粟田口(あはたぐち)(脇狂言)

▲シテ「隠れもない大名。この中(ぢゆう)、方々(はうばう)のお道具くらべは、夥(おびたゞ)しい事でござる。それにつき、何(いづ)れも何と思し召してやら、重ねては、粟田口を比べさせられうとの御事でござる。身が道具の内に、粟田口といふ物が、あるもないも存ぜぬ。まづ、のさ者を呼び出し、この由を尋ねうと存ずる。
{と云ひて、呼び出すも出るも、常の如し。}
この中(ぢゆう)、方々のお道具くらべは、夥しい事ではないか。
▲アト「御意なさるゝ通り、事長(ことちやう)じた儀でござる。
▲シテ「扨、何(いづ)れも何と思し召さるゝやら、重ねては、粟田口をくらべさせられうとの御事ぢや。身が道具の内に、粟田口があるか。
▲アト「御道具は悉く存じてをりまするが、粟田口と申す物は、覚えませぬ。
▲シテ「汝が知らずば、ないであらう。何と、都にはあらうか。
▲アト「何が扨、都にないと申す事は、ござりますまい。
▲シテ「それならば、汝は太儀ながら、都へ登つて粟田口を求めて来い。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「紙に包む程の物なれども、いかう高直(たかね)な物と聞いた。値(あたひ)にはかまはぬ。随分念を入れて、良い粟田口を求めて来い。
▲アト「その段は、ちつとも御気遣ひなされますな。
{これより云ひ付け、つめて、受ける。扨、しかじか云ひて廻り、都に着いて、粟田口を尋ね呼ばゝる。小アト出て、心の直(すぐ)になき者、段々あつて、袖褄についての仕合(しあはせ)など云ふまで、悉く「末広」等に同じ事なり。この類、同断。}
▲小アト「洛中に人多しといへども、そなたの尋ぬる粟田口は、身共でおりやる。
▲アト「扨は、こなたが粟田口でござるか。
▲小アト「中々。
▲アト「すれば、私は仕合者(しあはせもの)でござる。さりながら、人を粟田口と云ふには、子細がござるか。
▲小アト「成程、子細ある。都の東に、粟田口といふ在所がある。この氏(うぢ)生まれの者を、悉く粟田口と云ふ。この中(ぢゆう)は、方々の御大名に粟田口がはやつて、皆召し抱へられた。また某は、都の重宝にとあつて、残し置かれたれども、あまりそなたが欲しさうに仰(お)しやるによつて、売られても行かうかといふ事でおりやる。
▲アト「謂(いは)れを聞けば、尤でござる。それならば求めませうが、代物(しろもの)は何程でござる。
▲小アト「万疋でおりやる。
▲アト「それは、余り高うござる。もそつと負けて下され。
▲小アト「いやいや、粟田口に限つて負けはない。嫌ならば、おかしませ。
▲アト「それとても求めませう。乃ち、代物は三條の大黒屋で渡しませう。
▲小アト「成程。大黒屋、存じて居る。あれで受け取るであらう。
▲アト「して、今でも来て下されうか。
▲小アト「何時(なんどき)なりとも、参りませう。
▲アト「それならば、さあさあ、おりやれ。
▲小アト「心得ました。
▲アト「扨、粟田口を何(いづ)れも御重宝なさるゝは、どうした事でおりやる。
▲小アト「天下治まり、めでたい御代なれば、左様の事はござあるまいかなれども、もし、人の御語らひによつて、軍陣等の御加勢の御時、この粟田口一人(いちにん)、御馬の先へ召し連れらるれば、満々たる敵も、夏の蚊や蠅を大団扇で扇(あふ)ぐがごとく、雪に水をかくるがごとく、片端からめつきめつきと滅却致すによつて、何(いづ)れも御重宝なさるゝ事でござる。
▲アト「扨々、それは重宝な事ぢや。その由を頼うだお方へ申し上げたらば、さぞ御満足なさるゝであらう。
▲小アト「かう参るからは、こなたを寄親殿(よりおやどの)と頼みまする。万事、引き廻して下され。
▲アト「その段は、そつとも気遣ひをしやるな。
▲小アト「して、まだ程は遠うござるか。
▲アト「いや、何かと云ふ内に、これぢや。そなたを同道した通りを申し上げう程に、暫くそれにお待ちあれ。
▲小アト「心得ました。
{主を呼び出す。出るも常の如し。}
▲シテ「やれやれ、骨折(ほねをり)や。して、粟田口を求めて来たか。
▲アト「成程、求めて参つてござる。
▲シテ「それは出かした。急いで見せい。
▲アト「いや、その様に、お手へあげまする物ではござりませぬ。
▲シテ「何ぢや。手へくるゝ物でもない。
▲アト「はあ。
▲シテ「して、粟田口は何ぢや。
▲アト「人でござる。
▲シテ「やあ、何。人ぢや。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「これは、凡慮の外(ほか)な物ぢやなあ。
▲アト「はあ。
▲シテ「して又、人を粟田口と云ふには、何ぞ子細があるか。
▲アト「成程、子細がござる。都の東に、粟田口と申す在所がござる。この氏生まれの者を、悉く粟田口と申す。この中(ぢゆう)は、方々の御大名に粟田口がはやつて、皆召し抱へられてござる。又、私が求めて参つた粟田口は、都の重宝にとあつて、残し置かれたを、いろいろと申して、やうやうと求めて参つてござる。
▲シテ「謂(いは)れを聞けば尤ぢや。が、粟田口は、人ぢやよなあ。
▲アト「人でござる。
▲シテ「あれへ行つて云はうは、粟田口に、遥々(はるばる)の所を太儀にこそあれ。さうあれば、こゝに粟田口の書いた物がある。これに引き合(あは)せて見たいが、逢うてくれうかと云へ。
▲アト「畏つてござる。なうなう、粟田口に、遥々(はるばる)の所を太儀にこそあれ。さうあれば、こゝに粟田口の書いた物がある。これに引き合(あは)せて見たいが、逢うてくれうかと仰せらるゝ。
▲小アト「いかやうにも逢ひませうと仰せられて下され。
▲アト「心得た。いかやうにも逢ひませうと申しまする。
▲シテ「何ぢや。いか様にも逢はうと云ふか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「それならば、まづ、その床机をくれい。
▲アト「畏つてござる。
{と云ひて、葛桶を取りに入り、持ち出て、腰をかけさせるなり。}
はあ。お床机。
▲シテ「違棚(ちがひだな)に、粟田口の書いた物がある。取つて来い。
▲アト「畏つてござる。
{と云ひて、書紙を取りに入り、持ち出る。尤、右の手に持つなり。}
これでござりまするか。
▲シテ「おゝ、これぢやこれぢや。常にはいらぬが、書いた物は重宝ぢやなあ。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「何々。粟田口の、粟田口の。太郎冠者。
▲アト「はあ。
▲シテ「これは、何ぢやいなあ。
{アト、少し伸びて、のぞき見て、}
▲アト「されば、何でござりませうぞ。
▲シテ「読めぬか。
▲アト「読めませぬ。
▲シテ「真(しん)で書いてあるによつて、読めぬなあ。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「粟田口の、書の事、かいな。
▲アト「何(いづ)れ、書の事でがなござりませう。
▲シテ「まあ、書の事よ。一つ、藤林(とうりん)・藤馬(とうま)とて、二流(ふたなが)れあるべし。何(いづ)れの流れぢやと問うて来い。
▲アト「畏つてござる。なうなう、藤林・藤馬とて、二流れあるが、何(いづ)れの流れぢやと仰せらるゝ。
▲小アト「藤馬の尉(じよう)が流れぢやと仰せられて下され。
▲アト「心得た。藤馬の尉が流れぢやと申しまする。
▲シテ「何ぢや、藤馬の尉が流れぢやと云ふか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「おゝ、こゝにあるわ。
▲アト「ござりますか。
▲シテ「但し、藤馬の尉は、惣領筋なり。《笑》。やいやい、きやつは惣領筋ぢやといやい。
▲アト「これは、御重宝でござる。
▲シテ「良い粟田口を求めて来た。
▲アト「はあ。
▲シテ「鎺元(はゞきもと)黒かるべし。やい、はゞき元が黒いかと聞いて来い。
▲アト「畏つてござる。はゞき元が黒いかと仰せらるゝ。
▲小アト「常に黒い脛巾(はゞき)を好(す)いて致す。今致してをる脛巾も、随分黒いと云うて下され。
▲アト「心得た。
{と云ひて、小アトの云ふ通り、シテに云ふなり。}
▲シテ「すれば、これも書に合うた。銘なきは偽物(にせもの)多し。やいやい、銘があるか尋ねて来い。
▲アト「畏つてござる。なうなう、めいがあるかと仰せらるゝ。
▲小アト「上京に姉がござる。下京に妹がござる。これに何(いづ)れも、女の子を一人づゝ持つてござる。これは姪でござらうかと、仰せられい。
{アト受けて、委細右の通り、シテに云ふ。}
▲シテ「何ぢや、姉と妹との子に女か。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「女々。おゝ、めいともめいとも。これは早、正(まさ)しいめいぢや。おゝ、こゝにあるわ。但し、両めいは、上作物(じやうさくもの)なり。《笑》。やいやい、きやつは上作物ぢやといやい。
▲アト「良い粟田口でござる。
▲シテ「良い粟田口を求めて来たなあ。
▲アト「はあ。
▲シテ「古身(ふるみ)たるべし。身が古いか尋ねて来い。
▲アト「畏つてござる。身が古いかと仰せらるゝ。
▲小アト「生まれてこの方、湯風呂を致さぬ。随分、身は古いと云うて下され。
▲アト「心得た。申し上げまする。
▲シテ「聞いた聞いた。
▲アト「お聞きなされましたか。
▲シテ「何ぢや、生まれてこの方、湯風呂をせぬと云ふか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「すれば、もの{*1}、産湯(うぶゆ)も浴びぬであらう。
▲アト「定めて、左様でござりませう。
▲シテ「あゝ、古い古い。古い身ぢやなあ。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「が、ちと手むさい気味ぢや。
▲アト「あまり綺麗にはござりませぬ。
▲シテ「でも、書に合うたが重宝ぢや。
▲アト「はあ。
▲シテ「寸は不同。これは尋ぬるにも及ばぬ。して又、この粟田口を、何(いづ)れも御重宝なさるゝは、どうした事ぢや。
▲アト「その儀も路次で尋ねてござれば、天下治まりめでたい御代なれば、左様の事はござあるまいなれども、もし人の御語らひによつて、軍陣等の御加勢の御時、この粟田口一人、御馬の先へ召し連れらるれば、満々たる敵も夏の蚊や蠅を、大団扇で扇(あふ)ぐがごとく、雪に水をかくるがごとく、片端からめつきめつきと滅却致すによつて、何(いづ)れも御重宝なさるゝと申しまする。
▲シテ「あの、きやつ独りしてか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「扨々、それは重宝な者ぢや。その様な事を知つたらば、疾(と)うにも抱(かゝ)へうものを。ちと油断をしたなあ。
▲アト「何(いづ)れ、御油断でござりました。
▲アト「あれへ行(い)て云はうには、粟田口に、書に悉く合うて満足致す。さうあれば、山一つあなたへ行きたいが、来てくれうかと云うて尋ねい。
▲アト「畏つてござる。なうなう、粟田口に、書に悉く合うて御満足なさるゝ。さうあれば、山一つあなたへ行きたいが、来てくれうかと仰せらるゝ。
▲小アト「いづくまでも御供致しませうと、仰せられて下され。
▲アト「心得た。いづくまでも御供致さうと申しまする。
▲シテ「まづ、その太刀を持て。
▲アト「畏つてござる。
{アトへ書紙を渡す。受け取りて、又、太刀持つて出づる。}
▲アト「御太刀、持ちましてござる。
▲シテ「扨、汝も供に連れうなれども、きやつ一人あれば、千騎万騎にむかうと有る。その上汝は、都へ登つて草臥(くたび)れたであらう。行(い)て休め。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「粟田口をこれへ出せ。
▲アト「心得ました。なうなう、粟田口。あれへお出やれ。
▲小アト「心得ました。
▲アト「粟田口。
▲シテ「むゝ、粟田口。
▲小アト「はあ。
▲シテ「書に悉く合うて満足した。さうあれば、山一つあなたへ行かうと云へば、来てくれうとあつて、祝着に存ずる。
▲小アト「いづくまでも、御供致しませう。
▲シテ「まづ、お立ちあれ。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「惣じて、この粟田口といふは、そなたの。
▲小アト「在名(ざいめい)でござる。
▲シテ「藤馬の尉といふは。
▲小アト「名(な)でござる。
▲シテ「名(な)か。
▲小アト「はあ。
▲シテ「すれば、粟田口と呼うでも、藤馬の尉と呼うでも。
▲小アト「答へませう。
▲シテ「何ぢや、答へう。
▲小アト「はあ。
▲シテ「はつしはつしと答へて面白い。路次すがら、呼うで参らうと存ずる。なうなう、粟田口。名を覚えるために、路次すがら呼うで行かう程に、答へておくりやれ。
▲小アト「心得ました。
▲シテ「まづ、この太刀を持つておくりやれ。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「さあさあ、粟田口。おりやれ。
▲小アト「参りまする。
▲シテ「藤馬の尉は、参るか。
▲小アト「参じまする。
▲シテ「粟田口。
▲小アト「おまへに。
▲シテ「そこにか。
▲小アト「はあ。
▲シテ「藤馬の尉は参るか。
▲小アト「参じまする。
▲シテ「粟田口。
▲小アト「御前に。
▲シテ「藤馬の尉。
▲小アト「これに候。
{段々早く呼びつめて、色々仕様あるべし。}
▲シテ「扨も扨も、面白い事かな。いや、なうなう。身を軽うして呼ぶ程に、これも持つておくりあれ。
▲小アト「心得ました。
{と云ひて、小さ刀抜きて持たす。}
▲シテ「粟田口。
▲小アト「おまへに候。
▲シテ「藤馬の尉。
▲小アト「これに候。
▲シテ「粟田口。
▲小アト「御前に。
▲シテ「藤馬の尉。
▲小アト「これに候。
▲シテ「粟田口。
{と云ひて、飛んでだます気味。小アト、その通りに受くる。一遍廻りて橋掛かりへ行きて呼ぶ。同じく答ふる。又走りて舞台へ出づ。色々仕様あるべし。嬉しがりて笑ふ内に。}
▲小アト「一段の仕合(しあはせ)ぢや。急いですかさうと存ずる。
{と云ひて、入るなり。}
▲シテ「扨も扨も、面白い事かな。粟田口。藤馬の尉。なうなう、そこ許(もと)へ、粟田口は鞘走(さやばし)らぬか。なうなう、そこ許へ、藤馬の尉は錆付(さびつ)かぬか。粟田口粟田口。行き来の人にとうまの尉。太刀も刀も、吸はれたり。今の粟田口をよくよく思へば、都の誑(たら)しめにてありけるよなあ。南無三宝。しないたり。
{と云ひて、手を打ち、留めて入るなり。}

校訂者注
 1:この「もの」は、「言いよどんだとき、あるいは、間(ま)をとったりするために、話の間にはさんで用いる語」(日本国語大辞典)。

底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.

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粟田口(アワタグチ)(脇狂言)

▲シテ{*1}「隠れもない大名、此中方々のお道具くらべは、おびたゞしい事で御座る、夫に付、いづれも何と思召てやら、重ては粟田口を比べさせられうとのお事で御座る、身が道具の内に、粟田口といふ物が、有もないも存ぜぬ、先のさ者を呼出し、此由を尋うと存ずる{ト云て呼出すも出も如常}{*2}此中方々のお道具くらべは、おびたゞしい事ではないか▲アト「御意被成るゝ通り、事ちやうじた儀で御座る▲シテ「扨いづれも何と思召るゝやら、重ては粟田口をくらべさせられうとのお事ぢや、身が道具の内に粟田口があるか▲アト「お道具は悉く存てをりまするが、粟田口と申物は覚えませぬ▲シテ「汝がしらずばないで有う、何と都には有うか▲アト「何が扨都にないと申事は御座りますまい▲シテ「夫ならば汝は太儀ながら、都へ登つて粟田口を求めてこい▲アト「畏つて御座る▲シテ「紙につゝむ程の物なれ共、いかう高直な物ときいたあたいにはかまはぬ、ずい分念をいれて、よい粟田口を求めてこい▲アト「其段はちつともお気づかひなされますな、{是より云付つめて請る扨しかじか云て廻り都について粟田口を尋よばはる小アト出て心の直になき者段々有つて袖妻に付ての仕合抔悉く末広等に同事なり此類同断}▲小アト「洛中に人多しといへ共、そなたの尋る粟田口は、身共でおりやる▲アト「扨てはこなたが粟田口で御座るか▲小アト「中々▲アト「すれば私は仕合せ者で御座る、去ながら、人を粟田口といふには、子細が御座るか▲小アト「成程子細ある都の東に、粟田口と云ふ在所が有る、此氏生れの者を悉く粟田口と云ふ、此中は方々のお大名に、粟田口がはやつて、皆召抱られた、また某は、都の重宝にとあつて、残しおかれたれ共、余りそなたがほしさうにおしやるに依つて、売られても行うかといふ事でおりやる▲アト「謂をきけば尤で御座る、夫ならば求めませうが、代物は何程で御座る▲小アト「万疋でおりやる▲アト「夫は余り高う御座る、もそつとまけて下され▲小アト「いやいや粟田口に限つて負はない、いやならばおかしませ▲アト「夫迚も求めませう、乃代物は三條の大黒やで渡しませう▲小アト「成程大黒や存じて居る、あれで請取で有う▲アト「して今でもきて下されうか▲小アト「何時成共参ませう▲アト「夫ならばさあさあおりやれ▲小アト「心得ました▲アト「扨粟田口を何も御重宝なさるゝは、どうした事でおりやる▲小アト「天下納まり目出たい御代なれば、左様の事は御座有まいかなれ共、もし人のおかたらひに依つて、軍陣等の御加勢の御時、此の粟田口一人、御馬の先へ召つれらるれば、満々たる敵も夏の蚊や蠅を、大団扇であふぐがごとく、雪に水をかくるがごとく、片端から、めつきめつきとめつきやぐ致{*3}に依つて何も御重宝なさるゝ事で御座る▲アト「扨て扨て夫は重宝な事ぢや、其の由を頼うだお方{*4}へ申上たらば、嘸御満足なさるゝで有う▲小アト「かう参るからはこなたを、寄り親殿と頼みまする、万事引廻して下され▲アト「其段はそつとも気づかいをしやるな▲小アト「してまだ程は遠う御座るか▲アト「いや何彼といふ内に是ぢや、そなたを同道した通りを申上う程に、暫く夫におまちあれ▲小アト「心得ました{主を呼出す出るも如常}▲シテ「やれやれ骨折や、して粟田口を求めて来たか▲アト「成程求めて参つて御座る▲シテ「夫は出かした急いで見せい▲アト「いや其様にお手へあげまする物では御座りませぬ、▲シテ「何ぢや手へくるゝ物でもない▲アト「はあ▲シテ「して粟田口は何んぢや▲アト「人で御座る▲シテ「やあ何人ぢや、▲アト「左様で御座る▲シテ「是は凡慮の外な物ぢやなあ▲アト「ハア▲シテ「して又人を粟田口といふには、何ぞ仔細が有か▲アト「成程仔細が御座る、都の東に、粟田口と申在所が御座る、此氏生れの者を悉く粟田口と申、此中は方々のお大名に、粟田口がはやつて、皆召抱られて御座る、又私が求めて参つたあはた口は、都の重宝にと有つて、のこしをかれたを、いろいろと申て、漸と求めて参つて御座る▲シテ「謂をきけば尤ぢや、が、粟田口は人ぢやよなあ▲アト「人で御座る▲シテ「あれへいつていはうは、粟田口にはるばるの所を太儀にこそあれ、さうあれば、爰に粟田口のかいた物がある、是に引合せて見たいが、あうてくれうかといへ▲アト「畏つて御座る、なうなう、あはた口にはるばるの所を太儀にこそあれ、さうあれば爰にあはた口の書た物がある、是に引合せて見たいが、あうてくれうかと仰せらるゝ▲小アト「いか様にも、あいませうと仰られて下され▲アト「心得た、いか様にもあいませうと申まする▲シテ「何ぢや、いか様にも逢うといふか▲アト「左様で御座る▲シテ「夫ならば、先其床机をくれい▲アト「畏つて御座る{ト云て葛桶を取に入持出て腰をかけさせるなり}{*5}はあお床机▲シテ「違棚に、粟田口のかいた物がある、取つてこい▲アト「畏つて御座る{ト云て書紙を取に入持出る尤右の手に持つ也}{*6}是で御座りまするか▲シテ「おゝ是ぢや是ぢや、常にはいらぬが、かいた物は重宝ぢやなあ▲アト「左様で御座る▲シテ「何々粟田口の、粟田口の、太郎冠者▲アト「はあ▲シテ「是は何ぢやいなあ{アト少しのびてのぞき見て}▲アト「されば何で御座りませうぞ▲シテ「よめぬか▲アト「よめませぬ▲シテ「真で書てあるに依てよめぬなあ▲アト「左様で御座る▲シテ「粟田口の、書の事かいな▲アト「いづれ書の事でがな御座りませう▲シテ「まあ書の事よ、ひとつ藤りん藤馬とてふた流れあるべし、いづれの流れぢやと問うてこい{*7}▲アト「畏つて御座る、なうなう、藤りん藤馬迚、ふた流れあるが、いづれの流れぢやと仰せらるゝ▲小アト「藤馬の尉が流れぢやと仰られて下され▲アト「心得た藤馬の尉が流れぢやと申まする▲シテ「何ぢや藤馬の尉が流れぢやと云か▲アト「左様で御座る▲シテ「おゝ爰にあるは▲アト「御座りますか▲シテ「但し藤馬の尉は、惣領筋なり、《笑》{*8}、やいやい、きやつは惣領筋ぢやといやい▲アト「是は御重宝で御座る▲シテ「よいあわだ口を求めて来た▲アト「はあ▲シテ「はゞき元黒かるべし、やい、はゞき元が黒いかときいてこい▲アト「畏つて御座る、はゞき元が黒いかと仰せらるゝ▲小アト「常に黒いはばきをすいて致す、今致ておるはゞきも、ずい分黒いというて下され▲アト「心得た{ト云て小アトの云通りシテに云なり}▲シテ「すれば是も書に合うた、銘なきは似せ物多し、やいやい、めいが有か尋ねてこい▲アト「畏つて御座る、なうなう、銘があるかと仰せらるゝ▲小アト「上京に姉が御座る、下京に妹が御座る、是にいづれも、をんなの子を一人宛持つて御座る、是はめいで御座らうかと、仰せられい、{アト請て委細右の通りシテに云}▲シテ「何ぢや姉と妹との子に女か▲アト「左様で御座る▲シテ「女々、をゝめいともめいとも、是は早正しいめいぢや、おゝ爰に有は、但し、両名は、上作物なり、《笑》{*9}やいやい、きやつは上作物ぢやといやい▲アト「よい粟田口で御座る▲シテ「よい粟田口を求めて来たなあ▲アト「はあ▲シテ「ふる身たるべし、身が古いか尋ねてこい▲アト「畏つて御座る、身が古いかと仰せらるゝ▲小アト「生れて此方湯風呂を致さぬ、ずい分身は古いというて下され▲アト「心得た、申上まする▲シテ「きいたきいた▲アト「おきゝなされましたか▲シテ「何ぢや生れて此方湯風呂をせぬといふか▲アト「左様で御座る▲シテ「すれば物{*10}、うぶ湯もあびぬで有う▲アト「定めて左様で御座りませう▲シテ「あゝふるい古い、古い身ぢやなあ▲アト「左様で御座る▲シテ「が、ちと手むさい気味ぢや▲アト「余りきれいには御座りませぬ▲シテ「でも書に合うたが重宝ぢや▲アト「はあ▲シテ「寸は不同、是れは尋るにも及ぬ、して又此あはだ口を、何も御重宝なさるゝは、どうした事ぢや▲アト「其儀も路次で尋て御座れば、天下納り目出たい御代なれば、左様の事は御座あるまいなれ共、もし人のおかたらいに依つて、軍陣等の御加勢の御時、此粟田口一人{*11}、お馬の先へ召つれらるれば、満々たる敵も夏の蚊や蠅を、大団扇であふぐがごとく、雪に水をかくるがごとく、片端からめつきめつきとめつきやく致に依つて、何も御重宝なさるゝと申まする▲シテ「あのきやつ独りしてか▲アト「左様で御座る▲シテ「扨々夫は重宝な者ぢや、其様な事をしつたらば、とうにも抱う物を、ちと油断をしたなあ▲アト「何れ御油断で御座りました{*12}▲アト「あれへいていはうには、粟田口に、書に悉く合うて満足致す、さうあれば山一つあなたへ行たいが、きてくれうかというて尋ねい、▲アト「畏つて御座る、なうなう、粟田口に、書に悉くあうて御満足なさるゝ、さうあれば山一つあなたへ行たいが、来てくれうかと仰せらるゝ▲小アト「いつく迄も御供致ませうと仰られて下され▲アト「心得た、いつく迄もお供致さうと申まする▲シテ「先其の太刀をもて▲アト「畏つて御座る、{アトへ書紙を渡す請取て又太刀持ていづる}▲アト「お太刀持まして御座る▲シテ「扨汝も供につれうなれ共、きやつ一人あれば、千騎万騎にむかうと有る、其上汝は、都へ登つて草臥たで有う、いて休め▲アト「畏つて御座る▲シテ「粟田口を是へ出せ▲アト「心得ました、なうなう、あはだ口あれへお出やれ▲小アト「心得ました▲アト「粟田口▲シテ「むゝあはだ口▲小アト「はあ▲シテ「書に悉くあうて満足した、さうあれば、山一つあなたへゆかうといへば、来てくれうと有つて祝着に存る▲小アト「いづく迄もお供致ませう▲シテ「先お立あれ▲小アト「畏つて御座る▲シテ「惣じて此あはだ口と云はそなたの▲小アト「在名で御座る▲シテ「藤馬の尉といふは▲小アト「名で御座る▲シテ「名か▲小アト「はあ▲シテ「すれば粟田口とようでも藤馬の尉とようでも▲小アト「答へませう▲シテ「何ぢや答う▲小アト「はあ▲シテ「はつしはつしと答て面白い、路次すがら、呼うで参らうと存ずる、なうなうあはだ口、名を覚る為に、路次すがら呼うで行う程に、答ておくりやれ▲小アト「心得ました▲シテ「先此太刀を持つておくりやれ▲小アト「畏つて御座る▲シテ「さあさああはだ口おりやれ▲小アト「参りまする▲シテ「藤馬の尉は、参るか▲小アト「参じまする▲シテ「粟田口▲小アト「おまへに▲シテ「そこにか▲小アト「はあ▲シテ「藤馬の尉は参るか▲小アト「参じまする▲シテ「粟田口▲小アト「お前に▲シテ「藤馬の尉▲小アト「是に候{段々早く呼ひつめて色々仕様有べし}▲シテ「扨も扨も面白い事かな、いやなうなう、身をかるうして呼ぶ程に、是も持つておくりあれ▲小アト「心得ました{ト云て小さ刀{*13}抜て持たす}▲シテ「粟田口{*14}▲小アト「おまへに候▲シテ「藤馬の尉▲小アト「是に候▲シテ「粟田口▲小アト「御まへに▲シテ「藤馬の尉▲小アト「是に候▲シテ「あはた口{ト云て飛でだます気味小アト其通りに請る一遍廻りて橋掛りへ行て呼同敷答る又はしりて舞台へ出色々仕様有るべし嬉しがりて笑ふ内に}▲小アト「一段の仕合ぢや、急いですかさうと存る{ト云て入るなり}▲シテ「扨も扨も面白い事かな、粟田口、藤馬の尉、なうなう、そこ許へ粟田口はさやばしらぬか、なうなう、そこ許へ藤馬の尉はさびつかぬか{*15}、粟田口粟田口、ゆききの人にとうまの尉、太刀も刀も、すはれたり、今の粟田口をよくよく思へば、都のたらしめにてありけるよなア、南無三宝、しないたり。{ト云て手を打留ているなり}

校訂者注
 1:底本に、「▲シテ「」はない。
 2:底本は、「▲シテ「此中方々の」。
 3:底本は、「めつきや(二字以上の繰り返し記号濁点付)致」。
 4:底本は、「頼うたお方」。
 5:底本は、「▲アト「はあお床机」。
 6:底本は、「▲アト「是で」。
 7:底本は、「いづれの流れぢやとうて問うてこい」。
 8:底本は、「惣領筋なり、笑(わらひ)、」。
 9:底本は、「上作物なり、笑やいやい」。
 10:「すれば物」は、底本のまま。
 11:底本は、「此あはた粟田口一人」。
 12:底本は、「御座りしました」。
 13:底本は、「少さ刀」。
 14:底本は、「▲シテ「粟田あはたぐち」。
 15:底本は、「さびつらぬか」。