孫聟(まごむこ)(脇狂言)
▲アト「この辺りの者でござる。今日(こんにち)は最上吉日なれば、聟殿が見ゆる筈ぢや。それにつき、太郎冠者を呼び出し、申し付くる事がござる。
{と云ひて、呼び出す。出るも常の如し。}
今日(けふ)は、最上吉日なれば、聟殿が見ゆる筈ぢや。何と、云ひ付けて置いた物は、用意したか。
▲小アト「成程、用意致してござる。
▲アト「扨、それについて、又、いつもの通り、祖父御(おほぢご)が出させられて、何か、物事に差し出させらるゝであらうが、何としたものであらうぞ。
▲小アト「されば、何とが良うござりませうぞ。
▲アト「何とが良からうぞ。
▲小アト「いや、私の存じまするは、友達衆の方(はう)へ人を遣はしまして、その方から呼ばせまして、そのお留守の間(ま)に、御祝儀を御仕舞ひなされたらば、良うござりませう。
▲アト「何(いづ)れ、これは一段と良からう。汝、良い様にはからへ。
▲小アト「畏つてござる。
{つめる。常の如し。}
▲シテ「えいえいえい。何と云ふぞ。今日(けふ)は最上吉日ぢやによつて、孫の聟がわする。それに、この祖父を嫌うて、友達衆の方へ人をやつて、あちから呼ばせて、その留守の間に、祝儀を仕舞はうと云ふか。扨も扨も、憎い事かな。やいやい。太郎冠者、太郎冠者。
▲小アト「はあ。これにをります。
▲シテ「今日(けふ)は、孫の聟がわするげな。それに、この祖父を嫌うて、友達衆の方へ人をやつて、あちから呼ばせて、その留守の間に、祝儀を仕舞はうと云ふげな。おのれ、その様な事があるものか。
▲小アト「いや、私は何も存じませぬ。
▲シテ「何ぢや、存じませぬ。
▲小アト「はあ。
▲シテ「おのれが知らいで、誰が知るものぢや。
{と云ひて、杖を振り上げて、小アトを打つ。小アト、脇座へ逃ぐる。アト、留めるなり。}
▲小アト「あゝ。これは、何となされまする。
▲シテ「おのれは憎いやつの。
▲小アト「ご許されませ、ご許されませ。
▲アト「あゝ、申し。危なうござりまする。
▲シテ「兄(あに)か{*1}。
▲アト「はあ。
▲シテ「あゝ、そなたも合点の行かぬ人ぢやぞや。聞けば今日(けふ)は、孫の聟がわするげな。それに、この祖父を嫌うて、友達衆の方へ人をやつて、あちから呼ばせて、その留守の間に、祝儀を仕舞はうと仰(お)しやるげな。その様な不得心な事が、あるものでおりやるか。
▲アト「これは、存じも寄らぬ事を承りまする。何しに、左様の事がござりませうぞ。
▲シテ「いやいや。おれが良う知つてゐる。まづ、良うお聞きあれ。この様なめでたい時には、内に老人がなければ、外から雇うて来てなりとも、上座(しやうざ)へ直したがる。それに、内にある祖父を嫌うて、友達衆の方へやらうといふ様な、不心得な事があるものか。
▲アト「これは迷惑でござる。御年を寄られて、御苦労にござるとこそ存じますれ、何しに、御前(おまへ)を嫌ふなどゝ申す事は、ござりませぬ。
▲シテ「むゝ。扨は、この祖父を嫌うではないか。
▲アト「左様でござりまする。
▲シテ「さうありさうな事ぢや。すれば、これは太郎冠者めが仕業(しわざ)ぢや。ちと、御叱りあれ。
▲アト「何事も、御了簡なされて遣はされませ。
▲シテ「それならば、今日(けふ)は、聟殿がわするか。
▲アト「成程、見えまする。
▲シテ「おれも、座敷へ出ようか。
▲アト「御苦労ながら、御出なされて下されい。
▲シテ「どれどれ、こゝに待つてゐませう。えいえい。
▲アト「申し申し。まだ早うござりまする。
▲シテ「やあ、まだ早いか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「それならば、隠居家へ行(い)て、待つてゐやう程に、良い時分にお知らしや。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「やい、太郎冠者。良い時分に知らせい。
{と云ひて、幕へ入るまで、折々振り返り、くどく云ふ。}
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「今日(けふ)は、聟殿がわするの。
▲アト「成程、見えまする。
▲シテ「この祖父も、座敷へ出ようか。
▲アト「御苦労ながら、御出なされて下されい。
▲シテ「良い時分にお知らしや。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「いよいよ今日(けふ)は、孫の聟がわするのう。
▲アト「いよいよ見えまする。
▲シテ「祖父も座敷へ出るぞや。
▲アト「御苦労ながら、御出なされて下され。
▲シテ「良い時分にお知らしや。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「あゝ、世話をやかす事ぢや。えいえいえい。
{と云ひて、中入りする。}
▲アト「やいやい、太郎冠者。何とこれは、気の毒な事ぢやなあ。
▲小アト「気の毒な事でござる。
▲アト「何事も、随分ひそゝかに、祝儀を仕舞はう。もし、聞き付けて出させられたらば、汝、良い様にはからへ。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「聟殿が見えたらば、この方へ知らせ。
{つめる、受ける。常の如し。}
▲聟「舅に可愛がらるゝ花聟でござる。今日(こんにち)は最上吉日でござるによつて、聟入を致さうと存ずる。
{しかじかあつて、}
誠に、早々参る筈でござつたに、何かと延引致してござる。さりながら、今日(こんにち)参つたらば、定めて悦ばるゝでござらう。いや、何かと云ふ内に、これぢや。
{と云ひて、案内乞ふ。出るも常の如し。}
汝は、これの者か。
▲小アト「成程、これの太郎冠者でござる。
▲聟「聟が参つたと仰(お)せあれ。
▲小アト「その由、申しませう。暫くそれに、お待ちなされませ。
▲聟「心得た。
▲小アト「申し上げます。
▲アト「何事ぢや。
▲小アト「聟殿の御出でござる。
▲アト「かうお通りなされいと云へ。
▲小アト「畏つてござる。かうお通りなされいと申しまする。
▲聟「心得た。不案内にござる。
▲アト「初対面でござる。
▲聟「早々参る筈を、何かと延引致してござる。
▲アト「聟殿は、かねて御隙(おひま)なしと承はつてござる。今日(こんにち)の御出、忝うござる。
▲シテ「えいえいえい。やあ、何ぢや。最前、聟殿が見えたと云ふか。やいやい、太郎冠者、太郎冠者。
▲小アト「はあ。これにをります。
▲シテ「もはや、聟殿が見えたげなが。
▲小アト「成程、御出なされてござる。
▲シテ「おれも座敷へ出ようか。
▲小アト「いや、まだお早うござりまする。
▲シテ「何ぢや、まだ早いか。
▲小アト「左様でござる。
▲シテ「それならば、こゝに待つてゐる程に、良い時分に知らせい。
▲小アト「畏つてござる。
▲聟「扨、申し、舅殿。これには、祖父御様(おほぢごさま)がござると承りましたが、どれにござりまするぞ。
▲アト「いや。も、年寄られまして、隠居家(いんきよや)へ引つ込うでゐられまする。
▲聟「どうぞ、御目に掛かりたうござるが。
▲アト「はあ。お会ひなされて下されうか。
▲聟「苦しうなくば、御目にかゝりたう存じまする。
▲アト「左様ならば、呼びに遣はしませう。やいやい、太郎冠者。あれへ行(い)て、聟殿が、祖父御様に御目に掛かりたいと仰せらるゝ程に、これへ御出なされいと云うて、呼び申(ま)して来い。
▲小アト「畏つてござる。申し申し。聟様が祖父御様に、お会ひなされたいと仰られまする程に、あれへ御出なされませ。
▲シテ「何ぢや。聟殿が、この祖父に会ひたいと仰(お)せあるか。
▲小アト「左様でござる。
▲シテ「それ見をれ。それぢやによつて、最前から出ようと云ふものを、まだ早いの遅いのとぬかしをる。聟殿は公儀者{*2}ぢやによつて、あちから御呼びあるわいやい。それに、おのれが何を知つて。こ差し出たやつの。えゝえゝ。やいやい。太郎冠者、太郎冠者。
▲小アト「はあ。
▲シテ「聟殿は、どれにおゐある。
▲小アト「これにござりまする。
▲シテ「どれぢや。
▲小アト「これにござりまする。
▲シテ「これか。
▲小アト「はあ。
▲シテ「これぢやな。
▲小アト「左様でござる。
▲シテ「こなた、聟殿か。
▲聟「左様でござる。
▲シテ「聟殿か。おゝ、良うござつたなう、良うござつたなう。
▲聟「はあ。
▲シテ「今日(けふ)は、こなたがわするといふ事を聞いて、この祖父は、今朝(けさ)から細う長うなつて、待つてゐました。
▲聟「それは、忝う存じまする。
▲シテ「兄、そなたも嬉しからう。
▲アト「はあ。
▲シテ「良い聟殿ぢや。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「はあ。これはまだ、盃が出ぬさうな。
▲アト「太郎冠者、盃を出せ。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「やいやい、太郎冠者。早う盃を出せ。
▲小アト「はあ。
▲シテ「おゝ、良うござつたなう、良うござつたなう。
▲小アト「御盃を持ちました。
▲シテ「どりや。この盃は、めでたうこの祖父が初めうぞ。
▲アト「それが、良うござりませう。
▲シテ「なう、聟殿。祖父から初めて、そなたへ差しませう。
▲聟「それは忝うござる。
▲シテ「やいやい、太郎冠者。
▲小アト「はあ。
▲シテ「さあさあ、つげ。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「おゝ、あるある。扨、聟殿。これをそなたへ差しませう。
▲聟「いたゞきませう。
▲シテ「やい、太郎冠者。ついでおませ。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「めでたうござる。
{盃受けて呑む時に、}
こりや、聟殿は、一つ参るさうな。
▲アト「左様さうにござる。
▲シテ「これこれ、聟殿。こなたは、酒一つ参るか。
▲聟「一つ下さりまする。
▲シテ「それは良い事ぢや。も一つ参れ。
▲聟「左様ならば、も一つたべませう。
▲シテ「やいやい、太郎冠者。早うつげ。
▲小アト「畏つてござる。
▲聟「おゝ、あるある。
▲シテ「聟殿が、酒がなつて、良い事ぢやのう。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「なうなう、聟殿。こなた、酒一つ参るか。
▲聟「一つ下さりまする。
▲シテ「それは良い事ぢや。男は呑まねば役に立たぬ。この祖父も、酒が好きぢや。かう内輪になるからは、何も遠慮はない。今から隠居家へ、すぐにござれ。酒を呑うで、遊びませうぞ。
▲聟「それは忝うござる。
▲シテ「随分、おごうを可愛(かはゆ)がつて下され。
▲聟「はあ。
{シテ、聟の傍へ寄り、くどう云ふ。舅、気の毒がりて、袖を引き、目くばせをするなり。}
▲シテ「やあ。むゝ。
▲聟「扨、これを慮外ながら、祖父御様へ上げませう。
▲シテ「どれどれ。これへくれさしめ。
▲聟「たべよごしてござる。
▲シテ「幾久しう、めでたうござる。やい、太郎冠者。太郎冠者。
▲小アト「はあ。
▲シテ「どこにをる。
▲小アト「これにをります。
▲シテ「早うつげ。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「あゝ、うかうかとしてゐをる。おゝ、あるある。
{と云ひて、呑むなり。}
兄。これを、そなたへ差さう。
▲アト「戴きませう。
▲シテ「そなたも一つ、お呑みあれ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「これこれ、聟殿。こなた、酒を一つ参るか。
▲聟「一つ下されまする。
▲シテ「それは良い事ぢや。かう内輪になるからには、何も遠慮はない。今からすぐに隠居家へござれ。酒を呑うで、遊びませうぞや。
▲聟「忝う存じまする。
{アト、袖を引く。初めの通り、「むゝ」と云ひて引く。}
▲アト「扨、これを聟殿へ進じませう。
▲聟「戴きませう。
▲アト「たべよごしてござる。
▲聟「幾久しう、めでたうござる。
▲アト「その通りでござる。
▲シテ「やい、太郎冠者。早う持つて行け。何をうろうろしてゐをるぞいやい。
▲小アト「はあ。
{聟、受けて呑む。シテ、匕首(あひくち)をやらうといふ心持ちにて、アトへ見せるなり。}
▲シテ「兄、なう。
▲アト「良うござりませう。
▲シテ「これこれ。聟殿に肴をしませう。
▲聟「それは忝うござる。
▲シテ「これこれ。これは、この祖父が若い時に、手覚えのあるものぢや。今日(けふ)の祝儀に、そなたへ譲りまするぞ。
▲聟「これは、ありがたう存じまする。
▲シテ「おゝ、良い公儀振りやの。おごうは仕合者(しあはせもの)ぢや。
▲アト「はあ。
▲シテ「そなたも嬉しからう。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「いや、これこれ。こなたは、酒一つ参るなう。
▲聟「一つ下さりまする。
▲シテ「それは良い事ぢや。この祖父も酒が好きぢや。かう内輪になるからは、何も遠慮はない。今から隠居家へすぐにござれ。酒呑うで、遊びませうぞ。
▲聟「それは忝うござる。
▲シテ「おごうを可愛(かはゆ)がつて下され。
{アト、初めの通り袖を引く。シテ、同じ。}
▲聟「扨、このお盃を、何と致しませう。
▲シテ「祖父が戴かう。
▲アト「いや、申し。私がまだ結びませぬ。
▲シテ「まだ結ばぬか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「それならば、兄にやつて下され。
▲聟「左様ならば、慮外ながら上げませう。
▲アト「戴きませう。
▲聟「たべよごしてござる。
▲アト「苦しうござらぬ。
▲シテ「これこれ、聟殿。そなた、酒を一つ参るのう。
▲聟「一つ下されます。
▲シテ「それは良い事ぢや。かう内輪になるからは、何も遠慮はない。今から隠居家へすぐにござれ。酒呑うで、遊びませうぞや。
▲聟「それは忝うござる。
{又アト、袖を引く。前に同断。}
▲アト「これを、祖父御様へ上げませう。
▲シテ「どれどれ。これへたもれ。
▲アト「めでたう、も一つ上がりませ。
▲シテ「呑まうとも、呑まうとも。やいやい、太郎冠者。どこにをる、どこにをる。
▲小アト「これにをります。
▲シテ「何をしてゐをるぞいやい。早うつげ。
▲小アト「畏つてござる。
▲聟「{*3}何事もかごとも、親子の契約する上は、たゞ平(ひら)に御免候へ。
▲シテ「おゝ。さうぢやとも、さうぢやとも。
▲アト「{*4}も一つ参れ、聟殿。
▲聟「も一つ召せや、舅殿。
▲シテ「もはや、嫌か。それならば、太郎冠者、取れ。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「{*5}三々九度も重なれば、
▲二人「後は酒興のあまりにや、聟も舅も諸共に、相舞ひ舞うてぞ入りにける。
{と云ひて、舞留めにて、二人とも入る。シテ、うろうろ見てゐるなり。}
▲シテ「聟も祖父も諸共に、聟も祖父も諸共に、聟も祖父もゝろともに、相舞ひ舞うてぞ、入りにける。
{と云ひて、舞留め。}
▲シテ「やあ、ほい。二人ともに、どれへやら行(い)た。扨も扨も、世話をやかしをる。えいえいえい。
{と云ひて、入るなり。}
校訂者注
1:親が息子を呼ぶ時に「兄」と呼ぶ例は、次の「二人袴」でも見られる。
2:「公儀者」は、「世事に通じた人」の意。
2:「公儀者」は、「世事に通じた人」の意。
3:底本、ここから「たゞひらに御めん候らへ」まで、傍点がある。
4:底本、ここから「最一つめせや、舅殿」まで、傍点がある。
5:底本、ここから「聟も祖父ももろともに、相舞まうてぞ、入にける」まで、傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.)
孫聟(マゴムコ)(脇狂言)
▲アト「此辺の者で御座る、今日は最上吉日なれば、聟殿が見ゆる筈ぢや、夫に付太郎冠者を呼出し、申付る事が御座る{ト云て呼出す出るも如常}{*1}今日は最上吉日なれば、聟殿が見ゆる筈ぢや、何と云付て置た物は用意したか▲小アト「成程用意致て御座る▲アト「扨夫に付て、又毎もの通り祖父御が出させられて、何か物事に差出させらるゝで有らうが、何とした者で有らうぞ▲小アト「されば何とがよう御座りませうぞ、▲アト「何とがよからうぞ▲小アト「いや私の存じまするは、友達衆の方へ人を遣しまして、その方から呼ばせまして、其お留守の間に、御祝儀をお仕舞被成たらば、よう御座りませう▲アト「何れ是は一段とよからう、汝よい様にはからへ▲小アト「畏つて御座る{つめる如常}▲シテ「えいえいえい、何といふぞけふは最上吉日ぢやに依つて、孫の聟がはする、夫に此祖父をきらうて、友達衆の方へ人をやつて、あちから呼ばせて、其留守の間に、祝儀を仕舞はうといふか、扨も扨も憎事かな、やいやい太郎冠者、太郎冠者▲小アト「はあ、是におります▲シテ「けふは孫の聟がはするげな、夫に此祖父を嫌うて、友達衆の方へ人をやつて、あちから呼ばせて、其留守の間に祝儀を仕舞はうといふげな、おのれ其様な事が有者か▲小アト「いや私は何も存じませぬ{*2}▲シテ「何ぢや存じませぬ▲小アト「はあ▲シテ「おのれがしらいで誰がしる者ぢや{ト云て杖を振り上げて小アトを打つ小アトわき座へ逃るアト留るなり}▲小アト「あゝ是は何と被成まする▲シテ「おのれは憎いやつの▲小アト「ごゆるされませごゆるされませ▲アト「あゝ申、あぶなう御座りまする▲シテ「あにか▲アト「はあ▲シテ「あゝそなたも合点のゆかぬ人ぢやぞや、きけばけふは、孫の聟がはするげな、夫に此祖父を嫌うて、友達衆の方へ人をやつて、あちから呼せて、其留守の間に祝儀を仕舞はうとおしやるげな、其様な不得心な事が、有者でおりやるか▲アト「是は存じもよらぬ事を承りまする、何しに左様の事が御座りませうぞ▲シテ「いやいや、おれがよう知つている、先ようおきゝあれ、此様な目出たい時には、内に老人がなければ、外から雇うてきて成共、上座へ直したがる、夫に内にある祖父を嫌うて、友達衆の方へやらうといふ様な、不心得な事が有者か▲アト「是は迷惑で御座る、お年を寄られて、御苦労に御座ると社存じますれ、何しにお前を嫌抔と申事は御座りませぬ▲シテ「むゝ扨は、此祖父を嫌うではないか▲アト「左様で御座りまする▲シテ「さうありさうな事ぢや、すれば是は太郎冠者めがしわざぢや、ちとおしかりあれ▲アト「何事も御了簡被成て遣はされませ、▲シテ「夫ならばけふは、聟殿がはするか▲アト「成程見えまする▲シテ「おれも座敷へ出うか▲アト「御苦労ながら、お出被成て下されい▲シテ「どれどれ爰にまつていませう、えいえい▲アト「申々、まだ早う御座りまする▲シテ「やあ、まだ早いか▲アト「左様で御座る▲シテ「夫ならば隠居やへいて、まつてゐやう程に、よい時分におしらしや▲アト「畏つて御座る▲シテ「やい太郎冠者、よい時分にしらせい{ト云て幕へ入迄折々振り返りくどく云}▲小アト「畏つて御座る▲シテ「けふは聟殿がはするの▲アト「成程見えまする▲シテ「此祖父も座敷へ出うか▲アト「御苦労ながらお出被成て下されい▲シテ「よい時分におしらしや▲アト「畏つて御座る▲シテ「いよいよけふは孫の聟がはするのう▲アト「いよいよ見えまする▲シテ「祖父も座敷へ出るぞや▲アト「御苦労ながらお出被成て下され▲シテ「よい時分におしらしや▲アト「畏つて御座る▲シテ「あゝ世話をやかす事ぢや、えいえいえい{ト云て中入する}▲アト「やいやい太郎冠者、何と是は気の毒な事ぢやなあ▲小アト「気の毒な事で御座る、▲アト「何事も随分ひそそかに祝儀を仕舞はう、もしきゝ付て出させられたらば、汝よい様にはからへ▲小アト「畏つて御座る▲アト「聟殿が見えたらば此方へしらせ{つめるうける如常}▲聟「舅にかあいがらるゝ花聟で御座る、今日は最上吉日で御座るに依つて、聟入を致さうと存ずる{しかじかあつて}誠に、早々参る筈で御座つたに、何彼と延引致して御座る、去ながら今日参つたらば、定て悦るゝで御座らう、いや何彼といふ内に是ぢや{ト云て案内乞出るも如常}{*3}汝は是の者か▲小アト「成程是の太郎冠者で御座る▲聟「聟が参つたとおせあれ▲小アト「其由申ませう、暫く夫におまち被成ませ▲聟「心得た▲小アト「申上ます▲アト「何事ぢや▲小アト「聟殿のお出で御座る▲アト「かうお通り被成いといへ▲小アト「畏つて御座る、かうお通り被成いと申まする▲聟「心得た、不案内に御座る▲アト「初対面で御座る▲聟「早々参る筈を、何彼と延引致て御座る▲アト「聟殿は予てお隙なしと承はつて御座る、今日のお出忝なう御座る▲シテ「えいえいえい、やあ何ぢや、最前聟殿が見えたといふか、やいやい太郎冠者、太郎冠者▲小アト「はあ、是におります▲シテ「最早聟殿が見えたげなが▲小アト「成程お出被成て御座る▲シテ「おれも座敷へ出うか▲小アト「いやまだお早う御座りまする▲シテ「何ぢや、まだ早いか▲小アト「左様で御座る▲シテ「夫ならば爰にまつてゐる程に、よい時分にしらせい▲小アト「畏つて御座る▲聟「扨申舅殿、是には祖父御様が御座ると承りましたが、どれに御座りまするぞ▲アト「いやも年よられまして、隠居家へ引こうでいられまする、▲聟「どうぞお目に掛りたう御座るが▲アト「はあおあひなされて下されうか▲聟「苦敷うなくば、お目にかゝりとう存じまする▲アト「左様ならば呼に遣しませう、やいやい太郎冠者あれへいて、聟殿が祖父御様に、お目に掛りたいと仰せらるゝ程に、是へお出被成いというて、呼ましてこい▲小アト「畏つて御座る、申々、聟様が祖父御様に、おあひ被成たいと仰られまする程に、あれへお出被成ませ▲シテ「何ぢや聟殿が、此祖父にあいたいとおせあるか▲小アト「左様で御座る▲シテ「夫見おれ、夫ぢやに依つて、最前から出うといふ者を、まだ早いのおそいのとぬかしおる、聟殿は公儀者ぢやに依つて、あちからお呼あるわいやい、夫におのれが何をしつて、こさしでたやつの、えへえへ、やいやい太郎冠者太郎冠者▲小アト「はあ▲シテ「聟殿はどれにお居ある▲小アト「是に御座りまする▲シテ「どれぢや▲小アト「是に御座りまする▲シテ「是か▲小アト「はあ▲シテ「是ぢやな{*4}▲小アト「左様で御座る▲シテ「こなた聟殿か▲聟「左様で御座る▲シテ「聟殿か、おゝよう御座つたのう、よう御座つたのう▲聟「はあ▲シテ「けふはこなたがはするという事をきいて、此祖父はけさから、ほそう長う成つてまつて居ました▲聟「夫は忝う存じまする、▲シテ「兄、そなたも嬉しからう▲アト「はあ▲シテ「よい聟殿ぢや▲アト「左様で御座る▲シテ「はあ是はまだ、盃が出ぬさうな▲アト「太郎冠者盃を出せ▲小アト「畏つて御座る▲シテ「やいやい太郎冠者、早う盃を出せ▲小アト「はあ▲シテ「おゝよう御座つたなう、よう御座つたなう▲小アト「お盃を持ました▲シテ「どりや、此盃は目出たう、此祖父が初めうぞ▲アト「夫がよう御座りませう▲シテ「なう聟殿、祖父から初めて、そなたへさしませう▲聟「夫は忝う御座る▲シテ「やいやい太郎冠者▲小アト「はあ▲シテ「さあさあつげ▲小アト「畏つて御座る▲シテ「おゝあるある、扨聟殿、是をそなたへさしませう▲聟「いたゞきませう▲シテ「やい太郎冠者、ついでおませ▲小アト「畏つて御座る▲シテ「目出たう御座る{盃うけて呑ときに}{*5}こりや聟殿は、一つ参るさうな▲アト「左様さうに御座る▲シテ「是々聟殿、こなたは酒一つ参るか▲聟「一つ下さりまする▲シテ「夫はよい事ぢや、最一つ参れ▲聟「左様ならば最一つたべませう▲シテ「やいやい太郎冠者、早うつげ▲小アト「畏つて御座る▲聟「おゝ有々▲シテ「聟殿が酒がなつてよい事ぢやのう▲アト「左様で御座る▲シテ「なうなう聟殿、こなた酒一つ参るか▲聟「一つ下さりまする▲シテ「夫はよい事ぢや、男は呑まねば役にたゝぬ、此祖父も酒がすきぢや、かう内輪に成るからは、何も遠慮はない、今から隠居家へすぐに御座れ、酒を呑うで遊びませうぞ▲聟「夫は忝う御座る▲シテ「随分おごうをかはゆがつて下され▲聟「はあ{シテ聟のそばへ寄り、くどう云舅気の毒がりて袖をひき目くばせ{*6}をするなり}▲シテ「やあ、むゝ▲聟「扨是を、慮外ながら、祖父御様へ上げませう▲シテ「どれどれ、是へくれさしめ▲聟「たべよごして御座る▲シテ「幾久敷目出たう御座る、やい太郎冠者、太郎冠者▲小アト「はあ▲シテ「どこにおる▲小アト「是におります▲シテ「早うつげ▲小アト「畏つて御座る▲シテ「あゝうかうかとしてゐおる、おゝあるある{ト云て呑也}{*7}兄、是をそなたえさゝう▲アト「いたゞきませう▲シテ「そなたも一つお呑あれ▲アト「畏つて御座る▲シテ「是々聟殿、こなた酒を一つ参るか▲聟「一つ下されまする▲シテ「夫はよい事ぢや、かう内輪に成からには、何も遠慮はない、今からすぐに隠居家へ御座れ、酒を呑うで遊びませうぞや▲聟「忝う存じまする{*8}{アト袖を引初めの通りむゝと云て引}▲アト「扨是を聟殿へ進じませう▲聟「いたゞきませう▲アト「たべよごして御座る▲聟「幾久敷目出たう御座る▲アト「其通りで御座る▲シテ「やい太郎冠者、早う持つてゆけ、何をうろうろしてゐおるぞいやい▲小アト「はあ{聟受て呑シテあい口をやらうと云心持にてアトへ見せるなり}▲シテ「兄、なう▲アト「よう御座りませう▲シテ「是々聟殿に肴をしませう▲聟「夫は忝う御座る▲シテ「是々、是は此祖父が若い時に、手おぼえの有者ぢや、けふの祝儀に、そなたへゆずりまするぞ▲聟「是は有難う存まする▲シテ「おゝよい公儀振やの、おごうは仕合者ぢや、▲アト「はあ▲シテ「そなたも嬉しからう▲アト「左様で御座る▲シテ「いや是々、こなたは酒一つ参るのう▲聟「一つ下さりまする▲シテ「夫はよい事ぢや、此祖父も酒がすきぢや、かう内輪に成からは、何も遠慮はない、今から隠居家へすぐに御座れ、酒呑うで遊ませうぞ▲聟「夫は忝う御座る▲シテ「おごうをかはゆがつて下され{アト初めの通り袖を引シテ同}▲聟「扨此お盃を何と致しませう▲シテ「祖父がいたゞかう▲アト「いや申、私がまだむすびませぬ▲シテ「まだ結ばぬか▲アト「左様で御座る▲シテ「夫ならば兄にやつて下され▲聟「左様ならば慮外ながら上げませう▲アト「いたゞきませう▲聟「たべよごして御座る▲アト「苦敷御座らぬ▲シテ「是々聟殿、そなた酒を一つ参るのう▲聟「一つ下されます▲シテ「夫はよい事ぢや、かう内輪に成からは、何も遠慮はない、今から隠居家へすぐに御座れ酒呑うで遊ませうぞや▲聟「夫は忝う御座る{又アト袖を引前に同断}▲アト「是を祖父御様へ上げませう▲シテ「どれどれ是へたもれ、▲アト「目出たう最一つ上りませ▲シテ「飲う共飲う共、やいやい太郎冠者、どこにおる、どこにおる▲小アト「是におります▲シテ「何をしてゐおるぞいやい、早うつげ▲小アト「畏つて御座る▲聟「何事もかごとも、親子のけいやくするうへは、たゞひらに御めん候らへ▲シテ「おゝさうじや共さうじや共▲アト「最一つ参れ聟殿▲聟「最一つめせや、舅殿▲シテ「もはやいやか、夫ならば太郎冠者とれ▲小アト「畏つて御座る▲アト「三々九度もかさなれば▲二人「後は酒興のあまりにや、聟も舅も諸共に、相舞まうてぞ、入にける{ト云て舞留にて二人とも入るシテうろうろ見てゐるなり}▲シテ「聟も祖父も諸共に、聟も祖父も諸共に、聟も祖父{*9}ももろともに、相舞まうてぞ、入にける{ト云て舞留}▲シテ「やあ、ほい、ふたり共にどれへやらいた、扨も扨も世話をやかしをる、えいえいえい。{ト云て入るなり}
校訂者注
1:底本は、「▲アト「今日は最上吉日なれば」。
2:底本は、「私は何も存ずませぬ」。
3:底本は、「▲聟「汝は是の者か」。
4:底本は、「是ぢややな」。
5:底本は、「▲シテ「こりや聟殿は」。
6:底本は、「目くばぜをする」。
7:底本は、「▲シテ「兄、是を」。
8:底本は、「忝う存ずまする」。
9:底本は、「聟も祖又ももろともに」。
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