萩大名(はぎだいみやう)(脇狂言)
▲シテ「はるか遠国の大名。永々在京致す所、訴訟悉く相叶ひ、安堵の御教書頂戴し、過分に新知を拝領し、あまつさへ、御暇までを下され、近日、本国へ罷り下る。この様な悦ばしい事はござらぬ。まづ、のさ者を呼び出し、この由申し聞かせ、悦ばせうと存ずる。
{と云ひて、呼び出す。出るも常の如し。大名狂言同断。}
永々在京する所、訴訟悉く相叶ひ、安堵の御教書頂戴し、あまつさへ御暇までを下され、近日、本国へ罷り下る。この様な悦ばしい事は、あるまいなあ。
▲アト「内々、かやうの儀を待ち得ましたに、かほどおめでたい事は、ござりませぬ。
▲シテ「めでたいなあ。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「扨、在京中、気を詰めたによつて、ざつと一遊山(ひとゆさん)して立たうと思ふが、何とあらう。
▲アト「御意もなくば、申し上げうと存じてござる。これは、一段と良うござりませう。
▲シテ「それならば、どれへ行(い)たものであらうぞ。
▲アト「どれこれと仰せられうより、東山辺は、何とでござらう。
▲シテ「東山にとつても、どこもとが良からう。
▲アト「別して、清水の観世音へお参りなされいで、叶はぬ事がござる。
▲シテ「それは又、どうした事ぢや。
▲アト「御在京中、事故(ことゆゑ)なうお勤めなさるゝ様にと存じて、私が清水の観世音へ、日参を致してござる。
▲シテ「その様な事ならば、お礼かたがた参らうわいやい。
▲アト「幸ひ、坂に存じた茶屋がござる。これに良い庭を持ちました。折節、萩の花が盛りでござるによつて、これをも御目に掛けませうぞ。
▲シテ「それは猶、良い慰みであらう。
▲アト「さりながら、これへ御腰を掛けらるれば、何(いづ)れも萩の花について、御当座をなさるゝ。あはれ、頼うだお方にも、御当座がなりませうか。
▲シテ「何、当座。
▲アト「はあ。
▲シテ「当座、当座。当座とは何の事ぢや。
▲アト「歌をお詠みなさるゝ事でござる。
▲シテ「いや、も、その様な難しい事ならば、清水ばかりへ参らう。
▲アト「どうぞ、御目に掛けたいものでござるが。いや、それならば、教へたらば、なりませうか。
▲シテ「何(いづ)れ、習うてならぬといふ事はあるまいぞ。
▲アト「それならば、ざつと済みました。あたりの若い衆が、あれへ行(い)て詠まうとあつて、歌の下読みをせられたを覚えて居りまする。これを、御前(おまへ)に教へませうぞ。
▲シテ「して、それは難しい事か。
▲アト「別に、難しい事はござらぬ。七重八重、九重とこそ思ひしに、十重咲き出づる萩の花かな。と申す事でござる。
▲シテ「して、それは誰が云ふ事ぢや。
▲アト「誰(た)が申すものでござる。御前(おまへ)の仰せらるゝ事でござる。
▲シテ「あの、身共一人してか。
▲アト「中々。
▲シテ「その様な長い事が、五年や三年で覚えらるゝ事ではないぞ。
▲アト「扨々、気の毒でござる。どうぞ、御目に掛けたいものでござるが。それならば、物によそへたらば、なりませうか。
▲シテ「何(いづ)れ、よそへ物によつてならうか。
▲アト「たとへば、扇の骨が十本ござるによつて、七重八重と申す時は、七本と八本、御目に掛けませう。
▲シテ「出来た。
▲アト「九重で九本。
▲シテ「したり。
▲アト「十重咲きで、ぱらり。
▲シテ「扨々、汝は才覚な者ぢや。が、まだ何やらあつたぞよ。
▲アト「いや、もう何もござらぬ。
▲シテ「いやいや、まだ何やらあつた。
▲アト「ヱゝ、それは、萩の花かなと申すばかりの事でござる。
▲シテ「それそれ。それが、どうも覚えられぬ。
▲アト「あの、これ程の事が、なりませいか。
▲シテ「思ひもよらぬ事ぢや。
▲アト「あゝ。御前(おまへ)もよつぽど物覚えが悪うござる。
▲シテ「どうぞそれも、よそへ物はあるまいか。
▲アト「いや、常々私をお叱りなさるゝに、あの臑脛(すねはぎ)ばかり伸びをつて、と仰せらるゝ。慮外ながら、その時に私が、向うずねを御目に掛けませう。
▲シテ「たとへたり、たとへたり。いかに身共が物覚えが悪いというて、それでならぬといふ事はあるまいぞ。
▲アト「それならば、ざつと済みました。いざ、御出なされませ。
▲シテ「追つ付け行かう。さあさあ、来い来い。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「扨、今日(けふ)は汝が蔭で、良い庭を見物するといふものぢや。
▲アト「いや。又、あの様な庭を御覧なされますれば、御国元への良い御土産でござる。
▲シテ「何(いづ)れ、国元へ良い土産ぢやなあ。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「して、程は遠いか。
▲アト「何かと申す内に、これでござる。御出の通りを申しませう。暫くそれにお待ちなされませ。
▲シテ「心得た。
▲アト「物も、案内も。
▲小アト「表に案内がある。案内とは誰(た)そ。
▲アト「私でござる。
▲小アト「へい、太郎冠者殿。又、御参詣でござるか。
▲アト「今日(けふ)は、頼うだ者を同道致してござる。こなたの庭を見たいと申さるゝ。どうぞ見せて下されい。
▲小アト「易い事ではござれども、今日は殊の外、不掃除にござるによつて、なりますまい。
▲アト「それは、そつとも苦しうござらぬ。どうぞ見せて下され。
▲小アト「それならば、かうお通しなされい。
▲アト「心得ました。
▲小アト「ざらざらざら。
▲アト「かうお通しなされいと申しまする。
▲シテ「心得た。して、亭主は内にゐるか。
▲アト「成程、内にをりまする。即ち、それが亭主でござる。
▲シテ「これが亭主か。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「亭主、不案内におりやる。
▲小アト「見苦しい所へ御腰を掛けられて、ありがたう存じまする。
▲シテ「常々、太郎冠者が参つて、 造作(ざうさ)になると申す。過分におりやる。
▲小アト「これは、結構な御挨拶でござる。
▲シテ「太郎冠者、床机をくれい。
▲アト「畏つてござる。御床机。
▲シテ「やいやい、太郎冠者。汝が常に話す庭はこれか。
▲アト「これでござる。
▲シテ「扨々、綺麗な庭ぢやなあ。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「亭主、物数寄が良うおりやる。
▲小アト「何とござりまするぞ。
▲シテ「この前の白いは、砂か。
▲小アト「砂でござる。
▲シテ「これは、どれから参つた。
▲小アト「備後砂でござる。
▲シテ「何、豊後砂ぢや。
▲アト「備後砂、名物。
{と云ひて、袖引き、目交(めま)ぜをし、又は舌を叩きつして、焦る。後、同断。}
▲シテ「備後砂、名物。あゝ、白い砂ぢや。さながら、道明寺干飯(だうみやうじほしい)を見る様な。
▲アト「亭主が聞きまする。
{と云ひて、止める。}
▲シテ「あの向ふの石は、海石か山石か。
▲小アト「山石でござる。
▲シテ「身も山石と見ておりやる。
▲小アト「良い御目利きでござる。
▲シテ「太郎冠者、良い石ぢやなあ。
▲アト「良い石でござる。
▲シテ「とりわけ、あの握り拳程、ひよいと出た所が面白いなあ。
▲アト「何(いづ)れ、面白うござる。
▲シテ「あれを打ちかいて、火打石としたらば良からう。
{アト、「しいしい」と袖を引く、シテ、口に手を当てる。}
▲シテ「向ふの木は梅か。
▲小アト「梅でござる。
▲シテ「花は、白いか赤いか。
▲小アト「白梅(はくばい)でござる。
▲シテ「何ぢや。白(はく)、何ぢや。
▲アト「白梅(はくばい)とは白い梅の事なり。
▲シテ「白梅(はくばい)とは白梅(しろうめ)の事なり。これは、誰も知つた事ぢや。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「あれあれ。あの枝が、つゝと行(い)て、ついと立ち伸びた所が、面白いなあ。
▲アト「面白うござる。
▲シテ「あれを、物としやう。
▲アト「何となされまする。
▲シテ「引き切つて、茶臼の引木(ひきゞ)にせう。
{「しいしい」と云ひて、叱る心。}
▲アト「亭主が聞きまする。
▲小アト「太郎冠者殿。御用ならば、差し上げませうかと仰せられい。
▲アト「いや。あれは、おざれ事でござる。
▲シテ「これこれ、亭主。これはざれ事ぢや。引木(ひきゞ)にせうと云はうとも、お切りあるなといふ事ぢや。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「太郎冠者。
▲アト「はあ。
▲シテ「あの向ふに、くはつと赤いは何ぢや。
▲アト「あれが萩でござる。
▲シテ「あれが萩か。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「なうなう、亭主。あれは、どれから参つた。
▲小アト「宮城野でござる。
▲シテ「何ぢや、土産にせい。
▲アト「宮城野の萩、名物。
▲シテ「宮城野の萩、名物。あゝ、見事ぢやなあ。
▲アト「見事でござる。
▲シテ「あれあれ。あの赤い花が、この白い砂の上へ、ぱつと散つた所は、さながら赤飯を見る様な。
{と云ひて、笑ふ。アト、「しいしい」と云ふ。同断。}
▲小アト「太郎冠者殿。何(いづ)れもこれへ腰を掛けらるれば、萩の花について、御当座をなさるゝ。あはれ、頼うだお方にも、御当座をなされて下されうならば、忝うござると仰せられて下されい。
▲アト「心得ました。申し上げまする。
▲シテ「何事ぢや。
▲アト「今のをお聞きなされましたか。
▲シテ「何を。
▲アト「当座。
▲シテ「当座当座。
▲アト「歌々。
▲シテ「むゝ。当座とは物、歌の事か。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「なうなう、亭主。身も歌好きぢや。詠まうわいの。
▲小アト「それは、ありがたう存じまする。
▲シテ「太郎冠者、詠まうなあ。
▲アト「お詠みなされませ。
▲シテ「詠まう詠まう。
{アト、扇を開き、見せる。}
▲シテ「物、と致さう。
▲小アト「何とでござる。
▲シテ「七本と八本。
{小アト、吟じ、不思議がる。アト、「しいしい」と云ひて、本文を云ふ。}
▲シテ「今のは違うた。七重八重、でおりある。
▲小アト「これは、五つ文字が面白うござる。
{アト、又、扇を九本見する。}
▲シテ「九本。
{小アト、吟ずる。アト、本文を云ふ。}
▲シテ「いや。なうなう、今のも違うた。
▲小アト「何と違ひました。
▲シテ「九重とこそ思ひしに、でおりやる。
▲小アト「これは、面白い事でござる。
{アト、扇を残らず開いて見する。}
▲シテ「ぱらり、と参らう。
{小アト、吟じて笑ふ。}
▲アト「十重咲き出づる、でござるわいなう。
▲シテ「扨々、面目ない。又違うた。
▲小アト「はて。よう違ひまするなう。
▲シテ「十重咲き出づる、でおりある。
▲小アト「まづ、吟じて見ませう。
▲シテ「どうなりとも召され。
▲アト「あの様な人には、恥を与へたが良い。
{と云ひて、アト、幕へ入る。}
▲小アト「七重八重、九重とこそ思ひしに、十重咲き出づる。
{と吟ずる内、シテ、見る。太郎冠者をらぬ故、驚きて尋ぬる心あり。}
▲小アト「これは、面白うござる。
▲シテ「面白いか。
▲小アト「中々。
▲シテ「さらば。
▲小アト「あゝ、申し申し。今の歌の後も仰せられずに、どれへお出なさるゝ。
▲シテ「今の歌の後は、太郎冠者がどれへやら行(い)た。
▲小アト「申し申し。今の歌の後に、太郎冠者はいりませぬ。早う後を仰せられい。
▲シテ「今の歌の後は、七重八重。
▲小アト「されば、七重八重九重とこそ思ひしに。
▲シテ「それそれ。
▲小アト「十重咲き出づる。
▲シテ「はて、良い覚えの。
▲小アト「その後を仰せられいと申す事でござる。
▲シテ「むゝ、その後か。
▲小アト「中々。
▲シテ「もう、良うおりやるわいなう。
▲小アト「あゝ、これこれ。良いと仰せられては、字が足りませぬわいなう。
▲シテ「字が足らずば、良い仕様がある。
▲小アト「何となさるゝ。
▲シテ「十重咲き出づる、十重咲き出づると、足る程云うて置いたが良い。
▲小アト「はて扨、それでは歌が短うござるわいなう。
▲シテ「短くば、猶良い仕様がある。
▲小アト「何となさるゝ。
▲シテ「十重咲き出づる《引》と、引かうまでよ。
▲小アト「言語道断。こゝな者は、某(それがし)をなぶると見えた。
▲シテ「これは、何とする。
▲小アト「この歌の後を云はねば、どつちへもやらぬぞ。
▲シテ「何ぢや。この歌の後を云はねば、どつちへもやらぬ。
▲小アト「中々。
▲シテ「それは誠か。
▲小アト「誠ぢや。
▲シテ「真実か。
▲小アト「おんでもない事。
▲シテ「いや。今、思ひ出した。その歌の後は、物と。
▲小アト「何と。
▲シテ「物と。
▲小アト「何と。
▲シテ「十重咲き出づる。
▲小アト「十重咲き出づる。
▲シテ「太郎冠者が向かうずね。
▲小アト「あのやくたいもない。とつとゝお帰りあれ。
▲シテ「面目もおりない。
{と云ひて、留めて入るなり。}
6:底本は、「下をたたきつして」。
底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.)
萩大名(ハギダイメヨオ)(脇狂言)
▲シテ「はるか遠国の大名、永々在京致す所、訴訟悉く相叶、安堵の御教書頂戴し、過分に新知を拝領し、あまつさへお暇迄を下され、近日本国へ罷下る、此様な悦ばしい事は御座らぬ、先のさ者を呼出し、此由申きかせ、悦ばせうと存ずる{ト云て呼出す出るも如常大名狂言同断}{*1}永々在京する所、訴訟悉く相叶安堵の御教書頂戴し、あまつさへお暇迄を下され、近日本国へ罷下る、此様な悦ばしい事は有まいなあ▲アト「内々斯様の儀を待得ましたに、斯程お目出たい事は御座りませぬ▲シテ「目出たいなあ▲アト「左様で御座る▲シテ「扨在京中気をつめたに依つて、ざつと一と遊山して立うと思ふが、何と有う▲アト「御意もなくば申上うと存じて御座る、是は一段とよう御座りませう▲シテ「夫ならばどれへいた者で有うぞ▲アト「どれ是と仰せられうより、東山辺は何とで御座らう▲シテ「東山にとつても、どこもとがよからう▲アト「別して清水の観世音へ、お参りなされいで叶はぬ事が御座る▲シテ「夫は又どうした事ぢや▲アト「御在京中、事故なう、お勤なさるゝ様にと存じて、私が清水の観世音へ、日参を致して御座る▲シテ「其様な事ならば、お礼旁参らうわいやい▲アト「幸ひ坂に、存じた茶屋が御座る、是によい庭を持ました、折節萩の花が盛りで御座るに依つて、是をもお目にかけませうぞ▲シテ「夫は猶よい慰みで有らう▲アト「去乍これへお腰をかけらるれば、何も萩の花について御当座をなさるゝ、あはれ頼うだお方にも、御当座がなりませうか▲シテ「何当座▲アト「はあ▲シテ「当座、当座、当座とは何の事ぢや▲アト「歌をおよみ被成るゝ事で御座る▲シテ「いやも其様なむづかしい事ならば、清水計へ参らう▲アト「どうぞお目にかけたい者で御座るが、いや夫ならば、教たらば成ませうか▲シテ「何れ習うてならぬといふ事は有まいぞ▲アト「夫ならばざつとすみました、あたりの若い衆があれへいてよまうと有つて、歌のした読をせられたを覚へて居りまする、是をお前に教へませうぞ▲シテ「して夫は六ケ敷事か▲アト「別に六ケ敷い事は御座らぬ、七重八重、九重とこそ思ひしに、十重咲いずる、萩の花かな、と申事で御座る▲シテ「して夫は誰がいふ事ぢや▲アト「たが申物で御座る、お前の仰らるゝ事で御座る▲シテ「あの身共独してか▲アト「中々▲シテ「其様な長い事が、五年や三年で覚へらるゝ事ではないぞ{*2}▲アト「扨々気の毒で御座る、どうぞお目にかけたい者で御座るが、夫ならば物によそへたらば成ませうか▲シテ「何れよそへ物によつてならうか▲アト「たとへば扇の骨が十本御座るに依つて、七重八重と申ときは、七本と八本お目に掛ませう▲シテ「出来た▲アト「九重で九本▲シテ「したり▲アト「十重咲でぱらり▲シテ「扨々汝は才覚な者ぢや、が、まだ何やらあつたぞよ▲アト「いやもう何も御座らぬ▲シテ「いやいやまだ何やら有つた▲アト「ヱゝ夫は萩の花かなと、申ばかりの事で御座る▲シテ「夫れ夫れ、夫れがどうも覚へられぬ▲アト「あの是程の事が成ませいか▲シテ「思ひもよらぬ事ぢや▲アト「あゝお前もよつぽど物覚がわるう御座る▲シテ「どうぞ夫もよそへ物は有まゐか▲アト「いや常々私をおしかりなさるゝに、あのすねはぎばかりのびおつてと仰らるゝ慮外ながら、其時に私が、向うずねをお目にかけませう▲シテ「たとへたりたとへたり{*3}、いかに身共が物覚えがわるいというて、夫でならぬと云ふ事は有るまいぞ▲アト「夫ならばざつと済ました、いざお出被成ませ▲シテ「追付行うさあさあこいこい▲アト「畏つて御座る▲シテ「扨けふは汝がかげで、よい庭を見物するといふ者ぢや▲アト「いや又あの様な庭を御覧なされますれば、お国許へのよいお土産で御座る▲シテ「何れ国許へよい土産ぢやなあ▲アト「左様で御座る▲シテ「して程は遠いか▲アト「何彼と申内に是で御座る、お出の通りを申ませう、暫く夫におまち被成ませ▲シテ「心得た▲アト「物も案内も▲小アト「表に案内がある、案内とは誰そ▲アト「私で御座る▲小アト「へい太郎冠者殿、又御参詣で御座るか▲アト「今日は頼うだ者{*4}を同道致して御座る、こなたの庭を見たいと申さるゝ、どうぞ見せて下されい▲小アト「易い事では御座れ共、今日は殊の外、不掃除に御座るに依つて成ますまい▲アト「夫はそつとも苦敷う御座らぬ、どうぞ見せて下され▲小アト「夫ならばかうお通し被成い▲アト「心得ました▲小アト「ざらざらざら▲アト「かうお通し被成いと申まする▲シテ「心得た、して亭主は内にいるか▲アト「成程内におりまする、即夫が亭主で御座る▲シテ「是が亭主か▲アト「左様で御座る▲シテ「亭主不案内におりやる▲小アト「見苦敷所へお腰をかけられて、有難う存じまする▲シテ「常々太郎冠者が参つてぞうさに成と申す、過分におりやる▲小アト「是は結構な御挨拶で御座る▲シテ「太郎冠者床机をくれい▲アト「畏つて御座る、お床机▲シテ「やいやい太郎冠者、汝が常に話す庭は是か▲アト「是で御座る▲シテ「扨々綺麗な庭ぢやなあ▲アト「左様で御座る▲シテ「亭主物数寄がようおりやる▲小アト「何と御座りまするぞ▲シテ「此前の白いは砂か▲小アト「砂で御座る▲シテ「これはどれから参つた▲小アト「備後砂で御座る▲シテ「何豊後砂ぢや▲アト「備後砂名物{ト云て袖引目交をし亦は舌をたたきつして{*5}あせるあと同断}▲シテ「備後砂名物、あゝ白い砂ぢや、さながら道明寺干飯を見る様な▲アト「亭主がきゝまする{*6}{ト云てとめる}▲シテ「あの向ふの石は海石か山石か▲小アト「山石で御座る▲シテ「身も山石と見ておりやる▲小アト「よいお目利で御座る▲シテ「太郎冠者、よい石ぢやなあ▲アト「よい石で御座る▲シテ「取分あのにぎりこぶし程、ひよいと出た所が面白いなあ▲アト「何れ面白う御座る▲シテ「あれを打かいて、火打石としたらば好らう{アトしいしいと袖をひくシテ口に手をあてる}▲シテ「向ふの木は梅か▲小アト「梅で御座る▲シテ「花は白いか赤いか▲小アト「白梅で御座る▲シテ「何ぢや白なんぢや▲アト「白梅とは白い梅の事なり▲シテ「白梅とは白梅の事なり、是は誰もしつた事ぢや▲アト「左様で御座る▲シテ「あれあれあの枝が、つゝといてついと立のびた所が面白いなあ▲アト「面白う御座る▲シテ「あれを物としやう▲アト「何と被成まする▲シテ「引切つて茶臼の引木にせう{しいしいと云てしかる心}▲アト「亭主がきゝまする{*7}▲小アト「太郎冠者殿、御用ならば差上ませうかと仰られい▲アト「いやあれはおざれ事で御座る▲シテ「是々亭主是はざれ事ぢや引木にせうといはう共、お切あるなといふ事ぢや▲小アト「畏つて御座る▲シテ「太郎冠者▲アト「はあ▲シテ「あの向ふにくはつと赤いは何ぢや▲アト「あれが萩で御座る▲シテ「あれが萩か▲アト「左様で御座る▲シテ「なうなう亭主、あれはどれから参つた▲小アト「宮城野で御座る▲シテ「何ぢや土産にせい▲アト「宮城野の萩名物▲シテ「宮城野の萩名物、あゝ見事ぢやなあ▲アト「見事で御座る▲シテ「あれあれあの赤い花が、此白い砂の上へ、ぱつとちつた所は、さながら赤飯を見る様な{ト云て笑ふアトしいしいと云同断}▲小アト「太郎冠者殿、何れも是へ腰を掛らるれば、萩の花について御当座を被成るゝ、あはれ頼うだお方にも、御当座を被成て下されうならば、忝う御座ると仰せられて下されい▲アト「心得ました、申上まする▲シテ「何事ぢや▲アト「今のをおきゝ被成ましたか▲シテ「何を▲アト「当座▲シテ「当座当座▲アト「歌々▲シテ「むゝ当座とは物、歌の事か▲アト「左様で御座る▲シテ「なうなう亭主、身も歌ずきぢや、読うわいの▲小アト「夫は有難う存じまする▲シテ「太郎冠者、読うなあ▲アト「お読被成ませ▲シテ「読う読う{アト扇を開きみせる}▲シテ「物と致さう▲小アト「何とで御座る▲シテ「七本と八本{小アトぎんじふしぎがるアトしいしいと云て本文を云}▲シテ「今のは違ふた、七重八重でおりある▲小アト「是は五つ文字が面白う御座る{アト亦扇を九本見する}▲シテ「九本{小アト吟ずるアト本文を云}▲シテ「いやなうなう、今のも違うた▲小アト「何と違ひました▲シテ「九重とこそ思ひしにでおりやる▲小アト「是は面白い事で御座る{アト扇を不残開て見する}▲シテ「ばらりと参らう{小アト吟じて笑ふ}▲アト「十重咲いづるで御座るわいのう▲シテ「扨々面目ない又違ふた▲小アト「果よう違ひまするのう▲シテ「十重咲出るでおりある▲小アト「先吟じて見ませう▲シテ「どう成共召れ▲アト「あの様な人には恥をあたへたがよい{ト云てアト幕へ入}▲小アト「七重八重、九重とこそ思ひしに、十重咲出る{ト吟ずる内シテ見る太郎冠者おらぬゆへおどろきて尋る心あり}▲小アト「是は面白う御座る▲シテ「面白いか▲小アト「中々▲シテ「さらば▲小アト「あゝ申々、今の歌の後も仰せられずに、どれへお出被成るゝ▲シテ「今の歌の後は、太郎冠者がどれへやらいた▲小アト「申々、今の歌の後に、太郎冠者は入りませぬ、早う後を仰られい▲シテ「今の歌の後は七重八重▲小アト「されば七重八重九重とこそおもひしに▲シテ「それそれ▲小アト「十重咲出る▲シテ「果よい覚えの▲小アト「其後を仰られいと申事で御座る▲シテ「むゝ其後か▲小アト「中々▲シテ「もうようおりやるわいのう▲小アト「あゝ是々よいと仰られては字がたりませぬはいのう▲シテ「字がたらずばよい仕様がある▲小アト「何となさるゝ▲シテ「十重咲いづる、十重咲いづると、たる程いうておいたがよい▲小アト「果扨、夫では歌がみじかう御座るわいのう▲シテ「短かくば猶よい仕様がある▲小アト「何と被成るゝ▲シテ「十重咲いづる《引》とひかう迄よ▲小アト「言語道断爰な者は、某をなぶると見へた▲シテ「是は何とする▲小アト「此歌の後をいはねば、どつちへもやらぬぞ▲シテ「何ぢや此歌の後をいはねば、どつちへもやらぬ▲小アト「中々▲シテ「夫は誠か▲小アト「誠ぢや▲シテ「真実か▲小アト「おんでもない事▲シテ「いや今思ひ出した、其歌の後は物と▲小アト「何と▲シテ「物と▲小アト「何と▲シテ「十重咲出る▲小アト「十重咲出る▲シテ「太郎冠者が、むかうずね▲小アト「あのやくたいもない、とつとゝお帰りあれ▲シテ「面目もおりなゐ{ト云てとめて入るなり}
校訂者注
1:底本は、「▲シテ「永々在京する所」。
2:底本は、「覚へらる事ではないぞ」。
3:底本は、「たとへたり(二字以上の繰り返し記号、濁点付き)」。
4:底本は、「頼うた者」。
5・7:底本は、「亭主がきまする」。
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