文相撲(ふみずまふ)(脇狂言)
▲シテ「隠れもない大名。かやうに過は申せども、
{これより「今参」に同断。シテ名乗る。過ぎて、アト呼び出す。出るも常の如し。「上下の街道へ行け」と云ひ付くる。アト、しかじかあつて、街道に着きて、下に居る。小アト出る。名乗る。しかじかの内、アト見付け、呼びかけ、せりふあり、抱へる。しかじかあつて、国を問ひ、芸を問ふまで同断。「今参」の通り、違はず。}
▲アト「扨も扨も、万能に達した人ぢや。その由を、頼うだお方へ申し上げたらば、さぞ御満足なさるゝであらう。
▲小アト「かう参るからは、こなたを寄り親殿と頼みまする。万事、引き廻して下され。
▲アト「その段は、そつとも気遣ひをしやるな。
▲小アト「して、まだ程は遠うござるか。
▲アト「いや、何かと云ふ内に、これぢや。そなたを同道した通りを申し上げう程に、しばらくそれにお待ちあれ。
▲小アト「心得ました。
{アト、シテを呼び出す。出るも常の如し。この類、大名狂言いづれも同断。}
▲シテ「やれやれ、骨折りや。して、新参の者を抱へて来たか。
▲アト「成程、抱へて参つてござる。
▲シテ「どれに置いた。
▲アト「御門前に待たせておきました。
▲シテ「おゝ、それ。大名と云はうものを。
▲アト「成程、御大名と申してござる。
▲シテ「何、云うた。
▲アト「はあ。
▲シテ「それは出かした。惣じて、始めある事は終りまであると云ふ。きやつが聞く様に、過を云はう。汝は大勢(たいぜい)に答へい。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「やいやい、誰(た)そをるかやい。
▲アト「はあ。
▲シテ「床机をくれい。
▲アト「はあ。
▲シテ「床机床机。
▲アト「はあ、御床机。
{と云ひて、葛桶を出し、シテに腰かけさせる。}
▲シテ「何と、今のを聞かうか。
▲アト「御大音(ごたいおん)でござつた程に、承りませう。
▲シテ「あれへ行(い)て云はうは、身が今、広間へ出た。何が、大名の事なれば、目が参らば早速、奉公が済まうず。又、目が参らずば、五日(ごにつ)や十日(じふにち)は逗留であらうなどゝ云うて、汝が分として、深がらせ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「新参の者を、これへ出せ。
▲アト「はあ。なうなう。何と、今の御声をお聞きあつたか。
▲小アト「成程、承つてござる。御大名と見えて、大きな御声でござつた。
▲アト「この辺りの御大名でおりやる。
▲小アト「さう見えてござる。
▲アト「扨、今、頼うだお方が御広間へ出させられた。何が、御大名の事なれば、御目が参らば早速、奉公が済まうず。又、御目が参らずば、五日や十日は逗留であらう程に、さう心得さしませ。
▲小アト「何が扨、奉公の習ひでござる。そつとも苦しうござらぬ。
▲アト「まづ、あれへお出やれ。
▲小アト「心得ました。
▲シテ「やいやい、誰(た)そをるかやい。
▲アト「はあ。
▲シテ「この中(ぢゆう)、奥から登つた五十疋の馬を引き出(だ)いて、湯洗ひさせい。
▲アト「はあ。
▲シテ「又、若党達に、只居られうより、矢の根を磨かれいと云へ。
▲アト「はあ。
▲シテ「あゝ、今日は良い天気ぢやなあ。
▲アト「良い天気でござる。
▲シテ「暮れが良からう。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「若い衆が鞠を召されう。かゝりの掃除をして、水を打てと云へ。
▲アト「はあ。
▲シテ「ゑい。
▲アト「新座の者。
▲シテ「きやつか。
▲アト「きやつでござる。
▲シテ「扨々、利根さうなやつぢやなあ。
▲アト「つゝと利根さうな者でござる。
▲シテ「身共を見て、ちやつと立つたは、出かしをつたな。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「きやつが国は何処ぢや。
▲アト「坂東方ぢやと申しまする。
▲シテ「坂東方と聞けば、国ゆかしい。何も芸はないか。
▲アト「その儀も路次で尋ねてござれば、弓・鞠・庖丁・碁・双六・馬の伏せ起こし・やつと参つたを致すと申しまする。
▲シテ「あの、きやつ一人してか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「扨々、万能に達したやつぢや。が、身が内にいらぬ芸がある。
▲アト「何(いづ)れも、御重宝かと存じまする。
▲シテ「はて。馬も持たぬに、馬の伏せ起こしが、何の役に立つものぢや。猫の伏せ起こし《笑》{*1}。
▲アト「しい。聞きますわいなう。
▲シテ「馬の伏せ起こし。いち重宝ぢやなあ。
▲アト「御重宝でござる。
▲シテ「中にも、得た芸は何ぢやと云うて、尋ねて来い。
▲アト「畏つてござる。なうなう、中にも得た芸は何ぢや、と仰せらるゝ。
▲小アト「相撲を得て取ると云うて下され。
▲アト「心得た。相撲を得て取る、と申しまする。
▲シテ「何ぢや、相撲を得て取ると云ふか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「いよいよ、身に生まれ合うたやつかな。身共が相撲を好けば、きやつまで相撲を好くと云ふか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「相撲を見よう程に、これへ出て取れと云へ。
▲アト「畏つてござる。相撲を見よう程に、これへ出て取れと仰せらるゝ。
▲小アト「相手をお出しなされい、と仰せられい。
▲アト「心得た。相手をお出しなされう、と申しまする。
▲シテ「はて、一人取れと云へ。
▲アト「一人では、勝負が知れますまい。
▲シテ「何(いづ)れ、一人では勝負が知れまいな。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「それならば、誰と取らせたものであらうぞ。
▲アト「誰が良うござりませうぞ。
▲シテ「風呂を焚くどうきんと取らせうか。
▲アト「あれは、年が寄りまして、え取りますまい。
▲シテ「何(いづ)れ、膝が流れてえ取るまいなあ。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「誰彼と云はうより、汝取れ。
▲アト「いや、私はつひに相撲を取つた事がござりませぬ。
▲シテ「何ぢや、相撲を取つた事がない。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「はて、相撲は見たし、相手はなし。是非に及ばぬ。身共が取らう。
▲アト「あの、御前(おまへ)がお取りなされまするか。
▲シテ「あれへ行(い)て云はうは、相撲の者、あまた抱へたれども、今日は方々へ使ひに遣(つか)はして、一人も宿に居ぬ。さうあれば、手合(てあひ)を見んため身共が取るが、相手になるかと云うて、尋ねて来い。
▲アト「畏つてござる。なうなう、相撲の者あまた抱へさせられたれども、今日は方々へ遣(つか)はされて一人も宿に居ぬ。さうあれば、手合(てあひ)を見んため、頼うだお方が取らうと仰せらるゝが、御相手におなりあるか。
▲小アト「相手にはかまひませぬ。どなたとなりとも取らう、と云うて下され。
▲アト「心得た。相手にはかまひませぬ。どなたとなりとも取らうと申しまする。
▲シテ「あの、身共とも取らうと云ふか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「すれば、きやつが相撲のたけも知れた。
▲アト「それは、どうした事でござる。
▲シテ「はて、身共に勝つて、誰が扶持をするものぢや。負くれば猶の事。と云うて、云ひ掛かつた事ぢや。取らずばなるまい。身拵へをしてこれへ出よと云へ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「汝もこれへ寄つて、身拵へをさせい。
▲アト「畏つてござる。なうなう、身拵へをして、あれへお出やれ。
▲小アト「心得ました。
{と云ひて、太鼓座へ行きて、肩衣をとる。但し、腰帯はその儘置くなり。シテ、笛座にて素袍・熨斗目脱ぐ。太郎冠者、手伝ふなり。}
▲シテ「拵へが良くば、これへ出よと云へ。
▲アト「心得ました。身拵へが良くば、あれへお出やれ。
▲小アト「心得ました。
{と云ひて、出るなり。}
▲シテ「太郎冠者、行司をせい。
▲アト「畏つてござる。
{と云ひて、扇を広げて行司をする。小アト、片膝立つる。シテ、立つてゐる。}
▲アト「お手つ。
{と云ひて、扇を向うへ出し、すぼめ、差す。いつもの通り。二人、「いや」と云ひて、手合(てあひ)する。小アト寄り、手をばちばちと叩く。シテ、目を廻す。アト、取り切つて、}
▲アト「申し、頼うだお方、何となされました。
▲シテ「誰ぢや。
▲アト「太郎冠者でござる。
▲シテ「何ぢや、太郎冠者ぢや。
▲アト「はあ。
▲シテ「扨も扨も、早い相撲かな。やつと手合(てあひ)をするといなや、身共が鼻がばちばちと云ふかと思へば、目がくらくらとした。相撲の手はあまた知つてゐるが、今のは何といふ手ぢやと云うて、尋ねて来い。
▲アト「畏つてござる。なうなう、相撲の手はあまた御存じぢやが、今のは何といふ手ぢや、と仰せらるゝ。
▲小アト「総じて、相撲の手は四十八手とは申せども、くだけば八十八手にも取りまする。今のは、坂東方にはやる、まがくしといふ手ぢや、と云うて下され。
▲アト「心得た。申し上げます。総じて相撲の手は四十八手とは申せども、くだけば八十八手にも取りまする。今のは坂東方にはやる、まがくしと申す手ぢや、と申しまする。
▲シテ「何ぢや、まがくし。
▲アト「はあ。
▲シテ「聞き慣れぬ手ぢやなあ。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「それ。いつぞや、伯父者人(をぢゞやびと)からくれられた相撲の書が、違ひ棚にある程に、取つて来い。
▲アト「畏つてござる。これでござりますか。
▲シテ「これぢやこれぢや。常にはいらぬが、書いたものは重宝ぢやなあ。
{と云ひて、ほこりを払うてをろすなり。}
▲アト「御重宝でござる。
▲シテ「何々。相撲の、相撲の。太郎冠者。
▲アト「はあ。
▲シテ「これは、何ぢやいなあ。
▲アト「されば、何でござりまするぞ。
▲シテ「読めぬか。
▲アト「読めませぬ。
▲シテ「真(しん)で書いてあるによつて、読めぬなあ。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「相撲の書の事かいな。
▲アト「書の事でかなござりませう。
▲シテ「まあ、書の事よ。一つ、まがくし。丁々と打つべし。はあ、これは、ある手ぢや。
▲アト「ある手でござりまするか。
▲シテ「初手を食はしをつた。
▲アト「早い事を致しました。
▲シテ「その時、顔をちやつと引くべし。ゑゝ、今の時、顔を引けば、身共が勝ちになるものを。残り多い事をしたなあ。
▲アト「御残念をなされました。
▲シテ「引くべし。うつ開き、左を取つて右へ廻し、右を取つて左へ廻し、左股にあげて、づでいどう。もう一番取らうと云へ。
▲アト「畏つてござる。もう一番取らうと仰せらるゝ。あれへお出やれ。
▲小アト「心得ました。
▲シテ「又、行司をせい。
▲アト「畏つてござる。
{と云ひて、又、行司する。二人、手合(てあひ)する。小アト、ばちばちと叩き、シテの傍へ寄る。シテ、「やあやあ」と、両手にて打ち込む。小アト逃げる。打ち込む事、三度なり。三度目、}
▲シテ「お手つ、参つたの。{と云うて、飛ぶなり。}
▲シテ「勝つたぞ勝つたぞ。
▲アト「あゝ、お出かしなされました、お出かしなされました。
▲シテ「申し。太郎冠者殿、太郎冠者殿。
▲アト「何事でおりやる。
▲小アト「相撲の手はあまた存じてをりますが、今の様に、拳(こぶし)をもつて張らせらるゝは何と申す手ぢや、と仰せられて下され。
▲アト「心得た。申し上げまする、相撲の手はあまた存じてゐますが、今の様に拳(こぶし)をもつて張らせらるゝは、何と申す手ぢやと申しまする。
▲シテ「不審、尤ぢや。総じて、相撲の手は四十八手とは云へども、くだけば百手・二百手にも取る。今のは、上方にはやる張り相撲。こつつもはつつも{*2}、取りたい様に取れと云へ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「なるまいと云へ、なるまいと云へ{*3}。
▲アト「はあ。なうなう、相撲の手は四十八手とは申せども、くだけば百手・二百手にも取る。今のは上方にはやる張り相撲。こつつもはつつも、取りたい様に取れと仰せらるゝ。
▲小アト「それならば、もう一番取らうと云うて下され。
▲アト「心得た。もう一番取らうと申しまする。
▲シテ「何ぢや、まだ取らうと云ふか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「きやつは、定業(ぢやうごふ)が煽(あふ)つ{*4}と見えた。今度取つたらば、空へは雲の原まで打ち上げうず。地へは三尺打ち込まう。さうあれば、きやつが命があるまい。国元へ言ひ置く事があらば、言ひ置け。届けて取らせうと云へ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「あゝ、こりやこりや。同じくは置けと云へ、置けと云へ。
▲アト「心得ました。なうなう、今のをお聞きあつたか。
▲小アト「成程、承つてござる。国元を出る時分、かねてその覚悟でござる。あはれ、頼うだお方の御手にかゝつて死にますれば、本望でござる。どうあつても、もう一番取らうと云うて下され。
▲アト「心得た。どうあつても取らうと申しまする。
▲シテ「何ぢや、どうあつても取らうと云ふか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「はて、憤りの強いやつぢやなあ。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「是非に及ばぬ。取らずばなるまい。これへ出よと云へ。
▲アト「畏つてござる。さあさあ、又あれへお出やれ。
▲小アト「心得ました。
▲アト「又、私が行司を致しませう。
▲シテ「又、行司をせい。
{アト、行司をして座に着くなり。扨、二人、手合(てあひ)をして飛び違ふる事二度。三度目、拳(こぶし)にて打ち込む所を引つ外(ぱず)し、腕(かひな)を引き廻し、小股を取る時に、}
▲シテ「あゝ、まづ待て待て。
▲小アト「何と、待てとは。
▲シテ「何々。相撲の、
{と云ひて、書を出して読む所を、「お手つ、参つた」と云ひて打ちこかし、入るなり。扨、シテ、痛がりて起きるなり。}
▲シテ「相撲の書、何の役にも立たぬ。
{と云ひて、引き裂き捨てゝ、扨、太郎冠者を見て、}
▲シテ「やい、そこなやつ。
▲アト「はあ。
▲シテ「おのれは、それに何をしてゐる。
▲アト「私は、相撲を拝見して居りまする。
▲シテ「何ぢや、相撲を拝見して居る。
▲アト「はあ。
▲シテ「一番まゐらう。
▲アト「いや、私は太郎冠者でござる。
{「やあやあ」と云ひて引き廻し、「お手つ、参つた」と云ひて、小股とりて打ちこかし、「勝つたぞ勝つたぞ」と云ひて入るなり。}
校訂者注
1:「猫の伏せ起こし《笑》」は意味不詳。「猫」は或いは隠語か。
2:底本は、「こつつもはつつも」は意味不詳。或いは「伐つつも張つつも」か。
3:「(取る事は)なるまい」の意。再戦を望まないシテは、太郎冠者に断らせようとしている。
4:「定業が煽つ」は、「執念深く生まれ付いた」の意。
底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.)
文相撲(フミズモオ)(脇狂言)
▲シテ「隠れもない大名、斯様に過は申せ共{是より今参に同断シテ名乗過てアト呼出す出も如常上下の街道へゆけと云付るアトしかじか有つて街道につきて下に居る小アト出る名乗しかじかの内アト見付呼かけせりふ有抱へるしかじか有つて国を問芸を問ふまで同断今参の通り不違}▲アト「扨ても扨ても万能に達した人ぢや、其の由を頼うだお方へ申上たらば、嘸御満足なさるゝで有らう▲小アト「かう参るからは、こなたを寄り親殿と頼みまする、万事引廻して下され▲アト「其段はそつ共気遣ひをしやるな▲小アト「してまだ程はとほう御座るか▲アト「いや何彼という内に是ぢや、そなたを同道した通りを申上う程に、しばらく夫にお待ちあれ▲小アト「心得ました{アト、シテを呼出す出るも如常此類大名狂言いづれも同断}▲シテ「やれやれ骨折や、して新参の者を抱て来たか▲アト「成程抱て参つて御座る▲シテ「どれにおいた▲アト「御門前にまたせておきました▲シテ「おゝ夫、大名といふものを▲アト「成程お大名と申して御座る▲シテ「何いふた▲アト「はあ▲シテ「それは出かした、惣じて始め有る事は、終りまで有ると云ふ、きやつがきく様に、過をいはう、汝は大ぜいに答へい▲アト「畏つて御座る▲シテ「やいやいたそおるかやい▲アト「はあ▲シテ「床机をくれい▲アト「はあ▲シテ「床机床机▲アト「はあお床机{ト云て葛桶を出シテに腰かけさせる}▲シテ「何と今のをきかうか▲アト「御大音で御座つた程に、承りませう▲シテ「あれへいていはうは、身が今広間へ出た、何が大名の事なれば、目が参らば早速奉公が済まうず、又目が参らずば、五日や十日は逗留であらう抔というて、汝が分としてふかがらせ▲アト「畏つて御座る▲シテ「新参の者を是へだせ▲アト「はあ、なうなう今のお声をおきゝあつたか▲小アト「成程承つて御座る、お大名と見へて大きなお声で御座つた▲アト「此辺りのお大名でおりやる▲小アト「さう見得て御座る▲アト「扨て今頼うだお方が、お広間へ出させられた、何が大名の事なれば、お目が参らば{*1}早速奉公がすまうず、又おめが参らずば、五日や十日は逗留で有う程に、そう心得さしませ▲小アト「何が扨て奉公のならひで御座る、そつとも苦敷御座らぬ▲アト「先づあれへお出やれ▲小アト「心得ました▲シテ「やいやいたそおるかやい▲アト「はあ▲シテ「此中奥から登つた、五十疋の馬を引出いて湯洗ひさせい▲アト「はあ▲シテ「又若党達に唯居られうより、矢の根を磨かれいといへ▲アト「はあ▲シテ「あゝけふはよい天気ぢやなあ▲アト「よい天気で御座る▲シテ「暮がよからう▲アト「さ様で御座る▲シテ「若い衆が鞠を召されう、かゝりの掃除をして水をうてといへ▲アト「はあ▲シテ「ゑい▲アト「新座の者▲シテ「きやつか▲アト「きやつで御座る▲シテ「扨て扨て利根さうなやつぢやなあ▲アト「つゝと利根さうな者で御座る▲シテ「身共を見て、ちやつと立つたは出かしおつたな▲アト「左様で御座る▲シテ「きやつが国は何処ぢや▲アト「坂東方ぢやと申まする▲シテ「坂東方ときけば国ゆかしい、何も芸はないか▲アト「其儀も路次で尋て御座れば、弓鞠庖丁、碁、双六、馬のふせおこし、やつと参つたを致と申まする▲シテ「あのきやつ独りしてか▲アト「左様で御座る▲シテ「扨て扨て万能に達したやつぢや、が、身が内にいらぬ芸が有る▲アト「何れも御重宝かと存まする▲シテ「果、馬も持たぬに馬のふせおこしが何んの役にたつものぢや、猫のふせおこし、《笑》{*2}▲アト「しい、きゝますわいのう▲シテ「馬のふせおこし、いち重宝ぢやなあ▲アト「御重宝で御座る▲シテ「中にも得た芸は、何ぢやと云て尋てこい、▲アト「畏つて御座る、なうなう、中にも得た芸は、何んぢやと仰せらるゝ▲小アト「相撲を得てとるというて下され▲アト「心得た、すまふを得てとると申まする▲シテ「何ぢや相撲を得てとると云ふか▲アト「左様で御座る▲シテ「いよいよ身に生れ合たやつかな、身共がすまふを好けば{*3}、きやつまで相撲をすくといふか▲アト「左様で御座る▲シテ「相撲を見う程に、是へ出てとれといへ▲アト「畏つて御座る、すまふを見う程に、是へ出てとれと仰らるゝ▲小アト「相手をお出し被成いと仰せられい▲アト「心得た相手をお出しなされうと申まする▲シテ「果ひとりとれといへ{*4}▲アト{*5}「独では勝負が知れますまい▲シテ「何れ独りでは勝負が知れまいな▲アト「左様で御座る▲シテ「夫ならば誰とゝらせたもので有うぞ▲アト「誰がよう御座りませうぞ▲シテ「風呂をたく、どうきんとゝらせうか▲アト「あれは年が寄りまして、得取りますまい▲シテ「何れひざが流れて得取まいなあ▲アト「左様で御座る▲シテ「誰彼といはうより、汝とれ▲アト「いや私はつひに相撲をとつた事が御座りませぬ▲シテ「何ぢやすまふをとつた事がない▲アト「左様で御座る▲シテ「果相撲は見たし相手はなし、是非に及ばぬ身共がとらう▲アト「あのお前が、おとりなされまするか▲シテ「あれへいていはうは、相撲の者あまた抱たれ共、けふは方々へ使につかはして、一人も宿に居ぬ、さうあれば手合を見ん為、身共が取るが、相手になるかというて尋ねてこひ▲アト「畏つて御座る、なうなう相撲の者あまた抱させられたれ共、けふは方々へつかはされて、一人も宿にゐぬ、さうあれば手合を見ん為め、頼うだお方{*6}がとらうと仰せらるゝが、お相手におなりあるか▲小アト「相手にはかまひませぬ、どなたとなり共、取らうというて下され▲アト「心得た、相手にはかまひませぬ、どなたとなり共取らうと申まする▲シテ「あの身共ともとらうといふか▲アト「左様で御座る▲シテ「すればきやつが角力のたけもしれた▲アト「夫はどうした事で御座る▲シテ「果身に勝て誰が扶持をする者ぢや、負くれば猶の事、と云て云ひ掛つた事ぢや、とらずばなるまい身拵をして是へ出よといへ▲アト「畏つて御座る▲シテ「汝も是へ寄て身拵をさせい▲アト「畏て御座る、なうなう身拵をして、あれへお出やれ▲小アト「心得ました{ト云て太鼓座へ行て肩衣をとる但し腰帯は其儘置也シテ笛座にて素袍熨斗目ぬぐ太郎冠者手伝なり}▲シテ「拵がよくば、是へ出よといへ▲アト「心得ました、身拵がよくばあれへお出やれ▲小アト「心得ました{ト云て出るなり}▲シテ「太郎冠者行司をせい▲アト「畏つて御座る{ト云て扇をひろげて行司をする小アト片ひざ立つるシテ立つている}▲アト「おてつ{ト云て扇を向うへ出しすぼめさす毎もの通り二人いやと云て手合する小アトより手をばちばちとたゝくシテ目を廻すアトとりきつて}▲アト「申頼うだお方、何んとなされました▲シテ「誰ぢや▲アト「太郎冠者で御座る▲シテ「何ぢや太郎冠者ぢや▲アト「はあ▲シテ「扨も扨も早い相撲かな、やつと手合をするといなや、身共が鼻がばちばちというかとおもへば、目がくらくらとした、すまふの手はあまたしつているが、今のは何といふ手ぢやと云うて尋ねてこい▲アト「畏つて御座る、なうなう、相撲の手はあまた御存ぢやが、今のは何といふ手ぢやと仰せらるゝ▲小アト「総じて角力の手は、四拾八手とは申せ共、くだけば八十八手にも取まする、今のは坂東方にはやる、まがくしといふ手ぢやと、いうて下され▲アト「心得た申上ます、総じて角力の手は、四十八手とは申せ共、くだけば八十八手にもとりまする、今のは坂東方にはやる、まがくしと申手ぢやと申まする▲シテ「何ぢや、まがくし{*7}▲アト「はあ▲シテ「きゝなれぬ手ぢやなあ▲アト「左様で御座る▲シテ「夫いつぞや、伯父者人からくれられた、相撲の書が違棚に有程に、取つてこい▲アト「畏つて御座る、是で御座りますか▲シテ「是ぢや是ぢや、常にはいらぬが、書たものは重宝ぢやなあ{ト云てほこりを払うてをろすなり}▲アト「御重宝で御座る▲シテ「何々すまふの、すまふの、太郎冠者▲アト「はあ▲シテ「是は何ぢやいなあ▲アト「左れば何で御座りまするぞ▲シテ「よめぬか▲アト「よめませぬ▲シテ「真でかいて有に依つてよめぬなあ▲アト「左様で御座る▲シテ「相撲の書の事かいな▲アト「書の事でかな御座りませう▲シテ「まあ書の事よ、ひとつまがくし、丁々と打べし、はあ是は有手ぢや▲アト「ある手で御座りまするか▲シテ「初手をくはしをつた▲アト「早い事を致ました▲シテ「其時顔をちやつとひくべし、ゑゝ今の時顔をひけば、身共が勝になる者を、残り多い事をしたなあ▲アト「御残念をなされました▲シテ「引べし、うつぴらき、左りをとつて右へ廻し、右をとつて左へ廻し、左またにあげて、づでいどう、最一番取らうといへ▲アト「畏つて御座る、最一番取うと仰せらるゝ、あれへお出やれ▲小アト「心得ました▲シテ「又行司をせい▲アト「畏つて御座る{ト云て又行司する二人手合する小アトばちばちとたゝきシテのそばへ寄るシテやあやあと両手にて打込小アトにげる打込事三度也三度目}▲シテ「おてつ参つたの{ト云ふて飛なり}▲シテ「勝つたぞ勝つたぞ▲アト「あゝお出かしなされましたお出かしなされました▲シテ「申太郎冠者殿太郎冠者殿▲アト「何事でおりやる▲小アト「すまふの手はあまた存じておりますが、今の様にこぶしを持てはらせらるゝは、何と申手ぢやと、仰せられて下され▲アト「心得た、申上まする、角力の手はあまた存てゐますが、今の様に小ぶしをもつてはらせらるゝは、何と申手ぢやと申まする▲シテ「ふしん尤もぢや、総じて相撲の手は四十八手とはいへ共、くだけば百手二百手にもとる、今のは上み方にはやる、はりずまふ、こつつもはつつも取たい様にとれといへ▲アト「畏つて御座る▲シテ「なるまいといへなるまいといへ▲アト「はあ、なうなう、すまふの手は四十八手とは申せ共、くだけば百手二百手にもとる、今のは上み方にはやるはりずまふ、こつつもはつつも、取たい様にとれと仰せらるゝ▲小アト「夫ならば、最一番取らうというて下され▲アト「心得た、最一番取らうと申まする▲シテ「何ぢやまだ取らうと云ふか▲アト「左様で御座る▲シテ「きやつは定業があをつと見得た、今度とつたらば、空へは雲のはらまで打上うず、地へは三尺打込う、さうあればきやつが命が有まい、国許へ言置事が有らば言おけ、届てとらせうといへ▲アト「畏つて御座る▲シテ「あゝこりやこりや、同敷は、おけといへ同敷は、おけといへ▲小アト「心得ました、なうなう、今のをおきゝあつたか▲小アト「成程承つて御座る、国許を出る時分、兼て其覚悟で御座る、あはれ頼うだお方のお手にかゝつて死にますれば、本望で御座る、どうあつても、最一番とらうというて下され▲アト「心得た、どうあつても取うと申まする▲シテ「何ぢやどうあつてもとらうと言か▲アト「左様で御座る▲シテ「果いきどほりのつよいやつぢやなあ▲アト「左様で御座る▲シテ「是非に及ぬ、とらずば成まい、是へ出よといへ▲アト「畏つて御座る、さあさあ又あれへお出やれ▲小アト「心得ました▲アト「又私が行司を致ませう▲シテ「又行司をせい{アト行司をして座に着くなり扨二人手合をして飛違る事二度三度目小節にて打込所を引はずしかいなを引廻はし小股をとるときに}▲シテ「あゝ先まてまて▲小アト「何とまてとは▲シテ「何々すまふの{ト云て書を出してよむ所をおてつ参つたと云て打こかし入るなり扨シテいたがりておきる也}▲シテ「すまふの書、何の役にもたゝぬ{ト云て引さきすてゝ扨太郎冠者を見て}▲シテ「やいそこなやつ▲アト「はあ▲シテ「おのれは夫に何をしてゐる▲アト「私は相撲を拝見して居りまする▲シテ「何ぢや角力を拝見して居る▲アト「はあ▲シテ「一番まゐらう▲アト「いや私は太郎冠者で御座る{やあやあと云て引廻しをてつ参つたと云て小股とりて打こかし勝つたぞ勝つたぞと云て入るなり}
校訂者注
1:底本は、「お目が参れば」。
2:底本は、「猫のふせおこし、笑ふ」。
3:底本は、「すまふを好けは」。
4:底本は、「ひとりとれいへ」。
5:底本は、「▲小アト「独では」。
6:底本は、「頼うたお方」。
7:底本は、「何あまがくし」。
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