酒講式(さけこうのしき)(二番目)
▲アト「この辺りの者でござる。某(それがし)、倅を一人持てござる。やうやう成人致したによつて、寺に登せて、手習ひをさせまするが、師匠坊が、殊の外大酒呑みで、酔狂のあまりに、科(とが)もない子供を打擲せらるゝと申す。某の倅も、この間疵を付けられて、母に見せたと申す。余り気の毒な事でござるによつて、今日は参り、意見を致さうと存ずる。さりながら、只参つては、気を触(ふ)らるゝ事もあらうと存じて、かやうに樽を、持つて参る事でござる。まづ、急いで参らう。誠に、出家と申し、老人と云ひ、あの様に大酒を致されて、酔狂せらるゝは、笑止な事でござる。いや、何かと申す内に、これぢや。まづ、案内を乞はう。
{と云ひて、樽を下へ置き、楽屋へ案内乞ふ。出るも常の如し。}
▲シテ「やれやれ、良うこそわせたれ。まづ、かう通らしめ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「この中(ぢゆう)は久しう見えなんだが、別に変つた事もないか。
▲アト「成程、相変る事もござりませぬ。御師匠も、御息災さうで、おめでたうござります。
▲シテ「いや、あまり息災にもなけれども、一日一日と暮らして居る事でおりやる。
▲アト「いや、中々御気丈に見えまする。
▲シテ「扨、そちの息子も、いかう手を上げた。
▲アト「それは、御挨拶でござりませう。
▲シテ「いやいや。おれは、嘘を云ふ事が嫌ひぢや。中々見事に書くぞ。
▲アト「この間も、清書を見ましたが、さのみ手を上げた様にも見えませぬ。
▲シテ「さればその、知らぬ衆の悪いと思ふが、結句、手の上がるのぢや。
▲アト「それならば、悦ばしい事でござる。
▲シテ「扨、この間は、一両日も見えぬが、何とぞしたか。
▲アト「されば、その事でござる。どこが悪いとも見えませぬが、この間は、あそここゝが痛むと申しまする。又、母が申しまするは、肩先に、竹などで打擲した様な跡が見ゆると申しまするが、誰ぞに打擲せられた事かと存じまする。
▲シテ「その様な事もあらう。聞けばこの中(ぢゆう)、子供が薮の中へ入つて、相撲を取つたとやら聞いた。定めてあの子も、大きい者から取つて投げられて、疵を付けたものでかなあらう。
▲アト「左様なれば言語道断、憎い事でござります。
▲シテ「いやいや、どの子もどの子も悪さをして、師匠に世話を掛くるわいの。
▲アト「扨、これは、今日お見舞ひ申した印に、差し上げまする。
▲シテ「これは、云はれぬ心遣ひを召されたのう。
▲アト「私の手造りでござる。御寝酒になされて下され。
▲シテ「愚僧は、この酒に上越す楽しみは、ないわいの。
▲アト「何と、お慰めに一つ、上がりませぬか。
▲シテ「これは良からう。早う開かしめ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「扨々、今日(けふ)は徒然(つれづれ)にあつたに、よい伽(とぎ)があつて、この様な嬉しい事は、おりあらぬ。
▲アト「さらば、一つ上がりませ。
▲シテ「どれどれ。
{と云ひて呑む。常の如し。}
只冷(ひい)やりとして、何も覚えぬ。も一つ呑うで、風味を覚えう。
▲アト「一段と良うござりませう。
▲シテ「今、覚えた。いや、これは格別良い酒ぢや。
▲アト「御気に入りましたか。
▲シテ「ちと差さう。そなたも一つ、呑ましめ。
▲アト「御盃は戴きませうが、私は下戸でござるによつて、御酒は、え下さりませぬ。
▲シテ「にがにがしい。男が酒を呑まいで、役に立つものか。思ひ切つて、一つ呑うでお見あれ。
▲アト「生れ付いて、一水(いつすい){*1}もたべ得ませぬ。
▲シテ「それならば、老僧が若い時習うた、舞を舞うて見せう。それを肴に、丁度(ちやうど)受けさしめ。
▲アト「左様に仰せらるゝ程に、一つ受けて見ませうか。
▲シテ「酌をせうか。
▲アト「いや、手酌が良うござる。
▲シテ「丁度(ちやうど)お呑みあれ、お呑みあれ。
▲アト「おゝ。これは、ちよつと受けました。
▲シテ「おゝ、出かいた出かいた。
▲アト「扨、御約束でござる程に、御苦労ながらひとさし、お舞ひなされて下さりませ。
▲シテ「どりやどりや、舞うて見せう。地を謡うておくれあれ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「あゝ。腰が痛うて、中々舞はれぬぞ。
▲アト「よいやよいや。扨も扨も、面白い事でござりました。これは、たべずばなりますまい。
▲シテ「お呑みやれ、お呑みやれ。
▲アト「扨、慮外ながら、上げませう。
▲シテ「どれどれ、これへおこさしませ。
▲アト「丁度(ちやうど)上がりませ。
▲シテ「おゝ、あるぞあるぞ。
▲アト「お前は、良う御酒を上がります。
▲シテ「さうもなけれども、只、酒が好きでおりある。
▲アト「扨々、御機嫌も良うござるによつて、申し上げまする。陰(かげ)ながら承りますれば、この間は、いかう御酒が過ぎまするとやら。又、お過ごしなされさうなとやら、申しまする。ちと、お控へなされたら、良うござりませう。
▲シテ「わごりよは、それを誰に聞いた。
▲アト「誰に聞くと申す事もござりませぬ。只、薄々(うすうす)、風の吹く様に承りました。
▲シテ「いやいや。これは、そちの息子が言うたであらう。
▲アト「いや、倅が申したではござりませぬ。
▲シテ「総じて、そちの息子は、年も行かぬ形(なり)で、口がまめで、不問語{*2}をし、中言(なかごと){*3}を云ふとあつて、在所の衆の憎む。ちと云ひ付けておかしめ。
▲アト「左様の悪い事がござらば、御師匠の御役に、きつと御異見をなされて下されたが、良うござる。
▲シテ「いや。世間の、子は親に似るものぢやと云ふが。まづ第一、わごりよが合点の行かぬ人ぢや。
▲アト「これは、迷惑でござります。
▲シテ「いやいや。否(いや)とは云はれまい。なぜと仰(お)せあれ。愚僧が呑まうとも云はぬ酒を持つて来て、振舞はうと云うたもそなた。又、呑むなと云ふもお主。これは、身共をなぶりに来たのか。
▲アト「扨々、勿体ない。私の、何しにお前をなぶりませう。何と申しても、御年の上でござれば、もし御酒が過ぎまして、御煩ひでも出ますればいかゞぢやと存じまして、かやうに申す事でござります。
▲シテ「まだその様な、文盲(もんもう)な事を仰(お)せある。絶じて、酒は百薬の長たりと云うて、もろもろの病を直すも、皆この酒ぢや。その結構な酒を呑むなと云ふは、何ぞ老僧に意趣があるものであらう。さあ、出家でこそあれ、覚悟を極(きは)めた。さあさあ、意趣を仰(お)せあれ。意趣を聞かう、意趣を聞かう。
▲アト「扨々、これは御無体でござる。御前へ御酒を上げたむなうござれば、今日一樽(いつそん)は持参致しませぬ。一つ上げませうと存じまして、この樽を持つて参りました。これで、御疑ひを晴らさせられて下され。
▲シテ「それならば、酒をふつと呑むな、ではないか。
▲アト「いかないかな。左様ではござりませぬ。総じて蔭で、皆申しまするは、酒を呑むならば、お前のやうにこそたべたけれ。似合(にあひ)ました、良い御酒ぶりぢやと申して、殊の外誉めまする。
▲シテ「それは、さう云ふ筈ぢや。上戸にも、色々の癖があつて、酔ひ狂ひをして喧嘩をしたり、又は腹を立てゝ無理を云ふ、わあわあと云うて泣く様なもあるが、おれは只、酒を呑めば呑む程、機嫌が良うなつて面白い。それについて、こゝに酒講の式といふものがあるが、何と、これを見たか。聞いた事があるか。
▲アト「いや、つひに、見た事も聞いた事もござりませぬ。
▲シテ「無理にとは云はねども、語つて聞かせう。聴聞召されい。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「酒が呑みたうて云ふではないが、この式目を演説するならば、まづ、酒をしたゝか呑うでからの事にせい、とある掟ぢや。もそつと、酒を出さしめ。
▲アト「まだ酒はあらうか、存じませぬ。
▲シテ「はて、そつとなりとも、あり次第、あり次第。
▲アト「畏つてござる。扨も扨も、面(つら)の憎い事かな。一向、あの様な者に呑ませて仕舞ふ酒を出しました。
▲シテ「これは、樽ともに出したか。
▲アト「あり次第と仰せらるゝによつて、樽ともに出しました。
▲シテ「出かいた出かいた。さあ、おつぎあれ、おつぎあれ。
▲アト「これは、皆になりました。
▲シテ「早、皆になつたか。
▲アト「中々。
▲シテ「ゑゝ、道理道理。小さい樽ぢやもの。扨、かの式目を読うで聞かせう。床机を出さしめ。
▲アト「畏つてござる。はあ、御床机でござる。
▲シテ「語らう程に、良う聞かしめ。
▲アト「心得ました。
▲シテ「そもそも酒に百友の徳あり、茶に隣客の情あり。仏、雪山を出し時、寒風激しかりしかば、民、糟(かす)といふ物を温めて参らする。師走八日の温糟(うんざう)も、この大綱を学べり。温糟とは、糟を温むると書きたるも、この理なり。糟だにも調法なれば、まして真々(しんじん)の酒は、言葉にも述べ難し。又、仏の、御弟子に比丘尼に酒を許すとありしかば、旦那の元に行き、余りに余りに入ぼりし{*4}、仏所に帰るを帰り得で、いやしき泥に臥し転(まろ)び、蛭・蛙に身を吸はれし、報いの程を知らしめむために、飲酒戒とは戒めたり。但し、隠すが秘事ぞとよ。{*5}隠しても隠し甲斐なき赤味上戸は、笑止の者なり。また、極寒・極熱とて、暑き苦もあり、寒き苦あり。かの極熱の照りに照るに、冷し物に酒を冷して、一盃は呑み足らず、二盃は数悪し。三盃ばかり呑みぬれば、いかなる阿加陀薬・蘇香円・順胎散{*6}と申すとも、酒にはよも勝り候ふべき。{*7}又、極寒の折節には、濁り酒が調法で、燗の程をし済まして、三盃四盃六七盃、十盃ばかり呑みぬれば、額に汗はぢりぢりと、たるひのつらゝ{*8}劣るまじ。風三寸は身を去るべし。かゝるめでたき講の式、これを見聞かむ旦那は、貧僧を供養せば、命と共に長持ちの、酒の酔ひは憎みそよ。これこそ、酒の講の式。良く聴聞し給へ、よくよく聴聞し給へ。
▲アト「扨も扨も、憎い事かな。もはや、堪忍袋が切れた。やい、そこな坊主。最前から、子供の師匠ぢやと思うて云はせて置けば、方量もない事を。何を言うぞと思へば、酒呑みの贔屓ばかりしをる。その式目が、何が有難い事があるものぢや。
▲シテ「酒をえ呑まぬによつて、何も知らぬ。上戸はこの式目を、ふだん戴いてゐる。少しあやかる様に取つて来て、そちにも戴かせう。
▲アト「また、そのつれを云ふか。在所中云ひ合(あは)せて、子供を一人も手習ひにはやらぬぞ。
▲シテ「子供は来いでも苦しうない。今日の様に御持たせを、又重ねて、重ねて。
▲アト「あの横着者、やるまいやるまい。
{本追ひ込みは悪(あ)し。勿論、見合(みあは)せ、後よりそろそろ追ふべし。但し、アト、腹を立て、先へ入るもあり。シテ、笑ひ笑ひ、しかじか云ひて、後より入るなり。アトは、二人にても、又、三人にてもするなり。}
校訂者注
1:「一水(いつすい)」は、「ひとしずく。一滴」の意。
2:「不問語」は、「とわずがたり。ひとりごと」の意。
3:「中言(なかごと)」は、「中傷」の意。
4:「入ぼりし」は底本のままだが、意味も読みも不詳。或いは誤脱があるか。
5:底本、「かくしても」から「赤味上戸は笑止の者なり」まで、傍点がある。
6:これらは全て、漢方薬の名。
7:底本、「又極寒の折節には」から「能く能く聴聞仕給へ」まで、傍点がある。
8:「たるひのつらゝ」は、意味不詳。或いは「氷柱(つらゝ)」か。
底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.)
酒講式(サケコオノシキ)(二番目)
▲アト「此辺の者で御座る、某忰を一人持て御座る、漸成人致たに依て、寺に登せて、手習をさせまするが、師匠坊が、殊の外大酒呑で、酔狂のあまりに、科もない子供を、ちやうちやくせらるゝと申、某の忰も、此間疵を付られて、母に見せたと申、余り気の毒な事で御座るに依て、今日は参り、意見を致さうと存ずる、乍去、唯参ては、気をふらるゝ事も有うと存じて、斯様に樽を、持て参る事で御座る、先急で参らう、誠に、出家と申老人と云、あの様に大酒を致されて、酔狂せらるゝは、笑止な事で御座る、いや何かと申内に是じや、先案内を乞ふ{ト云て樽を下へ置楽屋へ案内乞出も如常}▲シテ「やれやれようこそはせたれ、先かう通らしめ▲アト「畏て御座る▲シテ「此中は久敷見えなんだが、別に変た事もないか、▲アト「成程相変事も御座りませぬ、お師匠もお息災さうで、お目出とう御座ります▲シテ「いやあまり息災にもなけれ共一日一日と暮らして居る事でおりやる▲アト「いや中々御気丈に見へまする▲シテ「扨てそちのむすこも、いかう手を上た▲アト「夫は御挨拶で御座りませう▲シテ「いやいや、おれはうそをいふ事が嫌ぢや、中々見事にかくぞ▲アト「此間も清書を見ましたが、左のみ手を上た様にも見えませぬ▲シテ「去れば其しらぬ衆の悪いと思ふが、結句手の上るのぢや▲アト「夫ならば悦ば敷い事で御座る▲シテ「扨て此間は、一両日も見えぬが、何とぞしたか▲アト「されば其の事で御座る、どこが悪い共見えませぬが、此間はあそこ爰が痛むと申まする、又母が申まするは、肩先に竹などで、丁ちやくした様な跡が、見ゆると申まするが{*1}、誰ぞに丁ちやくせられた事かと存じまする▲シテ「其様な事も有らう、聞ば此中、子供が薮の中へはいつて、相撲を取つたとやら聞た、定てあの子も大きい者から、取つてなげられて、疵を付た者でかな有らう▲アト「左様なれば、言語道断憎い事で御座ります、▲シテ「いやいやどの子もどの子も悪るさをして、師匠に世話を掛るわいの▲アト「扨是は、今日お見舞申た印に、指上まする▲シテ「是はいはれぬ心遣いを召されたのう▲アト「私の手造りで御座る、お寝酒に被成て下され▲シテ「愚僧は此酒に上こす楽みはないわいの▲アト「何とお慰めに、一つ上りませぬか、▲シテ「是はよからう、早うひらかしめ▲アト「畏つて御座る、▲シテ「扨々けふは徒然に有たに、よい伽が有て、此様な嬉敷事はおりあらぬ▲アト「さらば一つ上りませ▲シテ「どれどれ{ト云て呑如常}{*2}唯ひいやりとして、何も覚ぬ、最一つ呑うで風味を覚えう▲アト「一段とよう御座りませう▲シテ「今覚えた、いや是は格別よい酒ぢや▲アト「お気に入ましたか▲シテ「ちとさゝう、そなたも一つのましめ▲アト「お盃は戴ませうが、私は下戸で御座るに依て、御酒は得下さりませぬ▲シテ「にがにが敷、男が酒をのまいで、役に立者か、思ひ切つて、一つ呑うでお見あれ▲アト「生れ付て、一吸もたべ得ませぬ▲シテ「夫ならば、老僧が若い時習うた、舞を舞うて見せう、それを肴に、丁度受さしめ▲アト「左様に仰らるゝ程に、一つ受て見ませうか▲シテ「酌をせうか▲アト「いや手酌がよう御座る▲シテ「丁度お呑みあれお呑みあれ▲アト「おゝ是は丁と受ました▲シテ「おゝ出かいた出かいた▲アト「扨お約束で御座る程に、御苦労ながら、ひとさしお舞被成て下さりませ▲シテ「どりやどりや舞て見せう、地を謡ふて{*3}をくれあれ▲アト「畏て御座る▲シテ「あゝ腰がいたうて、中々まはれぬぞ▲アト「よいやよいや、扨も扨も、面白い事で御座りました、是はたべずば成ますまい▲シテ「お呑みやれお呑みやれ▲アト「扨慮外ながら上ませう▲シテ「どれどれ是へおこさしませ▲アト「丁度上りませ▲シテ「おゝ有るぞ有るぞ▲アト「お前はよう御酒を上ります▲シテ「さうもなけれども、唯酒が好でおりある▲アト「扨々御機嫌もよう御座るによつて、申上まする、陰ながら承りますれば、此間はいかふ、御酒が過まするとやら、又お過被成さうなとやら申まする、ちとおひかへなされたら、よう御座りませう▲シテ「わごりよは、夫を誰に聞た、▲アト「誰に聞と申事も御座りませぬ、唯薄々風の吹様に承りました▲シテ「いやいや、是はそちの息子が言ふたであらう、▲アト「いや忰が申たでは御座りませぬ▲シテ「総じてそちの息子は、年もゆかぬなりで、口がまめで、不問語をし、中言を云と有て、在所の衆のにくむ、ちと云付ておかしめ、▲アト「左様のわるい事が御座らば、お師匠の御役に、急度御異見をなされて下されたがよう御座る▲シテ「いや世間の子は、親に似る者ぢやと云ふが、先第一わごりよが合点のゆかぬ人ぢや▲アト「是は迷惑で御座ります▲シテ「いやいやいやとはいはれまい、なぜとおせあれ、愚僧が呑う共いはぬ酒を持て来て、振舞ふと云たもそなた、又呑なと言ふもお主、是は身共をなぶりに来たのか▲アト「扨々勿体無、私の何しに、お前をなぶりませう{*4}、何と申ても、御年の上で御座れば、もし御酒が過まして、お煩でも出ますれば、いかゞぢやと存じまして{*5}、かやうに申事で御座ります▲シテ「まだ其様な、もんもうな事をおせある{*6}、絶じて酒は、百薬の長たりというて、もろもろの病を直すも皆此酒ぢや、其結構{*7}な酒を、呑むなと云ふは、何ぞ老僧に意趣が有者で有らう、さあ出家でこそあれ、覚悟を極めた、さあさあ意趣をおせあれ、意趣を聞ふ、意趣を聞ふ▲アト「扨々是は御無体で御座る、御前へ御酒を上たむなう御座れば、今日一樽は持参致ませぬ、一つ上ませうと存じまして、此樽を持て参りました、是でお疑を晴させられて下され▲シテ「夫ならば、酒をふつとのむなではないか▲アト「いかないかな、左様では御座りませぬ、総て蔭で皆申まするは、酒を呑むならば、お前のやうにこそたべたけれ、似合ました、よい御酒ぶりぢや{*8}と申て、殊の外誉まする▲シテ「夫はさう云ふ筈ぢや、上戸にも色々のくせが有て、酔狂ひをして、喧嘩をしたり、又は腹をたてゝ、無理を云、わあわあというてなく様なも有が、おれは唯酒を呑ば呑程、機嫌がよう成て面白い、夫に付て、爰に酒講の式と言ふ者が有が、何と是を見たか、聞た事が有か▲アト「いやついに見た事も、聞た事も御座りませぬ▲シテ「無理にとはいはね共、語て聞せう聴聞召されい、▲アト「畏つて御座る▲シテ「酒が呑たうて云ではないが、此式目をゑんぜつするならば、先酒をしたゝかのうでからの事にせいと有おきてぢや、最卒度酒を出さしめ▲アト「まだ酒は有うか存じませぬ▲シテ「果そつと成共、有次第、有次第、▲アト「畏つて御座る、扨も扨もつらの憎い事かな、一向あの様な者に呑せて仕舞ふ、酒を出しました▲シテ「是は樽共に出したか▲アト「有次第と仰せらるゝに依て、樽ともに出しました▲シテ「出かいた出かいた、さあおつぎあれおつぎあれ▲アト「是は皆に成ました▲シテ「早皆に成たか▲アト「中々▲シテ「ゑゝ道理道理、小さい{*9}樽ぢやもの、扨彼式目をようで聞せう、床机を出さしめ▲アト「畏て御座る、はあお床机で御座る、▲シテ「語らふ程に、ようきかしめ▲アト「心得ました▲シテ「抑酒に百友の徳有、茶に隣客の情有、仏雪山を出し時、寒風はげしかりしかば、民、糟と云物をあたゝめて参らする、師走八日の温糟もこの大綱をまなべり{*10}、温糟とは糟を温むると書たるも、此理也、糟だにも{*11}調法なれば、増てしんじんの酒は、言葉にものべがたし、又仏の御弟子に、比丘尼に酒をゆるすと有しかば、旦那の許に行、余りに余りに入ぼりし、仏所に帰るをかへり得で、いや敷泥にふしまろび、蛭蛙に身をすはれし、むくいの程をしらしめむ為に飲酒戒とはいましめたり、但し隠すが秘事ぞとよ、かくしても、かくしがいなき{*12}、赤味上戸は笑止の者なり、また極寒極熱とて、暑き苦も有、寒き苦有、彼極熱の照りにてるに、冷し物に酒を冷して、一盃は呑たらず、二盃は数悪し、三盃計呑ぬれば、いか成阿加陀薬蘇香円、順胎散と申とも、酒にはよも増り候べき、又極寒の折節には、にごり酒が調法で{*13}、かんの程をしすまして、三盃四盃六七盃、十つぱい計り呑ぬれば、ひたいに汗はぢりぢりと、たるひのつらゝおとるまじ、風三寸は身を去べし、かゝる目出度講の式、是を見聞む旦那は、貧僧を供養せば、命と共に永持の、酒の酔は憎みそよ{*14}、是れ社酒の講の式、よく聴聞し給へ、能く能く聴聞仕給へ▲アト「扨も扨も憎い事哉、最早堪忍袋が切た、やいそこな坊主、最前から子供の師匠ぢやと思て、いはせて置ば方量も無事を、何を言ぞと思へば、酒呑の贔屓{*15}計しおる其式目が何が有難い事が{*16}有者ぢや▲シテ「酒を得呑まぬに依て、何も知らぬ、上戸は此式目を、不断戴てゐる、少しあやかる様に、取てきてそちにも、いたゞかせう▲アト「また其つれを云か、在所中云合せて、子供を一人も手習にはやらぬぞ▲シテ「子供はこいでも{*17}苦敷ない、今日の様にお持せを、又重て重て▲アト「あの横ちやく者やるまいやるまい{本追込はあし、勿論見合せ跡よりそろそろ追べし{*18}但しアト腹を立て先へ入も有シテ笑々しかしか云て後より入なりアトは二人にても亦三人にてもする也}
校訂者注
1:底本は、「申まするか」。
2:底本は、「▲シテ「唯ひいやりとして」。
3:底本は、「地を諷(うた)ふて」。
4:底本は、「お前をなぶりせう」。
5:底本は、「存しまして」。
6:底本は、「事を御せある」。
7:底本は、「結講」。
8:底本は、「よい御酒ふりぢや」。
9:底本は、「少さい樽ぢやもの」。
10:底本は、「大綱をまなへり」。
11:底本は、「糟たにも」。
12:底本は、「かくしかいなき」。
13:底本は、「にごり酒か調法て」。
14:底本は、「憎みぞよ」。
15:底本は、「贔負計しおる」。
16:底本は、「何か有難い事か」。
17:底本は、「子供はこいても」。
18:底本は、「跡よりそろそろ追へ」。
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