麻生(あさふ)(脇狂言)

▲シテ「信濃の国の住人、麻生の何某(なにがし)でござる。永々在京致す所に、訴訟悉く相叶ひ、安堵の御教書(みげうしよ)頂戴し、過分に新知を拝領し、あまつさへ、お暇(いとま)を下され、近日、本国へ罷り下る。かやうな悦ばしい事はござらぬ。まづ、両人の者を呼び出し、この由を申し聞かせ、悦ばせうと存ずる。やいやい、藤六・源六、あるかやい。
{と云ひて、呼び出すも出るも、常の如し。但し、三遍呼ぶなり。}
▲シテ「念なう早かつた。汝等を呼び出すは、別の事でない。永々在京する処、訴訟悉く相叶ひ、安堵の御教書頂戴し、過分に新知を拝領し、あまつさへ、お暇を下されて、近日、本国へ罷り下る。この様なめでたい事はないなあ。
▲アト「内々、かやうの義を待えましたに、かほどおめでたい事は、なあ、源六。
▲小アト「おゝおゝ。
▲二人「ござりませぬ。
▲シテ「めでたいなあ。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「扨、明日(みやうにち)は元朝(ぐわんてう)ぢや。出仕をしたものであろか。但し、お暇を下された事ぢやによつて、それには及ぶまいか。
▲アト「お国許にござなされてさへ、わざわざお登りになつて、御出仕をなさるゝ。まして、御在京の事でござるによつて、御出仕にならるゝ方が、良うござりませう。なあ、源六。
▲小アト「いかさま。わごりよの仰(お)しやる通り、お勤めなしにお下りにならるゝは、宜しうござりますまい。
▲シテ「身共もさう思ふ。さりながら、小袖上下(かみしも)の用意がない。
▲アト「御小袖上下は、私が用意致してござる。
▲シテ「何ぢや、汝が用意したか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「それは出かいた。が、まだ烏帽子がないわ。
▲小アト「いや、烏帽子は私が用意致してござる。
▲シテ「何ぢや、そちが用意したか。
▲小アト「左様でござる。
▲シテ「扨々、汝等は才覚な者どもぢや。まづ、その烏帽子を見せい。
▲小アト「いや、まだ烏帽子屋にござる。
▲シテ「これはいかな事。烏帽子屋にあるものが、何の役に立つものぢや。早う行(い)て、取つて来い。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「急がしめ。
▲小アト「心得た。
{と云ひて、太鼓座へ入り、くつろぎ居る。}
▲シテ「扨、藤六。この烏帽子髪といふものは、殊の外難しいものぢやと聞いたが、誰に結(ゆ)はせたものであらう。
▲アト「かねて、かやうの儀もござらうと存じて、私が習うて置きました。
▲シテ「それは出かいた。さりながら、殊の外隙(ひま)のいるものぢやと聞いた。太儀ながら、これへ寄つて、結うてくれい。
▲アト「畏つてござる。
{と云ひて、太鼓座へ取りに入る。シテは、脇座に正面向き、座る。アト、きやうりせん持ち出る。シテの傍へつかつかと寄る。シテ、驚き、反(そ)り打つなり。}
▲シテ「これは、何とする。
▲アト「きやうりせんでござる。
▲シテ「何、きやうせんぢや。
▲アト「いや、きやうりせんと申して、これを塗りませねば、五体付けがつきませぬ。
▲シテ「それならば、それと云はいで。手頃な手木(てぎ)を持つて来るによつて、某を打擲するかと思うて、良い胆をつぶした。塗らいで叶はぬものなれば、これへ寄つて塗れ。
▲アト「畏つてござる。
{シテ、脇正面向く。アト、前へ行き、座り、つむりへ塗り附くるなり。最も始め、真直に塗る。シテ、俯(うつむ)く。それより頭を下げながら、左の方へつむりをやり、頭を上げ、又段々頭を上げ、右の方へやり、頭を上げ、段々下げて、真中へ頭をやり、十分つむり下げて、仰向く仕様、甚だ難(むづか)しし。後ろになる。筋交(すぢか)ひ向き居る。アトも外し、こける。この間、無言なり。扨、アト、又太鼓座へ行きて、葛桶の蓋へ道具を入れて持ち出でて、五体付けへ唾を吹きかけ、尤も膝立ちして吹きかけるを見て、}
▲シテ「やいやい、それは何をする。
▲アト「これは、五体づけのあへ塩でござる。
▲シテ「何ぢや、あへ塩ぢや。
▲アト「はあ。
▲シテ「あへ塩はあへ塩であらうが、ちと手むさいものぢやなあ。
▲アト「あまりきれいなものではござりませぬ。さりながら、これを塗りませねば、五体付けがつきませぬ。
▲シテ「それならば、是非に及ばぬ。さあさあ、これに寄つて、結うてくれい。
{と云ひて、足を直すなり。}
▲アト「畏つてござる。
{と云ひて、シテの前へ行き、座る。}
▲シテ「扨、汝は良い時分に習うて、この度の役に立つて、一段の事ぢや。
▲アト「私も、良い時に稽古を致して置きまして、この度の御用に立ちまして、かやうな悦ばしい事はござりませぬ。
{それより、髪へかゝる。}
▲シテ「扨、明朝の儀式は、どの様な事ぢや。
▲アト「まづ、明朝は、いつもの通り、お雑煮をお祝ひになりまして、扨、初献は引き渡しで、冷酒でござる。その後は、はつたりと燗をし済まして、思し召す儘に、召し上がらるゝ事でござる。
{まづ、初め、鋏にて元結を切り、髪の分け元に櫛を入れて梳(と)き、シテ、窮屈がる心あり。いろいろあるべし。扨、引き外し、}
▲シテ「冷酒は、冷やゝかで悪からうによつて、はつたりと燗をして、三盃ばかり呑うで出たらば、温(あたゝ)まつて良からう。
▲アト「左様でござりまする。
▲シテ「さあさあ、結うてくれい。
{と云ひて、足を直す。}
▲アト「畏つてござる。
{と云ひて、又前へ行き、結ふ。}
▲シテ「扨、小袖上下の模様は、どの様な事ぢや。
▲アト「まづ、御小袖は、萌黄の御熨斗目(おのしめ)に、御定紋を付けまして、御上下は、褐(かちん)のむらがけに子持笹一を付けまして、御紋はめでたう雪薺(ゆきなづな)でござる。
{又、窮屈がりて引き外し、両人、いろいろ仕様あるべし。}
▲シテ「萌黄の熨斗目に褐(かちん)の上下、これは、良い取り合(あは)せであらうなあ。
▲アト「つゝと花やかな御取り合(あは)せでござる。
▲シテ「さあさあ、結うてくれい。
▲アト「畏つてござる。
{と云ひて、又前へ行き、結ふ。}
▲シテ「扨、烏帽子髪といふものは、いかう窮屈なものぢやなあ。
▲アト「殊の外、むつかしいものでござる。
▲シテ「云うても云うても、汝は良い時分に稽古して、この度の役に立つて、重畳な事ぢや。
▲アト「良い時分に稽古致して置きまして、この度のお間に合(あひ)まして、悦びまする。
▲シテ「扨、もう良いか。
▲アト「もそつとでござる。御窮屈にはござりませうが、暫く御堪忍なされませ。
▲シテ「いやいや、急(せ)く事はない。随分と念を入れて、ならう事なれば、早う仕舞うてくれい。
▲アト「さらば、宜しうござる。
▲シテ「良いか。扨も扨も、退屈をした事かな。
▲アト「御尤でござる。
▲シテ「扨、この源六は、まだ帰らぬか。
▲アト「まだ帰りませぬ。
▲シテ「これは、殊の外遅い事ぢや。汝は、太儀ながら、見て来い。
▲アト「畏つてござる。
{シテ、正面向く。アト、太鼓座へ入り、くつろぐ。小アト、立つて、}
▲小アト「物もう、案内もう。
{常の如く、ヱボシヤ出る。}
▲小アト「何と、烏帽子は出来ましたか。
▲ヱボシヤ「成程、出来ました。進ぜう。
{と云ひて、太鼓座へ行(い)て、烏帽子を持つて出づる。}
▲ヱボシヤ「これこれ。
▲小アト「これは、見事に出来ました。さりながら、これはなぜに、竹に挿いてござる。
▲ヱボシヤ「いや、それはまだ、漆がもそつと干(ひ)ぬによつて、竹に挿いて置きました。持つてお帰りなる間に、漆が干まする。
▲小アト「これは尤でござる。も、かう参る。
{常の如く、暇乞ひするなり。}
▲小アト「なうなう、嬉しや嬉しや。まづ、急いで帰らう。あの烏帽子屋は、細工が上手でござる。美しう塗つた程に、これをお目にかけたらば、定めて御満足なさるゝであらう。何かと云ふ内に、これぢや。申し、頼うだお方、ござりまするか。烏帽子屋から源六が、只今帰りました。はあ、こゝではないさうな。これはいかな事。頼うだお方のお屋敷を忘れた。これは何とせうぞ。
▲アト「もはや、戻りさうなものぢや。何をしてゐる事ぢや知らぬまで。ゑい、源六。
▲小アト「ゑい、藤六。わごりよは、どれへ行くぞ。
▲アト「どれへ行くと云ふ事があるものか。あまり汝が遅いによつて、迎へに来たわ。
▲小アト「面目もない事がある。
▲アト「それは、何事ぢや。
▲小アト「頼うだ人のお舘(やかた)を忘れた。
▲アト「何ぢや、頼うだ人のお屋敷を忘れた。
▲小アト「中々。
▲アト「いや、こゝな者が。事にこそよれ、主(しゆ)の宿を忘るゝといふ事があるものか。連れて戻らう。来さしめ。
▲小アト「心得た。
▲アト「扨々、むさとした人ぢや。常々そなたは、物覚えが悪いと云うて、お叱りなさるゝ。ちと、お嗜(たしな)みやれ。
▲小アト「心得た。
▲アト「どこにか、主の宿を忘るゝといふ様な事があるものか。
▲小アト「でも、忘れたれば、せう事がない。
▲アト「これこれ、こゝぢや。
▲小アト「こゝか。
▲アト「さあさあ、入らしめ。
▲小アト「心得た。
▲アト「や、申し。頼うだお方、ござりまするか。只今、烏帽子屋から、藤六、
▲小アト「源六が、
▲二人「帰りました。
▲小アト「そりや、叱るわ。
▲アト「こゝではないさうな。
▲小アト「やつと、参つたの。《笑ひ。》
▲アト「はて、合点の行かぬ事ぢや。
▲小アト「まだ、身共がましであらう。身共について来さしめ。
▲アト「心得た。
▲小アト「身共は疾(と)う出た事ぢやによつて、忘れまいものでもないが、おぬしはたつた今出て、忘るゝといふ事があるものか。
▲アト「慥(たしか)にあそこぢやと思うたが。
▲小アト「これこれ、こゝぢや。入れ入れ。
▲アト「誠にこゝぢや。
▲小アト「さあさあ、入らしめ。
▲アト「心得た。申し申し、頼うだお方、ござりますか。只今、烏帽子屋から、藤六、
▲小アト「源六が、
▲二人「帰りました。
▲小アト「そりや、又叱るわ。
▲アト「これは、こゝでもないわ。
▲小アト「これはまづ、何としたものであらう。
▲アト「もはや、家々に注連飾りをしたによつて、知るゝ事ではない。
▲小アト「何(いづ)れ、どれがどれやら知れぬ。
▲アト「身共が思ふは、やうやう松囃子の時分ぢや。殊に、頼うだお方は有興人(うきようじん)ぢや。この通りを囃子物に作つて囃して、頼うだ人のお舘を尋ねうと思ふが、何とあらう。
▲小アト「これは一段と良からう。が、何と云うて囃さう。
▲アト「はて、頼うだ人は信濃の国の住人ぢやによつて、ありやうの通り、信濃の国の住人住人、麻生殿の身内に。そこでそなたと身共が名を、藤六と源六が、主の宿を忘れて、囃子物をして行く。と云うて、囃さう。
▲小アト「一段と良からう。
▲アト「まづ、云うて見よう。
{と云ひて、両人云うて見る。但し、「囃子物をして行く。」と引く。}
▲小アト「これでは、後(あと)がつまらぬ。
▲アト「この後へ、げにもさあり、やよがりもそうよの、といふ事を入れう。
▲小アト「これは良からう。
▲アト「さあさあ、囃せ囃せ。
▲小アト「心得た心得た。
{と云ひて、囃子物。大小太鼓、懸け合ひ囃す内、シテ、うつる。}
▲シテ「《笑》両人の者が、某が宿を忘れて、囃子物で尋ぬる。これは、出ずばなるまい。信濃の国の住人。
▲二人「そりや、御声ぢや。
▲シテ「麻生。おれが内の者に、藤六と源六が、げらが宿を忘れて、囃子物をして来る。前代(ぜんだい)の曲事(くせごと)。
{「藤六と源六が」と、囃し掛かるなり。}
▲シテ「出ばやとは思へども、元結(もとゆひ)は取つたり、五体付けは付けたり、さながら出るも尾籠(びろう)なれば、こゝなる窓からちよかと見て、出(で)つ入(い)つ、悶(もだ)へた。
{「主の宿を忘れて」と、囃し掛くるなり。}
▲シテ「とかくの事はいるまい、早う来て餅食へ。
{「げにもさあり」と囃し、しやぎりにて、三人留めて、入るなり。}

底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.

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麻生(アサフ)(脇狂言)

▲シテ{*1}「信濃の国の住人、麻生の何某で御座る、永々在京致所に、訴訟悉く相叶ひ、安堵の御教書頂戴し、過分に新知を拝領し、あまつさへお暇を下され、近日本国へ罷下る、加様な悦ばしい事は御座らぬ、先づ両人の者を呼出し、此由を申きかせ悦ばせうと存ずる、やいやい藤六源六あるかやい、{ト云て呼出すも出るも如常但し三遍呼也}▲シテ「念なう早かつた、汝等を呼出すは別の事でない、永々在京する処、訴訟悉く相叶ひ、安堵の御教書頂戴し、過分に新知を拝領し、あまつさへお暇を下されて近日本国へ罷下る、此様な目出たい事はないなあ▲アト「内々加様の義を待得ましたに、加程お目出度事はなあ源六▲小アト「おゝおゝ▲二人「御座りませぬ▲シテ「目出たいなあ▲アト「左様で御座る▲シテ「扨明日は元朝ぢや、出仕をした者で有ろか、但しお暇を下された事ぢやに依つて、夫には及まいか▲アト「お国許に御座なされてさへ、わざわざお登りに成つて御出仕をなさるゝ、まして御在京の事で御座るに依つて、御出仕に成るゝ方がよう御座りませうなあ源六▲小アト「いか様わごりよのおしやる通りお勤なしにお下りに成るゝは、宜敷う御座りますまい▲シテ「身共もさう思ふ去ながら、小袖上下の用意がない▲アト「お小袖上下は、私が用意致て御座る▲シテ「何ぢや汝が用意したか▲アト「左様で御座る▲シテ「夫は出かいた、が、まだ烏帽子がないは▲小アト「いや烏帽子は私が用意致て御座る▲シテ「何ぢやそちが用意したか▲小アト「左様で御座る▲シテ「扨て扨て汝等は才覚な者共ぢや、先其烏帽子を見せい▲小アト「いやまだ烏帽子やに御座る▲シテ「是はいかな事ゑぼし屋にある物が何の役に立者ぢや、早ういて取てこい▲小アト「畏つて御座る▲シテ「急がしめ▲小アト「心得た{ト云て太鼓座へ入りくつろぎ居る}▲シテ「扨藤六、此烏帽子髪といふ者は、殊の外むつかしい者ぢやときいたが、誰にゆはせた者で有らう▲アト「兼て加様の儀も御座らうと存じて、私が習ふて置ました▲シテ「夫は出かいた去乍、殊の外隙のいる者ぢやときいた、太儀ながら是へよつてゆうてくれい▲アト「畏つて御座る{ト云て太鼓座へ取に入るシテはわき座に正面向すわるアトきやうりせん持出るシテのそばへつかつかとよるシテをどろきそり打なり}▲シテ「是は何とする▲アト「きやうりせんで御座る▲シテ「何きやうせんぢや▲アト「いや、きやうりせんと申て是を塗りませねば五体づけがつきませぬ▲シテ「夫ならば夫といはいで、手ごろな手木をもつてくるに依つて、某をちやうちやくするかと思うて、よい胆をつぶした、ぬらいで叶はぬ者なれば、是へ寄つてぬれ▲アト「畏つて御座る{シテ脇正面むくアト前へ行すわりつむりへ塗附るなり最始真直に塗るシテうつむく夫より頭を下げ乍ら左の方へつむりをやり頭を上げ又段々頭を上げ右の方へやり頭を上げ段々さげて真中へ頭をやり十分つむりさげてあをむく仕様甚だ六ケ敷しうしろになる筋かいむきいるアトもはずしこける此間無言なり扨アト又太鼓座へ行て葛桶のふたへ道具を入れて持出て五体づけへつば{*2}を吹かけ尤もひざ立して吹かけるを見て}▲シテ「やいやい夫は何をする▲アト「是は五体づけのあへ塩で御座る▲シテ「何ぢやあへ塩ぢや▲アト「はあ▲シテ「あへ塩はあへ塩で有らうがちと手むさい者ぢやなあ▲アト「あまりきれいな者では御座りませぬ去乍、是をぬりませねば五体づけがつきませぬ、▲シテ「夫ならば是非に及ぬ、左あ左あ是に寄つてゆうてくれい{ト云て足をなをすなり}▲アト「畏つて御座る{ト云てシテの前へ行すわる}▲シテ「扨汝はよい時分に習うて、此度の役に立つて一段の事ぢや▲アト「私もよい時に稽古を致て置まして、此度の御用に立まして加様な悦ばしい事は御座りませぬ{夫より髪へかゝる}▲シテ「扨明朝の儀式はどの様な事ぢや▲アト「先明朝は、毎もの通りお雑煮をお祝に成まして、扨初献は引渡しで冷酒で御座る、其後ははつたりとかんをしすまして、思召儘に召上らるゝ事で御座る{先初め鋏にて元結を切髪のわけ元に櫛をいれてときシテ窮屈がる心ありいろいろ可有扨引はづし}▲シテ「冷酒はひやゝかでわるからうに依つてはつたりとかんをして三盃計り呑うで出たらば、あたゝまつてよからう▲アト「左様で御座りまする▲シテ「さあさあゆうてくれい{ト云て足をなほす}▲アト「畏つて御座る{ト云て又前へ行ゆふ}▲シテ「扨小袖上下のもやうはどの様な事ぢや▲アト「先お小袖は、もへぎのおのしめに御定紋をつけまして、お上下は嘉珍の村がけに子持笹一をつけまして御紋{*3}は目出たう雪なづなで御座る{又窮屈がりて引はづし両人いろいろ仕様可有}▲シテ「もへぎの熨斗目に嘉珍の上下、是はよい取合で有うなあ▲アト「つゝと花やかなお取合で御座る▲シテ「さあさあゆうてくれい▲アト「畏つて御座る{ト云て又前へ行ゆう}▲シテ「扨烏帽子髪といふ物は、いかう窮屈な者ぢやなあ▲アト「殊の外むつかしい者で御座る▲シテ「云ても云ても汝はよい時分に稽古して、此度の役に立つて重畳な事ぢや▲アト「よい時分に稽古致て置きまして、此度のお間に合まして悦まする▲シテ「扨もうよいか▲アト「もそつとで御座る、御窮屈には御座りませうが、暫く御堪忍被成ませ▲シテ「いやいやせく事はない、ずい分と念をいれて、ならう事なれば早う仕舞ふてくれい▲アト「さらば宜敷う御座る▲シテ「よいか、扨も扨もたいくつをした事かな▲アト「御尤で御座る▲シテ「扨此源六はまだ帰らぬか▲アト「まだ帰りませぬ▲シテ「是は殊の外おそい事ぢや、汝は大儀乍見てこい▲アト「畏つて御座る{シテ正面むくアト太鼓座へ入りくつろぐ小アト立つて}▲小アト「物もう案内もう{如常ヱボシヤ出る}▲小アト「何と烏帽子は出来ましたか▲ヱボシヤ「成程出来ました進ぜう{ト云て太鼓座へいて烏帽子を持ていづる}▲ヱボシヤ「是々▲小アト「是は見事に出来ました去ながら、是はなぜに竹にさいて御座る▲ヱボシヤ「いやそれはまだ漆がもそつと干ぬに依つて、竹にさいて置きました、持つてお帰りなる間に{*4}漆が干まする▲小アト「是は尤もで御座る、もかう参る{如常暇乞するなり}▲小アト「なうなう嬉しや嬉しや先急いで帰らう、あの烏帽子屋は細工が上手で御座る美しうぬつた程に、是をお目にかけたらば、定て御満足被成るゝで有らう、何彼といふ内に是ぢや、申頼うだお方御座りまするか、烏帽子屋から源六が只今帰りました、はあ爰ではないさうな、是はいかな事、頼うだお方のお屋敷をわすれた、是は何とせうぞ▲アト「最早戻りさうな者ぢや、何をしている事ぢやしらぬまで、ゑい源六▲小アト「ゑい藤六わごりよはどれへ行くぞ▲アト「どれへ行といふ事が有者か余り汝がおそいに依つて迎へに来たは▲小アト「面目もない事が有る▲アト「夫は何事ぢや▲小アト「頼うだ人のおやかたをわすれた▲アト「何んぢや頼うだ人のお屋敷をわすれた▲小アト「中々▲アト「いや爰な者が、事にこそよれ、主の宿をわするゝと云ふ事が有者か、つれて戻らう来さしめ▲小アト「心得た▲アト「扨て扨てむさとした人ぢや、常々そなたは物覚えがわるいと云ふておしかり被成るゝ{*5}、ちとおたしなみやれ▲小アト「心得た▲アト「どこにか主の宿をわするゝと云ふ様な事が有者か▲小アト「でもわすれたればせう事がない▲アト「是々爰ぢや▲小アト「爰か▲アト「さあさあはいらしめ▲小アト「心得た▲アト「や申頼うだお方御座りまするか、唯今烏帽子屋から藤六、▲小アト「源六が▲二人「帰りました▲小アト「そりやしかるは▲アト「爰ではないさうな▲小アト「やつと参つたの《笑》{*6}▲アト「果合点のゆかぬ事ぢや▲小アト「まだ身共がましで有らう、身共についてきさしめ▲アト「心得た▲小アト「身共はとう出た事ぢやに依つてわすれまい者でもないが、おぬしはたつた今出てわするゝと云ふ事が有るものか▲アト「慥にあそこぢやと思ふたが▲小アト「是々爰ぢや、はいれはいれ▲アト「誠に爰ぢや▲小アト「さあさあはいらしめ▲アト「心得た、申々頼うだお方御座りますか、唯今烏帽子屋から藤六▲小アト「源六が▲二人「帰りました▲小アト「そりや又しかるは▲アト「是は爰でもないわ▲小アト「是は先何とした者で有らう▲アト「最早家々にしめかざりをしたに依つて、しるゝ事ではない▲小アト「何れどれがどれやらしれぬ▲アト「身共が思ふは、やうやう松囃子の時分ぢや、殊に頼うだお方は有興人ぢや、此通りを囃子物に作つて、囃して頼うだ人のおやかたを、尋うと思ふが何と有う▲小アト「是は一段とよからう、が、何と云ふてはやさう▲アト「果頼うだ人は信濃の国の住人ぢやに依つて、有様の通り信濃の国の住人住人、麻生殿の身内に、そこでそなたと身共が名を、藤六と源六が主の宿をわすれて、囃子物をしてゆく、と云てはやさう▲小アト「一段とよからう▲アト「先いふて見よう{ト云て両人云て見る但し囃子物をして行と引}▲小アト「是では跡がつまらぬ▲アト「此跡へ実もさあり、やよがりもそうよの{*7}といふ事をいれう▲小アト「是はよからう▲アト「さあさあはやせはやせ▲小アト「心得た{ト云て囃子物大小太鼓懸合はやす内シテうつる}▲シテ「《笑》両人の者が、某が宿をわすれて囃子物で尋る、是は出すば成まい、信濃の国の住人▲二人「そりやおこゑぢや▲シテ「麻生、をれが内の者に、藤六と源六が、げらが{*8}宿をわすれて、囃子物をしてくる、前代の曲事{藤六と源六がト囃子かゝるなり}▲シテ「出ばやとは思へ共、元ゆひはとつたり五体づけはつけたり、さながらずるもびらうなれば、爰なるまどからちよかと見て、出つ入つ、もだへた{主の宿をわすれてト囃子かくるなり}▲シテ「とかくの事はいるまい、早う来て餅くへ{実もさありト囃子しやぎりにて三人留ているなり}

校訂者注
 1:底本は、「信濃の国の住人」から始まり、「▲シテ「」はない
 2:底本は、「づば」。
 3:底本は、「御絞」。
 4:「お帰りなる間に」は、底本のまま。
 5:底本は、「おしかり成(なさ)るゝ」。
 6:底本は、「やつと参つたの笑(わらひ)」。
 7:「やよがりもそうよの」は、底本のまま。同様の表現は、前の「塗付」、後の「末広」等にもある。
 8:「げらが」は、底本のまま。