鍋八撥(なべやつばち)(脇狂言)

▲アト「この所の目代でござる。当所御富貴に付いて、市(いち)数多(あまた)ござれども、重ねて新市(しんいち)をお立てなさるゝ。何者にはよるまい、早々参つて一(いち)の店(たな)についた者は、市司(いちつかさ)を仰せ付けられ、万雑公事(まんざうくじ)を御赦免なされうとの御事でござる。まづ、この由を、高札(たかふだ)に打たうと存ずる。
{と云ひて、シテ、柱に高札を打つなり。}
▲小アト「この辺りに、鞨鼓(かつこ)を商売致す者でござる。当所御富貴について、重ねて新市をお立てなされ、何者にはよるまい、早く参つて一の店を飾つた者には、市司を仰せ付けられ、万雑公事を御赦免なされうとの御事でござる。身共も、一の店につきたう存じて、夜をこめて罷り出でた。まづ、急いで参らう。誠に、めでたい御代には市に市が重なると申すが、この事でござる。某(それがし)も、一の店についてござらば、ゆくゆくは、宜しい商売を致さうと存ずる事でござる。何かと云ふ内に、これぢや。扨も扨も、夥(おびたゞ)しい事かな。まだ一の店は上(かみ)さうな。あゝ、誰もをらねば良いが、心もとない事ぢや。なうなう、嬉しや嬉しや。身共が随分、夜をこめて参つたによつて、まだ何者もをらぬ。さらばまづ、一の店を飾らうと存ずる。しいしい、そこ元へ。今日(こんにち)の一の店には、某がついてござる。鞨鼓の御用ならば、こなたへ仰せられ。いや、まだ夜深な。しばらくまどろまうと存ずる。
▲シテ「この辺りに、わさ鍋を商売致す者でござる。当所御富貴について、市数多ござれども、重ねて新市をお立てなされ、何者にはよるまい、早う参つて一の店についた者には、市司を仰せ付けられ、万雑公事を御赦免なされうとの御事でござる。まだ夜深にはござれども、一の店につかうと存じて罷り出た。まづ、急いで参らう。誠に、只今こそかやうの賤しいわさ鍋を商売致せ、一の店にさへついてござらば、ゆくゆくは金襴緞子・どんきんを商はうと存じて、この様な悦ばしい事はござらぬ。いや、何かと云ふ内に、市場ぢや。扨も扨も、夥しい事かな。あれからづゝと、あれまでぢや。まだ一の店は、もそつと上(かみ)さうな。上へ参らう。扨も扨も、かやうのめでたい御代に生まれ合うたが、仕合(しあはせ)でござる。これはいかな事。身共が随分、精を出して参つたに、はや何者やら来て、臥せつて居る。どうでもきやつは、一昨日(おとゝい)あたりから、うせをつたものであらう。身共も随分、夜をこめて参つて、きやつより後へさがるも、口惜しい事ぢや。何とした物であらうぞ。いや、致し様がござる。
{と云うて、さし足して行き、鍋を小アトの前に置いて、}
しいしい、そこ元へ。今日の一の店には、某がついてござる。わさ鍋の御用ならば、こなたへ仰せられ。いや、まだ夜深な。しばらくまどろまうと存ずる。
▲小アト「扨も扨も、寝た事かな寝た事かな。これはいかな事。やいやいやい、そこなやつ。
▲シテ「はあ。
▲小アト「おのれは何者ぢや。
▲シテ「私はこの辺りに、わさ鍋を商売に致す者でござる。お前はどなたでござる。
▲小アト「身共を知らぬか。
▲シテ「いゝや、存じませぬ。
▲小アト「某は、鞨鼓を商売する者ぢや。
▲シテ「何ぢや。
▲小アト「鞨鼓を商売する者ぢや。
▲シテ「牛に食らはれた。所の目代殿でもあるかと思うて、よい肝を潰(つぶ)した。おぬしが鞨鼓を商売すれば、身共はわさ鍋を商売する。それが何とした。
▲小アト「よし、何を商売せうとも、そこを退(の)けと云ふ事ぢや。
▲シテ「退(の)きたくば、おぬし、退かうまでよ。
▲小アト「扨は、退(の)くまいといふ事か。
▲シテ「又、何のやうに退(の)かうぞ。
▲小アト「退(の)かずば、目に物を見するぞよ。
▲シテ「そりや、誰が。
▲小アト「身共が。
▲シテ「《笑》そちが目に物を見すると云うて、深しい事はあるまいぞいやい。
▲小アト「かまへて悔やむな。
▲シテ「何の、悔やまう。
▲小アト「おのれは憎いやつの。これでも退(の)かぬか、退かぬか。
{と云うて、棒にて鍋を割らんとする。シテ、逃ぐる。}
▲シテ「あゝ、出合へ出合へ出合へ。
▲アト「あゝ、まづ待て待て。これは、何事ぢや。
▲小アト「まづ、お前はどなたでござる。
▲アト「所の目代ぢや。
▲小アト「目代殿ならば、急度(きつと)御礼を申しませう。
▲アト「礼には及ばぬ。何事を論ずる。
▲小アト「私はこの辺りに、鞨鼓を商売致す者でござる。当所御富貴につき、市あまたござれども、重ねて新市をお立てなされ、何者にはよるまい、早く参つて一の店を飾つた者は、市司を仰せ付けられ、万雑公事を御赦免なされうとの御事ではござらぬか。
▲アト「その通りぢや。
▲小アト「それ故私も、随分夜をこめて参りまして、まんまと一の店を飾りまして、まだ夜深にござつたによつて、しばらくまどろうでをりましたれば、いつの間にやら、あれ、あの横着者が参りまして、私が店先に臥せつて居りまするによつて、退(の)けと申せば退くまいと申す。それを申し上がつての事でござる。目代殿ならば、急度仰せ付けられて下されい。
▲アト「まづ、あの者の口を聞かう。
▲小アト「お聞きなされませ。
▲アト「やいやい、これはまづ何事を論ずる。
▲シテ「まづ、お前はどなたでござる。
▲アト「所の目代ぢや。
▲シテ「目代殿ならば、急度御礼を申しませう。
▲アト「いやいや、礼には及ばぬ。まづ、何事ぢや。
▲シテ「私はこの辺りに、わさ鍋を商売に致す者でござる。当所御富貴に付きまして、重ねて新市をお立てなされ、何者にはよるまい、早う参つて一の店についた者は、市司を仰せ付けられ、万雑公事を御赦免なされうとの御事ではござらぬか。
▲アト「その通りぢや。
▲シテ「それ故私も、随分夜をこめて参りまして、まんまと一の店を飾りまして、まだ夜深にござつたによつて、しばらくまどろうでをりましたれば、いつの間にやら、あれ、あの横着者が参つて、先に居る私に退(の)けと申す。退くまいと申せば、あの棒でこの鍋を打ち割らうと致しまする。このめでたい市始めに、あの様な横着者は、づゝと市末(いちずゑ)へ仰せ付けられませ。
▲アト「扨は、汝が早う来たか。
▲シテ「おゝおゝ、私が早う参りました。
▲アト「はて、両人とも同じ様な事を云ふ。やいやい、あれが早う来たと云ふぞよ。
▲小アト「よし、前後の差別は差し置かれませ。まづ、このめでたい市始めに、あの様なさもしいわさ鍋が、何と、市司になるものでござる。又、この鞨鼓は華奢(きやしや)な物で、児若衆(ちごわかしう)のおもて遊びにもなりまする。あのわさ鍋も、その様な事があるか、お尋ねなされませ。
▲アト「心得た。何と、今のを聞いたか。
▲シテ「成程、承つてござる。尤も、きやつが申す通り、鞨鼓と申す物は華奢な物で、児若衆のおもて遊びにもなりませうが、又、このわさ鍋を、卑しい物の様に申して蔑(さげし)みますれども、この鍋程、結構な物はござらぬ。まづ、この鍋で供御(ぐご)を調味致して、上々(うへうへ)へも進上申し、下々(したじた)もたべ、その上では、おもて遊びもいりませうが、供御を進上申さずば、いかな児若衆も、頤(おとがひ)で蠅を追はせられて、鞨鼓も八撥もしつぽろぽも、いつたものではござるまい。
▲アト「これも尤ぢや。今のを聞いたか。
▲小アト「承りました。とかくきやつは、あの様なさもしい事ならでは、え申しませぬ。この鞨鼓には、めでたい詩がござる。
▲アト「その詩は、何とあるぞ。
▲小アト「鞨鼓苔深うして鳥驚かず、と申せば、この鞨鼓程、めでたい物はござらぬ。
▲アト「これは聞き事ぢや。やいやい、鞨鼓にはめでたい詩があるが、その鍋にもその様な事があるか。
▲シテ「鞨鼓にめでたい詩がござれば、この鍋には、めでたい歌がござる。
▲アト「何といふ歌があるぞ。
▲シテ「高き屋に登りて見れば煙立つ、民の竈(かまど)は賑(にぎは)ひにけり、と申す時は、この鍋に上越す、めでたい物はござらぬ。
▲アト「これも正しい事ぢや。やいやい、これでは埒があかぬ。何ぞ勝負にしたら良からう。
▲小アト「それならば、幸ひ棒を持つて居りまする程に、棒を振りませうが、きやつも振るかと仰せられて下され。
▲アト「心得た。やいやい、これでは埒があかぬによつて、何ぞ勝負にせいと云へば、あれは、棒を振らうと云ふが、汝も振るか。
▲シテ「あれが振りまするならば、私も振らいでなりませうか。まづ、あれから振れと仰せられませ。
▲アト「心得た。さあさあ、まづ汝から振れ。
▲小アト「畏つてござる。
{と云ひて、ヤアと云ふ声掛けると、笛吹き出す。棒を振るなり。}
▲アト「一段と振つた。さあさあ、汝も振れ。
▲シテ「あの棒を貸せと仰せられて下され。
▲アト「心得た。やいやい、その棒を貸せと云ふわ。
▲小アト「銘々の物で振れ、と仰せられい。
▲アト「心得た。やいやい、銘々の物で振れと云ふわ。
▲シテ「私は棒はござりませぬ。
▲アト「その鍋なりとも振れ。
▲シテ「これはいかな事。この鍋が、何と振らるゝものでござる。
▲アト「振らねば、汝が負けになるぞよ。
▲シテ「是非に及びませぬ。この鍋なりとも、振つて見せませう。
▲アト「早う振れ。
{と云ひて振るなり。拍子・諸事、前に同断。振り様、心持ちあるべし。口伝。}
▲シテ「やうやうと振りました。
▲アト「振りにくい物を、良う振つた。やいやい、これでも埒があかぬ。も一勝負(ひとしやうぶ)せい。
▲小アト「それならば、今度は鞨鼓を打ちませう。きやつも打つか、お尋ねなされませ。
▲アト「心得た。これでも埒があかぬによつて、も一勝負と云へば、あれは、鞨鼓を打たうと云ふが、汝も打つか。
▲シテ「あれが打ちまするならば、私も打たいでなりませうか。これもまづ、あれから打てと仰せられませ。
▲アト「さあさあ、汝から打て。
▲小アト「畏つてござる。
{と云ひてくつろぎ、鞨鼓つけて出、ヤアと声掛ける。鞨鼓、笛吹き出す。常の通り舞ひて、ヤアと云ひて留めるなり。}
▲アト「一段と打つた。さあさあ、汝も打て。
▲シテ「あの鞨鼓を借つて下され。
▲アト「心得た。やいやい、その鞨鼓を貸せと云ふわ。
▲小アト「これはいかな事。最前から、勝負は何のためでござる。あの鍋とこの鞨鼓との勝負ではござらぬか。銘々の物で打て、と仰せられませ。
▲アト「心得た。とかく銘々の物で打て、と云ふわ。
▲シテ「ぢやと申して、この鍋が鞨鼓の代はりに、何と打たるゝものでござる。
▲アト「これも、打たねば汝が負けになるぞよ。
▲シテ「是非に及びませぬ。どうぞして、打つて見せませう。
{と云ひて、鍋つける。}
▲小アト「申し申し。最前から、何を貸せ彼(か)を貸せと申せども、あれもならぬ、これもならぬと申すも、あまり心ない者ぢやとがな、存ずるでござらう。撥(ばち)はあるまい、これを貸す、と仰せられて下され。
▲アト「心得た。やいやい、あの者が云ふには、最前から何を貸せ彼(か)を貸せと云へども、あれもならぬこれもならぬと云へば、定めて心ない者ぢやと思ふであらう、撥はあるまい、貸さうと云ふわ。
▲シテ「あの、これを貸さうと申しますか。
▲アト「中々。
▲シテ「扨は、きやつが心も、少しは直つたさうにござる。一礼申しませう。
▲アト「一段と良からう。
▲シテ「なうなう、只今はお撥、過分におりある。
▲小アト「礼までも、おりない。
▲アト「急いで打て。
▲シテ「畏つてござる。
{と云ひて打つ事、鞨鼓の通り。舞ひ、ぐわして{*1}、撥にて鍋を打ち、驚きて捨つる。小アト、笑ふなり。}
▲小アト「そうも、おりやるまい。
▲シテ「なうなう、恐ろしや恐ろしや。きやつが心が直つたかと存じたれば、あのあらけない撥で、この鍋を既に打ち割らさうと致しました。心根が憎うござる。この上は、相打(あひうち)にせう、と仰せられて下され。
▲アト「心得た。やいやい、今度は相打にせうと云ふ程に、これへ出よ。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「汝も出よ。
▲シテ「心得ました。
▲アト「扨、両人ともに、そつとでも違うた方を、曲事(くせごと)に云ひ付くる。さう心得い。
▲二人「畏つてござる。
{と云ひて、小アトより掛かる。笛吹き出す。舞ひ様、始めの通り。但し、シテ、色々仕様あり。真似する心持ち、「煎じ物」の通り、同断。舞ひの仕舞に、小アト、水車をして入るなり。シテ、入れ違ひ、危なさうに真似をして、そつとかへり、二三度目にこけるなり。すべて舞ひ様、口伝。心持ちあり。}
▲シテ「数が多なつて、めでたい。
{と云ひて、留めて入る。但し、鍋割れぬ時は、}
▲シテ「芯の固い鍋ぢや。取つて帰つて重宝致さう。
{と云ひて、留めて入るなり。}

校訂者注
 1:「ぐわす」は、「えい」「やあ」などの掛け声を掛けて片膝をつく所作。

底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.

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鍋八撥(ナベヤツバチ)(脇狂言)

▲アト「此所の目代で御座る、当所御富貴に付て、市数多御座れ共、重て新市をおたて被成るゝ、何者にはよるまい、早々参つて一の店についた者は、市司を仰付られ、万ぞう公事を御赦免被成れうとの御事で御座る先此由を高札に打たうと存ずる{ト云てシテ柱に高札を打つなり}▲小アト「此辺りにかつこを商売致す者で御座る、当所御富貴について、重て新市をお立なされ、何者にはよるまい、早々参つて一の店をかざつた者には、市司を仰付られ、万ぞう公事を御赦免被成れうとのお事で御座る、身共も一の店につきとう存じて、夜をこめて罷出た、先急いで参らう、誠に、目出たい御代には、市に市が重ると申が此事で御座る、某も一の店について御座らばゆくゆくは、宜しい商売を致さうと存ずる事で御座る、何彼といふ内に是ぢや扨も扨もおびたゞしい事かな、まだ一の店は上さうな、あゝ誰もおらねばよいが、心もとない事ぢや、なうなう嬉しや嬉しや、身共がずい分夜をこめて参つたに依つて、まだ何者もおらぬ、さらば先、一の店をかざらうと存ずる、しいしいそこ元へ、今日の一の店には某がついて御座る、かつこの御用ならば、こなたへ仰せられいや、まだ夜深な、しばらくまどろもうと存ずる▲シテ「此の辺りに、わさ鍋を商売いたす者で御座る、当所御富貴について、市数多御座れ共、重て新市をおたて被成、何者にはよるまい、早う参つて一の店についた者には、市司を仰付けられ、万ぞう公事を御赦免被成れうとのお事で御座るまだ夜深には御座れ共、一の店につかうと存じて罷出た、先急いで参らう、誠に、唯今こそ、か様の賤しいわさ鍋を商売致せ{*1}、一の店にさへついて御座らば、ゆくゆくは金らん緞子どんきんを商はうと存じて{*2}、此様な悦ばしい事は御座らぬ、いや何彼という内に市場ぢや、扨も扨もおびたゞしい事かな、あれからつゝとあれまでぢや、まだ一の店は最卒度上さうな、上みへ参らう。扨も扨も、加様の目出たい御代に生れ合うたが仕合で御座る、是はいかな事、身共が随分精を出して参つたに、はや何者やら来てふせつて居る。どうでもきやつは、おとゝいあたりからうせおつたもので有う、身共もずゐ分夜をこめて参つて、きやつより後へさがるも口をしい事ぢや、何とした物で有うぞ、いや致様が御座る{ト云ふてさし足して行き鍋を小アトの前にをいて}▲シテ{*3}「しいしいそこ元へ、今日の一の店には某がついて御座る、わさ鍋の御用ならば、こなたへ仰せられいや、まだ夜深な、しばらくまどろもうと存ずる▲小アト「扨も扨も寝た事かな寝た事かな、是はいかな事、やいやい、やいそこなやつ▲シテ「はあ▲小アト「おのれは何者ぢや▲シテ「私は此の辺りに、わさ鍋を商売に致す者で御座る、お前はどなたで御座る▲小アト「身共をしらぬか▲シテ「いゝや存じませぬ{*4}▲小アト「某は、鞨鼓を商売する者ぢや、▲シテ「何ぢや▲小アト「かつこを商売する者ぢや▲シテ「うしにくらはれた、所の目代殿でもあるかと思ふてよい肝をつぶした、おぬしが鞨鼓を商売すれば、身共はわさ鍋を商売する、夫が何とした▲小アト「よし何を商売せう共、そこをのけと云ふ事じや▲シテ「のきたくばおぬしのかう迄よ▲小アト「扨はのくまいといふ事か▲シテ「又なんの用にのかうぞ、▲小アト「のかずば目に物を見するぞよ▲シテ「そりや誰が、▲小アト「身共が▲シテ「《笑》そちが目に物を見するといふて、深しい事は有るまいぞいやい▲小アト「かまへて悔むな▲シテ「なんの悔まう▲小アト「おのれは憎いやつの、是でものかぬか、のかぬか、{ト云うて棒にて鍋をわらんとする、シテ逃る}▲シテ「あゝ出合出合出合▲アト「あゝ先まてまて、是は何事ぢや▲小アト「先お前はどなたで御座る▲アト「所の目代ぢや▲小アト「目代殿ならば急度お礼を申ませう▲アト「礼には及ばぬ、何事を論ずる▲小アト「私は此の辺りに、鞨鼓を商売致す者で御座る、当所御富貴につき、市あまた御座れ共、重て新市をおたて被成、何者にはよるまい、早く参つて一の店をかざつた者は、市司を仰付けられ、万ぞう公事を御赦免なされうとのお事では御座らぬか▲アト「其の通りぢや▲小アト「夫故私も、随分夜をこめて参りまして、まんまと一の店をかざりまして、まだ夜深に御座つたに依つて、しばらくまどろうでおりましたれば、いつのまにやら、あれあの横着者が参りまして、私が店先きにふせつて居りまするに依つて、のけと申せばのくまいと申す、夫を申上つての事で御座る、目代殿ならば急度仰付けられて下されい▲アト「先あの者の口を聞う▲小アト「おきゝ被成ませ▲アト「やいやい、是は何事を論ずる、▲シテ「先お前はどなたで御座る▲アト「所の目代ぢや▲シテ「目代殿ならば急度お礼を申ませう▲アト「いやいや礼には及ばぬ、先何事ぢや▲シテ「私は此のあたりに、わさ鍋を商売に致す者で御座る、当所御富貴に付きまして、重て新市をおたてなされ、何者にはよるまい、早う参つて一の店についた者は、市司を仰付けられ、万ぞう公事を御赦免なされうとのお事では御座らぬか▲アト「其の通りぢや▲シテ「夫故私も、ずゐ分夜をこめて参りまして、まんまと一の店をかざりまして、まだ夜深に御座つたによつて、しばらくまどろうでおりましたれば、いつの間にやら、あれ、あの横ちやく者が参つて、先きに居る私にのけと申す。のくまいと申せば、あの棒で此の鍋を打わらうと致しまする、此目出度い市はじめに、あの様な横ちやく者は、つゝと市ずへへ仰付られませ▲アト「扨は汝が早う来たか▲シテ「おゝおゝ私が早う参りました▲アト「はて両人共おなじ様な事をいふ、やいやい、あれが早う来たといふぞよ▲小アト「よし前後の差別は差置かれませ、先此目出たい市はじめに、あの様なさもしいわさ鍋が、何と市司に成る者で御座る{*5}、又た此鞨鼓は、きやしやな物で、児若衆のおもて遊びにも成りまする、あのわさ鍋も、其様な事があるかお尋ね被成ませ▲アト「心得た、何と今のを聞たか▲シテ「成程承はつて御座る、尤もきやつが申通り、鞨鼓と申物はきやしやな物で、児若衆のおもて遊びにも成りませうが、又此わさ鍋を、いやしい物の様に申てさげしみますれ共、此の鍋程結構な物は御座らぬ、先此の鍋で、供御を調味致て上々へも進上申し、下々もたべその上では、おもて遊びもいりませうが{*6}、供御を進上申さずば、いかな児若衆も、おとがひで蠅をおはせられて、鞨鼓も八撥も、しつぽろぽもいつた者では御座るまい▲アト「是れも尤もじや、今のを聞いたか▲小アト「承りました、兎角きやつは、あの様なさもしい事ならでは、得申しませぬ、此かつこには目出度い詩が御座る▲アト「その詩は何とあるぞ▲小アト「かつこ苔深うして鳥驚ろかずと申ば、此鞨鼓程目出たい物は御座らぬ▲アト「是は聞事ぢや、やいやいかつこには目出たい詩があるが、其の鍋にも其の様な事があるか▲シテ「かつこに目出たい詩が御座れば、此の鍋には目出たい歌が御座る▲アト「何といふ歌が有ぞ▲シテ「高きやに、のぼりてみればけむりたつ、民のかまどはにぎはひにけりと申時は、此の鍋に上こす目出たい物は御座らぬ、▲アト「是もたゞしい事ぢや、やいやい是では埒があかぬ、何んぞ勝負にしたらよからう▲小アト「夫ならば、幸ひ棒を持つて居りまする程に、棒を振りませうが、きやつもふるかと仰せられて下され▲アト「心得た、やいやい、是では埒があかぬに依つて、何ぞ勝負にせいといへば、あれは棒をふらうといふが、汝もふるか▲シテ「あれがふりまするならば私もふらいで成りませうか、先あれからふれと仰せられませ▲アト「心得た、さあさあ先汝からふれ▲小アト「畏つて御座る{ト云て、ヤアと云ふ声かけると笛吹出す棒をふるなり}▲アト「一段とふつた、さあさあ汝もふれ▲シテ「あの棒をかせと仰せられて被下▲アト「心得た、やいやい其の棒をかせと云ふは▲小アト「銘々の物でふれと仰せられい▲アト「心得た、やいやい銘々の物でふれといふは▲シテ「私は棒は御座りませぬ▲アト「其鍋なり共ふれ▲シテ「是はいかな事、此の鍋が何とふらるゝ物で御座る{*7}▲アト「ふらねば汝が負になるぞよ▲シテ「是非に及ませぬ、此の鍋なり共ふつて見せませう▲アト「早うふれ{ト云て振るなり、拍子諸事前に同断、ふり様心持あるべし口伝}▲シテ「漸々と振ました▲アト「ふりにくい物をようふつた、やいやい、是でも埒があかぬ、最一と勝負せい▲小アト「夫ならば、今度はかつこを打ませう、きやつも打つかお尋ね被成ませ▲アト「心得た、是でも埒があかぬに依つて、最一と勝負といへば、あれは鞨鼓を打うといふが汝も打か、▲シテ「あれが打まするならば、私も打いで成ませうか、是も先、あれからうてと仰られませ▲アト「さあさあ、汝からうて▲小アト「畏つて御座る{ト云てくつろぎ、かつこつけて出、ヤアと声かける鞨鼓笛吹出す常の通り舞てヤアと云てとめる也}▲アト「一段と打つた、さあさあ汝もうて▲シテ「あのかつこをかつて被下▲アト「心得た、やいやい、その鞨鼓をかせといふは▲小アト「是はいかな事、最前から勝負は何んの為で御座る、あの鍋とこのかつことの勝負では御座らぬか銘々の物でうてと仰せられませ▲アト「心得た、とかく銘々の物でうてといふは▲シテ「ぢやと申て、此の鍋がかつこの代りに何と打るゝ物で御座る{*8}▲アト「是もうたねば汝がまけに成るぞよ▲シテ「是非に及ませぬ、どうぞして打て見せませう{ト云て鍋つける}▲小アト「申々、最前から何をかせ彼をかせと申せ共、あれもならぬ、是もならぬと申も、あまり心ない者ぢやとかな存ずるで御座らう、ばちはあるまい、是をかすと仰せられて下され▲アト「心得た、やいやいあの者がいふには、最前から何をかせかをかせといへ共、あれもならぬ是もならぬといへば、定て心ない者ぢやと思ふで有う、撥はあるまいかさうといふは▲シテ「あの是をかさうと申ますか▲アト「中々▲シテ「扨はきやつが心も、すこしは直つたさうに御座る、一礼申ませう▲アト「一段とよからう▲シテ「なうなう、唯今はお撥過分におりある▲小アト「礼迄も折ない▲アト「急いでうて▲シテ「畏つて御座る{ト云て打つ事鞨鼓の通り舞ぐわして撥にて鍋を打驚きて捨る小アト笑ふなり}▲小アト「そうもおりやるまい▲シテ「なうなうおそろしやおそろしや。きやつが心が直つたかと存じたれば、あのあらけない撥で、此の鍋を既に打わらさうと致ました、心根が憎う御座る、此上は相打にせうと仰せられて下され、▲アト「心得た、やいやい今度は相打にせうといふ程に是へ出よ▲小アト「畏つて御座る▲アト「汝も出よ▲シテ「心得ました▲アト「扨両人共に、卒度でも違うた方を曲事にいひ付る、さう心得い▲二人「畏つて御座る{ト云て小アトより掛る笛吹出す舞様始めの通り但シテ色々仕様あり真似する心持煎物の通り同断、舞の仕舞に小アト水車をして入るなりシテ入違いあぶなさうに真似をしてそつとかへり二三度目にこけるなりすべて舞様口伝心持あり}▲シテ「数がおほなつて目出たい{ト云て留めて入る但し鍋われぬ時は}▲シテ「神のかたい鍋ぢや取つて帰つて重宝致さう{ト云てとめて入るなり}

校訂者注
 1:「商売致せ」は、底本のまま。前の「牛馬」にも、同様の表現がある。
 2:この読点の前後、続き具合が不審。或いは誤脱があるか。
 3:底本は、「▲シテ「しいしいそこ元へ」。
 4:底本は、「いゝや存ぜませぬ」。 
 5:底本のまま。次の「牛馬」にも同様の表現がある。
 6:「おもて遊びもいりませうが」は、底本のまま。
 7:底本のまま。注5に同じ。
 8:底本のまま。注5に同じ。