末広(すゑひろ)(脇狂言)
▲シテ「大果報の者。天下治まり、めでたい御代なれば、上々(うへうへ)の御事は申し上ぐるに及ばず、下々(したじた)までも、存ずる儘のめでたい御正月でござる。それに付き、いつも嘉例で節(せち)を致す。上座(しやうざ)にござる御方(おかた)へは、悉く末広がりを進上致す。のさ者を呼び出し、この由を申し附けうと存ずる。
{と云うて、呼び出す。大名狂言に同断。出るも常の如くなり。}何と、当年の様な、めでたい御正月はあるまいなあ。
▲アト「御意なさるゝ通リ、めでたい御正月でござる。
▲シテ「それに付いて、いつも嘉例で節(せち)をする。上座にござる御方へは、末広がりを進上致す。何と、その用意があるか。
▲アト「いや、末広がりと申す物は、覚えませぬ。
▲シテ「そちが覚えずば、ないであらう。何と、都にはあらうか。
▲アト「何が扨、都にないと申す事は、ござりますまい。
▲シテ「それならば、汝は大儀ながら、都へ登つて、末広がりを求めて来い。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「扨、好みがある。
▲アト「それは、いかやうの御好みでござる。
▲シテ「まづ、地紙良う、骨に磨きをあてゝ、要(かなめ)しつとゝして、ざれ絵ざつとあらうずるを、求めて来い。
▲アト「その段は、そつとも御気遣ひなされまするな。
{言ひ付けて、つめる、常の如し。大名狂言、すべて同じ事なり。}
▲アト「火急な事を仰せ付けられた。まづ、急いで参らう。誠に、某(それがし)は、いまだ都を見物致さぬ。この度を幸ひに、こゝかしこをゆるゆる見物致さうと存ずる。わあわあ、都近くと見えて、いかう賑(にぎ)やかな。さればこそ、都ぢや。又、田舎の家造(やづく)りとは違うて、軒と軒とを仲良さゝうに、ひつしりと建て並べた。扨も扨も、賑やかな事かな。わあ、身共ははつたと失念した事がある。かの末広がりといふ物は、何処許(どこもと)にあるやら、又どの様な物ぢやも存ぜぬ。この様な事ならば、篤(とく)と問うて来れば良かつたものを。遥々(はるばる)の所を、今更問ひには戻られまいし。何としたものであらう。やあやあやあやあ。《笑》さすが、都ぢや。売り買ふ物も、呼ばゝれば事が調(とゝの)ふと見えた。さらば、身共も呼ばゝつて参らう。しいしい、許(もと)へ。末広がり屋はござらぬか。末広がり買はう。なうなう、そこには末広がり屋はないか。何ぢや、ない。末広がり、買はう買はう。
▲小アト「洛中に、心の直(すぐ)にない者でござる。あれに、田舎者と見えて、何やらわつぱと申す。ちと、きやつにたづさはつて見ようと存ずる。なうなう、これこれ。
▲アト「この方(はう)の事でござるか。
▲小アト「成程、そなたの事ぢや。わごりよは、この広い街道を、何をわつぱと仰(お)しやるぞ。
▲アト「田舎者で、わつぱの法度(はつと)も存ぜいで申した。真平(まつぴら)御免あれ。
▲小アト「いやいや、わつぱが法度で咎(とが)むるではない。何を仰(お)しやる。事によつたらば、叶へておませうと云ふ事ぢや。
▲アト「それは忝うござる。私は、末広が欲しさに、呼ばはつてありきまする。
▲小アト「して、その末広がり屋を知つておゐやるか。
▲アト「これは又、都人とも覚えぬ事を仰せらるゝ。存ぜぬによつて、この様に呼ばつて歩(あり)きまする。
▲小アト「これは、身共が誤つた。すれば、そなたは仕合者(しあはせもの)ぢや。
▲アト「仕合(しあはせ)と申して、かう、見えた通りの者でござる。
▲小アト「いやいや、その様に、袖褄についての仕合(しあはせ)ではない。身共にお遇(あ)ひあつたが仕合といふ事ぢや。
▲アト「それはまた、どうした事でござる。
▲小アト「洛中に人多しといへども、そなたの尋ぬる末広がり屋の亭主は、身共でおりやる。
▲アト「扨は、こなたが末広がり屋の御亭主でござるか。
▲小アト「中々。
▲アト「すれば、私は仕合者(しあはせもの)でござる。それならば、末広がりが欲しうござる程に、見せて下され。
▲小アト「見せう程に、しばらくそれにお待ちあれ。
▲アト「心得ました。
{小アト、シテ柱の傍へ退(の)きて云ふ。}
▲小アト「田舎者をまんまと騙してはござれども、何を末広がりぢやと申して、売つて遣(つか)はさう物がござらぬ。こゝに、古い傘がござる。これを、面白う可笑しう申して、売つてやらうと存ずる。なうなう、おゐやるか。
▲アト「これに居まする。
▲小アト「さあさあ、末広がりを見せう。
▲アト「どれどれ。この様な物はいりませぬ。まづ、その末広がりを見せて下され。
▲小アト「はあ、扨はそなたは、真実、末広がりを知らぬが定(ぢやう)さうな。追つ付け、末広がりにして見せう。それそれそれ。何と、末広がりになつたではないか。
▲アト「誠に、これは末広がりになりました。扨、好みがござる。
▲小アト「それは、いかやうの御好みぢや。
▲アト「まづ、地紙良う、骨に磨きをあてゝ、要(かなめ)しつとゝして、絵は何にても、ざれ絵ざつとあらうずるを求めて来い、と申されました。
▲小アト「成程、御好みにも悉く合(あは)せてやらう。まづ、地紙良うといふは、この紙の事。美濃紙の上々を以て、天気の良いに張つたによつて、叩けばこれ、こんこん致す。
▲アト「誠に、こんこん致す。
▲小アト「骨に磨きをあてゝといふも、この骨の事。物の上手が、信濃木賊むくの葉を以て、七日七夜(なぬかなゝよ)磨いたによつて、撫(な)づればすべすべ致す。
▲アト「むう。
▲小アト「要(かなめ)しつとゝいふも、この要の事。これをかうして、何方(いづく)へさいて参つても、きつくりとも致す事ではおりない。
▲アト「扨、ざれ絵は何とでござる。
▲小アト「何ぢや、ざれ絵。
▲アト「中々。
▲小アト「暫くそれにお待ちあれ。
▲アト「心得ました。
{小アト、シテ柱の傍へ退(の)きて、}
▲小アト「このざれ絵に、ほうど困つた。何としたものであらうぞ。いや、致し様がござる。
{と云ひて、傘の柄(え)にて、「ヤツトナヤツトナ」と云ひて、アトに突きかゝるなり。}
▲アト「これは、何とさつしやる。
▲小アト「あまり、御騒ぎやるな。この柄で戯(ざ)るゝによつての戯れ柄。絵の事ではおりない。
▲アト「はあ、扨は、その柄で戯(ざ)るゝによつての戯れ柄、絵の事ではない、と仰せらるゝか。
▲小アト「中々。
▲アト「これは、好みにも悉く合ひました。求めませうが、代物(だいもつ)は何程でござる。
▲小アト「万疋でおりやる。
▲アト「それは、あまり高直(かうぢき)にござる。もそつと負けて下され。
▲小アト「いやいや、末広がりに限つて、負けはない。いやならば、おかしませ。
▲アト「それとても、求めませう。乃ち、代物は三條の大黒屋で渡しませう。
▲小アト「成程、大黒屋。存じてゐる。あれで請け取るであらう。
▲アト「もう、かう参る。
▲小アト「お行きあるか。
▲アト「中々。
▲二人「さらばさらば。
▲小アト「なうなう。まづ、お待ちあれ。
▲アト「何事でござる。
▲小アト「あまりそなたは気さくな買ひ手ぢや。添へをしておませう。
▲アト「忝うござる。これへ下され。
▲小アト「いやいや。その様に、手へ渡す物ではおりない。見ればそなたは、主(しゆ)持ちさうな。総じて、人の主といふ者は、機嫌の宜(よ)い時もあり、又悪(あ)しい時もあるものぢや。その機嫌の悪しい時、早速直る囃子物を教えておませうか、といふ事ぢや。
▲アト「それは忝うござる。どうぞ教へて下され。
▲小アト「もの、といふ事ぢや。
▲アト「何とでござるぞ。
▲小アト「傘をさすなる春日山、これも神の誓ひとて、人が傘をさすなら、我も傘をささうよ、げにもさあり、やようがりもさうよの。といふ事ぢや。
▲アト「成程、大方覚えました。忝うござる。も、かう参る。
▲小アト「何と、お行きあるか。
▲アト「中々。
▲小アト「良うおりやつた。
▲アト「はあ。なうなう、嬉しや嬉しや。ざつと埒があいた。まづ、急いで帰らう。誠に、隙(ひま)がいらうかと存じたれば、重畳の末広がり屋に出合うて、この様な嬉しい事はござらぬ。この由を、頼うだお方へ申し上げたらば、さぞ御満足なさるゝであらう。何かと云ふ内に、戻つた。まづ、この末広がりはこゝに置いて。申し、頼うだお方、ござりまするか。
{呼び出す。シテ出るも、常の如し。}
▲シテ「やれやれ、骨折や。して、末広がりを求めて来たか。
▲アト「成程、求めて参りました。
▲シテ「それは出かいた。急いで見せい。
▲アト「畏つてござる。
{と云ひて、傘取りに行き、持ち出て、}
▲アト「さらば、御目にかけませう。
▲シテ「どれどれ。はあ、汝は都へ登つて、雨に遭(あ)うたと見えて、傘を求めて来た。まづ、その末広がりを見せい。
{と云ひて、傘を捨てる。}
▲アト「はあ、扨は、お前にも、御存じないさうにござる。追つ付け、末広がりにしてお目にかけませう。それそれ。何と、末広がりになりませうが。
▲シテ「あれは、何をぬかしをる事ぢや。
▲アト「扨、御好みにも悉く合(あは)せました。まづ、地紙良うと申すは、この紙の事。美濃紙の上々を以て、天気の良いに張りましたによつて、叩けばこれ、こんこん致す。
▲シテ「きやつは気が違うたさうな。
▲アト「骨に磨きをあてゝと申すも、この骨の事。物の上手が、信濃木賊むくの葉を以て、七日七夜磨いたによつて、撫(な)づればこれ、すべすべ致す。
▲シテ「呆れもせぬ事をぬかしをる。
▲アト「要(かなめ)しつとゝしてと申すも、この要の事。これをかうして、いづくいづ方へ参つても、きつくりとも致す事ではござらぬ。
▲シテ「まだ、おりやらう。
▲アト「ざれ絵な。
▲シテ「扨々、憎いやつかな。
{アト、傘の柄にて、「ヤツトナヤツトナ」と云ひて、かゝる。}
▲シテ「これは、何としをる。
▲アト「あまり、御騒ぎなされまするな。この柄で戯(ざ)るゝによつての戯れ柄。絵の事ではない、と申しまする。
▲シテ「何ぢや、その柄で戯(ざ)るゝによつての戯れ柄。絵の事ではない。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「扨々、うつけたやつかな。知らずば、なぜに問うて行かぬ。末広がりといふは、根本(こんぽん)、扇の事ぢやわいやい。
▲アト「やあ、扨は、扇の事でござるか。
▲シテ「常の扇をしゞめの扇と云ふ。末のくはつと開いたを、末広がり。地紙良うといふは、この紙の事。骨に磨きをあてゝといふも、この骨。要(かなめ)しつとゝいふも、この要の事。戯(ざ)れ絵ざつとゝいふは、たとへば、表には秋の野の草尽(づく)しを描(か)き、裏には唐子(からこ)の戯(ざ)るゝ所などを描いたをこそ、戯(ざ)れ絵ざつとゝ云へ。何ぞや、その、古い傘の柄で戯るればとて、戯れ柄であらう事は。
▲アト「でも、都の者が、これを末広がりぢやと申したによつて、求めて参りました。
▲シテ「まだ、そのつれをぬかしをる。末広がりといふは、根本、扇の事ぢや。
▲アト「扇なら扇と、初めから云うたが良うござる。
▲シテ「扨々、憎いやつの。身が内には叶はぬ。出てうせう。
▲アト「あゝ。
▲シテ「まだそこに居るか。
▲アト「お許されませ。
▲シテ「あちへ行け。まだそこに居るか。
▲アト「お許されませ、お許されませ。
▲シテ「扨々、腹の立つ事かな。
▲アト「これはいかな事。以ての外の御機嫌ぢや。誠に、今良う見れば、御台所に沢山な傘ぢや。あゝ、身共は麁相(そさう)な事をした。これはまづ、何としたものであらうぞ。あゝ、さすが都の者ぢや。抜かば、只も抜かいで、御機嫌を直す囃子物を教へてくれた。何とやら云ふ事であつたが。おゝ、それそれ。傘をさすなる春日山、これも神の誓ひとて、人が傘をさすなら、我も傘をささうよ、げにもさあり、やよがりもさうよの。かうであつた。さらば、囃して、御機嫌を直さう。
{と云ひて、囃子物になる。二遍目より拍子踏む。段々面白く踏み、その内、シテうつり、向うへ出る事二度。出、下り、又三度目出て下る。直に立ちて扇広げ、太郎冠者を見て笑ひ、正面向く。尤も、大小太鼓、懸け合ふなり。}
▲シテ「太郎冠者が、都で抜かれて来をつて、某が機嫌を直さうと思うて、囃子物を致す。これは、出ずばなるまい。
{とて、片膝つき、右の肩を脱ぎて、}
▲シテ「いかにやいかに、太郎冠者。
▲アト「そりや、御声ぢや。
▲シテ「抜かれたは、腹が立てど、囃子物が面白い。まづ内へつと入つて、鰌(どじやう)の鮨(すし)をほ、頬張つて、諸白(もろはく)を呑めかし。
{アト、これも「神の誓ひ」より、又囃すなり。この間にシテ、順に小廻り。}
▲シテ「とかくの事はいるまい、早う来てさしかけ。
{と云ひて、扇にてアトを招き招き、はしりこぎ{*1}、アトは、「げにもさあり」と囃し、アトも走りこぎする。二人とも廻り、しやぎりにて留めて入るなり。シテは、「やあ」と云ひて、右の膝立つる。扇直し、中へやる。アト、傘すぼめ、かたげ、片膝つき、座る。シテ、扇をすぼめて入るなり。}
校訂者注
1:「はしりこぎ」は、「走りくらべ。かけくらべ」の意。
底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.)
末広(スエヒロ)(脇狂言)
▲シテ「大果報の者、天下納り目出たい御代なれば、上々の御事は申上るに及ばず、下々迄も存る儘の、目出たいお正月で御座る、夫に付毎も嘉例でせちを致す、上座に御座るお方へは悉く末広がりを進上致す、のさ者を呼出し、此由を申附うと存ずる{ト云ふて呼出す大名狂言に同断出るも如常なり}{*1}何と当年の様な、目出たいお正月は有まいなあ▲アト「御意なさるゝ通リ、目出たいお正月で御座る▲シテ「夫に付いて、いつも嘉例でせちをする、上座に御座るお方へは、末広がりを進上致す、何と其用意があるか▲アト「いや末広がりと申物は覚えませぬ、▲シテ「そちが覚ずばないであらう、何と都には有らうか、▲アト「何が扨て都にないと申事は御座りますまい▲シテ「夫ならば汝は大儀ながら、都へ登つて末広がりを求めてこい▲アト「畏つて御座る▲シテ「扨好みがある▲アト「夫はいか様のお好みで御座る▲シテ「先づ地紙よう、骨にみがきをあてゝ、かなめしつととして、ざれゑざつと有うずるを求て来い▲アト「其段はそつとも御気遣ひ成されまするな{言付てつめる如常大名狂言都て同事なり}▲アト「過急な事を仰付られた、先急いで参らう、誠に、某はいまだ都を見物致さぬ、此度を幸ひに、爰かしこをゆるゆる見物致さうと存ずる、わあわあ都近くと見えていかふ賑やかな、さればこそ都ぢや、又田舎の家造りとは違うて、軒と軒とを、中よさゝうにひつしりとたてならべた扨も扨も賑やかな事哉、わあ身共ははつたと失念した事がある、彼末広がりといふ物は、何処許にあるやら、又どの様な物ぢやも存ぜぬ、此様な事ならば、とくとゝうて来ればよかつた者を、はるばるの所を、今更とひには戻られまいし、何とした物で有う、やあやあやあやあ《笑》{*2}。さすが都ぢや、売買物も呼はれば事がとゝのふと見えた、さらば身共も呼はつて参らう、しいしい許へ、末広がり屋は御座らぬか、末広がり買ふ、なうなうそこには、末広がり屋はないか、何ぢやない、末広がりかはうかはう{*3}。▲小アト「洛中に心のすぐにない者で御座る、あれに田舎者と見へて、何やらわつぱと申す、ちときやつにたづさはつて見うと存ずる、なうなう是々▲アト「此方の事で御座るか▲小アト「なる程そなたの事ぢや、わごりよは此の広い街道を、何をわつぱとおしやるぞ▲アト「田舎者でわつぱの法度も存ぜいで申した、真平御免あれ▲小アト「いやいやわつぱが法度でとがむるではない何をおしやる事によつたらば、叶へてをませうと云ふ事ぢや▲アト「夫は忝う御座る、私は末広がほしさに、よばはつてありきまする▲小アト「してその末広がり屋をしつておいやるか▲アト「是は又都人共覚えぬ事を仰せらるゝ、存ぜぬによつて此様に呼ばつてありきまする▲小アト「是は身共があやまつた、すればそなたは仕合者ぢや▲アト「仕合と申てかう見えた通りの者で御座る▲小アト「いやいや其様に袖褄についての{*4}仕合ではない、身共にお遇あつたが仕合といふ事ぢや▲アト「夫はまたどうした事で御座る▲小アト「洛中に人おほしといへども、そなたの尋ぬる末広がりやの亭主は、身共でおりやる▲アト「扨はこなたが末広がりやの御亭主で御座るか▲小アト「中々▲アト「すれば私は仕合者で御座る、夫ならば末広がりがほしう御座る程に、見せて下され▲小アト「見せう程にしばらく夫におまちあれ▲アト「心得ました{小アトシテ柱のそばへのきて云}▲小アト「田舎者をまんまとだましては御座れ共、何を末広がりぢやと申て売つてつかはさう者が御座らぬ、爰にふるい傘が御座る、是を面白うおかしう申して売つてやらうと存ずる、なうなうおいやるか▲アト「是に居まする▲小アト「さあさあすゑ広がりを見せう▲アト「どれどれ、此様な物はいりませぬ、先其末広がりを見せて下され▲小アト「はあ扨はそなたは真実末広がりを知らぬが定さうな{*5}、追付末広がりにして見せう、それそれそれ、何と、末広がりになつたではないか▲アト「誠に是は末広がりに成ました、扨好みが御座る▲小アト「夫はいか様の御好みぢや▲アト「先地紙よう、骨にみがきをあてゝ、かなめしつととして、絵は何にてもざれ絵ざつと有うずるを、求めてこいと申されました▲小アト「成程お好みにも悉くあはせてやらう、先地紙ようといふは此紙の事、美濃紙の上々を以て、天気のよいにはつたに依つて、叩けば是こんこん致す▲アト「誠にこんこん致す▲小アト「骨にみがきをあてゝといふも此骨の事、物の上手が信濃木賊むくの葉を持つて、七日七夜みがひたに依つて、撫つればすべすべ致す▲アト「むう▲小アト「かなめしつとといふも此のかなめの事、是をかうして何方へさいて参つても、きつくり共致事ではをりない▲アト「扨ざれ絵は何んとで御座る▲小アト「何ぢやざれゑ▲アト「中々▲小アト「暫く夫にお待ちあれ▲アト「心得ました{小アトシテ柱のそばへのきて}▲小アト「此のざれ絵にほうど困つた、何とした物で有うぞ、いや致様が御座る{ト云て傘の柄にてヤツトナヤツトナと云てアトにつきかゝるなり}▲アト「是は何とさつしやる▲小アト「余りおさわぎやるな、此の柄でざるゝに依つてのざれ柄、絵の事ではおりない▲アト「はあ扨は其柄でざるゝに依つてのざれえ、絵の事ではないと仰せらるるか▲小アト「中々▲アト「是は好みにも悉くあひました、求めませうが代物は何程で御座る▲小アト「万疋でおりやる▲アト「夫は余り高直に御座る、もそつとまけて下され▲小アト「いやいや末広がりに限つてまけはない、いやならばおかしませ▲アト「夫とても求ませう、乃代物は、三條の大黒屋で渡しませう▲小アト「成程大黒屋存じている、あれで請取るで有らう▲アト「最うかう参る▲小アト「おゆきあるか▲アト「中々▲二人「さらばさらば▲小アト「なうなう先づお待ちあれ、▲アト「何事で御座る▲小アト「余りそなたは気さくな買手ぢや、添へをしておませう▲アト「忝う御座る是へ下され▲小アト「いやいや其様に手へ渡す物ではおりなひ、見ればそなたは主持さうな、総じて人の主といふ者は、機嫌の宜い時もあり、又あしい時もある者ぢや、其機嫌のあしい時、早速直る囃子物を教えておませうかと云ふ事ぢや▲アト「夫は忝う御座るどうぞ教て下され▲小アト「物といふ事ぢや▲アト「何とで御座るぞ▲小アト「かさをさすなる春日山、是も神の誓ひとて、人がかさをさすなら、我もかさをささうよ、実もさあり、やようがりもさうよの{*6}、といふ事ぢや▲アト「成程大方覚えました、忝なう御座るもかう参る▲小アト「何とおゆきあるか▲アト「中々▲小アト「ようおりやつた▲アト「はあなうなう嬉しや嬉しや、ざつと埒があいた、先急いで帰らう誠に、隙がいらうかと存じたれば、重畳の末広がりやに出合うて、此様な嬉しい事は御座らぬ、此由を頼うだお方へ申上げたらば、嘸御満足被成るゝで有う、何彼といふ内に戻つた、先此末広がりは爰にをいて、申頼うだお方御座りまするか{呼出すシテ出るも如常}▲シテ「やれやれ骨折や、して末広がりを求めて来たか▲アト「成程求めて参りました▲シテ「夫は出かいた急いで見せい▲アト「畏つて御座る{ト云て傘取に行持出て}▲アト「さらばお目にかけませう▲シテ「どれどれ、はあ汝は都へ登つて雨にあふたと見えて、傘を求めて来た、先其末広がりを見せい{ト云て傘をすてる}▲アト「はあ扨はお前にも御存じないさうに御座る追付け末広がりにしてお目にかけませう、それそれ何と末広がりに成りませうが▲シテ「あれは何をぬかしをる事ぢや▲アト「扨てお好みにも悉くあはせました、先地紙ようと申すは此紙の事、美濃紙の上々を以て、天気のよいに張りましたに依つて、叩けば是こんこん致す▲シテ「きやつは気が違うたさうな▲アト「骨にみがきをあてゝと申も此骨の事、物の上手が信濃木賊むくの葉をもつて、七日七夜みがいたに依つて、撫つれば是すべすべ致す▲シテ「あきれもせぬ事をぬかしをる▲アト「かなめしつとゝしてと申も此かなめの事是をかうしていづくいつ方へ参つても、きつくり共致す事では御座らぬ▲シテ「まだおりやらう▲アト「ざれえな▲シテ「扨て扨てにくいやつかな{アト傘の柄にてヤツトナヤツトナと云てかゝる}▲シテ「是は何としをる▲アト「余りおさはぎなされまするな、此柄でざるゝに依てのざれえ、絵の事ではないと申まする▲シテ「何ぢや其柄でざるゝによつてのざれえ、絵の事ではない▲アト「左様で御座る▲シテ「扨々うつけたやつかな、知らずばなぜにとうてゆかぬ、末広がりといふは根本扇の事ぢやはいやい▲アト「やあ、扨は扇の事で御座るか▲シテ「常の扇をしゞめの扇といふ、末のくはつとひらいたを末広がり、地紙ようといふは此紙の事、骨に見がきをあてゝといふも此骨、かなめしつとゝいふも此要の事、ざれえざつとゝいふは、仮令へば表には秋の野の艸づくしをかき、裏には唐子のざるゝ所抔をかいたをこそ、ざれ絵ざつとゝいへ、何んぞや其古い傘の柄でざるればとて、ざれ絵で有う事は▲アト「でも都の者が、是を末広がりぢやと申たに依つて、求めて参りました▲シテ「まだ其つれをぬかしをる、末広がりといふは、根本扇の事ぢや▲アト「扇なら扇と、初めからいふたがよう御座る▲シテ「扨々憎いやつの、身が内には叶はぬ、出てうせう▲アト「あゝ▲シテ「まだそこにおるか▲アト「御ゆるされませ▲シテ「あちへゆけ、まだそこにおるか▲アト「御ゆるされませ御ゆるされませ▲シテ「扨々腹の立事かな▲アト「是はいかな事、以ての外の御機嫌ぢや、誠に今よう見れば、お台所に沢山な傘ぢや、あゝ身共は麁相な事をした、是は先何とした物で有うぞ、あゝさすが都の者ぢや、ぬかば唯もぬかいで、御機嫌を直す囃子ものを教えてくれた、何とやらいふ事で有つたが、おゝ夫それ、かさをさすなるかすが山、是も神の誓ひ迚、人がかさをさすなら、我もかさをささうよ、実もさあり、やよがりもさうよの、かうで有つた、さらば囃して、御きげんを直さう{ト云て囃子物になる二遍目より拍子ふむ段々面白く踏其内シテうつり向ふへ出る事二度出下り又た三度目出て下る直に立て扇ひろげ太郎冠者を見て笑ひ正面向尤大小太鼓懸合なり}▲シテ「太郎冠者が都でぬかれて来をつて、某がきげんをなをさうと思うて、囃子物を致す、是は出ずば成るまい、{トテ片ひざつき右の肩をぬぎて}▲シテ「いかにやいかに太郎冠者、▲アト「そりやお声ぢや▲シテ「ぬかれたは腹がたてど、囃子物が面白い、先内へつと入つて、どじやうのすしをほ、ほばつて諸白をのめかし{アト是も神の誓ひより又はやすなり此の間にシテ順に小廻り}▲シテ「とかくの事はいるまい、早う来てさしかけ{ト云て扇にてアトを招き招きはしりごぎアトは実もさありと囃子アトも走りこぎする二人共廻りしやぎりにてとめて入るなりシテはやあと云て右のひざ立る扇直し中へやるアト傘すぼめ片げ片ひざつきすはるシテ扇をすぼめて入るなり}
校訂者注
1:底本は、「▲シテ「何と」。
2:底本は、「やあ(二字以上の繰り返し記号三つ)笑」。
3:底本は、「末広がりがはうがはう」。
4:底本は、「袖褄ついての仕合ではない」。
4:底本は、「袖褄ついての仕合ではない」。
5:底本は、「知らぬが誠(ぜう)さうな」。
6:「やようがりもさうよの」は、底本のまま。同様の表現は、前の「塗付」「麻生」にもある。
6:「やようがりもさうよの」は、底本のまま。同様の表現は、前の「塗付」「麻生」にもある。
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