宗論(しゆうろん)(二番目)
▲アト「《次第》{*1}南無妙法蓮華経、蓮華経の経の字を、興ぜんと人や思ふらん。
{小アト・地、次第取る。}
これは、都・本国寺の寺僧でござる。この度、甲斐の国・身延(みのぶ)へ参詣致し、只今が下向道でござる。まづ、そろりそろりと参らう。誠に、吾が宗旨を褒むるではござらねども、この度、身延へ参詣致してござれば、弥増(いやま)しにありがたう存ずる事でござる。残りの寺僧達の聞かれたらば、さぞ羨ましがらるゝでござらう。いや、これまで参つたれば、いかう草臥(くたび)れた。暫らくこれに休らうて、似合(にあは)しい連(つれ)もあらば、言葉を掛け同道致さうと存ずる。
▲シテ「《次第》{*2}南無阿弥陀仏の六(む)つの字を、南無阿弥陀仏の六(む)つの字を、むつかしと人や思ふらん。
{地、次第取る。}
これは、都・東山、黒谷の寺僧でござる。こん度(たび)、信濃の国、善光寺へ参詣致し、只今が下向道でござる。まづ、そろりそろりと参らう。誠に、年月の念願でござつたに、この度、願成就致して、この様な悦ばしい事はござらぬ。残りの寺僧達が聞かれたらば、さぞ羨ましがらるゝでござらう。
▲アト「いや、これへ一段の人が見えた。言葉を掛けて同道致さう。しゝ申し、これこれ。
▲シテ「この方の事でござるか。
▲アト「成程、こなたの事でござる。これは、どれからどれへお出なさるゝ。
▲シテ「愚僧は、都へ登る者でござるが、何ぞ御用でばしござるか。
▲アト「それは、幸ひの事でござる。愚僧も都へ登る者でござる。何と、同道なされまいか。
▲シテ「幸ひ、一人(ひとり)で連(つれ)欲しう存じた。成程、同道致しませう。
▲アト「それならば、いざござれ。
▲シテ「何が扨、こなたが先(せん)ぢや。まづ、こなたからござれ。
▲アト「先と仰せらるゝ程に、愚僧から参らうか。
▲シテ「一段と良うござる。
▲アト「さあさあ、御笠を召せ。
▲シテ「心得ました。
▲アト「扨、ふと言葉を掛けましたに、早速御同心なされて、この様な悦ばしい事はござらぬ。
▲シテ「連(つれ)には、似合(にあ)うたもあり、又、似合(にあは)ぬもござるが、こなたも御出家、身共も坊主。
▲アト「それそれ。
▲シテ「この様な似合(にあ)うた良い連(つれ)はござるまい。
▲アト「扨、この上は互に、隙(ひま)がいりませうとも待ち合(あは)せて、都までは篤(とく)と同道致しませうぞ。
▲シテ「扨々、それは頼もしい事を仰せらるゝ。必ず、その筈でござるぞや。
▲アト「扨、こなたは都はどこでござる。
▲シテ「愚僧は都と申しても、つゝと片辺土の者でござる。こなたは、都はどこでござる。
▲アト「愚僧は、都・本国寺の寺僧でござる。
▲シテ「ほい。
▲アト「この度、甲斐の身延へ参詣致し、只今が下向道でござる。
▲シテ「何ぢや、身延へ御参りあつた。
▲アト「中々。
▲シテ「はあん。
{と云うて、アトの様子を見る心持ちにて、脇へ退(の)く。}
▲アト「異な顔をするが、合点の行かぬ事ぢや。
▲シテ「《笑》例の情強者(じやうごはもの)に出合(であふ)た。路次すがら、なぶつて参らうと存ずる。
▲アト「なうなう、御坊。こなたは、都どこ元でござる。
▲シテ「最前も申した通り、都と申しても、つゝと片辺土の者でござる。又、路次でなりとも申さう。いざ、ござれ。
▲アト「あゝ、これこれ。その様に仰せられては、互に心が置かれて、悪うござる。是非とも仰せられい。
▲シテ「扨は、是非ともでござるか。
▲アト「中々。
▲シテ「それならば、申さう。都は東山でござる。
▲アト「して、東山にとつても、どこ元でござる。
▲シテ「黒谷の寺僧でござる。
▲アト「ほい。
▲シテ「この度、信濃の国、善光寺へ参詣致し、只今が下向道でござる。
▲アト「何ぢや、善光寺へ御参りあつた。
▲シテ「中々。
▲アト「あゝ、そなたのなりを見るに、その善光寺とやらへ、参らいで叶はぬなりぢや。
▲シテ「いかにも、参つておりある。
▲アト「いや。
{と云うて、脇へ退(の)く。シテ、笑ふなり。}
▲シテ「はや、嫌がるわ。扨も扨も、面白い事ぢや。
▲アト「扨も扨も、もつけなやつと連(つれ)になつた。何としたものであらうぞ。いや、致し様がござる。なうなう、御坊。
▲シテ「何でござる。
▲アト「愚僧は、はつたと失念した事でござる。
▲シテ「それは、何でござる。
▲アト「あれ、あの向うに見ゆる在所へ、寄らいで叶はぬ事があつたを、はたと忘れて、こなたと堅く御約束を申したれども、愚僧は、あれへ寄つて参らう程に、こなたは先へ行つて下され。
▲シテ「出家同士の云ひ合(あは)せたは、そこでござる。こなたに隙(ひま)がいりますならば、隙(ひま)のあくまで待ちませうわ、扨。
▲アト「いや、この隙が、五日三日で済めば良うござれども、廿日かゝらうやら、又、三十日かゝらうやら、知れませぬ。是非とも先へ行(い)て下され。
▲シテ「廿日三十日の事は、おかせられい。五年が十年でも、待ちませう。
▲アト「やあ、何ぢや。五年が十年でも待たう。
▲シテ「をゝ、扨。待つとも。
▲アト「いや、こゝな者が。愚僧は、その様に隙(ひま)をいれてゐる事はならぬ。先へ行くぞ。
▲シテ「おぬしが行かば、身共も行くぞ。
▲アト「あゝ。そちと身共と、編み連れた身ではあるまいぞいやい。
▲シテ「はて。出家同士の云ひ合(あは)せたからは、編み連れた身程の者よ。
▲シテ「はて。出家同士の云ひ合(あは)せたからは、編み連れた身程の者よ。
▲アト「いや。
▲シテ「なう、御坊。そなたに、ちと異見をしたい事がある。
▲アト「何か異見がしたい。
▲シテ「そなたの宗旨の様な、事くどい宗旨はない。たとへば、法華経一部八巻二拾八品などと云うて、その様なゝま長い事を唱ふより、愚僧が宗旨にならしませ。愚僧が宗旨のありがたさは、南無阿弥陀仏の六字をさへ唱ふれば、極楽往生疑ひない。これ、この珠数は、元祖・法然上人より授かつた珠数ぢや。これを戴いて、愚僧が宗旨にならしませ。
▲アト「その珠数が、それ程ありがたくば、おぬしばかり戴いてゐよ。
▲シテ「はて、さう云はずとも、ちと戴け。
{と云ひて、珠数を戴かす。アト、嫌がる。シテ、笑ふ。}
▲アト「嫌でおりある、嫌でおりある。
{と云ひて、脇座へ逃ぐるなり。}
▲シテ「扨も扨も、面白い事ぢや。
▲アト「えゝ、したゝか戴かせをつた。なうなう、御坊。
▲シテ「やあやあ。
▲アト「そなたにも、ちと異見をしたい事がある。
▲シテ「何か異見がしたい。
▲アト「そなたの宗旨の様な、埒のあかぬ法はない。あそこの隅ではぐどぐど、こゝの隅ではぐどぐど、悉皆(しつかい)、黒豆を数ふる様な、その様な事で中々、仏にはなられぬ。愚僧が宗旨にならしませ。愚僧が宗旨のありがたさは、妙法蓮華経の題目をさへ唱ふれば、即身成仏疑ひない。これ、この珠数は、高祖・日蓮大上人より、仔細あつて伝はつた珠数ぢや。これを戴いて、愚僧が宗旨にならしませ。
▲シテ「その珠数が、それ程ありがたくば、おぬしばかり戴いてゐよ。
▲アト「はて、さう云はずとも、ちと戴かせう。
{と云うて、珠数を戴かすなり。}
▲シテ「嫌でおりやる。
▲アト「ちと戴け。
▲シテ「それならば。これを戴け。
▲アト「それは嫌ぢや。
▲シテ「ちと戴け。
{と云ひて、又戴かす。}
▲アト「嫌ぢや、嫌ぢや。
{と云ひて逃ぐるを、シテ、追ひ廻す。アト、笠を払ひ落として、}
あゝ、したゝか戴かせをつた。なうなう、御亭主ござるか。
▲小アト「これに居まする。
▲アト「旅の坊主でござる。一夜の宿を貸して下されい。
▲小アト「易い事でござる。かう、お通りなされませい。
▲アト「心得ました。
▲シテ「《笑》扨も扨も、面白い事ぢや。何ぞや、この珠数が、笠にも付いてあるものゝやうに、打ち払ひ打ち払ひ、嫌がる。
{と云うて、笑ふ。}
ちと戴け、戴け。やあ、たつた今までこれにゐたが、どれへ行つた事ぢや知らぬまで。あ、この内へ入つたものであらう。物も、案内もう。
▲小アト「表に案内がある。案内とは誰(た)そ。
▲小アト「表に案内がある。案内とは誰(た)そ。
▲シテ「旅の坊主でござる。一夜の宿を貸して下されい。
▲小アト「易い事でござる。かう、通らせられい。
▲シテ「最前、愚僧が様な出家は、参らなんだか。
▲小アト「成程、御宿申してござる。
▲シテ「それは、愚僧が連(つれ)でござる。
▲小アト「御連(おつれ)ならば、云ひ合(あは)せて一緒にござれ。
▲シテ「心得ました。どれにゐる事ぢや知らぬまで。さればこそ、あれに、つゝくりとしてゐる。来るなら来ると、云ひたいものを。
▲シテ「心得ました。どれにゐる事ぢや知らぬまで。さればこそ、あれに、つゝくりとしてゐる。来るなら来ると、云ひたいものを。
▲アト「えゝ。おぬしはまた来たか。
▲シテ「はて、連(つれ)ぢやもの。来いでならうか。
▲アト「なうなう、御亭主。別の間はござらぬか。
▲小アト「いや、別の間はござらぬ。
▲シテ「なう、別の間はござるまい。
▲アト「あるやらないやら、おぬしが何を知つて。
▲シテ「でも、ないと仰(お)せあるもの。
▲アト「いや。
▲シテ「《笑》なう、御坊、御坊。なう、御坊。
▲アト「えゝ、喧(かしま)しい。何ぢやぞいやい。
▲シテ「なぜその様に、腹をお立ちある。出家同士の只居るは、悪い。夜もすがら、宗論をせうと思ふが、何とあらう。
▲アト「何ぢや。宗論をせう。
▲シテ「中々。
▲アト「最前から、わごりよの仰(お)せある事は、一つとして身共が耳へ入らぬが、成程、宗論は良からう。さりながら、愚僧が勝つたらば、そなたを愚僧が宗旨にするぞや。
▲シテ「成程、そなたの宗旨にならう。又、愚僧が勝つたらば、わごりよを愚僧の弟子にするが、合点か。
▲アト「そりや、その時の時宜によらう。
▲シテ「それそれ、それからが情が強い。まづ、法文(ほふもん)をお説きあれ。
▲アト「説いて聞かせう。良うお聞きあれ。
▲シテ「早うお説きあれ。
▲アト「それ、法文様々ありとは云へども、中にも、五十転々(てんでん)随喜の功徳、又は随喜の涙(なんだ)とも、説き和らげさせられた法文があるが、何と、おぬしは聞いた事があるか。
▲シテ「何(いづ)れ、どこやらで聞きはつゝた様な。
▲アト「又、聞かいでならうか。凡(およ)そ日本に、はびこる程の法文ぢや。
▲シテ「大きな事を云ひ出した。その様な事を云はずとも、早う法文をお説きあれ。
▲アト「まづ、この心は、春園に、芋といふものを植うる。
▲シテ「成程、植うる。
▲アト「雨露(うろ)の恵みを承けて、七八月の頃にもなれば、かの芋より、苧莄(ずゐき)といふものが、生え生(ば)えする。
▲シテ「いかにも、生え生(ば)えする。
▲アト「所を、刃物を以て、手一束(いつそく)に刈り取り、良く湯煮(ゆに)をし、山桝の粉などを放(はな)いて食(た)ぶれば、あら旨(うま)やと思うて、ずいきの涙がぽろりとこぼるゝ。こゝを以て、五十転々随喜の功徳、又はずゐきの涙(なんだ)とも、説き和らげさせられた法文の心ぢやが、何と、ありがたいか。
▲シテ「これこれ。由(よし)ない事を云はずとも、早う法文をお説きあれ。
▲アト「おぬしは何を聞いてゐる。これが法文ぢや。
▲シテ「何ぢや。それが法文ぢや。
▲アト「中々。
▲シテ「あの、今のがや。
▲アト「おんでもない事。
▲シテ「いつ釈迦が、ずいき汁をお参りあつた事があるぞいやい。
{と云ひて、笑ふ。}
▲アト「あゝ、これこれ。その様な悪口を云はずとも、早う法文をお説きあれ。
▲シテ「この後で説いて聞かす様な、法文ではなけれども、そこが宗論ぢや。説いて聞かせう。良うお聞きあれ。
▲アト「早うお説きあれ。
▲シテ「それ、法文様々ありといへども、中にも、一念弥陀仏即滅無量罪、又は、無量のさいとも説き和らげさせられた法文があるが、何と、おぬしは聞いた事があるか。
▲アト「いづれ、空吹く風の様に、聞いた事がある。
▲シテ「又、聞かいでならうか。唐土(とうど)・天竺・我が朝三国に、はびこる程の法文ぢや。
▲アト「《笑》あゝ、大きな事を云ひ出した。その様な事を云はずとも、早う法文をお説きやれ。
▲シテ「まづ、この心は、世には事足らうた御方もあり、又事足らはぬ御方もある。
▲アト「成程、ある。
▲シテ「かの事足らうた御方へ御斎(おとき)に参れば、膳の向うには、牛房(ごばう)・湯皮(ゆば)・紅麩(べんぷ)・椎茸・醍醐の烏頭芽(うどめ)・鞍馬の木の芽漬け、あるとあらゆる種々無量の菜を、取り調(とゝの)へて下さるゝ。
▲アト「いかにも、下さるゝ。
▲シテ「又、事足らはぬ御方へ御斎に参れば、塩山桝の体(てい)で下さるゝ。
▲アト「これは、かうありさうな事ぢや。
▲シテ「その時、観念の仕様がある。
▲アト「何と観念するぞ。
▲シテ「まづ、目をきつと塞いで、一念弥陀仏即滅無量罪、又は無量の菜、さい、と唱ふれば、何はなけれども、膳の向うには、牛房・湯皮・紅麩・椎茸・醍醐の烏頭芽(うどめ)・鞍馬の木の芽漬け、あるとあらゆる種々無量のさいが、あるあるあると、思うて下さる。こゝを以て、一念弥陀仏即滅無量罪、又は無量のさいとも、説き和らげさせられた法文の心ぢやが、何と、ありがたいか。
▲アト「いや、これこれ。由(よし)ない献立を云はずとも、早う法文をお説きやれ。
▲シテ「をぬしは、最前から何を聞いてゐる。これが法文ぢや。
▲アト「やあ、それが法文ぢや。
▲シテ「中々。
▲アト「それは誠か。
▲シテ「誠ぢや。
▲アト「真実か。
▲シテ「おんでもない事。
▲アト「それは悉皆、有財餓鬼(うざいがき)といふものぢや。
▲シテ「はて、有財餓鬼であらう様は。
▲アト「はて、ないものをあるあると思うて食ふは、有財餓鬼ではないか。
▲シテ「非学者論議に負けずと云ふは、おぬしが事ぢや。そなたの様な者と、起きて居てしやべらうより{*3}、愚僧は寝仏者を致さう。
▲アト「あゝ、これこれ。もそつと起きて居て、しやべらいでな。宵からの冗談が過ぎたと思うた。おぬしが寝仏者をするならば、愚僧も寝法華{*4}を致さう。
▲シテ「扨も扨も、良う寝た事かな。これはいかな事。晨朝(じんてう){*5}の時分ぢや。勤めを致さう。
{と云ひて、珠数を懐中し、扇を持つて鉦を打つ心をする。笠をぐわんぐわんぐわんと三つ叩き、扇子をさして、珠数を擦(す)り拝む。「帰妙無量寿如来尊極楽世界」と、経を読み読み、アト寝入りたるを、さし足して、アトの耳の傍にて「南無阿弥陀仏」と云ひて退(の)き、又、経を読みてゐるなり。アト、肝をつぶして起きるなり。}
▲アト「あゝ、喧(かしま)しや喧しや。きやつは、夜もろくに寝ぬさうな。いや、これは勤行の時分ぢや。勤めを致さう。ちんちんちん。
{と云ひて、鈴(りん)を叩く心を、扇子にてする。扨、珠数を擦り拝み、「妙法蓮華経陀羅尼品第廿六」と経を読み、それより二人、互に噛み付くやうに、せり合ひせり合ひ、傍へ寄りて読むなり。}
▲シテ「負けじ劣らじと、経を読みをる。踊念仏と以て、迷惑がらせう。ぐはんぐはんぐはん。南無阿弥陀(なもうだ)南無阿弥陀(なもうだ)。
{と、拍子にかゝり云ふ。アト、驚きて、}
▲アト「どうでもきやつは、気が違うたさうな。致し様がござる。
{と云ひて、「南無妙法蓮華経」を、拍子にかゝり云ふ。シテ、寄り詰めて踊る。互に詰まりて、両人とも取り違へて、後に両人とも心付き、口に手を当て、左右に退(の)きて、}
▲シテ「《カゝル》げに、今思ひ出したり。昔在霊山妙法華。
▲アト「今在西方妙阿弥陀。
▲シテ「娑婆示現観世音。
▲アト「三世利益。
▲シテ「三世利益。
▲二人「{*6}一体と、この文を聞く時は、この文を聞く時は、法華も弥陀も隔てはあらじ。今より後(のち)は二人(ふたり)が名を、今より後は二人が名を、妙、阿弥陀仏とぞ申しける。
校訂者注
1:底本、ここから「興せんと人や思ふらん」まで、傍点がある。
2:底本、ここから「むつかしと人や思ふらん」まで、傍点がある。
3:底本は、「起きて居て[口昏]らうより」。[口昏]は存在しない漢字であるが、続くアトのセリフ「起きて居てしやべらいでな」と対をなす表現と考え、「しやべる」と読ませる字と判断した。
4:「寝法華」は、「寝ながら法華経を唱える」意。
5:「晨朝(じんてう)」は、「寺院で行われる朝の勤行」の意。
6:底本、「一体と此文を聞く時は」から以降、最後まで傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.)
宗論(シユウロン)(二番目)
▲アト「《次第》南無妙法蓮華経、蓮華経の経の字を、興せんと人や思ふらん{小アト地次第取}{*1}是は、都本国寺の寺僧で御座る、此度甲斐の国身延へ参詣致し、唯今が下向道で御座る、先そろりそろりと参らう、誠に、吾宗旨をほむるでは御座らねども此度身延へ参詣致て御座れば、いやましに有難う存ずる事で御座る、残りの寺僧達のきかれたらば、嘸羨ましがらるゝで御座らう、いや、是迄参つたれば、いかう草臥た、暫是に休らうて、似合しいつれもあらば、言葉をかけ同道致さうと存ずる▲シテ「《次第》南無阿弥陀仏のむつの字を、南無阿弥陀仏のむつの字を、むつかしと人や思ふらん{地次第取}是は都東山、黒谷の寺僧で御座る、此度信濃の国、善光寺へ参詣致、唯今が下向道で御座る、先そろりそろりと参らう、誠に、年月の念願で御座つたに、此度願成就致て、此様な悦ばしい事は御座らぬ残りの寺僧達がきかれたらば、嘸羨ましがらるゝで御座らう、▲アト「いや是へ一段の人が見えた、言葉を掛て同道致さう、しゝ申是々▲シテ「此方の事で御座るか▲アト「成程こなたの事で御座る、是はどれからどれへお出被成る▲シテ「愚僧は都へ登る者で御座るが、何ぞ御用でばし御座るか▲アト「夫は幸ひの事で御座る、愚僧も都へ登る者で御座る、何と同道なされまいか▲シテ「幸ひ独りで連ほしう存じた、成程同道致ませう▲アト「夫ならばいざ御座れ▲シテ「何が扨てこなたが先ぢや、先こなたから御座れ▲アト「先と仰らるゝ程に、愚僧から参らうか▲シテ「一段とよう御座る▲アト「さあさあお笠をめせ▲シテ「心得ました、▲アト「{*2}扨てふと言葉を掛ましたに、早速御同心被成て、此様な悦ばしい事は御座らぬ、▲シテ「連には似合うたもあり、又似合ぬも御座るが、こなたも御出家身共も坊主▲アト「夫々▲シテ「此様な似合うたよい連は御座るまい▲アト「扨て此上は、互に隙がいりませう共待合て都迄は、とくと同道致ませうぞ▲シテ「扨々夫は頼母しい事を仰らるゝ、かならず其筈で御座るぞや▲アト「扨こなたは都はどこで御座る▲シテ「愚僧は都と申ても、つゝと片辺土の者で御座る、こなたは都はどこで御座る▲アト「愚僧は都本国寺の寺僧で御座る▲シテ「ほい▲アト「此度甲斐の身延へ参詣致、唯今が下向道で御座る▲シテ「何ぢや身延へお参りあつた▲アト「中々▲シテ「はあん{ト云ふてアトの様子を見る心持にて脇へのく}▲アト「いな顔をするが合点のゆかぬ事ぢや▲シテ「《笑》例の情強者に出合た、ろしすがら{*3}なぶつて参らうと存ずる、▲アト「なうなう御坊、こなたは都何処許で御座る▲シテ「最前も申た通り、都と申ても、つゝと片辺土の者で御座る、又路次でなりとも申さういざ御座れ▲アト「あゝ是々其様に仰られては、互に心がおかれてわるふ御座る、是非共仰られい▲シテ「扨は是非共で御座るか▲アト「中々▲シテ「夫ならば申さう、都は東山で御座る▲アト「して東山にとつても、どこ許で御座る▲シテ「黒谷の寺僧で御座る▲アト「ほい▲シテ「此度信濃の国、善光寺へ参詣致、唯今が下向道で御座る▲アト「何ぢや善光寺へ御参りあつた▲シテ「中々▲アト「あゝそなたのなりを見るに、其善光寺とやらへ、参らいで{*4}叶はぬなりぢや▲シテ「いかにも参つておりある▲アト「いや{ト云ふて脇へのくシテ笑ふなり}▲シテ「はやいやがるは、扨ても扨ても面白い事ぢや▲アト「扨も扨ももつけなやつとつれになつた、何とした者で有らうぞ、いや、致様が御座る、なうなう御坊▲シテ「何で御座る▲アト「愚僧ははつたと失念した事で御座る▲シテ「夫は何で御座る▲アト「あれ、あの向うに見ゆる在所へ、よらいで叶はぬ事があつたを、はたとはすれて、こなたと堅くお約束を申したれ共、愚僧はあれへよつて参らう程に、こなたは先へいつて下され▲シテ「出家同士の云合たはそこで御座る、こなたに隙が入ますならば、隙のあく迄待ませうわ扨▲アト「いや此隙が、五日三日ですめばよう御座れども廿日かゝらうやら、又三十日かゝらうやらしれませぬ、是非とも先へいて下され▲シテ「廿日三十日の事はおかせられい、五年が十年でも待ませう▲アト「やあ何ぢや、五年が十年でも待う▲シテ「をゝ扨てまつ共▲アト「いや爰な者が、愚僧は其様に隙をいれている事はならぬ、先へゆくぞ▲シテ「おぬしが行かば身共も行くぞ▲アト「あゝそちと身共と、あみつれた身では有まいぞいやい▲シテ「はて出家同士の言合たからは、あみつれた身程の者よ▲アト「いや▲シテ「なう御坊、そなたにちと異見をしたい事がある▲アト「何か異見がしたい▲シテ「そなたの宗旨の様な、事くどい宗旨はない、たとへば法華経一部八巻二拾八品抔というて、其様なゝまながい事{*5}を唱ふより、愚僧が宗旨にならしませ、愚僧が宗旨の有難さは、南無阿弥陀仏の、六字{*6}をさへ唱ふれば、極楽往生うたがひない{*7}、是、此珠数は、元祖法然上人より、さずかつた珠数ぢや、是をいたゞいて、愚僧が宗旨にならしませ、▲アト「其の珠数が、夫程有難くば、おぬしばかりいたゞいて{*8}ゐよ▲シテ「果てさういはず共、ちといただけ{ト云て珠数をいたゞかすアトいやがるシテ笑ふ}▲アト「いやでおりあるいやでおりある{ト云て脇座へ逃るなり}▲シテ「扨も扨も面白い事ぢや▲アト「えゝ、したゝかいたゞかせおつた{*9}、なうなう御坊▲シテ「やあやあ▲アト「そなたにもちと、異見をしたい事がある▲シテ「何か異見がしたい▲アト「そなたの宗旨の様な埒のあかぬ法はない、あそこの角ではぐどぐど、爰の隅ではぐどぐど、しつかい黒豆をかぞふる様な、其様な事で、中々仏にはなられぬ、愚僧が宗旨にならしませ、愚僧が宗旨の有難さは、妙法蓮華経の題目をさへ唱ふれば即身成仏疑ひない、是此珠数は、高祖日蓮大上人より、仔細有つて伝つた珠数ぢや、是をいたゞいて、愚僧が宗旨にならしませ▲シテ「其珠数が、夫程有難くば、おぬしばかり戴いてゐよ▲アト「果てさういはず共、ちといたゞかせう、{ト云ふて珠数を戴かすなり}▲シテ「いやでおりやる▲アト「ちといたゞけ▲シテ「夫ならば是をいたゞけ▲アト「夫はいやぢや▲シテ「ちといたゞけ{ト云て亦いたゞかす}▲アト「いやぢやいやぢや{ト云て逃るをシテ追廻すアト笠を払おとして}{*10}あゝしたゝかいたゞかせをつた、なうなう御亭主御座るか▲小アト{*11}「是に居まする▲アト「旅の坊主で御座る、一夜の宿をかして下されい▲小アト「安い事で御座る、かうお通り被成ませい▲アト「心得ました▲シテ「《笑》扨も扨も面白い事ぢや、何ぞや、此珠数が{*12}、笠にもついて有るものゝやうに、打払ひ打払ひいやがる{ト云うて笑ふ}ちと戴け戴け、やあ、たつた今迄是にいたが、どれへいつた事ぢやしらぬまで、あ此内へはいつた者で有らう、物も案内もふ▲小アト「表に案内がある、案内とは誰そ▲シテ「旅の坊主で御座る、一夜の宿を貸て下されい▲小アト「安い事で御座る、かう通らせられい▲シテ「最前愚僧が様な、出家は参らなんだか▲小アト「成程お宿申て御座る▲シテ「夫は愚僧がつれで御座る▲小アト「おつれならば、言合て一つ所に御座れ▲シテ「心得ました、どれにいる事ぢやしらぬまで、さればこそあれに、つゝくりとしてゐる、くるならくると、言たい者を▲アト「えゝ、おぬしはまた来たか▲シテ「果つれぢやもの、こいでならうか▲アト「なうなう御亭主、別の間は御座らぬか▲小アト「いや別の間は御座らぬ▲シテ「なう別の間は御座るまい▲アト「有やらないやら、おぬしが何を知つて▲シテ「でもないとおせある者▲アト「いや▲シテ「《笑》なう、御坊御坊、なう御坊▲アト「えゝ、かしましい何ぢやぞいやい▲シテ「なぜ其様に腹を御立ある、出家同士の唯居るはわるい、夜もすがら宗論をせうと思が何と有らう▲アト「何ぢや宗論をせう▲シテ「中々▲アト「最前から、わごりよのおせある事は、一つとして身共が耳へはいらぬが、成程宗論はよからう去乍、愚僧がかつたらば、そなたを{*13}愚僧が宗旨にするぞや▲シテ「成程そなたの宗旨にならう、又愚僧が勝たらば、和御料を愚僧の弟子にするが合点か▲アト「そりや其時の時宜によらう▲シテ「夫々、夫からが情が強い、先法文をお説きあれ▲アト「といてきかせうようおきゝあれ▲シテ「早うおときあれ▲アト「夫法文様々ありとは云へ共、中にも五十転々随喜の功徳、又は随喜のなんだとも、ときやはらげさせられた法文があるが、何とおぬしは聞た事があるか▲シテ「いづれどこやらで、きゝはつゝた様な{*14}▲アト「又きかいでならうか{*15}、凡そ日本に、はびこる程の法文ぢや▲シテ「大きな事を言出した、其様な事を言はず共、早う法文をおときあれ▲アト「先此心は、春園に芋と云ふ物を植る▲シテ「成程植る▲アト「雨露の恵を承て七八月の比にもなれば、彼芋より、苧莄といふ物が、生々する▲シテ「いかにも生々する▲アト「所を刃物をもつて手一ツ束にかり取、よく湯煮をし、山桝の粉抔を、はないてたぶれば、あらうまやと思うて、ずいきの涙が、ぽろりとこぼるゝ爰を以、五十てんでん随喜の功徳、又はずい喜のなんだ共、とき和らげさせられた、法文の心ぢやが、何と有難いか▲シテ「是々、よしない事をいはず共、早う法文をおときあれ▲アト「おぬしは何を聞いて居る、是が法文ぢや▲シテ「何ぢや夫が法文ぢや▲アト「中々▲シテ「あの今のがや▲アト「おんでもない事▲シテ「いつ釈迦が、ずいき汁をおまいりあつた事があるぞいやい{ト云て笑ふ}▲アト「あゝ是々、其様なわる口をいはず共、早う法文をお説あれ▲シテ「此後でといてきかす様な、法文ではなけれ共、そこが宗論ぢやといてきかせうよふお聞きあれ▲アト「早うおときあれ、▲シテ「夫法文様々有といへ共、中にも一念弥陀仏即滅無量罪又は無量のさい共、ときやはらげさせられた法文があるが何とおぬしはきいた事が有か▲アト「いづれ空吹風の様に、きいた事がある▲シテ「又きかいでならうか{*16}、唐土天竺我朝三国に、はびこる程の法文ぢや▲アト「《笑》あゝ大きな事を言出した、其様な事をいはず共、早う法文を御説やれ▲シテ「先此心は、世には事たらうたお方もあり、又事たらはぬお方もある▲アト「成程ある▲シテ「彼事たらうたお方へお斎に参れば、膳の向うには、牛房湯皮紅麩椎茸、醍醐の烏頭芽、鞍馬の木のめづけ、あるとあらゆる、種々無量の菜を、取調へて下さるゝ▲アト「いかにも下さるゝ▲シテ「又事たらはぬお方へお斎に参れば、塩山桝のていで下さるゝ▲アト「これはかう有さうな事ぢや▲シテ「其時観念の仕様がある、▲アト「何と観念するぞ▲シテ「先目を急度塞いで、一念弥陀仏即滅無量罪、又は無量の菜、さい、と唱ふれば、何はなけれ共、膳の向うには、牛房湯皮紅麩椎茸、醍醐のうとめ鞍馬の木のめづけ、あるとあらゆる、種々無量のさいが、あるある、あると思うて下さる、爰をもつて、一念弥陀仏即滅無量罪、又は無量のさい、ともときやはらげさせられた、法文の心ぢやが、何と有難いか▲アト「いや是々、よしない献立をいはず共、早う法文をおときやれ▲シテ「をぬしは最前から何をきいている、是が法文ぢや▲アト「やあ、夫が法文ぢや▲シテ「中々▲アト「夫は誠か▲シテ「誠ぢや▲アト「真実か▲シテ「をんでもない事▲アト「夫は悉皆有財餓鬼と云ふ者ぢや▲シテ「果有財餓鬼で有う様は▲アト「果ない者を有々と思うて喰ふは、有財餓鬼ではないか▲シテ「非学者論議にまけずといふは、おぬしが事ぢや、そなたの様な者と起きて居て[口昏]{*17}らうより、愚僧は寝仏者を致さう▲アト「あゝ是々、最そつと起きて居てしやべらいでな、宵からのじやうだんが過たと思ふた、おぬしがね仏しやをするならば、愚僧も寝法華を致さう▲シテ「扨も扨もようねた事かな、是はいかなる事、晨朝の時分ぢや、勤を致さう{ト云て珠数を懐中し扇を持つて鉦を打心をする笠をぐわんぐわんぐわんと三つ叩き扇子をさして珠数をすりおがむ帰妙無量寿如来尊極楽世界と経をよみよみアト{*18}寝いりたるをさし足してアトの耳のそばにて南無阿弥陀仏と云てのき亦経をよみて居るなりアト肝をつぶしてをきるなり}▲アト「あゝかしましやかしましや、きやつは夜もろくにねぬさうな、いや是は勤行の時分ぢや、勤を致さう、ちんちんちん{ト云てりんをたゝく心を扇子にてする扨珠数をすりをがみ妙法蓮華経陀羅尼品第廿六と経をよみ夫より二人互にかみつくやうにせり合せり合そばへよりてよむなり}▲シテ「まけじをとらじと経をよみおる、踊念仏ともつて、迷惑がらせう、ぐはんぐはんぐはん、南もふた南もふた{ト拍子にかゝり云アトおどろきて}▲アト「どうでもきやつは、気が違うたさうな、致様が御座る{ト云て南無妙法蓮華経を拍子にかゝり云シテよりつめて踊る互につまりて両人共取違へて後に両人共心づき口に手をあて左右にのきて}▲シテカゝル「実今思ひ出したり、昔在霊山妙法華▲アト「今在西方妙阿弥陀▲シテ「娑婆示現観世音▲アト「三世利益▲シテ「同▲二人「一体と此文を聞く時は一体と此文を聞く時は、法華も弥陀も隔はあらじ、今より後はふたりが名を、今よりのちはふたりが名を、妙、阿弥陀仏{*19}とぞ申ける。
校訂者注
1:底本は、「▲アト「是は」。
2:底本、ここに「▲アト「」はないが、直後の「ふと言葉を掛ましたに」から、脱落したものと考え補った。
3:底本は、「ろーすがら」。
4:底本は、「参らいて叶はぬ」。
5:底本は、「其様なまながい事」。
6:底本は、「南阿弥陀仏の、六字」。
7:底本は、「うだがひない」。
8:底本は、「いたいでゐよ」。
9:底本は、「いたゝかせおつた」。
10:底本は、「▲アト「あゝしたゝか」。
11:底本は、「▲アト「是に居ります」。
12:底本は、「此珠数か」。
13:底本は、「そなをた」。
14:底本は、「きゝはつた様な」。
15:底本は、「又きかいてならうか」。
16:底本は、「又きかいてならうが」。
17:この字は「口偏に昏」。テキストがなく、このように表した。
18:底本は、「あと寝いりたる」。
19:底本は、「妙、阿弥陀彿」。
コメント