貰聟(もらひむこ)(脇狂言)
{初め、舅・女、先へ出て、舅は笛座に居る。女は大小の前に居る。シテ、内より酒に酔ひて謡うたうて出る。但し、「又花の春」か、「運び重ね雪山」か謡ふ良し。}
▲シテ「あゝ、酔ひたり、酔ひたり。嫌と云ふものを、大盃で三つ。《笑》面白い、面白い。総じて人間の楽しみは、春は花、秋は月。おりや、只、酒ぢや。《笑》いや、何かと云ふ内に、戻つた。あゝ。又、見たむない女共の面(つら)を見ずばなるまい。女共、女共。女共。
▲女「これのが戻らせられたさうな。ゑい、戻らせられたか。
▲シテ「何ぢや。戻らせられたか。おぬしは、どれに居た。
▲女「どれに居ませう。内に居ました。
▲シテ「内に居た者が、最前から声の枯るゝ程呼ぶに、聞こえぬといふ事があるものか。総じてわごりよは、合点の行かぬ人ぢや。いつも身共が、表から戻れば裏から出る。裏から戻れば表から御出ある。あゝ、合点の行かぬ人ぢや。
▲女「又、酒(さゝ)に酔うて、訳もない事を云はせらるゝ。内へ行つて、休ませられい。
▲シテ「酒を呑まう。
▲女「これはいかな事。それ程酒(さゝ)に酔うて居て、まだ呑まうといふ事があるものでござるか。早う這入つて休ませられい。
▲シテ「聞きたむない。おれが酒を呑まうと云へば、何のかのと云うて、呑ませをらぬ。おのれにほうど、厭(あ)き果てた。暇(いとま)をやる。出て行け。
▲女「又しても、暇をやるの、去るのと。妾ぢやというて、出て行き兼ねも、しますまいぞ。
▲シテ「おゝ扨。とつとゝ出て行け。
▲女「それならば、暇の印(しるし)を下されい。
▲シテ「何の。暇をやるが、印ぢや。
▲女「いやいや。女といふものは、又、どこへ行くまいものでもござらぬ。塵(ちり)を結んでなりとも、暇の印を下されい。
▲シテ「何ぢや。塵を結んでなりとも、暇の印をくれいか。
▲女「おゝ扨。
▲シテ「それは易い事ぢや。そりやそりや、やるぞ。
{と云ひて、塵を結ぶ仕方をして、女にやる。}
▲女「ゑゝ、腹立ちや腹立ちや。これは、譬(たと)へでこそあれ。何なりとも、しつかりとした印をおこせいやい、おこせいやい。
▲シテ「何ぢや。しつかりとした印をおこせ。
▲女「中々。
▲シテ「あゝ。わごりよも、悪うはほれぬの{*1}。暇をやるからは、何が惜しからう。これをやるぞ。
{と云ひて、小さ刀をやる。女、取りて、}
▲女「扨は真実、暇を下さるゝか。
▲シテ「くどい事をぬかしをる。まだそこにをるか、そこにをるか。
▲女「あゝ。許して下され、許して下され。
{シテ、追ひ廻す。女逃げて、太鼓座へ入る。シテ、笑ふ。}
▲シテ「さうもおりあるまいものを。《笑》常々、きやつの面(つら)が、見たむない見たむないと思うたれども、かな法師が母ぢやと思うて、了簡をして置いた。今日(けふ)はざつと、良い病晴(やまひば)れをした。この様な面白い時は、もそつと、どれへぞ行(い)て、酒を呑うで来う。
{と云ひて、「ざゝんざ」を謡ひて、中入りをするなり。}
▲女「扨も扨も、正体もない事かな。今こそあの様に云へども、妾が居ずば、後で何ともなるまいに。暇をくれた程に、まづ、親里へ往(い)なうと思ひまする。誠に妾も、あの男に厭(あ)き果てゝござるによつて、暇をくれたは幸ひの事でござる。さりながら、後でかな法師が尋ねうと思うて、それが不憫にござる。
{と云ひて、泣くなり。}
▲女「申し。とゝ様、ござるか。
▲アト「いや、おごうの声ぢやが。ゑい、おごう。
{女、こゝにて又泣く。}
これは、いかう不機嫌なが、何と召された。
▲女「又、わ男が酒(さゝ)に酔うて、暇をくれてござる。
▲アト「又か。
▲女「あゝ。
▲アト「扨も扨も、気の毒千万な。又しても又しても酒に酔うて、去るの戻すのと、外聞の悪い。又、そなたも了簡が悪い。あの男が酔狂をして、去るの戻すのと云ふは、再々の事ぢやに。それを誠にして戻るといふ事が、あるものでおりあるか。
▲女「いや。この度は、真実暇をくれたと見えて、この一腰(ひとこし)をくれました。
▲アト「扨は、暇の印に、その一腰をおこしたか。
▲女「中々。
▲アト「ほい。こりや、よつぽどの事ぢやわい。さりながら昔から、夫が七度(たび)去るまでは戻らぬものぢやと云ふ。まづ、この度は了簡をして、御帰りあれ。
▲女「あの仰せらるゝ事は。これが、七度や十度の事ではござらぬ。妾も随分、了簡を致してござれども、もはや堪忍袋が切れてござるによつて、戻る事は嫌でござる。
▲アト「成程、尤ぢや。さりながら、お知りある通り、身共も酒を一つ呑むが、酒の上では何事も覚えぬものぢや。又御帰りあつたらば、さうもあるまい程に、まづ今日(けふ)は御帰りあれ。
▲女「はあ。扨は、妾をこゝへ寄せまいといふ事でござるか。
▲アト「いや、寄せまいではなけれども、何事も酒の上の事ぢやによつて、了簡を召されいといふ事ぢや。
▲女「良うござる。女ぢやというて、刃物が身に立たぬ事もござるまい。よし、刃物が身に立たずば、淵川へ身を投げてなりとも、死にませう。
{と云ひて、泣き泣き行く。}
▲アト「あゝ、これこれ。まづ、お待ちあれ。扨は、それ程までに思ひつめたか。
▲女「たとへ親子の久離(きうり)を切る{*2}と云うても、戻る事は嫌でござる。
▲アト「あゝ。扨も扨も、是非もない事ぢや。むゝ、良い良い。それならば、戻しはせまい程に、心易う思はしめ。
▲女「それは、嬉しうござる。
▲アト「さりながら、又いつもの通り、近所の衆を頼うで、詫び事におこすであらう。わごりよがこれに居るに、その挨拶を聞かいでは、大人げない。そなたは、こゝへ来ぬ分にして置かう程に、奥へ引つ込うでおゐあれ。
▲女「心得ました。
▲アト「必ず必ず、端近(はしぢか)へ御出あるな。
▲女「心得ました。
{と云ひて、入れ違ひ、女は笛座に居る。アトは、大小の前に居る。}
▲シテ後「しないたり、しないたり。今朝目を醒まして、女共を尋ぬれば、近所の衆が大笑ひを召されて、又例の酒に酔うて、女共に暇をやつたと申す。あれが片時をらいでも、世帯の世話がどうもならず、その上かな法師が尋ねて、何ともならぬ。辺りの衆を頼うで、詫び事をして貰ふにも、あまり度々の事ぢやによつて、外聞も悪い。是非に及ばぬ。今日は自身に参り、舅の膝を抱いてなりとも、貰うて帰らうと存ずる。誠に、仏の戒めに、飲酒を破れば邪淫・妄語もともに破るゝと申すが、酒程心を狂はす物はござらぬ。又、女共も了簡が悪い。身共が酒に酔うて、暇をやるの去るのと云ふは、度々の事ぢやに、それを誠にして往(い)ぬるといふ事があるものか。さりながら、あまり度々の事ぢやによつて、腹を立つるも尤でござる。いや、何かと云ふ内に、これぢや。誠に、足の裏に疵を持つた者は、笹原をえ歩(あり)かぬと申すが、常々心易う参る所なれども、今日程この敷居を、高う覚ゆる事はない。さりながら、まづ案内を乞はずばなるまい。
{と云ひて、案内乞ふ。常の如し。アト出る。}
私でござりまする。
▲アト「ゑい。良うおりあつた。
{と云ひて、アト、下に居る。シテも下に居る。アト、随分不応答(ふあしら)ひにする。仕様、あるべし。シテも、しかじか心持ちあるべし。}
▲シテ「この間は、久しう御見舞も申しませぬが、御機嫌さうで、おめでたう存じまする。
▲アト「そなたも無事で、重畳でおりある。
▲シテ「扨、それにつきまして、御前(おまへ)をいかう、人が褒めまする。
▲アト「はあ。何と云うて褒むるの。
▲シテ「まづ、御前の様な果報な御方はござるまい。第一、おまめで、常に寺道場へ御参りなされて、ありがたい事どもを御聴聞なさるゝによつて、物事、御了簡深うて、下々までも細かに御気がつかせらるゝ。御慈悲深い結構な御方ぢやと申して、いかう人が褒めまする。私も、悪い事を聞く様になうて、悦ばしう存じまする。
▲アト「それは、中々でおりやる。
▲シテ「扨、私も、御酒をふつゝりと止(と)まりました。
▲アト「なぜに。
▲シテ「さればの事でござる。御目を下さるゝ御方の仰せらるゝは、そちは、常は正直に生まれついたれども、酒を呑むと、云うまじい事も云ひ、心に思はぬ夫婦いさかひなどをする。とかく、酒を止まつたが良からうと仰せらるゝによつて、尤な事ぢやと存じて、ふつゝりと酒を止まりました。
▲アト「いや。身共も少々づゝ呑むが、一つなどは大事ないものぢやが。
▲シテ「成程、仰せらるゝ通り、一つなどは苦しうござらねども、御酒を下さるゝと申せば、人も強(し)ひまする。一つ呑めば旨(むま)し、二盃は数悪(わる)し、三盃四盃と申す内に、つひ大酒になりまする。とかく、呑まぬにしくはないと存じて、ふつふつ思ひ止まりましてござる。
▲アト「誰やらであつた。夕(ゆふべ)とやらも、酒が過ぎたとやら、過ごしさうなとやら、云うたぞや。
▲シテ「いや、それは物でござりまする。友達どもが申しまするには、そちは、酒を止まる止まると云へども、いつ止まるやら、境が知れぬ。とても、酒を止まるならば、境呑みをして止まれと申しましたによつて、夜前はその、境呑みを致しましてござるが、今朝(こんてう)からは、ふつゝりと御酒を止まりましてござる。
▲アト「いや。これ誰。酒は、お呑みあらうとお呑みあるまいと、そなたの勝手次第に召されたが良い。さらば。
{と云ひて立つ所を、シテ、止めて、}
▲シテ「いや、申し。御髭に塵(ちり)がござりまする。
▲アト「苦しうおりあらぬ。
▲シテ「あゝ。申し申し。
▲アト「何事ぢや。
▲シテ「もし、おごうはこれへは見えませぬか。
▲アト「いゝや、おごうはこゝへは来ぬが。
▲シテ「成程、御腹立ちの段は、御尤でござる。何事も、私が不調法でござる。御酒はふつふつ止まりましてござる。どうぞ、おごうを御帰しなされて下さりませ。
▲アト「これはいかな事。おごうはこゝへは来ぬが、何とぞしたか。
▲シテ「これへ参らいで、どれへ参るものでござる。只今までの事は御了簡下されて、どうぞ御帰しなされて下されませ。
▲アト「これは又、合点の悪い人ぢや。おごうはこゝへは来ぬと云ふに。それは心元ない何とした。
▲シテ「それは、あまり御情(おなさけ)なうござる。あれが片時をりませいでも、世帯の世話がどうもなりませず、その上かな法師が尋ねまして、どうもなりませぬ。
{この内に女、橋懸りへ行つて、そつと立ち聞きする心持ちあつて、}
▲女「おゝ。かな法師が尋ねませうとも。
{と云ふ。アト、見て叱る心持ちする。シテ、聞き付けて、辺りを尋ぬる心にて、}
▲シテ「申し。今のは、女共の声ではござりませぬか。
▲アト「いや。あれは、隣りの御内儀でおりある。
▲シテ「これはいかな事。何しに、年久しう連れ添ひまする女共の声を、聞き違へませうぞ。只今も申す通り、御酒はふつふつ止まりましてござる。どうぞ、おごうを御帰しなされて下されませ。
▲アト「こゝな人が、聞き分けのない。酒は、お呑みあらうとも、お呑あるまいと、そなたの勝手に召され。おごうはこゝへは来ぬわいなう。
{と云ふ内、女、舅の後ろへ行き、袖を引き、しかじか云ふなり。舅、袖を振り放す。}
▲シテ「それは、あまり心強いと申すものでござる。どうぞ、御了簡なされて、御帰しなされて下されい。
▲女「あの様に云はせらるゝ程に、もはや、堪忍させられい。
{アト、又叱る。}
▲アト「はて、おごうはこゝへは来ぬ程に、外を御尋ねあれ。
▲シテ「それは、御情ないと申すものでござる。御酒はふつふつ止まりました。どうぞ、おごうを御帰しなされて下されい。
▲女「もはや、堪忍をさせられいのう。
{と、又舅に云ふ。アト、又叱る。}
▲アト「はて、おごうはこゝへは来ぬと云ふに。
{と云ひて、互に三人、せり合ふ内に、シテと女、顔を見合(みあは)せ、}
▲シテ「ゑい、おごう。こゝに居るか。
▲女「こゝに居まする。
▲シテ「扨々、心強い。最前からこの様に云うてゐるに、かな法師が尋ねて、どうもならぬ。さあさあ、早う御帰りあれ。
▲女「さうでござらうとも。
{と云ひて、シテ、女の手を取り行かんとするを、アト、女の手を取り引き戻し、打ちこかし、}
▲アト「やい、そこな人でなしめ。それぢやによつて最前、了簡をして往(い)ねと云ふに。たとへ親子の久離(きうり)を切ると云うても、戻る事は嫌ぢやとぬかしをつたではないか。端近(はしぢか)へ出をるなと云ふに、出をる。すつこうで居をらう。
▲シテ「なう、舅殿。
▲アト「何ぢや。
▲シテ「扨々、こなたは聞こえぬ事を云はつしやる。たとへ、あれが戻るまいと云ふとも、意見をして戻しさうなこなたが、こゝに居る者を居ぬと云ふ事があるものか。
▲アト「やい、そこなやつ。
▲シテ「何でござる。
▲アト「おのれも、おのれぢやぞよ。又しても又しても、酒に酔うては去るの戻すのと、外聞の悪い。この上は、あれが往(い)なうと云うても、身共が往(い)なせぬ程に、さう心得い。
▲シテ「いよいよ合点の行かぬ事を云はつしやる。これ程、夫婦得心づくで往(い)なうと云ふに、何の構ふ事がある。これ、おごう。あの様な人に構はずとも、さあさあ、おりあれ。
▲女「心得ました。
▲アト「いやいや、往(い)なす事はならぬ。
▲シテ「早うおりあれ。
▲女「もはや、堪忍させられい。
▲アト「いやいや、ならぬ。
{と云ひて、女を引き戻す。シテ引き、アト引き留める。三人しかじか、口伝なり。}
▲シテ「あゝ、難しい。女共、小股をとれ。
▲女「心得ました。
{と云ひて、女、小股取り、二人して打ちこかすなり。}
なう、いとしい人。ちやつとござれ。
▲シテ「心得た、心得た。
{と云ひて、二人とも入るなり。}
▲アト「やいやいやい、そこなやつ。夫婦してこの様にしをつたによつて、来年から祭りには呼ばぬぞよ。
{と云ひて、留めて入るなり。}
校訂者注
1:「悪うはほれぬの」は、意味不詳。「ほる」は、或いは「放る(捨てる)」か。
2:「親子の久離(きうり)を切る」は、「親子関係を正式に断つ」意。
底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.)
貰聟(モライムコ)(脇狂言)
{初め舅、女先へ出て舅は笛座に居る女は大小の前に居るシテ内より酒に酔て謡うたうて出る但し又花の春か、はこび重ね雪山か謡吉}▲シテ「あゝ酔たり酔たり、いやといふ者を大盃で、三つ《笑》{*1}面白い面白い、総じて人間のたのしみは春は花、秋は月、おりや唯酒ぢや、《笑》{*2}いや何彼といふ内に戻つた、あゝ又見たむない女共のつらを見ずば成まい、女共女共、女共▲女「是のが戻らせられたさうな、ゑい戻らせられたか▲シテ「何ぢや戻らせられたか、おぬしはどれに居た▲女「どれに居ませう内に居ました▲シテ「内に居た者が、最前から声のかるゝ程呼に、きこへぬといふ事が有者か、総じてわごりよは合点のゆかぬ人ぢや、毎も身共が表から戻れば裏から出る裏から戻れば表からお出ある、あゝ合点の行かぬ人ぢや、▲女「又さゝに酔て、訳もない事をいはせらるゝ、内へいつて憩ませられい▲シテ「酒を呑う▲女「是はいかな事、夫程さゝに酔て居て、まだ呑うと云ふ事が有者で御座るか、早う這入つて休ませられい▲シテ「聞たむない、おれが酒を呑うといへば、何んのかのというてのませおらぬ、おのれにほうどあき果てた、暇をやる出てゆけ▲女「又しても暇をやるのさるのと、妾ぢやというて、出て行兼もしますまいぞ▲シテ「おゝ扨、とつとゝ出てゆけ▲女「夫ならば暇の印を下されい▲シテ「何んの、暇をやるが印ぢや▲女「いやいや女と云ふ者は、又どこへ行くまい者でも御座らぬ、ちりをむすんで成共、暇の印を下されい▲シテ「何ぢや、ちりをむすんで成共、暇の印をくれいか▲女「おゝ扨▲シテ「夫は安い事ぢや、そりや、そりややるぞ{ト云てちりを結ぶ仕方をして女にやる}▲女「ゑゝ腹立や腹立や、是は譬へで社あれ、何成共しつかりとした印を、おこせいやいおこせいやい▲シテ「何ぢやしつかりとした印をおこせ、▲女「中々▲シテ「あゝわごりよもわるうはほれぬの、暇をやるからは、何がおしからう、是をやるぞ{ト云て小さ刀{*3}をやる女取て}▲女「扨は真実暇を下さるゝか▲シテ「くどい事をぬかしおる、まだそこにおるかそこにおるか▲女「あゝゆるして下され、ゆるして下され{シテ追廻す女逃て太鼓座へ入るシテ笑ふ}▲シテ「さうもおりあるまい者を、《笑》{*4}常々彼奴のつらが、見たむない見たむないと思ふたれ共、かな法師が母ぢやと思うて了簡をしておいた、けふはざつとよいやまいばれをした、此様な面白い時は、最卒度どれへぞいて、酒を呑うでこう{ト云てざゝんざを謡ひて中入をするなり}▲女「扨も扨も正体もない事かな、今こそあの様にいへ共、妾がいずば、後で何共成まいに、暇をくれた程に、先親里へいなうと思ひまする、誠に、妾もあの男に、あき果て御座るに依つて、暇をくれたは幸ひの事で御座る、乍去、後でかな法師が尋うと思うて、夫が不便に御座る{ト云て泣なり}▲女「申とゝ様御座るか▲アト「いやおごうの声ぢやが、ゑいおごう{女爰にて亦泣く}{*5}是はいかう不機嫌なが、何とめされた▲女「又和男がさゝに酔うて、暇をくれて御座る▲アト「又か▲女「あゝ▲アト「扨も扨も気の毒千万な、又しても又しても酒に酔うて、去るの戻すのと外聞のわるい、又そなたも了簡がわるい、あの男が酔狂をして、去るの戻すのといふは、さいさいの事ぢやに、夫を誠にして、戻るといふ事が、有る者でおりあるか▲女「いや此度は、真実暇をくれたと見へて、此一と腰をくれました▲アト「扨は暇の印に、其一と腰をおこしたか▲女「中々▲アト「ほい、こりやよつぽど{*6}の事ぢやわい、乍去、昔から、夫が七度去る迄は戻らぬ者ぢやといふ、先此度は了簡をしてお帰りあれ▲女「あの仰せらるゝ事は、是が七度や十度の事では御座らぬ、妾も随分了簡を致して御座れ共、最早堪忍袋が切れて御座るに依つて、戻る事はいやで御座る▲アト「成程尤ぢや乍去、おしりある通り、身共も酒を一つ呑むが、酒の上では何事も覚ぬ者ぢや、又お帰りあつたらばさうも有まい程に、先けふはお帰あれ▲女「はあ扨は妾を、爰へよせまいといふ事で御座るか▲アト「いやよせまいではなけれ共、何事も酒の上の事ぢやに依つて、了簡を召されいといふ事ぢや▲女「よう御座る、女ぢやというて、刃物が身にたゝぬ事も御座るまい、よし刃物が身にたゝずば、淵川へ身を投げてなりとも死ませう{ト云て泣々行く}▲アト「あゝ是々先お待あれ、扨は夫程迄に思ひつめたか▲女「たとへ親子のきうりを切るというても、戻る事はいやで御座る▲アト「あゝ扨も扨も、是非もなひ事ぢや、むゝよいよい、夫ならば戻しはせまい程に、心安う思はしめ▲女「夫は嬉しう御座る▲アト「乍去、又毎もの通り、近所の衆を頼うで、詫事におこすで有う、わごりよが是に居るに、其挨拶をきかいではおとなげない、そなたはこゝへ、こぬ分にして置う程に、奥へ引こうでおいあれ▲女「心得ました▲アト「かならずかならず、端近へお出あるな、▲女「心得ました{ト云て入違女は笛座に居るアトは大小の前に居る}▲シテ後「しないたりしないたり、今朝目をさまして、女共を尋れば、近所の衆が大笑を召されて、又例の酒に酔て、女共に暇をやつたと申、あれが片時おらいでも、世帯の世話がどうもならず、其上かな法師が尋ねて何共ならぬ、辺りの衆を頼うで、詫事をして貰ふにも、あまり度々の事ぢやに依つて、外聞もわるい、是非に及ばぬ、今日は自身に参り、舅のひざをだいて成共、貰うて帰らうと存ずる、誠に、仏のいましめに、飲酒を破れば、邪淫妄語も共に破るゝと申が、酒程心をくるはす物は御座らぬ、又女共も了簡がわるい、身共が酒に酔て、暇をやるの去るのといふは、度々の事ぢやに、夫を誠にして、いぬると云ふ事が有者か、乍去あまり度々の事ぢやに依つて、腹を立るも尤もで御座る、いや何彼といふ内に是ぢや、誠に、足の裏に疵をもつた者は、笹原を得ありかぬと申が、常々心安う参る所なれ共、今日程此敷居を、高う覚る事はない、乍去、先案内をこはずば成まい{ト云て案内乞如常アト出る}{*7}私で御座りまする▲アト「ゑいようおりあつた{ト云てアト下に居るシテも下に居るアト随分不応答にする仕様有べしシテもしかじか心持あるべし}▲シテ「此間は久敷お見舞も申ませぬが、御機嫌さうでお目出たう存じまする▲アト「そなたも無事で重畳でおりある▲シテ「扨夫に付まして、お前をいかう人がほめまする▲アト「はあ何というてほむるの▲シテ「先お前の様な、果報なお方は御座るまい、第一おまめで、常に寺導場へお参り被成て、有難い事共を御聴聞被成るゝに依つて、物事御了簡深うて、下々迄もこまかにお気がつかせらるゝ、お慈悲深い結構なお方ぢやと申て、いかう人がほめまする、私もわるい事をきく様になうて、悦ばしう存じまする▲アト「夫は中々でおりやる▲シテ「扨私も、御酒をふつゝりと留りました▲アト「なぜに▲シテ「さればの事で御座る、お目を下さるゝお方の仰せらるゝは、そちは常は正直に生れついたれ共、酒を呑と云まじひ事もいひ、心に思はぬ夫婦いさかひ抔{*8}をする、兎角酒を留つたがよからうと、仰せらるゝに依つて、尤な事ぢやと存じて、ふつゝりと酒を留りました▲アト「いや身共も少々宛呑が、一つ抔{*9}は大事ない者ぢやが▲シテ「成程仰せらるゝ通り、一つ抔{*10}は苦敷御座らね共、御酒を下さるゝと申せば、人もしひまする、一つ呑めばむまし、二盃は数わるし、三盃四盃と申内に、つひ大酒に成りまする、兎角呑ぬにしくはないと存じて、ふつふつ思ひとまりまして御座る▲アト「誰やらであつた夕とやらも、酒が過ぎたとやら、過さうなとやらいふたぞや▲シテ「いや夫は物で御座りまする、友達共が申まするには、そちは酒をとまるとまるといへ共、いつ留まるやら境が知れぬ、迚も酒を留まるならば、境呑をして留れと申ましたに依つて、夜前は其境呑を致しまして御座るが、今朝からは、ふつつりと御酒を留まりまして御座る▲アト「いや是れ誰、酒はお呑あろうとお呑あるまいと、そなたの勝手次第に召れたがよい、さらば{ト云て立所をシテとめて}▲シテ「いや申、お髭にちりが御座りまする▲アト「苦敷うおりあらぬ▲シテ「あゝ申々▲アト「何事ぢや▲シテ「もしおごうは是へは見えませぬか▲アト「いゝやおごうは爰へはこぬが▲シテ「成程お腹立の段は御尤で御座る、何事も私が不調法で御座る、御酒はふつふつ留りまして御座る、どうぞおごうをお帰し被成て下さりませ▲アト「是はいかな事、おごうは爰へはこぬが、何卒したか▲シテ「是へ参らいでどれへ参る者で御座る、唯今迄の事は御了簡下されて、どうぞ{*11}お帰し被成て下されませ▲アト「是は又合点のわるい人ぢや、おごうは爰へはこぬといふに、夫は心元ない何とした▲シテ「夫はあまりお情なう御座る、あれが片時おりませいでも、世帯の世話がどうもなりませず、其上かな法師が尋ましてどうも成ませぬ{此内に女橋懸へ行つてそつと立ぎゝする心持あつて}▲女「おゝかな法師が尋ねませう共{ト云アト見てしかる心持するシテきゝ付て辺りを尋る心にて}▲シテ「申、今のは女共の声では御座りませぬか▲アト「いやあれはとなりのお内儀でおりある、▲シテ「是はいかな事、何しに年久敷うつれそいまする、女共の声をきゝ違へませうぞ、唯今も申通り、御酒はふつふつ留りまして御座る、どうぞおごうをお帰し被成て下されませ▲アト「爰な人がきゝ分のない、酒は御呑あろうともお呑あるまいと、そなたの勝手に召され、おごうは爰へはこぬわいのう{ト云内女舅の後ろへ行袖を引しかじか云也舅袖をふり放す}▲シテ「夫はあまり心づよいと申者で御座る、どうぞ御了簡被成て、お帰し被成て下されい▲女「あの様に云せらるゝ程に、最早堪忍させられい{アト又しかる}▲アト「果おごうは爰へはこぬ程に、外をお尋ねあれ、▲シテ「夫はお情ないと申者で御座る、御酒はふつふつ留りました、どうぞおごうをお帰し被成て下されい▲女「最早堪忍をさせられいのう{ト又舅に云アト又しかる}▲アト「果おごうは爰へはこぬと云ふに{ト云て互に三人せり合ふ内にシテと女顔を見合せ}▲シテ「得いおごう爰に居るか▲女「爰に居まする▲シテ「扨々心づよい、最前から此様にいうているに、かな法師が尋てどうもならぬ、さあさあ早うお帰りあれ▲女「さうで御座らう共{ト云てシテ女の手を取行んとするをアト女の手を取引戻し打こかし}▲アト「やいそこな人でなしめ、夫ぢやに依つて、最前了簡をしていねといふに、たとへ親子のきうりを切るというても、戻る事はいやぢやとぬかしおつたではないか、端近へ出おるなといふに出おる、すつこうで居おらう▲シテ「なう舅殿▲アト「何ぢや▲シテ「扨々こなたはきこえぬ事をいはつしやるたとへあれが戻るまいといふとも、意見をして戻しさうなこなたが、爰にいる者を、いぬといふ事が有者か▲アト「やいそこなやつ▲シテ「何で御座る▲アト「おのれもおのれぢやぞよ、又しても又しても酒に酔ては、去るの戻すのと外聞のわるい、此上はあれがいなうというても、身共がいなせぬ程にさう心得い▲シテ「いよいよ合点のゆかぬ事をいはつしやる、是程夫婦得心づくでいなうといふに、何のかまう事がある、是おごう、あの様な人にかまはず共、さあさあおりあれ▲女「心得ました▲アト「いやいやいなす事はならぬ▲シテ「早うおりあれ▲女「最早堪忍させられい▲アト「いやいやならぬ{ト云て女を引戻すシテ引アト引留める三人しかじか口伝也}▲シテ「あゝむつかしい、女共小またをとれ▲女「心得ました{ト云て女こまた取二人して打こかす也}{*12}なういとしい人、ちやつと御座れ▲シテ「心得た心得た{ト云て二人共入るなり}▲アト「やいやいやいそこなやつ、夫婦して此様に仕おつたに依つて、来年から祭りにはよばぬぞよ{ト云て留めて入るなり}
校訂者注
1:底本は、「三つ 笑ふ、」。
2:底本は、「おりや唯酒ぢや、 笑ふ」。
3:底本は、「少さ刀」。
4:底本は、「さうもおりあるまい者を、 笑」。
5:底本は、「▲アト「是はいかう不機嫌なが」。
6:底本は、「よつぽとの事」。
7:底本は、「▲シテ「私で御座りまする」。
8:底本は、「いさかひ杯(など)」。
9・10:底本は、「一つ杯(など)」。
11:底本は、「どうで」。
12:底本は、「▲女「なういとしい人」。
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