懐中聟(くわいちゆうむこ)(脇狂言)
▲アト「この辺りの者でござる。
{これより名乗り過ぎて、太郎冠者呼び出す。常の如し。又、シテ出て名乗り、しかじかあつて、案内乞ふ。教へ手出て、聟入の作法習ふ。懐中聟を教ふるまで、「鶏聟」に同断なり。}
▲教「まづ、舅の方へお行きあつて、盃事があらう。その上で、何なりともあの方から出る物を、懐中する事でおりある。
▲シテ「懐中とは、何の事でござる。
▲教「懐中とは、懐(ふところ)の内へ物を入るゝ事でおりある。
▲シテ「扨は、あの方から出る物を、何によらず懐中さへすれば、良うござるか。
▲教「さうさへ召さるれば、物知りぢやと云うて、ざつと聟入が済む事でおりある。
▲シテ「扨々、忝うござる。
{と云ひて、これより引出物の事を云ひ、暇乞ひして、常の如くしかじかあり。扨、舅の方へ行き、案内乞ふ。太郎冠者出る。種々しかじかあり。この類、聟狂言何(いづ)も同断。}
▲小アト「申し上げまする。
▲アト「何事ぢや。
▲小アト「聟様の御出でござる。
▲アト「人は幾人(いくたり)お連れなされた。
▲小アト「只、御身すがらでござる。
▲アト「それは、定めて先走りであらう。聟殿は、どれまで御出なされた。舅が迎ひに出ようと云へ。
▲小アト「畏つてござる。申し申し。御前(おまへ)は定めて先走りでござらう、聟様はどれまで御出なされたぞ、舅が迎ひに出よう、と申しまする。
▲シテ「先走りにも後走りにも、正真(しやうじん)の真聟(まむこ)只一人ぢや、と仰(お)せあれ。
▲小アト「心得ました。先走りにも後走りにも正真の真聟、只一人ぢやと仰せられまする。
▲アト「かう、お通りなされいと云へ。
▲小アト「畏つてござる。かうお通りなされいと申しまする。
▲シテ「心得た。不案内にござる。
▲アト「初対面でござる。
▲シテ「早々参る筈を、何かと延引致してござる。
▲アト「聟殿は、かねて御隙(おひま)なしと承つてござる。太郎冠者、盃を出せ。
▲小アト「畏つてござる。御盃、持ちましてござる。
▲アト「何と、それヘ参らぬか。
▲シテ「何が扨、まづ参つて下されい。
▲アト「それならば、某(それがし)から初めませう。
▲シテ「一段と良うござらう。
{太郎冠者つぐ。受けて呑む。}
▲アト「扨、これを慮外ながら、それへ進じませう。
{さす。シテ、戴きて呑む。しかじかあり。この類、何(いづ)れも同断なり。}
▲アト「それならば、太郎冠者、盃を取れ。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「云ひ付けて置いた物を、これへ出せ。
▲小アト「畏つてござる。
{と云ひて、弓を持ち出て、シテの前に置くなり。}
▲アト「扨、それは、持ち古びましたれども、重代でござる。今日(こんにち)の祝儀に、こなたへ送りまする。
▲シテ「これは、長い物を下されまする。
{と云ひて、懐中する内に、云ふなり。}
▲アト「私の先祖は、その弓に付けて、殊の外勲功がござつたが、この度の御祝儀に、その弓を送りまする。
{と云ふ内に、シテ、弓を見る。扨、弓を取つて懐中する所、種々仕様あるべし。弓を折りてみる、又、弓を縦に懐中してみる後に、袖より漸(ようよ)うと懐中して、難義さうにする。アト二人、見て笑ふ。}
▲シテ「漸(ようよ)うと、懐中致しましてござる。
▲アト「《笑》やいやい、太郎冠者。あれは、何の真似ぢやいなあ。
▲小アト「左様でござる。
▲アト「聟殿は、つゝと律儀な人ぢやと聞いた。定めて誰(た)そ、なぶつておこしたものであらう。さりながら、あまり興(きよう)がつた事ぢや。舞を所望して、迷惑がらせう。
▲小アト「一段と良うござらう。
▲アト「扨、聟殿。この所の大法でござる。めでたう一(ひと)さし舞はせられい。
▲シテ「畏つてはござれども、夥(おびたゞ)しい引出物を下されてござるによつて、懐中が差し支(つか)へまして、どうも舞はれませぬ。お許されませ。
▲アト「でも、所の大法は破られませぬ。余所外(よそほか)の者もござらぬ。ひらに、ひとさし舞はせられい。
▲シテ「それならば、どうぞ舞うて見ませう。{*1}めでたかりける時とかや。
{と謡うて、笛吹き出す。左右して、直に段を取り、又左右して、下にゐるなり。但し、囃子なき時は、「二人袴」の通り、「釣する所」を舞ふなり。}
▲シテ「あゝ、めでたうござる。
▲アト「これはいかな事。なぜに、左右へ廻つて舞はせられぬ。
▲シテ「左右へ廻りたうはござれども、長い物を下されたによつて、懐中が差し支へて、どうも左右へ廻れませぬ。
▲アト「その上、今のはあまり短うござる。もそつと長々と舞はせられい。
▲シテ「心得ました。{*2}祝ふ心は万歳楽。
{と云ひて、又、左右して二段舞ふなり。但し、囃子なき時は、小舞「あはれ一枝(ひとえだ)」を舞ふなり。}
▲アト「これも、短い舞でござる。なぜに左右へ廻つて、長々と舞はせられぬ。
▲シテ「いや、今日(こんにち)は右も左も、さす神(がみ){*3}があつて、どうも廻れませぬ。
▲アト「これはいかな事。舞に、さす神といふ事があるものでござるか。それならば、ものと致さう。
▲シテ「何となされまする。
▲アト「連れ舞ひに致さう。
▲シテ「それは迷惑でござる。
▲アト「さあさあ、立たせられい。
▲二人「{*4}悦びに、又悦びを重ねけり。
{と云ひて、三段の舞。アト、常の如く舞ひ、シテ、種々難義する。二段目、扇を取り替へる。扨、三段目にて、又扇取る所、同じく口にくはえて取り、難儀する。舅、見て可笑しがり、大いに笑ふなり。但し、囃子なき時、小舞「小弓」を舞ふ。「寅まだらのゑの子」と云ふ時、うつむけにこける。舅、見て大いに笑ふなり。}
▲シテ「いや、こゝな人が。この様な長い物をくれて置いて、笑ふといふ事があるものか。
{と云ひて、弓懐中したるまゝにて、アトを追ひ廻す。アト、逃ぐるなり。但し三段の舞、種々工夫あり。口伝。}
▲アト「なうなう、聟殿。座興でござるわいなう。
▲シテ「いやあいやあ。
▲アト「危なうござる。許させられい、許させられい。
{と云ひて、逃げて入る。シテ、追ひ込むなり。}
校訂者注
1:底本、「目出たかりける時とかや」に、傍点がある。
2:底本、「祝う心は万歳楽」に、傍点がある。
3:「さす神(がみ)」は、「天一神(なかがみ)」の俗称。この神のいるとされる方角を「ふたがり(ふさがり)」と呼び、避ける風習があった。
4:底本、「悦に又悦びを重ねけり」に、傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.)
懐中聟(クワイチウムコ)(脇狂言)
▲アト「此辺りの者で御座る{是より名乗り過て太郎冠者呼出す如常亦シテ出て名乗りしかじか有つて案内乞教手出て聟入の作法習ふ懐中聟をおしふる迄鶏聟に同断なり}▲教「先舅の方へお行あつて、盃事が有う、其上で何成共、あの方から出る物を、懐中する事でおりある▲シテ「懐中とは何の事で御座る▲教「懐中とはふところの内へ、物をいるゝ、事でおりある▲シテ「扨はあの方から出る物を、何によらず懐中さへすればよう御座るか▲教「さうさへ召るれば、物しりぢやというて、ざつと聟入が済事でおりある▲シテ「扨々忝う御座る{ト云て是より引出物の事を云ひ暇乞して如常しかじか有扨舅の方へ行案内乞太郎冠者出る種々しかじか有此るゐ聟狂言何も同断}▲小アト「申上まする▲アト「何事ぢや▲小アト「聟様のお出で御座る▲アト「人はいくたりおつれ被成た▲小アト「唯お身すがらで御座る▲アト「夫は定て先走りで有う、聟殿はどれ迄お出被成た、舅が迎ひに出うといへ▲小アト「畏つて御座る、申々、お前は定て先走りで御座らう、聟殿はどれ迄お出被成たぞ、舅が迎ひに出うと申まする▲シテ「先走りにも後走りにも、正真の真聟、唯一人ぢやとおせあれ▲小アト「心得ました、先走りにも後走りにも、正真の真聟、唯一人ぢやと仰られまする▲アト「かうお通り被成いといへ▲小アト「畏つて御座る、かうお通り被成いと申まする▲シテ「心得た、不案内に御座る▲アト「初対面で御座る▲シテ「早々参る筈を、何彼と延引致て御座る▲アト「聟殿は、予てお隙なしと承はつて御座る、太郎冠者盃を出せ▲小アト「畏つて御座る、お盃持まして御座る▲アト「何と夫ヘ参らぬか▲シテ「何が扨先参つて下されい▲アト「夫ならば某から初めませう▲シテ「一段とよう御座らう{太郎冠者つぐうけて呑}▲アト「扨是を慮外ながら、夫へ進じませう{さすシテ戴きて呑しかじか有此るゐ何も同断なり}▲アト「夫ならば太郎冠者盃をとれ▲小アト「畏つて御座る、▲アト「いひ付て置た物を是へ出せ▲小アト「畏つて御座る{ト云て弓を持出てシテの前におくなり}▲アト「扨夫は持古びましたれ共、重代で御座る、今日の祝儀に、こなたへ送りまする▲シテ「是は長い物を下されまする{ト云て懐中するうちに云なり}▲アト「私の先祖は、其弓に付て殊の外、くんこうが御座つたが、此度の御祝儀に其弓を送りまする{ト云内にシテ弓を見る扨弓を取つて懐中する所種々仕様あるべし弓を折て見る又た弓を竪てに懐中して見る後に袖より漸と懐中してなんぎそうにするアト二人見て笑ふ}▲シテ「漸と懐中致まして御座る▲アト「《笑》やいやい太郎冠者、あれは何の真似ぢやいなあ▲小アト「左様で御座る▲アト「聟殿は、つゝと律儀な人ぢやときいた、定て誰そなぶつておこした者で有う、去乍、あまりきようがつた事ぢや、舞を所望して、迷惑がらせう▲小アト「一段とよう御座らう▲アト「扨聟殿、此所の大法で御座る、目出たう一とさしまはせられい▲シテ「畏つては御座れ共、おびたゞしい引出物を下されて御座るに依つて、懐中が差つかへまして、どうもまはれませぬ、御ゆるされませ▲アト「でも所の大法は破られませぬ、余所外の者も御座らぬ、ひらに一とさしまはせられい▲シテ「夫ならばどうぞ舞うて見ませう、目出たかりける時とかや{ト謡うて笛吹き出す左右して直に段を取り又左右して下にゐる也但し囃子なき時は二人袴の通り釣する所を舞ふなり}▲シテ「あゝ目出たう御座る▲アト「是はいかな事、なぜに左右へ廻つて舞はせられぬ▲シテ「左右へ廻りとうは御座れ共、長い物を下されたに依つて、懐中が差支て、どうも左右へまはれませぬ▲アト「其上今のは、あまり短う御座る、最そつと長々と、舞はせられい▲シテ「心得ました、祝う心は万歳楽{ト云て亦左右して二段舞ふなり但し囃子なき時は小舞あはれ一と枝を舞ふなり}▲アト「是も短い舞で御座る、なぜに左右へ廻つて、永々とまはせられぬ▲シテ「いや今日は右も左りも、さす神があつてどうもまはれませぬ▲アト「是はいかな事、舞にさす神と云う事が有る者で御座るか、夫ならば物と致さう▲シテ「何と被成まする▲アト「つれ舞に致さう▲シテ「それは迷惑で御座る、▲アト「さあさあたゝせられい▲二人「悦に又悦びを重ねけり{ト云て三段の舞アト如常舞シテ種々なんぎする二段目扇を取かへる扨三段目にて亦扇取所同口にくはえて取難儀する舅見ておかしがり大に笑ふなり但し囃子なき時{*1}小舞小弓を舞寅まだらのゑの子と云時うつむけにこける舅見て大に笑ふなり}▲シテ「いや爰な人が、此様な長い物をくれて置て、笑ふと云ふ事が有る物か{ト云て弓懐中したるまゝにてアトを追廻すアト逃るなり但し三段の舞種々工夫有口伝}▲アト「なうなう聟殿、座興で御座るわいのう▲シテ「いやアいやア▲アト「あぶなう御座るゆるさせられいゆるさせられい{ト云て逃て入るシテ追込むなり}
校訂者注
1:底本は、「但し応答なき時」。
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