墨塗(スミヌリ)(脇狂言)

▲シテ「はるか遠国の大名。
{これより「入間川」初めに同断。「永々在京」より、アトを呼び出す。せりふ色々、「入間川」に同断。}
扨、かの人の方へは、暇乞(いとまご)ひに行(い)たものであらうか。何とせうぞ。
▲アト「これは、お出なさらずばなりますまい。
▲シテ「身共もさう思ふ。それならば行かう程に、さあさあ、来い来い。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「扨、この間は、久しう音信(おとづれ)もせなんだによつて、さぞ、かしましう云ふであらう。
▲アト「御意の通りでござる。又、その上に、御暇の出ました事をお聞きなされましたらば、肝をつぶさせらるゝでござらう。
▲シテ「それは汝、取り繕うて、良い様に云うてくれい。
▲アト「あゝ、心元ない事でござる。
▲シテ「いや、何かと云ふ内に、これぢや。身共は直(すぐ)に奥へ通らう程に、その通りを云へ。
▲アト「畏つてござる。
{シテ、脇座へ行き、床机に腰をかける。}
▲アト「申し申し、ござりまするか。
▲女「表に聞き慣れた声がするが。えい、太郎冠者。珍らしや珍らしや。ようこそわせた。扨、頼うだお方は、御機嫌は良いか。
▲アト「いや、今日(こんにち)はこれへお出でゞござる。
▲女「何ぢや、お出でなされたか。
▲アト「早、直(すぐ)に奥へお通りなされてござる。
▲女「やれやれ、嬉しや嬉しや。早う行(い)て、御目にかゝらう。ゑい、殿様にも御機嫌さうで、おめでたうござる。
▲シテ「成程、身共も随分、変る事もない。
▲女「余り久しう、音信さへござらぬによつて、もはや、御心も変りましたかと存じて、案じてをりました。
▲シテ「尤でおりやる。この中(ぢゆう)は、何かと隙入(ひまい)りがあつて、存じながら不沙汰をした事でおりやる。
▲女「お出でなさるゝ事がなりませずば、お文なりとも、又、太郎冠者なりとも、下されさうなものぢやと存じて、たんと恨みましたに。今日(けふ)はどち風が吹きまして、お出でなされてござる。
▲シテ「今日(けふ)来るは、別の事でもない。ちとそなたに、云はねばならぬ事があつて来た。
▲女「それは心元ない。何事でござる。
▲シテ「やい、太郎冠者。今のを云うてくれい。
▲アト「これは、御前(おまへ)仰せられませ。
▲シテ「まづ汝、云うてくれい。
▲アト「はて、御前(おまへ)仰せられませ。
▲女「申し申し、何事でござるぞいの。
▲シテ「あゝ、云はねばならず、云ふも気の毒。汝、云うてくるれば良いに。
▲女「人に物を思はす様に仰せられずとも、早う仰せられい。
▲シテ「是非とも云はねばならぬ事ぢや。思ひ切つて云はう。身共も永々の在京であつたに、首尾良う御暇を下されて、近日、本国へ罷り下る。それ故今日(けふ)は、暇乞ひのために来た事でおりやる。
▲女「やあやあ、何と仰せらるゝ。御国元へお下りなさるゝか。
▲シテ「中々。
▲女「さればこそ、この中(ぢゆう)は、久しう音信さへないと存じましたれば、その様な事でござるものを。こなたが御国元へお下りなされて、妾(わらは)は後で、何としませうぞいなう。何としませうぞいなう。
{と云ひて、太鼓の座へ行き、壜(びん)水入れ持ち出し、目へ水を塗る。}
▲シテ「それ見よ。あれぢやによつて、そち云うてくれと云ふに。
▲アト「扨も扨も、気の毒でござる。
▲シテ「扨々、苦々しい事ぢや。なうなう、その様に仰(お)せあるな。やがて御礼に登る事なり。それまでには、文の便りもせう程に、さう心得さしませ。
▲女「こゝでこそ、その様に仰せらるれ、御国元へお下りなされたらば又、増す花{*1}がござらうによつて、妾が事は、思ひ出しもなされまい。
▲シテ「弓矢八幡も照覧あれ、年月の好(よしみ)を、何しに忘れうぞ。国元へ下つたらば、早々迎ひの人を登さう程に、心強う待つてお居りやれ。
{と云ひて、シテも泣く。}
▲女「その様な事を待ち侘びて、何と月日が送らるゝものでござる。妾は何としませうぞいの、何としませうぞいの。
{と云ひて泣く内、アト、橋がゝりへ行き、見遣(や)る。}
▲アト「苦々しい事ぢや。何とせうぞ。これはいかな事。あれは、誠に泣くかと思へば、壜水入れを傍に置いて、その水を目へ塗つて、泣く真似をしをる。扨々、憎い事かな。
{と云ひて、シテの袖を引き、橋がゝりへ行き、}
▲シテ「何事ぢや。
▲アト「ちよつと、お出なされませ。
▲シテ「何ぢや。
▲アト「はてまあ、ちよつとお出なされませ。
▲シテ「何事ぢやぞいやい。
▲アト「御前はあれを、誠に泣くと思し召しますか。
▲シテ「又、誠に泣かいで、嘘に泣かるゝものか。
▲アト「あれは、壜水入れに水を入れて、それを目へ塗つて、泣く真似をするのでござる。
▲シテ「何ぢや、泣く真似をする。
▲アト「中々。
▲シテ「扨々、おのれは不得心な事を云ふ者ぢや。総じて涕(なみだ)といふものは、四十余の骨々が潤はねば、涕一滴も零れぬものぢや。さう云ふは、合点ぢや。やがて国元へ下つたらば、女共への土産に、告げ口をせうといふ事か。その様な事を云うても、騙さるゝ事ではないわいやい。騙さるゝ事ではないわいやい。
{と云ひてまた、泣き泣き舞台へ行き、床机に掛くるなり。}
▲アト「扨も扨も、苦々しい事ぢや。何とせうぞ。いや、致し様がある。
{と云ひて、墨を入れたる壜水入れ、太鼓座より持ち出て、取り替へ、元の座に着きゐる。}
▲女「申し申し、どれへお出なさるゝ。
▲シテ「いや、どれへも行きはせぬ。
▲女「御目に掛かるも今暫しでござる。妾が傍に居て下され。
▲シテ「身共とても、同じ事ぢや。
▲女「この様な事なれば、初めから馴染みませぬがましでござる。
▲シテ「その様に仰(お)しやれば、身共まで心が乱るゝ。必ず必ず、心強う待つてお居やれ。
▲女「御目にかゝるも暫しでござる。妾が顔も良う見て置いて下されい。又、こなたの御顔も見せて置いて下されい。
▲シテ「身共とても、同じ事ぢや。そなたの顔を見せておくりやれ。
▲女「まづ、殿様の御顔を見せて下され。
▲シテ「そなたの顔から見せておくりやれ。
{と云ひて、女の黒き顔を見附け、驚き、橋がゝりよりアトを呼び、}
▲シテ「太郎冠者。
▲アト「やあ。
▲シテ「ちよつと来い。
▲アト「何でござる。
▲シテ「ちよつと来い。
▲アト「何でござるぞ。
▲シテ「はてまづ、ちよつと来い。
▲アト「何でござる。
▲シテ「あの顔は何ぢや。
▲アト「それ、御覧(ごらう)じませ。私が、泣く真似をすると申せども、聞きかせられぬによつて、墨と取り替へて置きました。
▲シテ「何ぢや。そちが墨と取り替へて置いたか。
▲アト「中々。
▲シテ「扨々、憎いやつぢや。永々の在京中、身共をまんまと騙しをつた。何とぞ恥を与へたいものぢやが。いや、思ひ出した事がある。やいやい、これは身共が肌身を離さぬ鏡なれども、これをやる程に、身共ぢやと思うて見よと云うてやれ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「早うやれ、早うやれ。
▲アト「心得ました。申し申し。これは、頼うだお方の肌身を離さぬ鏡なれども、筐(かたみ)に進じまする程に、頼うだお方ぢやと思うて、御覧なされいと申されまする。
▲女「いやいや。その様な物を見れば、思ひが増す鏡ぢやによつて、見る事は嫌ぢや嫌ぢや。
▲シテ「なうなう、それは余り心強い。身共ぢやと思うて、ちよつと見ておくれあれ。
▲女「それならば、こなたぢやと思うて、一目見ませうか。
▲シテ「早う見ておくれあれ。
{と云ひて、嘘泣きして、傍らにて小声に笑ふ。}
▲女「これは、思はぬ別れになりまする。
{と云ひて、鏡を見て俯(うつぶ)すなり。}
▲女「やあ。これは誰がした、誰がした。
▲シテ「太郎冠者ぢや。
▲女「憎いやつの。
{と云ひて、とらへて、顔へ墨を塗るなり。}
▲アト「申し申し、私ではござらぬ。頼うだお方でござる、頼うだお方でござる。
▲女「なうなう、腹立(はらだち)や腹立や。
▲シテ「これは、何としをるぞいやい。許してくれ、許してくれ。
{と云ひて、シテ、逃げて入るなり。女、追ひ込み入る。但し、シテにも塗るなり。}

校訂者注
 1:「増す花」は、「より愛する女」の意。

底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.

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墨塗(スミヌリ)(脇狂言)

▲シテ「はるか遠国の大名{是より入間川初めに同断永々在京よりアトを呼出すせりふ種々入間川に同断}{*1}扨かの人の方へは、暇乞にいた者で有うか、何とせうぞ▲アト「是はお出被成ずば成ますまい▲シテ「身共もさう思ふ、夫ならば行う程に、さあさあこいこい▲アト「畏つて御座る▲シテ「扨此間は、久敷う音信もせなんだに依つて、嘸かしましういふで有う▲アト「御意の通りで御座る、又其上に、お暇の出ました事を、お聞被成ましたらば、肝をつぶさせらるゝで御座らう▲シテ「夫は汝取繕うて、よい様にいうてくれい▲アト「あゝ心許ない事で御座る▲シテ「いや何彼といふ内に是ぢや、身共は奥へ通らう程に、其通りをいへ▲アト「畏つて御座る{シテわき座へ行床机に腰をかける}▲アト「申々御座りまするか▲女「表に聞なれた声がするが、えい太郎冠者、珍らしや珍らしや、ようこそはせた、扨頼うだお方は、御機嫌はよいか▲アト「いや今日は、是へお出で御座る▲女「何ぢやお出でなされたか▲アト「早直に奥へ、お通りなされて御座る▲女「やれやれ嬉しや嬉しや、早ういてお目にかゝらう、{*2}ゑい殿様にも、御機嫌さうで、お目出たう御座る▲シテ「成程身共もずゐ分、かはる事もない▲女「余り久敷う音信さへ、御座らぬに依つて、最早お心もかはりましたかと存て、案じておりました▲シテ「尤でおりやる、此中は何彼と隙入が有つて、存ながら不沙汰を、した事でおりやる▲女「お出なさるゝ事が成ませずば、お文なり共又、太郎冠者成共、下されさうな者ぢやと存じて、たんと恨ましたに、けふはどち風が吹きまして、お出なされて御座る▲シテ「けふ来るは別の事でもない、ちとそなたに、いはねばならぬ事が有つて来た▲女「夫は心元ない、何事で御座る▲シテ「やい太郎冠者、今のをいうてくれい▲アト「是はお前仰せられませ▲シテ「先汝いうてくれい▲アト「果ておまへ仰せられませ▲女「申々、何事で御座るぞいの▲シテ「あゝいはねばならず、いふも気の毒、汝いうてくるればよいに▲女「人に物を思はす様に仰せられずとも、早う仰られい▲シテ「是非共いはねばならぬ事ぢや思ひ切つていはう、身共も永々の在京で有つたに、首尾ようお暇を下されて、近日本国へ罷下る、夫故けふは、暇乞の為に、きた事でおりやる▲女「やあやあ、何と仰せらるゝお国許へお下りなさるゝか▲シテ「中々▲女「さればこそ此中は、久敷う音信さへないと存じましたれば、其様な事で御座る者を、こなたがお国許へ、お下りなされて、わらはゝ跡でなんとしませうぞいなう、なんとしませうぞいなう{ト云て太鼓の座へ行びん水入持出{*3}目へ水をぬる}▲シテ「夫見よ、あれぢやによつて、そちいうてくれといふに▲アト「扨も扨も気の毒で御座る▲シテ「扨々にがにが敷事ぢやなうなう其様におせあるな、頓て御礼に登る事なり、夫迄には文の便りもせう程に、さう心得さしませ▲女「爰でこそ其様に仰せらるれ、お国許へお下りなされたらば、又増花が御座らうに依つて、わらはが事は、思ひ出しも被成まい▲シテ「弓矢八幡も照覧あれ、年月のよしみを、何しにわすれうぞ、国許へ下つたらば、早々むかいの人を、登さう程に心強うまつてお居りやれ{ト云てシテも泣く}▲女「其様な事を待侘て、何と月日が送らるゝ者で御座る、妾は何としませうぞいの、何としませうぞいの{ト云て泣く内アト橋がゝりへ行見遣る{*4}}▲アト「にがにが敷事ぢや何とせうぞ、是はいかな事、あれは誠に泣かとおもへば、びん水入をそばにおいて、其水を目へ塗つて、なく真似をしをる、扨々にくい事かな{ト云てシテの袖を引橋がゝりへ行}▲シテ「何事ぢや▲アト「ちよつとお出なされませ▲シテ「何ぢや▲アト「果まあちよつとお出なされませ▲シテ「何事ぢやぞいやい▲アト「お前はあれを誠に泣くと思召ますか▲シテ「又誠になかいで、うそに泣るゝ者か▲アト「あれはびん水入に水を入れて、夫を目へ塗つて、泣真似をするので御座る▲シテ「何ぢや泣まねをする▲アト「中々▲シテ「扨々おのれは、不得心な事をいふ者ぢや、総じて涕といふ物は、四十余の骨々がうるほはねば、涕一つてきもこぼれぬ者ぢや、さういふは合点ぢや、頓て国許へ下つたらば、女共への土産に、つげ口をせうといふ事か、其様な事をいうてもだまさるゝ事ではないわいやいないわいやい{ト云て亦なきなき舞台へ行床机にかくるなり{*5}}▲アト「扨も扨も、にがにが敷事ぢや、何とせうぞ、いや致様が有る{ト云て墨を入れたるびん水入太鼓座{*6}より持出て取替へ元の座に着きゐる}▲女「申々、どれへお出なさるゝ▲シテ「いやどれへもゆきはせぬ▲女「お目に掛るも今暫で御座る、妾がそばに居て下され▲シテ「身共迚もおなじ事ぢや▲女「此様な事なれば、初からなじみませぬがまし{*7}で御座る▲シテ「其様におしやれば、身共まで心が乱るゝ、かならずかならず、心強うまつてお居やれ▲女「お目にかゝるもしばしで御座る、妾が顔もよう見ておいて下されい{*8}、又こなたのお顔も見せておいて下されい▲シテ「身共迚もおなじ事ぢや、そなたの顔を見せておくりやれ▲女「まづ殿様のお顔を見せて下され▲シテ「そなたの顔から見せておくりやれ{ト云て女の黒き顔を見附をどろき橋がゝりよりアトを呼}▲シテ「太郎冠者▲アト「やあ▲シテ「ちよつとこい▲アト「何で御座る▲シテ「ちよつとこい▲アト「何で御座るぞ▲シテ「果先ちよつとこい▲アト「何で御座る▲シテ「あの顔は何んぢや▲アト「夫御らうじませ、私が泣真似をすると申せ共、きかせられぬに依つて、墨と取かへて置ました▲シテ「何ぢや、そちが墨と取替ておいたか▲アト「中々▲シテ「扨々憎いやつぢや、永々の在京中身共をまんまとだましおつた、何卒恥をあたへたい者ぢやが、いや思ひ出した事が有、やいやい、是は身共が、はだ身をはなさぬ鏡なれ共、是をやる程に、身共ぢやと思うて見よというてやれ▲アト「畏つて御座る▲シテ「早うやれ早うやれ▲アト「心得ました、申々、是は頼うだお方の、はだ身をはなさぬ鏡なれ共、筐に進じまする程に、頼うだお方ぢやと思うて、御覧被成いと被申まする▲女「いやいや、其様な物を見れば、思がます鏡ぢやに依つて、見る事はいやぢやいやぢや▲シテ「なうなう、夫は余り心強い、身共ぢやと思うて、ちよつと見ておくれあれ▲女「夫ならば、こなたぢやと思うて一と目見ませうか▲シテ「早う見ておくれあれ{ト云てうそ泣して傍はらにて小声に笑ふ}▲女「是はおもはぬわかれに成りまする{ト云て鏡を見てうつぶすなり}▲女「やあ、是は誰がした誰がした▲シテ「太郎冠者ぢや▲女「憎いやつの{ト云てとらへて顔へ墨をぬるなり}▲アト「申々、私では御座らぬ、頼うだお方で御座る、頼うだお方で御座る▲女「なうなう腹立や腹立や▲シテ「是は何としをるぞいやい、ゆるしてくれゆるしてくれ{ト云てシテにげて入るなり女追込入る但しシテにもぬるなり}

校訂者注
 1:底本は、「▲シテ「扨かの人の」。
 2:底本、ここに一字分の空白があり、読点はない。
 3:底本は、「びん水持出」。
 4:底本は、「アト橋がゝりへ行見送る」とあり、意が通じにくい。
 5:底本は、「床机にかゝるなり」とあり、意が通じにくい。
 6:底本は、「大鼓座」。
 7:底本は、「初からなじませぬがまし」とあり、意が通じない。
 8:底本は、「見ておいで下されい」。