急度仰付けられませ▲アト「扨はそちが早う来たか▲小アト「成程私が早う参りました▲アト「先あの者の口を聞う▲小アト「おきゝ被成ませ▲アト「やいやい是は何事を論ずる▲シテ「先御前はどなたで御座る▲アト「所の目代ぢや▲シテ「目代殿ならば急度御礼を申しまする▲アト「礼には及ばぬ何事ぢや、▲シテ「私は此の辺りに牛を商売致す者で御座る、当所御富貴につき、市あまた御座れ共、重て牛馬の新市をお立てなされ、何者にはよるまい、早く参つて一の杭につないだ者は市司を仰付けられ、万ぞう公事を御赦免なされうとのお事では御座らぬか▲アト「成程其通りぢや▲シテ「夫故私も、ずゐ分夜をこめて参りまして、まんまと一の杭につなぎまして、まだ夜深に御座つたに依つて、しばらくまどろうて居りましたれば、いつの間にやら、あれ、あの横ちやく者が参つて、先きに居る私にのけと申まする、のくまいと申せば、あのやせ馬に此の牛をふませまする、此の正しい御代にあの様な横ちやく者は、急度仰付けられませ▲アト「扨は汝が早う来たか▲シテ「成程私が早う参りました▲アト「はて両人共におなじ様な事をいふ、やいやいあれが早う来たといふぞよ▲小アト「よし前後の差別は差置かれませ、先此目出たい市はじめに、あの牛がなんと一の杭につながるゝ者で御座る{*4}、此馬と申す者は目出たい者で、春のはじめの駒くらべ、あるひは児若衆のお寺通ひお里帰り抔にも、皆此の馬ならではめしませぬ、兎角あの様ないやしい者は、づつと市末へ仰付けられませ▲アト「やいやい今のをきいたか▲シテ「成程承りました、尤もきやつが申通り、馬と申す者はきやしやな者で、春のはじめの駒くらべ、児若衆のお寺通ひお里帰り抔にも、馬ならでは召ますまい、去ながら、又此牛にからすきと申者をかけまして、大地をくはつくはつとすかせまして、扨夫へよねをおろしまして成長致せば、供御に調味致して上々へも進上致し、下々もたべての上は駒くらべも成ませうが、此供御を進上申さずば、いかな児若衆でも、おとがひで蠅をおはつしやれて、お寺通ひもお里帰りもいつた者では御座りますまひ▲アト「是も尤もぢや、今のを聞たか▲小アト「成程承はつて御座る、兎角きやつはあの様ないやしい事ならでは得申しますまひ、其上此馬には目出たい系図が御座る、あの牛にも其様な事が有るかお尋ね被成ませ▲アト「心得た、やいやい、あの馬には目出たい系図があるといふが、牛にも其様な事があるか▲シテ「馬にある系図が牛になうてなりませうか、先あれからいへと仰せられませ▲アト「心得た、さあさあ先汝からいへ▲小アト「畏つて御座る《語》{*5}夫馬は馬頭観音の化身として、仏の作る法の舟、月氏国より漢土迄、馬こそおいて渡るなれ、周の穆王の八疋の駒、楚の項羽の望雲騅、安禄山{*6}の下流まで、いづれも千里をかけるなり、せいの管仲は旅にたち、俄に大雪ふるさとに、帰らん道を忘れつゝ、馬を放ちて其の後を、しるべとしつゝ帰りしも、馬の徳とぞきこへける、又我が朝に名を得しは、天の斑駒を始めとして、光る源氏の大将や、馬に稲飼須磨の浦、暁南鐐木の下や、よめなし月毛鬼足毛、源太佐々木が名を得しは、いけづきするすみ太夫黒、雲のうへにも望月の、駒迎せし逢坂の、小坂の駒も心して、引白馬の節会にも{*7}、牛の練入る例なく、仏の前には絵馬を掛け、神にはたつる幣の駒、胡馬北風に嘶れば、悪魔はさつと退ぞきぬ、目出度事を競ひ馬、されば本歌にも、逢坂の、関の清水に影見へて、今やひくらん望月の駒とこそあれ、いつの習に、望月の牛とは御座るまい▲アト「是はきゝ事な系図ぢや、さあさあ汝も急いで語れ▲シテ「畏つて御座る《語》夫れうしは、大日如来の化身として牽牛織女と聞くときは、七夕もうしをこそ寵愛し給へ、偽山和尚といつし人、其の身をうしになしてこそ、異類の法をも見せしむれ、許由といへる賢人は、王になれとの勅を受け、うるさき事をきくぞとて、頴泉の滝にて、耳を洗し水をさへ、樵夫は牛に飼はざりし、仏の作る十牛や、法の花咲牛の子の、桃林の春はおもしろや、今は昔に業平も、丑満つ迄の御契り、さこそ心を筑紫うし、野飼のうしの一と声も、草臥笛にやまがうらん、又或る詩に曰、風枯木を吹けば晴天のあめと、女うし吟ずる声を、男うし聞いて、月平砂を照せば夏の夜の霜と、此両牛の吟ずる声をきいてこそ、今の世迄も詩にはひかるれ、又ある歌に、浪路わけ、都へ登る筑紫うし、草につきてやさかりなるらん、忝も北野の御詠歌に、うしの子に、ふまるな庭のかたつふり、つのありとても身をな頼みそ、や今思もひ出したり、一天の君も、御車にめさるれば、うしこそひき申せ、いつの習ひに、やせ馬のひいたためしは御座るまい▲アト「是も聞事な系図ぢや、やいやい是では埒があかぬ、此上は何んぞ勝負にせい▲小アト「夫ならば駒くらべを致しませう、きやつもするかお尋被成下され▲アト「心得た、是では埒があかぬに依つて、一と勝負といへば、あれは駒くらべをせうといふが汝もするか▲シテ「いや私は駒が御座らぬ▲アト「其うしに成共のれ▲小アト「是はいかな事、うしにのつて何とかけらるゝ者で御座る{*8}▲アト「夫では汝が負に成るぞよ▲シテ「左様ならば是非に及びませぬ、此のうしぢやと申して、何の瘠馬程かけぬ事は御座るまい、成程駒くらべを致しませう、▲アト「夫ならば是へ出よ▲シテ「畏つて御座る▲アト「汝も是へ出よ▲小アト「心得ました▲アト「両人共に先のれ▲二人「畏つて御座る▲アト「扨、さあさあさあと三つ声をかけて、三つ目の声からかけ出せ▲二人「畏つて御座る{アト、さあさあさあと声をかける、三つ目より小アト、はいはいはいと云てかける、シテは、させいほうせいと云て、二人かける、小アト一ぺん廻り、橋掛り迄行てかつたと云、シテはむち打あせり、跡より行心持有}▲小アト「やあかつたぞかつたぞ▲シテ「こちもかつたぞ、おそうても淀、はやうても淀といへば、あさつての今時分までには追つかうぞいやい▲小アト「勝つたぞ勝つたぞ{ト云て小アトかけて入る、シテさせいほうせいと云てあせりあせり入るなり。}

校訂者注
 1:「商売を致せ」は、底本のまま。次の「鍋八撥」にも同様の表現がある。
 2:底本 は、「アトより前へ出て」。
 3:底本 は、「 ▲シテ「しいしい」。
 4:底本のまま。注8も同様の表現。次の「鍋八撥」にも同様の表現がある。
 5:底本は、「畏つて御座る、夫馬は」。
 6:底本は、「安録山」。
 7:底本は、「引青馬の節会にも」。
 8:底本のまま。