無布施経(ふせないきやう)(二番目)
▲シテ「当庵の住持でござる。毎月(まいげつ)決まつて、さる御旦那へ御祈祷に参る。今日(こんにち)も参らうと存ずる。誠に、世には信心な御方がござる。毎月決まつて、不退転の御祈祷をなさるゝによつて、その身の御事は申すに及ばず、御一門まで、次第次第に御繁昌なさる事でござる。いや、何かと云ふ内に、これぢや。
{と云ふて、案内乞ふ。出るも、常の如し。}
愚僧でござる。
▲アト「ゑい、御坊様。これは、御苦労に存じまする。
▲シテ「毎月の事でござるによつて、御使ひござなくとも参らうに、殊に夜前は御自身の御出、返す返すも忝う存じまする。
▲アト「わざと参つたでもござらぬ。御近所へ参りましたによつて、ついでながら、お寄り申しましてござる。
▲シテ「いやいや、さうではござるまい。こなたの様な、御丁寧な御方はござらぬ。いざ、かう通りませうか。
▲アト「つゝと御通りなされませ。
▲シテ「心得ました。扨も扨も、綺麗な事かな。いつ参つて見ましても、これの御掃除の様な、綺麗な事はござらぬ。総じて、俗衆の言葉にも、綺麗な所を見ては、寺の様なと仰(お)せありまするが、これは中々、寺恥づかしい御掃除でござる。
▲アト「随分と存じますれども、人を持ちませぬによつて、不掃除にござる。
▲シテ「それは、こなたの御卑下でござる。いざ、御祈祷を始めませう。
▲アト「御苦労に存じまする。
{シテ、扇を広げて経を下に置き、珠数すり、経を読みさして、}
▲シテ「いや、先日は御客があると云うて、花を取りに遣はされた。折節、庭前に何か{時節の花を云ふ}心良う咲いてござつたによつて、一枝(ひとえだ)進じましたが、何と、御役に立ちましたかの。
▲アト「誠に、先日は客を得まして、御寺へ御無心に上げましたれば{*1}、見事な花を下されて、ざつと客をもてなしましてござる。
{又、経を読みさし、}
▲シテ「いや、この間は、御内儀が参らせられてのう。
▲アト「誠に、この間は女どもが参詣致しまして、御寺の御馳走になりましたと申して、帰つていかう悦うでをりました。
▲シテ「いかないかな。寺の馳走とある段は、そつともござらいで、結句、御持たせを寺中へ広めまして、小僧どもまでが悦びました。
▲アト「結構な御挨拶でござる。
{又、御経を読むなり。}
▲シテ「いや、これこれ。毎月の事でござるによつて、こなたには、御聴聞なうても苦しくござらぬ。御用があらば、勝手へ行かつしやれい。
{と云うて、又読む。}
▲アト「左様ならば、私は内客を得ましたによつて、自由ながら、勝手へ参じまする。
{うなづきうなづき経を読み、暫く読み、扨、回向済み、咳払ひする。名乗座へ行き、}
▲アト「いや、御坊様が御仕舞ひなされたさうな。ゑい、御仕舞ひなされましたか。
▲シテ「漸々(やうやう)と仕舞ひました。
▲アト「これは、御苦労に存じまする。
▲シテ「毎月の事でござるに、殊に今朝は結構な調菜で、ゆるりと御斎(おとき)を下されました。
▲アト「内客に取り紛れまして、何のおかまひも申しませなんだ。
▲シテ「扨、もう、かう参りませうか。
▲アト「早、御出なされまするか。
▲シテ「はて、御斎は下さる、御茶までも下されて、別に御用もござるまいによつて、もう、かう参らうかと申す事でござる。
▲アト「良うお出なされました。
▲シテ「はあ。はて、異な事の。毎月決まつて鳥目十疋づゝ、御布施をせらるゝが、今日(けふ)に限つて何の沙汰がない。定めて、内客に取り込うで、忘れさせられたものであらう。当月一ケ月など、取らぬ分は苦しくなけれども、この様な事は、重ねての例になりたがる。気を付けて、貰うて帰らうと存ずる。申し、御旦那。ござりまするか。
▲アト「御坊様の御声ぢやが。ゑい、御坊様。
▲シテ「はあ。
▲アト「何として御帰りなされました。
▲シテ「さればその事でござる。今朝(こんてう)、こなたへ参つたらば早々、御断りを申さいで叶はぬ事がござつたを、はたと失念致して、これを申しに帰りました。
▲アト「それは何でござりまするぞ。
▲シテ「まづ、夜前は御自身の御出でござつたによつて、天晴(あつぱれ)、今朝は未明から参らうと存じて、宵からじつと巧(たく)んでをりました所に、夕べ俄(にはか)に寺中に寄り合ひがござつて、夜更(よふ)くるまで居りましたれば、今朝は臥(ふ)せり過ごいてござる。この臥せり過ごいた段を、御断り申さうと存じたを、はつたと忘れまして、これを御断りに参りました。
▲アト「扨々、御念のいつた御事でござる。別して今朝は、いつもより御早かつたかと存じまするが。
▲シテ「いかないかな。どこにか出家が、あの様に朝臥せりをするなどゝ、思し召す段もお恥づかしい。愚僧は、この御断りに参りました。もう、かう参りませう。
▲アト「良うお出なされました。
▲シテ「さらば。これでも合点が行かぬさうな{*2}。何としたものであらうぞ。いや、教化(けうけ)して取らう。申し申し。誰殿、ござりますか。
▲アト「これはいかな事。又、御坊様の御声がする。ゑい、御坊様。まだ御帰りなされませぬか。
▲シテ「又、この度は、こびた事を思ひ出して、戻りました。
▲アト「それは何でござる。
▲シテ「まづ、愚僧が旦那方多い中に、こなたの様な御信心な御方は、ないぢやまで。
▲アト「はあ。
▲シテ「いつぞは参りて、一句の教化をも致して聞けませうと存ずれども、その折もござらぬ。今日(こんにち)は、庵室へ帰つても、さのみ用事もござらぬによつて、もし御望みならば、一句申して聞けませうか。但し、お嫌か。
▲アト「それは、忝うござる。私も、かねがねの望みでござる程に、お聞かせなされて下されい。
▲シテ「何、お聞きなされう。
▲アト「はあ。
▲シテ「さゝ、さうでござらう。こなたの様な御信心な御方はござらぬ。それならば、立ちながら申して聞けませう。こゝに、物とした事がござる。
▲アト「何とでござる。
▲シテ「身命財を擲(なげうつ)て伝法せんと欲せば、供仏・施僧・捨身を専らとせよ。雲となり雨となる。不晴不霽(ふせいぶせい)の時(じ)。今朝言はず別離の上。といふ事があるが、こなた、御存じか。
▲アト「左様の事は、かつて存じませぬ。
▲シテ「まづ、これをあらあら講釈致さば、身命財、しんは身(み)、めうは命(いのち)、財はたから。この三つをなげうつて、伝法せんと欲せばとは、この法をよく伝へんと欲せばといふ事。
▲アト「はあ。
▲シテ「供仏とは、仏を供養し堂を建立する等の事。施僧とは、我等ごときの貧僧に、物を施すを施僧と申す。捨身とは、身を捨つる。とかく、身を捨つると云うて、あながち海川山へ身を捨つるではない。法のために身を捨つるを、捨身と申す。雲となり雨となるとは、有為転変の決まり定まらぬ事。不晴不霽(ふせいぶせい)の時(じ)。いや、これこれ。こゝが肝心の所ぢや。良う聞かつしやれや。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「まづ、不晴(ふせい)とは、晴れやらざる時。とかく、晴れやらぬ時ぢやまで。今朝とは今の朝(あした)。別離とは別れ離るゝ。たとへば、そなたと愚僧とかやうに申し談ずれども、庵室へ帰れば、早、こゝは別離でござらぬか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「さ、そこを、昔の恋の歌にも、逢ふ時は語り尽くすと思へども、別れになれば残る言の葉、とも詠み置かれた。あの人に逢うたらば、これを云はうものを、語らうものを、やらうものを、おませうものをと思へども、時によつて失念、せいで叶はぬ事があるによつて、良う思案をして、やるべき物はやり、取るべい物は取つたが良うござる。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「左様でござるとは、こなた、合点が行きましたか。
▲アト「成程、合点致しましてござる。
▲シテ「何(いづ)れ、こなたは並々の御人ではないによつて、これ程の事の合点の行かぬといふ事はござるまいが。さりながら、物には良う思案をして見たがよい。あの人が、あの様に云はるゝは、おれは何も忘れた事はないかと、ぢつと思案をなされた時、さればこそ、これを忘れた、あゝ、これは最前やる筈であつたものを、今は出し遅れになつて出されまい、来月重ねてなりともやらう、などゝ思ふ事が、こなたの身の上に、あるまい事でないぞや。
▲アト「何(いづ)れ、ありさうな事でござる。
▲シテ「あらう事の。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「それでも大事ないが、相手の気にもなつて見たが、良うござる。これは毎月くれらるゝ物ぢやに、今日(けふ)に限つてくれられぬは、但し、今からくれまいといふ事か。とやある、かくやあらんと、無量の罪を作りまする。すれば、自他のために益がないによつて、思ひ出しさへなされたらば、前も後ろも、後(あと)も先も顧みず、さらりとやつて埒をあけさつしやれ、といふ事ぢや。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「はて、気の毒な。左様でござる左様でござると、これは、つひ合点の行く事でござるが。
▲アト「成程、合点致してござる。
▲シテ「いやいや、まだ合点の行(い)た顔ではない。まづ、人間は、欲に離れたが良い。欲程、浅ましきはござらぬ。欲が無ければ苦が無し。苦の無い処を寂光浄土と、仏も説き置かれたわ、扨。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「ゑゝ、気の毒な。左様でござる左様でござると、これは、つひ合点の行く事でござるが。
▲アト「成程、合点致しましてござる。
▲シテ「あの、合点が行きましたか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「その様に、合点が行(い)た合点が行(い)たと云はつしやれば、愚僧ぢやというて、せう事がござらぬ。この様な事は、いつまで云うてをつても{*3}、尽きる事ではござらぬ。今日(けふ)の教化は、これまで。残る処は庵室でなりとも、申して聞けませう。愚僧はもう、かう行きまするぞ。
▲アト「いや。申し、御坊様。
▲シテ「やあ。
▲アト「ちと、御酒でも上がりませぬか。
▲シテ「何ぢや。酒を呑め。
▲アト「中々。
▲シテ「いや。これ、誰殿。愚僧が酒を呑まぬ事は、こなた、良う知つてござるではないか。その、呑めもせぬ酒の所へ気を持たうより、不晴(ふせい)の字を思ひ出さつしやれといふ事ぢや{*4}。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「も、かう行きまする。
▲アト「良うお出なされました。
▲シテ「あゝ。いや、合点が行(い)た合点が行(い)た。何が、合点が行(い)た。箸を持つて含(くゝ)むる様に云へども、合点召されぬ。あの人は、あの様な文盲な人ではなかつたが。但し、今からくれまいといふ事かぢやまで。あゝ、浅ましきかなや。肯(うけが)ひぬれば、こんり致す{*5}。肯(うけが)はざれば、長く生死(しやうじ)に落つる。何ぞや、あの人のくるゝ布施物(ふせもつ)は十疋。その十疋の布施物を、真中より押し切つて、大海へさらりさらりとまいたと思うて、有(う)もなう無(む)もなうして帰らうずるものを。由(よし)ない事にほだされて、最前から二度三度(ふたゝびみたび)返つた事の腹立(はらだ)ちさよ。よし、この上は、後から呼び戻すとも、戻りはせまいし。又、呼ぶ体(てい)もないが。扨も扨も、気の毒な事かな。いつも十疋の布施物を、あなたへ入るればこなたが軽し、こなたへ入るればあなたが軽し。互の軽重を譲り合(あふ)て戻つてこそ、面白けれ。今日(けふ)は何ぞや、両の袖が蝉の羽の如くぢや{*6}。これは、どうぞ取り様のありさうなものぢやが。いや、思ひ出いた。方便を以て取らう。これこれ、この思案が、疾(と)うから付けば良かつたものを。何か、文盲な人に経釈を引いて聞かすによつて、合点召されぬ筈の事ぢや。よもや、これで合点の行かぬといふ事はあるまい。
{と云ひて、シテ柱の前にて袈裟をとり、懐中へ入れ、}
はて、異な事の。たつた今まで掛けてゐたが。
{と云うて、ワキ座の方へ、咳払ひなどして尋ぬる。}
▲アト「これはいかな事。座敷に人音がする。誰ぢや知らぬまで。ゑい、御坊様。まだ御帰りなされませぬか。
▲シテ「いや。ちと、物が見えませぬが。
▲アト「はあ。それは何でござる。
▲シテ「愚僧が今朝(こんてう)、これへ参つた時には、慥かに袈裟を掛けてゐました。
▲アト「成程、御袈裟がござりました。
▲シテ「その袈裟を、只今路次で見ますればござらぬによつて、もし、お座敷にても取り落としたかと存じて、見に戻りましてござる。
▲アト「それは定めて、座敷を掃除致した者が、存じてをりませう。尋ねませう。やいやい、御坊様の袈裟を知らぬか。
▲シテ「あゝ。これこれ、誰殿。扨々、こなたは物を声高(こわだか)に云ふ人ぢや。どこにか、出家が袈裟を忘れたなどゝ、人が聞いても、外聞も宜しうござらぬ。なうても苦しうござらぬ。もしあつたらば、見て置いて下されい。隠れもない、古い何色の袈裟でござる。扨、それについて、あの鼠といふものは、悪い事をするものでござる。まづ、鳥目ならば十疋ばかり、あなたこなた通る程、穴を食ひあけてござる。それを、小僧どもに申し付けて、伏縫(ふせぬひ)に縫はせて置きました。なうても苦しうござらぬ。あつたらば、見て置いて下され。愚僧はもう、かう行きまする。
▲アト「あゝ。申し申し、御坊様。
▲シテ「やあ。
▲アト「しばらく御待ちなされて下されい。
▲シテ「何ぞ、御用がござるか。
▲アト「ちと、用事がござる程に、暫くお待ちなされて下されい。
▲シテ「心得ました。
▲アト「これはいかな事。最前から、あの人が度々返らるゝを、何事ぢやと存じてござれば、毎度御斎の後で、鳥目十疋の御布施を致す。今朝(こんてう)は内客に取り紛れて、はたと失念致したれば、気を付けに戻らるゝさうな。これは、やらずはなるまい。
{シテ、この内に様子を立ち聞きして、アト、笛座へ入る体(てい)を見て、}
▲シテ「やうやうと、気が付いたさうな。
{と云うて、シテ、この間、経を小声に読みてゐるなり。}
▲アト「申し、御坊様。申し申し、御坊様。
▲シテ「やあ。
▲アト「面目もない事がござる。
▲シテ「何が面目なうござる。
▲アト「毎度決まつて、鳥目十疋の御布施を致しまする。今朝(こんてう)は内客に取り紛れて、はたと失念致してござる。これは、御布施でござる。
▲シテ「やあ。今、御用があると仰せられたは、その御布施の事でござるか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「扨も扨も、御律儀千万な事かな。私は又何ぞ、外の御用でござるとこそ存じましたれ。どこにか、毎月下さる御布施を、当月一ケ月下されぬと申して、それが何でござる。その様な固い御心入れならば、以来、師壇契約罷りならぬ。いかないかな、思ひもよらぬ事でござる。
▲アト「あ、申し申し。毎月上げまするものを、当月に限つて上げませいでは、何とやら気掛かりにござる。これは、どうぞお受けなされて下さりませ。
▲シテ「こゝに、物とした事がござる。
▲アト「何とでござる。
▲シテ「そなたに限つて、さうは思し召すまいなれども、最前からあの坊主が、二度三度戻つたは、もし、その御布施ばし、取りに戻つたかなどゝ、思し召す段もお恥づかしい。又、折もござらう。まづ、今日は御暇(おいとま)申しませう。
▲アト「あゝ。申し申し、御坊様。何しに私が左様に存じませう。これは、どうぞお受けなされて下さりませ。
▲シテ「左様ならば、物と致しませう。
▲アト「何と仰しやりまする。
▲シテ「まづ、当月は預けて置きまして、来月重ねて申し受けませう。まづ、今日は御暇申しませう。
▲アト「左様ならば、私が御懐へ入れませう。
▲シテ「いや、それならば手へ下されい。
▲アト「いやいや、懐へ入れませう。
{と云ひて、無理に懐へ手を入れ、袈裟衣を引き出し、驚いたシテ、気の毒がる。}
▲アト「申し申し。これは、御坊様の御袈裟ではござりませぬか。
▲シテ「どれどれ。誠に、これは愚僧が袈裟でござる。あゝ。これについて、めでたい事を思ひ出しました。
▲アト「それは何でござる。
▲シテ「総じて、御富貴の御家には、ない物も出ると申すが、こりや、御布施が出ましたれば、袈裟までが出ました。
▲アト「良うお出なされました。
▲シテ「南無妙法蓮華経。
{と云うて、経と布施とも戴き、留めて入るなり。}
校訂者注
1:底本は、「御寺へ御無心に上(あげ)ましたれば」。
2:「『臥せ(布施)』と三度繰り返したのに、まだ気づかないようだ」の意。
3:底本は、「いつまで云うて居(をつ)ても」。
4:「『不晴(ふせい=布施)』の事を思ひ出せ」の意を利かせている。
5:「こんり致す」は、意味不詳。
6:「左右どちらの袂にも十疋の布施が入っておらず、袖が両方とも軽い」の意。
底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.)
無布施経(フセナイキヨオ)(二番目)
▲シテ{*1}「当庵の住持で御座る、毎月決つて{*2}、去る御旦那へ御祈祷に参る、今日も参らうと存ずる、誠に、世には信心な御方が御座る、毎月決つて{*3}不退転の御祈祷を被成るに依て、其身の御事は申に及ばず、御一門迄、次第次第に、御繁昌なさる事で御座る、いや何彼といふ内に是ぢや{ト云て案内乞ふ出るも如常}{*4}愚僧で御座る▲アト「ゑい御坊様是は御苦労に存まする、▲シテ「毎月の事で御座るに依て、御使御座なくとも参らうに殊に夜前は御自身の御出、返す返すも忝う存じまする▲アト「わざと参つたでも御座らぬ、御近所へ参りましたに依つてついでながら御寄申まして御座る▲シテ「いやいやさうでは御座るまい、こなたの様な、御丁寧な御方は御座らぬ、いざかう通りませうか▲アト「つゝと御通り被成ませ▲シテ「心得ました、扨も扨も綺麗な事かな、いつ参つて見ましても、是の御掃除の様な、綺麗な事は御座らぬ、総じて俗衆の言葉にも、綺麗な所を見ては、寺の様なとおせありまするが、是は中々寺恥かしい、御掃除で御座る▲アト「随分と存じますれ共、人を持ませぬに依て、不掃除に御座る、▲シテ「夫はこなたの御ひげで御座る、いざ御祈祷を始めませう▲アト「御苦労に存じまする{シテ扇をひろげて経を下に置き珠数すり経を読みさして}▲シテ「いや先日は御客があるというて、花を取りに遣はされた、折節庭前に、何か{時節の花を云}心よう咲て御座つたに依て、一ト枝進じましたが、何と御役に立ましたかの▲アト「誠に先日は客を得まして、御寺へ御無心に上ましたれば、見事な花を下されて、ざつと客をもてなしまして御座る{又経を読みさし}▲シテ「いや此間は、御内儀が参らせられてのう▲アト「誠に此間は女共が参詣致まして、御寺の御馳走に成ましたと申して帰つていかう悦うでおりました▲シテ「いかないかな、寺の馳走と有る段は卒とも御座らいで{*5}、結句御持せを寺中へ広めまして、小僧共までが悦ました▲アト「結構な御挨拶で御座る{又お経をよむなり}▲シテ「いや是々、毎月の事で御座るに依て、こなたには御聴聞なうても苦敷御座らぬ、御用があらば、勝手へゆかつしやれい{ト云ふて又よむ}▲アト「左様ならば、私は内客を得ましたに依つて、自由ながら勝手へさんじまする{うなづきうなづき経をよみ暫くよみ扨て回向すみせきはらいする名乗座へ行}▲アト「いや御坊様が御仕舞被成たさうな、ゑい御仕舞被成ましたか▲シテ「漸々と仕舞ひました、▲アト「是は御苦労に存まする▲シテ「毎月の事で御座るに、殊に今朝は、結構な調菜でゆるりと、お斎を下されました▲アト「内客に取紛まして、何んのおかまひも申ませなんだ▲シテ「扨てもうかう参りませうか▲アト「早お出被成まするか▲シテ「果てお斎は下さる、お茶迄も被下て、別に御用も御座るまいに依て、最かう参らうかと申事で御座る▲アト「よう御出被成ました▲シテ「はあ、はていな事の、毎月決つて{*6}、鳥目十疋づゝお布施をせらるゝが、けふに限つて何の沙汰がない、定めて内客に取込で、わすれさせられた者で有う、当月一ケ月抔とらぬ分は苦敷なけれ共、此様な事は重ての例に成たがる、気を付て貰うて帰らうと存ずる、申、御旦那御座りまするか▲アト「御坊様の御声ぢやが、ゑい御坊様、▲シテ「ハア▲アト「何として御帰り被成ました▲シテ「さればその事で御座る{*7}、今朝こなたへ参つたらば、早々お断を申さいで、叶はぬ事が御座たを、はたと失念致して、是を申に帰りました▲アト「夫は何で御座りまするぞ▲シテ「先夜前は御自身の御出で御座たに依て、天晴今朝は、未明から参らうと存じて、宵からじつとたくんでをりました所に、夕べ俄に寺中に寄合が御座て、夜ふくるまで居りましたれば、今朝はふせりすごいて御座る、此ふせりすごいた段を、御断申さうと存じたを、はつたと忘れまして、是を御断りに参りました▲アト「扨て扨て御念のいつた御事で御座る、別て今朝は、いつもより御早かつたかと存じまするが▲シテ「いかないかな、どこにか出家が、あの様に朝ふせりをする抔と思召す段もお恥かしい、愚僧は此お断に参りました、もうかう参りませう▲アト「ようお出被成ました▲シテ「さらば、是でも合点がゆかぬさうな。何とした者で有うぞ、いや、教化して取う、申々誰殿御座りますか▲アト「是はいかな事又御坊様の御声がする、ゑい御坊様、まだ御帰り被成ませぬか▲シテ「又此度は、こびた事を思ひ出して、戻りました▲アト「夫は何で御座る▲シテ「先愚僧が旦那方多い中に、こなたの様な、御信心なお方はないぢや迄▲アト「ハア▲シテ「いつぞは参て、一句の教化をも致してきけませうと存ずれ共、其折も御座らぬ、今日は庵室へ帰つても、さのみ用事も御座らぬに依て、もし御望ならば一句申てきけませうか、但しおいやか▲アト「それは忝う御座る、私も予々の望で御座る程に、おきかせ被成て下されい▲シテ「何おきゝなされう▲アト「ハア▲シテ「さゝさうで御座らう、こなたの様な御信心な御方は御座らぬ、夫ならば立ちながら申てきけませう、爰に物とした事が御座る▲アト「何とで御座る▲シテ「身命財を擲て伝法せんと欲せば、供仏施僧捨身を専らとせよ、雲となり雨となる、不晴不霽の時、今朝言はず別離の上といふ事があるが、こなた御存じか▲アト「左様の事は曽て存じませぬ▲シテ「先是をあらあらかうしやく致さば身命財、しんは身、めうは命、財はたから、此三つをなげうつて、でんぽうせんとほつせばとは、此法をよく伝へんとほつせばといふ事▲アト「ハア▲シテ「供仏とはほとけを供養し堂を建立する等の事、施僧とは、我等ごとき{*8}の貧僧に、物を施を施僧と申す、捨身とは身を捨るとかく、身を捨るというてあながち、海川山へ身を捨るではない、法の為に身を捨るを捨身と申す、雲となり雨となるとは、有為転変の決り{*9}定まらぬ事、ふせいぶせいのじ、いや是々、爰がかんじんの所ぢやようきかつしやれや▲アト「畏て御座る▲シテ「先ふせいとは晴やらざる時{*10}とかく、晴やらぬ時ぢやまで、今朝とは今のあした。別離とは別れはなるゝ、たとへばそなたと愚僧と斯様に申談ずれ共、庵室へ帰れば、早爰は別離で御座らぬか▲アト「左様で御座る▲シテ「さそこを、昔の恋の歌にも、遇ふ時は語つくすと思へ共、わかれになれば、残る言の葉。共読みをかれた、あの人に逢ふたらば、是をいはう者を語らう者を、やらう者をおませう者をと思へ共、時に依つて失念せいで叶はぬ事が有に依つて、よう思案をして、やるべき物はやり、とるべい物はとつたが{*11}よう御座る▲アト「左様で御座る▲シテ「左様で御座るとは、こなた合点が行きましたか▲アト「成程合点致まして御座る▲シテ「何れこなたは並々の御人ではないに依て、是程の事の合点のゆかぬといふ事は御座るまいが、去ながら物にはよう思案をして見たがよい、あの人があの様にいはるゝは、おれは何もわすれた事はないかと、じつと思案を被成た時、さればこそ是をわすれた、あゝ是は最前やる筈で有た者を、今はだしをくれになつて出されまい、来月かさねてなり共やらう、抔と思ふ事が{*12}、こなたの身の上に、有まい事でないぞや▲アト「何れ有さうな事で御座る▲シテ「有う事の▲アト「左様で御座る▲シテ「それでも大事ないが、相手の気にもなつて見たがよう御座る、是は毎月くれらるゝ物ぢやに、けふに限つてくれられぬは、但し今からくれまいと云ふ事か、兎やあるかくやあらんと、無量の罪を作りまする、すれば自他の為に益がないに依つて、思ひ出しさへ被成たらば、前も後も後も先も顧みず、さらりとやつて、埒をあけさつしやれといふ事ぢや▲アト「左様で御座る▲シテ「果て気の毒な、左様で御座る左様で御座ると、是はつい合点のゆく事で御座るが▲アト「成程合点致て御座る▲シテ「いやいや、まだ合点のいた顔ではない、先づ人間は欲にはなれたがよい、欲程浅間敷は御座らぬ、欲がなければ苦がなし{*13}、苦のない処を寂光浄土と仏もときをかれたは扨▲アト「左様で御座る▲シテ「ゑゝ気の毒な、左様で御座る左様で御座ると、是はつい合点の行く事で御座るが▲アト「成程合点致まして御座る▲シテ「あの合点がゆきましたか▲アト「左様で御座る▲シテ「其様に合点がいた合点がいたといはつしやれば、愚僧ぢやというてせう事が御座らぬ、此様な事はいつまで云うて居てもつきる事では御座らぬ、けふの教化は是迄、残る処は庵室で成り共申てきけませう愚僧はもふかうゆきまするぞ▲アト「いや申し御坊様▲シテ「やあ▲アト「ちと御酒でもあがりませぬか▲シテ「何ぢや酒をのめ▲アト「中々▲シテ「いや是誰殿、愚僧が{*14}酒をのまぬ事はこなたよう知つて御座るではないか、其呑もせぬ酒の所へ気を持うより、ふせいの字を思ひ出さつしやれといふ事ぢや▲アト「畏て御座る▲シテ「もかう行まする▲アト「ようお出被成ました▲シテ「あゝ、いや合点がいた合点がいた何が合点がいた、箸を持つてくゝむる様にいへども合点めされぬ、あの人はあの様な文盲な人ではなかつたが、但し今からくれまいといふ事かぢや迄、あゝ浅間敷かなや、うけがひぬればこんり致すうけがはざればながく{*15}生死に落る、何ぞやあの人のくるゝ布施物は十疋、其十疋の布施物をまん中より押切つて、大海へさらりさらりとまいたと思うて、有もなう無もなうして帰らうずる者を、よしない事にほだされて最前から二タ度三度帰た事の腹立さよ、よし此上は、後から呼戻す共、戻りはせまいし、又呼体もないが、扨も扨も気の毒な事かな、いつも十疋の布施物を、あなたへいるればこなたがかるし、こなたへ入ればあなたがかるし、互の軽重を譲り合て戻つてこそ面白けれ、けふは何ぞや両の袖が、蝉の羽のごとくぢや、是はどふぞ取り様の有さうな者ぢやが、いや思ひ出いた、方便を持つて取う、是々、此思案が、とうからつけばよかつた者を、何か文盲な人に、経釈をひいて聞かすに依て、合点召されぬ筈の事ぢや、よもや是で合点のゆかぬといふ事は有まい{ト云てシテ柱の前にて袈裟をとり懐中へ入}{*16}果ていな事の、たつた今迄かけて居たが{ト云てワキ座の方へせきはらい抔して尋る}▲アト「是はいかな事座敷に人音がする、誰ぢやしらぬまで、ゑい御坊様、まだ御帰り被成せぬか▲シテ「いやちと物が見へませぬが▲アト「はあ夫は何で御座る▲シテ「愚僧が今朝是へ参つた時には慥に袈裟を掛ていました▲アト「成程お袈裟が御座りました▲シテ「其袈裟を、唯今路次で見ますれば、御座らぬに依つて、もしお座敷にても、取落したかと存じて、見に戻りまして御座る▲アト「夫は定めて、座敷を掃除致した者が存じてをりませう、尋ませう、やいやい御坊様の袈裟をしらぬか▲シテ「あゝ是々誰殿、扨々こなたは、物をこわ高に云ふ人ぢや、どこにか出家が、袈裟をわすれた抔と、人がきいても外聞も宜敷御座らぬ、なうても苦敷御座らぬ、もしあつたらば見てをいて下されい、隠れもない、古い何色の袈裟で御座る、扨夫について、あの鼠といふ者は、わるい事をする者で御座る、先鳥目ならば十疋ばかり、あなたこなた通る程、穴をくひあけて御座る、夫を小僧共に申付て、ふせぬひにぬはせて置ました、なうても苦敷御座らぬ、有つたらば見て置て下され、愚僧はもうかうゆきまする▲アト「あゝ申々御坊様▲シテ「やあ、▲アト「しばらく御待被成て下されい▲シテ「何ぞ御用が御座るか▲アト「ちと用事が御座る程に、暫くお待被成て下されい▲シテ「心得ました▲アト「是はいかな事、最前からあの人が度々帰らるゝを、何事ぢやと存じて御座れば、毎度おときの後で、鳥目十疋のお布施を致す、今朝は内客に取紛て、はたと失念致したれば、気を付けに戻らるゝさうな、是はやらずは成るまい{シテ此内に様子を立聞してアト笛座へ入る体を見て}▲シテ「漸と気が付たさうな{ト云ふてシテ此間経を小声によみて居る也}▲アト「申御坊様、申、申御坊様▲シテ「やあ▲アト「面目もない事が御座る▲シテ「何が面目なう御座る▲アト「毎度決つて{*17}、鳥目十疋のお布施を致まする、今朝は内客に取紛て、はたと失念致て御座る、是はお布施で御座る▲シテ「やあ今御用があると、仰られたは、其の御布施の事で御座るか▲アト「左様で御座る▲シテ「扨ても扨てもお律儀千万な事かな、私は又何ぞ、外の御用で御座るとこそ存じましたれ、どこにか毎月下さるお布施を、当月一ケ月下されぬと申て、夫が{*18}何で御座る、其様なかたいお心入れならば、以来師壇契約罷ならぬ、いかないかな思ひもよらぬ事で御座る▲アト「あ申々、毎月上げまする物を、当月に限つて上げませいでは、何とやら気掛りに御座る、是はどうぞお受被成て下さりませ▲シテ「爰に物とした事が{*19}御座る▲アト「何とで御座る{*20}▲シテ「そなたに限つてさうは思召まいなれ共、最前からあの坊主が、二度三度戻つたは、もし其の御布施ばし、取に戻つたか抔と、思召段もお恥かしい、又折も御座らう先今日はお暇申ませう▲アト「あゝ申々御坊様、何しに私が左様に存じませう、是はどうぞお受被成て下さりませ、▲シテ「左様ならば物と致ませう▲アト「何と被仰りまする{*21}▲シテ「先当月は預けて置まして、来月かさねて申請ませう、先今日は御暇申ませう▲アト「左様ならば、私がおふところへいれませう▲シテ「いや夫れならば手へ下されい▲アト「いやいやふところへいれませう{ト云て無理にふところへ手を入れ袈裟衣を引出し驚たシテ気毒がる}▲アト「申々、是は御坊様の御袈裟では御座りませぬか▲シテ「どれどれ、誠に是は愚僧が袈裟で御座る{*22}、あゝ是について目出たい事を思ひ出しました▲アト「夫は何で御座る▲シテ「総じて御富貴のお家には、ない物も出ると申が、こりや御布施が出ましたれば、袈裟迄が出ました▲アト「ようお出なされました▲シテ「南無妙法蓮華経{ト云ふて経と布施共戴き留て入る也}
校訂者注
1:底本に、「▲シテ「」はない。
2:底本は、「さればの事でござる」。
2・17:底本は、「毎度定つて」。
3・6:底本は、「毎月定(きま)つて」。
3・6:底本は、「毎月定(きま)つて」。
4:底本は、「▲シテ「愚僧で御座る」。
5:底本は、「御座らいて」。
7:底本は、「さればの事でござる」。
8:底本は、「我等ことき」。
9:底本は、「有為転変の定り」。
10:底本は、「晴やらさる時」。
11:底本は、「とるべい物はとつたか」。
12:底本は、「抔と思ふ事か」。
13:底本は、「苦かなし」。
14:底本は、「愚僧か」。
15:底本は、「なかく」。
16:底本は、「▲シテ「果ていな事の」。
18:底本は、「夫か」。
19:底本は、「爰に物とした事か」。
20:底本は、「何とて御座る」。
21:底本は、「何と被成(おつしや)りまする」。
22:底本は、「愚僧か袈裟で御座る」。
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