樽聟(たるむこ)(脇狂言)

▲アト「この辺りの者でござる。
{と云ひて、名乗る。この類、聟狂言、同断。}
▲シテ「舅に可愛がらるゝ花聟でござる。今日(こんにち)は、最上吉日なれば、聟入を致す。乃ち祝うて、かやうに樽肴を持参致す。さりながら、これを自身持つて参るも、いかゞでござる。又こゝに、御目を下さるゝ御方がござる。これは、人をあまた使はせらるゝによつて、これへ参り、人を雇うて、持たせて参らうと存ずる。誠に、人を使はぬと申す事も、つひには知れうけれども、始めて参る事なれば、一つはおごうが外聞も、気の毒にござるによつて、少しは取り繕うて参る事でござる。いや、何かと云ふ内に、これぢや。
{と云ひて、案内乞ふ。何某(なにがし)出る。常の如し。}
▲何某「ゑい、こゝな。何としてをりあつたぞ。
▲シテ「私は今日、聟入を致しまする。
▲何「何ぢや、聟入をする。
▲シテ「中々。
▲何「扨々、それはめでたい事ぢや。疾(と)うにも存じたらば、人をもつてなりとも、申さうに。かつて、存ぜなんだ。
▲シテ「御存じない筈でござる。今日、只今の事でござる。
▲何「何なりとも、用があらば仰(お)せあれ。
▲シテ「早速、御無心がござりまする。
▲何「何でをりある。
▲シテ「いや、別の事でもござりませぬ。初めて参る事でござるによつて、かやうに樽肴を用意致してござる。これを、自身持つて参るも、いかゞでござる。どうぞ、こなたの御家来衆を、一人お貸しなされて下されい。これを持たせて参りたうござる。
▲何「それは、何より易い事ぢや。さりながら、折節今日は、方々へ使ひに遣はして、一人(いちにん)も宿にをらぬ。
▲シテ「何の、御前(おまへ)の御内(おうち)に、人の一人(ひとり)や二人(ふたり)、ないと申す事があるものでござるか。
▲何「何しに、そなたに偽りを云ふものぢや。折悪う、今日(けふ)に限つて一人も居らぬ。
▲シテ「それならば、是非に及びませぬ。常々、何なりとも用があらば、遠慮なう云へと仰せらるゝによつて、この度に限らず、度々御無心を申し上げまする。又、今日(こんにち)は、私が一世一代の聟入でござるによつて、天晴、御世話にならうとて、参つてござる。是非に及びませぬ。恥を捨てゝ、自身持つて参りませう。
▲何「なうなう。まづ、お待ちあれ。今日(けふ)初めて行くに、それが何と、自身に持つて行かるゝものぢや。さりとて、今日(けふ)に限つて一人もあり合はいで。この様な気の毒な事はない。是非に及ばぬ。その樽肴は、身共が持つて行(い)てやらうぞ。
▲シテ「御前は私を、おなぶりなさるゝか。
▲何「いかないかな、なぶりは致さぬ。真実でをりやる。
▲シテ「ぢやと申して、それが御前に、何と、持たせて参らるゝものでござる。
▲何「それは、そつとも苦しうない。仰せある通り、わごりよが一世一代の聟入に、某(それがし)がこれ程の役に立たいでは、日頃懇意にする甲斐がない。是非とも、身共が持つて行かう。どれどれ、こちへおこさしめ。
{と云ひて、嫌と云ふを、無理に持つ。}
▲シテ「これは、慮外千万な事でござる。
▲何「いやいや、さう仰(お)せあるな。少しも如才のない上からでをりある。さあさあ、お行きあれ。
▲シテ「まづ、御先へ御出なされませ。
▲何「いらざる辞儀ぢや。先へ行かしめ。
▲シテ「それならば、参りませう。
{と云ひて、しかじかの内、迷惑さうに行く事、専一なり。心持ち、種々あるべし。}
誠に今日は、存じも寄らぬ御苦労を掛けまして、かやうな気の毒な事は、ござりませぬ。
▲何「なぜにその様に仰(お)せある。とかく某を、わごりよの内の者ぢやと思はしめ。
▲シテ「それは、冥加恐ろしい事でござる。
▲何「いやいや、舅の方(かた)へ外聞ぢや。あれへお行きあつたりとも、太郎冠者、太郎冠者と、のし切つて呼ばしめ。
▲シテ「それが何と、呼ばるゝものでござる。
▲何「いや、その様な事ではならぬ。ちと稽古のため、路次すがら呼うで見さしめ。
▲シテ「左様ならば、ちと呼うで見ませうか。
{と云ひて、呼うで見る。種々あるべし。}
どうも、御顔を見ましては、どうも声が出ませぬ。
▲何「声が出ぬといふ事があるものか。思ひ切つてお呼びあれ。
▲シテ「左様ならば、思ひ切つて呼うで見ませう。
▲何「それが良からう。
▲シテ「やいやい、太郎冠者。
▲何「はあ。
▲シテ「来るか。
▲何「はあ。
▲シテ「ござりますか。あゝ、お許されませ、お許されませ。
▲何「これはいかな事。その様な心弱い事で、何と、人が使はるゝものぢや。とかく、身共ぢやと思はずに、そなたの家来ぢやと思うて、呼うで行かしめ。
▲シテ「いか様、男の心は、太いが上にも太かれと申す。思ひ切つて、呼うで参りませう。
▲何「それが良からうとも。
▲シテ「やいやい、太郎冠者。
▲何「はあ。
▲シテ「来るか。
▲何「はあ。
▲シテ「太郎冠者、来るか来るか。
▲何「参りまする、参りまする。
▲シテ「参れ参れ。
▲何「はあ。
▲シテ「何かと申す内に、これでござりまする。
{何某、「しい」と云ひて、叱る。シテ、笑ふ。}
《笑》何かと云ふ内に、これぢや。身共が来た通り、案内をせい。
▲何「畏つてござる。
{と云ひて、案内乞ふ。小アト出る。常の如きなり。樽肴を渡すなり。}
聟が参られてござる。乃ちこれは、今日参られた印でござる。
▲小アト「その由申しませう。暫くお待ちなされい。
▲何「心得ました。
▲小アト「申し上げまする。聟様の御出でござる。乃ち、これはお持たせでござる。
▲アト「かう、お通りなされいと云へ。
▲小アト「畏つてござる。かうお通りなされいと申しまする。
▲何「心得ました。かうお通りなされいと申されまする。
▲シテ「左様ならば、通りませうか。
{又、「しい」と云ひて叱る。}
不案内にござる。
▲アト「初対面でござる。
▲シテ「早々参る筈を、何かと延引致してござる。
▲アト「聟殿は、かねて御隙なしと承つてござる。
{この内に太郎冠者、立ちて橋懸りを見て、不審さうにして、}
▲小アト「いや、申し申し。聟様は表にござりまする。
▲アト「あれは誰ぢや。
▲小アト「御内の衆さうにござる。
▲アト「これはいかな事。それならば、早う呼び申(ま)して来い。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「やいやい、太郎冠者。聟は身共ぢや。表にゐるは、家来ぢや。
▲小アト「いや、私が良う存じて居りまする。
▲アト「それならば、かう通しませい。
▲小アト「畏つてござる。申し申し。これへお通りなされませ。
▲何「いや、私はそれへ参る者ではござりませぬ。
▲小アト「扨々、御辞儀も事によつた事でござる。平に御通りなされませ。
▲シテ「これはいかな事。やいやい、太郎冠者。汝は何を云ふ。聟は身共ぢや。
▲小アト「まだそのつれを仰(お)せある。すつこんでおゐあれ。
{と云ひて、シテを突きやり、無理に何某を連れて出る。}
▲何「これは迷惑ぢや。
▲小アト「さあさあ、早うお通りなされませ。聟様でござる。
▲アト「最前から、なぜにお通りなされませぬぞ。
▲シテ「これはいかな事。もつけな事ぢや。
▲何「いや、私はこれへ参るものではござりませぬ。家来共でござりまする。
▲シテ「やい、太郎冠者。扨々、汝は麁相な者ぢや。聟といふは身共ぢや。
▲小アト「まだこれへ出て、何やら云ふか。こゝにゐる人ではない。外へ出さしめ。
{と云ひて、引つ立て、橋懸りへ突きやるなり。}
▲アト「扨々、御遠慮深い事でござる。何しに左様に仰せらるゝ。御仁体(ごじんたい)と申し、隠れはござらぬ。太郎冠者、盃を出せい。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「これはいかな事。舅も麁相な人ぢや。篤(とく)と吟味もせずに。その上、太郎冠者も、何を目当に、身共をさうでないと云ふぢやまで。
▲小アト「御盃を出しましてござる。
▲シテ「あれあれ、盃を出したわ。
▲アト「扨、某からたべて、進ぜう。
{と云ひて、呑んでさす。何某、戴きて呑むなり。}
▲何「御盃は戴きませうが、私は聟ではござりませぬ。
▲アト「お隠しなさるゝも、事によりまする。さあさあ、太郎冠者、つげ。
▲小アト「畏つてござる。
▲何「左様ならば、まづ、戴きませう。
▲シテ「あれあれ、酒を呑みをるわ。あゝ。どうぞ、呑みたいものぢや。
{と云ひて、橋懸りにて種々、腹立て、けなりがる所、心持ち種々あるべし。}
▲アト「聟殿は、一つ参るさうな。も一つ参れ。
▲何「たべませねども、お強(し)ひなさるゝ程に、も一つたべませう。
{と云ひて、受ける。この内にシテ、橋懸りより、そつと何某の後ろへ行き、袖を引き、「酒を呑ませ」と云ふ心持をして、扇開きて出す。何某、盃より移しやる。}
これは、たぶればたぶる程、結構な御酒でござる。
▲アト「扨、それをこれへ下され。
▲何「慮外ながら、上げませう。
▲シテ「まづ、これさへ呑めば、何になつても大事ない。さりながら、あの人を雇うて来ずば、この様な事もあるまいに。云うても云うても、苦々しい事ぢや。
▲アト「扨、も一つ参らぬか。
▲何「もはや、たべますまい。
▲アト「いやいや、献(こん)も悪(あ)しうござる。是非とも、もう一つ参りませ。
▲何「左様に仰せらるゝ事でござる。もう一献(こん)、下されませうか。
▲小アト「さあさあ、丁度(ちやうど)上がりませ。
▲シテ「又、呑むさうな。
{と云ひて、又、後ろへ行きて呑むなり。}
むゝ、呑めば呑む程、良い酒ぢや。
▲アト「太郎冠者、云ひ付けて置いた物を、これへ出せ。
▲小アト「畏つてござる。
{と云ひて、太刀を出す。聟、種々急(せ)く心持あり。}
▲シテ「何やら出すさうな。
▲アト「扨、それは近頃、麁相な太刀なれども、今日(こんにち)の祝儀に進上致す。
▲何「忝うはござれども、私は、貰ひまする者ではござりませぬ。最前のが、聟殿でござる。
▲アト「はあ。扨は、舅が気に入りませぬか。
▲何「いかないかな。左様ではござりませぬ。これは、人違ひと申すものでござる。
▲アト「また仰せらるゝ。私もこの辺りでは、人に知られた者でござる。最前の様な不人柄(ふひとがら)な者が、某が聟になるものでござるか。たとへ、こなたでござらずとも、その引出物は、こなたへ進上致す。平(ひら)に、納めて下されい。
▲何「これは、何とも迷惑にござれども、左様に仰せらるゝ事でござる。しからば、戴きませう。
▲シテ「あれあれ、結構な太刀を貰うた。あれも、身共が貰ふ筈ぢや。苦々しい。何とせうぞ。いや、致し様がある。
▲アト「めでたう納めませう。
▲何「扨、存じも寄らぬ御馳走に預り、殊に結構な御太刀まで下されて、忝う存じまする。もはや、御暇(おいとま)申しませう。
▲アト「早(はや)、御出なさるゝか。
▲何「中々。
▲アト「良う、御出なされた。
▲何「はあ。扨も扨も、今日(けふ)は思ひの外な事であつた。
▲シテ「なうなうなう、そこな人。
▲何「何事ぢや。
▲シテ「今日(けふ)は、そなたを頼うで来ねば良かつたものを。ひよんな人を連れて来て、さんざんの首尾でござつた。
▲何「されば、気の毒には思へども、お聞きある通りの首尾ぢや。さりながら、そなたもちと、常々人柄を良う持たしめ。
▲シテ「生まれ付いた人柄が、俄(には)かに直るものでござるか。扨、こなたは何やら貰はせられたの。
▲何「されば、存じ寄らぬ太刀を貰うた。
▲シテ「どれどれ、見せさせられい。
▲何「これこれ、これをお見あれ。
▲シテ「これは、身共が貰ふ筈ぢや。こちへおこさしめ。
{と云ひて、引つたくり、逃げて入るなり。}
▲何「やいやい、それは身共が貰うたのぢや。こちへおこせ。
▲シテ「ならぬぞ、ならぬぞ。
▲何「これはいかな事。それは身共が貰うたのぢや。こちへおこさぬかいやい。
{と云ひて、追ひ込み、入るなり。}

底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.

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樽聟(タルムコ)(脇狂言)

▲アト「此辺りの者で御座る{ト云て名乗る此類聟狂言同断}▲シテ「舅にかあいがらるゝ花聟で御座る、今日は最上吉日なれば、聟入を致す、乃祝うて、斯様に樽肴を持参致す、乍去、是を自身持つて参るもいかゞで御座る、又爰にお目を下さるゝお方が御座る、是は人をあまた、つかはせらるゝに依つて、是へ参り、人を雇うて、もたせて参らうと存ずる、誠に、人を遣はぬと申す事も、ついには知れうけれ共、始めて参る事なれば、一つはおごうが外聞も、気の毒に御座るに依つて、少しは取繕うて参る事で御座る、いや何彼といふ内に是ぢや{ト云て案内乞何某出る如常}▲何某「ゑい爰な、何としておりあつたぞ▲シテ「私は今日聟入を致しまする▲何「何ぢや聟入をする▲シテ「中々▲何「扨々夫は目出たい事ぢや、とうにも存じたらば、人をもつて成共申さうに、かつて存ぜなんだ▲シテ「御存じない筈で御座る、今日唯今の事で御座る、▲何「何成共用が有らばおせあれ▲シテ「早速御無心が御座りまする▲何「何でおりある、▲シテ「いや別の事でも御座りませぬ、初めて参る事で御座るに依つて、斯様に樽肴を用意致して御座る、是を自身持つて参るもいかゞで御座る、どうぞこなたの御家来衆を、一人お貸し被成て下されい、是をもたせて参りとう御座る▲何「夫は何寄安い事ぢや、去ながら、折節今日は方々へ、使に遣はして一人も宿におらぬ▲シテ「何のお前の御内に、人のひとりやふたりないと申す事が、有る者で御座るか▲何「何にしにそなたに偽はりをいふ者ぢや、折悪うけふに限つて一人も居らぬ▲シテ「夫ならば是非に及びませぬ、常々何成共用が有らば、遠慮なういへと仰せらるゝに依つて、此度に限らず、度々御無心を申上まする、又今日は私が一世一代の聟入で御座るに依つて、天晴お世話にならうとて参つて御座る、是非に及びませぬ恥をすてゝ、自身持つて参りませう▲何「なうなう先おまちあれ、けふ初めてゆくに、夫が何と自身に持つて行かるゝ者ぢや、さり迚けふに限つて、一人も有合はいで、此の様な気の毒な事はない、是非に及ばぬ、其樽肴は身共が持つて往てやらうぞ▲シテ「お前は私をおなぶり被成るゝか▲何「いかないかななぶりは致さぬ、真実でおりやる、▲シテ「ぢやと申して、夫がお前に、何ともたせて参らるゝ者で御座る▲何「夫は卒度も苦敷ない、仰ある通りわごりよが、一世一代の聟入に、某が是程の役にたゝいでは、日頃懇意にする甲斐がない、是非共身共が持つて行かう、どれどれこちへおこさしめ{ト云ていやと云を無理に持}▲シテ「是は慮外千万な事で御座る▲何「いやいやさうおせあるな、少しも如才のない上からでおりある、さあさあお行きあれ▲シテ「先お先へお出被成ませ▲何「いらざる辞儀ぢや、先へゆかしめ、▲シテ「夫ならば参りませう{ト云てしかじかの内迷惑さうに行く事専一也心持種々可有}{*1}誠に今日は、存じも寄らぬ御苦労を掛けまして、斯様な気の毒な事は御座りませぬ▲何「なぜに其様におせある、兎角某を、わごりよの内の者ぢやと思はしめ▲シテ「夫は冥加恐ろしい事で御座る▲何「いやいや舅の方へ外聞ぢや、あれへおゆきあつたり共、太郎冠者、太郎冠者、とのし切つて呼ばしめ▲シテ「夫が何んと呼ばるゝ物で御座る▲何「いや其様な事ではならぬ、ちと稽古のため、路次すがらようで見さしめ▲シテ「左様ならばちとようで見ませうか{ト云て呼で見る種々可有}{*2}どうもお顔を見ましては、どうも声が出ませぬ▲何「声が出ぬといふ事が有物か、思ひ切つてお呼びあれ▲シテ「左様ならば、思ひ切つて呼うで見ませう▲何「夫がよからう▲シテ「やいやい太郎冠者▲何「はあ▲シテ「くるか▲何「はあ▲シテ「御座りますか、あゝ御ゆるされませ御ゆるされませ▲何「是はいかな事、其様な心よわい事で、何と人が使はるゝ者ぢや、兎角身共ぢやと思はずに、そなたの家来ぢやと思うて、呼うでゆかしめ▲シテ「いか様、男の心はふといがうへにもふとかれと申す、思ひ切つて呼うで参りませう▲何「夫がよからう共▲シテ「やいやい太郎冠者▲何「はあ▲シテ「くるか▲何「はあ▲シテ「太郎冠者くるかくるか▲何「参りまする参りまする、▲シテ「参れ参れ▲何「はあ▲シテ「何彼と申す内に是で御座りまする{何某しいと云てしかるシテ笑ふ}{*3}《笑》何彼といふ内に是ぢや、身共がきた通り案内をせい▲何「畏つて御座る{ト云て案内乞小アト出る如常也樽肴を渡すなり}{*4}聟が参られて御座る、乃ち是は、今日参られた印で御座る▲小アト「其由申ませう、暫くお待被成い▲何「心得ました▲小アト「申上まする、聟様のお出で御座る、乃ち是はおもたせで御座る{*5}▲アト「かうお通り被成いといへ、▲小アト「畏つて御座る、かうお通り被成いと申しまする▲何「心得ました、かうお通り被成いと申されまする▲シテ「左様ならば通りませうか{亦しいと云てしかる}{*6}不案内に御座る▲アト「初対面で御座る▲シテ「早々参る筈を、何彼と延引致して御座る▲アト「聟殿は、予て御隙なしと承つて御座る{此内に太郎冠者立て橋懸りを見て不審さうにして}▲小アト「いや申々、聟様は表に御座りまする▲アト「あれは誰ぢや▲小アト「御内の衆さうに御座る、▲アト「是はいかな事、夫ならば早う呼びましてこい▲小アト「畏つて御座る▲シテ「やいやい太郎冠者、聟は身共ぢや、表にいるは家来ぢや▲小アト「いや私がよう存じて居りまする▲アト「夫ならばかう通しませい▲小アト「畏つて御座る、申々、是へお通被成ませ▲何「いや私は夫へ参る者では御座りませぬ▲小アト「扨て扨てお辞儀も事によつた事で御座る、平に御通り被成ませ▲シテ「是はいかな事やいやい太郎冠者、汝は何をいふ、聟は身共ぢや▲小アト「まだ其つれをおせあるすつこんでお居あれ{ト云てシテをつきやり無理に何某をつれて出る}▲何「是は迷惑ぢや▲小アト「さあさあ早うお通り被成ませ、聟様で御座る▲アト「最前からなぜにお通り被成ませぬぞ▲シテ「是はいかな事、もつけな事ぢや▲何「いや私は是へ参るものでは御座りませぬ、家来共で御座りまする▲シテ「やい太郎冠者、扨々汝は麁相な者ぢや、聟といふは身共ぢや、▲小アト「まだ是へ出て、何やらいふか、爰に居る人ではない、そとへ出さしめ{ト云て引立橋懸りへつきやるなり}▲アト「扨々御遠慮深い事で御座る、何しに左様に仰せらるゝ、御仁体と申し、隠れは御座らぬ、太郎冠者、盃を出せい▲小アト「畏つて御座る、▲シテ「是はいかな事、舅も麁相な人ぢや、篤と吟味もせずに、其上太郎冠者も、何を目当に、身共をそでないと云ふぢや迄▲小アト「お盃を出しまして御座る▲シテ「あれあれ盃を出したは▲アト「扨某からたべて進ぜう{ト云て呑でさす何某いたゞきて呑也}▲何「お盃は戴きませうが、私は聟では御座りませぬ▲アト「お隠し被成るゝも事に寄りまする、さあさあ太郎冠者つげ▲小アト「畏つて御座る▲何「左様ならば先戴きませう▲シテ「あれあれ酒を飲み居るは、あゝどうぞ飲たい者ぢや{ト云て橋懸りにて種々腹立けなりがる所心持種々可有}▲アト「聟殿は一トつ参るさうな、最一つ参れ、▲何「たべませね共、おしひなさるゝ程に最一トつたべませう{ト云て受る此内にシテ橋懸りよりそつと何某の後ろへ行袖を引酒を呑せと云心持をして扇開きて出す何某盃よりうつしやる}{*7}是はたぶれば、たぶる程、結構な御酒で御座る▲アト「扨夫を是へ下され▲何「慮外乍ら上げませう▲シテ「先是さへ飲めば何に成つても大事ない、乍去、あの人を雇うてこずば、此様な事も有まいに、いふてもいふても、にがにがしい事ぢや▲アト「扨最一つ参らぬか▲何「最早たべますまい{*8}▲アト「いやいや献もあしう御座る、是非共最一つ参りませ▲何「左様に仰せらるゝ事で御座る、最一こん下されませうか▲小アト「さあさあ丁度あがりませ▲シテ「又飲さうな{ト云て亦後ろへ行て呑也}{*9}むゝ飲めば飲む程よい酒ぢや▲アト「太郎冠者、いひ付て置た物を是へ出せ▲小アト「畏つて御座る{ト云て太刀を出す聟種々せく心持有}▲シテ「何やら出すさうな▲アト「扨夫は近頃麁相な太刀なれ共、今日の祝儀に進上致す▲何「忝うは御座れ共、私は貰いまする者では御座りませぬ、最前のが聟殿で御座る▲アト「はあ扨は舅が気に入りませぬか▲何「いかないかな左様では御座りませぬ、是は人違と申す者で御座る▲アト「また仰せらるゝ、私も此辺りでは、人に知られた者で御座る、最前の様な不人がらな者が、某が聟に成者で御座るか、たとへこなたで御座らず共、其引出物はこなたへ進上致す、ひらに納めて下されい▲何「是は何共迷惑に御座れ共、左様に仰せらるゝ事で御座る、然らば戴きませう{*10}▲シテ「あれあれ、結構な太刀を貰うた、あれも身共が貰う筈ぢや、にがにがしい何とせうぞ、いや、致様が有る▲アト「目出たう納めませう▲何「扨存じも寄らぬ御馳走に預り、殊に結構なお太刀迄下されて忝う存じまする、最早お暇申しませう▲アト「早お出被成るゝか▲何「中々▲アト「ようお出被成た▲何「はあ、扨も扨も、けふは思ひの外な事であつた▲シテ「なうなうなうそこな人▲何「何事ぢや▲シテ「けふはそなたを頼うでこねばよかつた者をひよんな人をつれてきて、さんざんの首尾で御座つた、▲何「されば気の毒には思へ共、おきゝある通りの首尾ぢや、乍去、そなたもちと常々人がらをようもたしめ▲シテ「生れついた人がらが、俄に直る者で御座るか、扨こなたは何やら貰はせられたの▲何「されば存じよらぬ太刀を貰ふた▲シテ「どれどれ見せさせられい▲何「是々、是をお見あれ▲シテ「是は身共が貰う筈ぢや、こちへおこさしめ{ト云て引たくり逃て入るなり}▲何「やいやい、夫は身共が貰ふたのぢやこちへおこせ、▲シテ「ならぬぞならぬぞ▲何「是はいかな事、夫は身共が貰ふたのぢや、此方へおこさぬかいやい{ト云て追込入るなり}

校訂者注
 1:底本は、「▲シテ「誠に今日は」。
 2:底本は、「▲シテ「どうもお顔を見ましては」。
 3:底本は、「▲シテ「《笑》何彼といふ内に」。
 4:底本は、「▲何「聟が参られて御座る」。
 5:底本は、「おもたせて御座る」。
 6:底本は、「▲シテ「不案内に御座る」。
 7:底本は、「▲何「是はたぶれば」。
 8:底本は、「最早たべまずまい」。
 9:底本は、「▲シテ「むゝ飲めば飲む程」。
 10:底本は、「、扨是をそなたへ進じませう▲アト「戴きませう」と続くが、前後と合わない。衍文或いは誤脱があるか。