宗八(そうはち)(三番目)(四番目)

▲アト「この辺りの者でござる。某(それがし)、存ずる仔細あつて、持仏堂坊主を一人抱へうと存ずる。又、何とやら似合(にあは)ぬ事なれども、料理人をも一人抱へうと存ずる。まづ、この由を高札に打たう。
{と云ひて、シテ柱の内の方へ、札を打つ形をするなり。この類、常のごとくなり。主座にゐる。}
▲小アト「この辺りの者でござる。某、近い頃まで料理人でござつたれども、料理人といふものは、数多(あまた)の魚鳥を殺し、思はぬ殺生をし、その上、塩あんばいの、何のかのと云うて、殊の外辛労にござるによつて、ふと出家になつてござれば、俄坊主(にはかばうず)の事なれば、経陀羅尼は存ぜず、誰一飯(いつぱん)を分け手がござらぬ。何と致さうと存ずる所に、山一つあなたに有徳人(うとくじん)があつて、持仏堂坊主を抱へうと、高札を打たれてござる。定めて仏前の掃き掃除で済む事でござらう程に、参つて扶持を得ようと存ずる。誠に、出家になつてござらば、仏の蔭で身命を楽々と送らうと存じたに、思ひの外の事でござる。何とぞ扶持を得れば、良うござるが。いや、何かと云ふ内に、これぢや。まづ、案内を乞はう。
{と云ひて、案内乞ふ。出るも常のごとし。}
高札の表について参つた。持仏堂坊主でござる。
▲アト「成程、抱へうが、何も望みはないか。
▲小アト「別に望みはござらぬ。冬紙子、常に衣一衣(ころもいちえ)下さるれば、良うござる。
▲アト「それは、心安い事ぢや。抱へう程に、かう通らしめ。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「それにゆるりとお居あれ。
▲小アト「はあ。
▲シテ「この辺りに住居(すまひ)致す料理人でござる。某、近い頃までは、出家でござつた。出家と申すものは、まづ、朝起きをせねばならず、仏前の掃き掃除、仏に香花を採り、第一、旦那応答(あしらひ)の、何のかのと云うて、殊の外辛労なものでござるによつて、ふと還俗致してござれば、仏の罰(ばち)やら、後(あと)へも前(さき)へも参らぬ。何と致さうと存ずる所に、山一つあなたに有徳人があつて、料理人を抱へうと、高札を打たれてござる。某も、寺に居た時分は、牛房・大根を切り刻みは致したによつて、それで済む事ならば、参つて扶持を得ようと存ずる。誠に、俗になつてござらば、何を致してなりとも、世を楽々と送らうと存じたに、商(あきな)ひをしようにも元手はなし、覚えた職とてはござらず、この様な迷惑な事はござらぬ。いや、何かと云ふ内に、これぢや。
{と云ひて、案内乞ふ。出るも常のごとし。}
高札の表について参つた料理人でござる。
▲アト「抱へうが、名は何と云ふ。
▲シテ「何となりとも、呼ばせられい。答へませう。
▲アト「今までの名は、何と云うた。
▲シテ「只今までの名は、宗八と申しました。
▲アト「それは良い名ぢや。抱へう程に、かう通らしめ。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「それに、ゆるりとお居あれ。
▲シテ「心得ました。
▲アト「両人の者を抱へてござる。今日(こんにち)は用事あつて、山一つあなたへ参る。それぞれに、留守の儀を申し付けうと存ずる。
{と云ひて、後見座に入り、御経を持ち出て、}
▲アト「なうなう、御坊。
▲小アト「はあ。
▲アト「身共は用事あつて、山一つあなたへ参る。これは、心経ぢや。勝手へ聞こゆる様に、高々と読うでおくれあれ。
▲小アト「あの。これを私に読め、でござるか。
▲アト「中々。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「やがて、戻らう。
▲小アト「やがて、御帰りなされませ。
▲アト「心得た。
{と云ひて又、後見座へ入り、俎(まないた)持ち出て、シテの前に置いて、名乗座へ直り、}
▲アト「なうなう、宗八。身共は用事あつて、山一つあなたへ行く。扨、それは、帰つてたぶる程に、上の鮒は鱠(なます)、下の鯛は背切りにして置いてたもれ。
▲シテ「あの。これを私に切れ、でござるか。
▲アト「中々。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「やがて、戻らう。
▲シテ「やがて、御帰りなされませ。
▲アト「心得た。
{と云ひて、中入りするなり。}
▲小アト「出られた。
▲シテ「御出あつた。
▲小アト「これはいかな事。仏前の掃き掃除で済む事かと思うたれば、初手から、この様な御経をあてがはれた。まづ、開(あ)けて見よう。あゝ。これは、四角い字ばかりで、一字も読める事ではない。これはまづ、何としたものであらうぞ。
▲シテ「これはいかな事。牛房・大根の切り刻みで済む事かと思うて来たれば、初手からこの様な魚をあてがはれた。これが、何となるものぢや。むゝ、生臭い匂ひがする。あゝ、この様な事ならば、来ねば良かつたものを。これはまづ、何としたものであらうぞ。このぎろぎろとした目から、ほり出さうか。皮を剥(む)かうか。但し、頭(かぶ)を離さうか。何にもせよ、まづ、この頭(かぶ)を離さう。
{と云ひて、生箸{*1}を直し、既に切らんとする時に、}
▲小アト「あゝ。まづ、お待ちあれ。
▲シテ「何と、待てとは。
▲小アト「そなたは料理人か。
▲シテ「中々。
▲小アト「いやいや。料理人ではあるまい。
▲シテ「や。あら、こゝな者が。料理人であるまいとは。
▲小アト「いやいや。何程仰(お)せあつても、料理人ではない。まづ、そなたは新参の者であらう。
▲シテ「成程、新参の者ぢや。
▲小アト「身共も新参の者ぢやが、何を隠さう、近い頃まで、そなたの様な料理人であつた。
▲シテ「これはいかな事。
▲小アト「料理人といふものは、あまたの魚鳥を殺し、思はぬ殺生をし、その上、塩あんばいの、何のかのと云うて、殊の外辛労なものぢやによつて、ふと出家になつたれば、俄坊主の事なれば、経陀羅尼は存ぜず、誰一飯を分け手がない。何と致さうと存ずる所に、幸ひこれに、持仏堂坊主を抱へうとの高札を打たれた。定めて仏前の掃き掃除で済む事であらうと思うて来て見れば、初手からこの様な御経をあてがはれて、一字も読める事ではない。又、最前から、そなたの料理をしかぬる体(てい)を見て、身共がこの御経の読めぬにつまされて、あまり気の毒さに、ふと言葉をかけた事でおりある。
▲シテ「扨は、さうでおりあるか。恥を云はねば理が聞こえぬ。某も、近い頃まで、そなたの様な出家であつた。
▲小アト「あの、そなたがや。
▲シテ「中々。
▲小アト「して、何と。
▲シテ「出家といふものは、まづ朝起きをせねばならず、その上、仏前の掃き掃除、仏に香花を採り、第一、旦那応答(あしらひ)の、何のかのと云うて、殊の外辛労なものぢやによつて、ふと還俗したれば、仏の罰(ばち)やら、後へも前(さき)へも参らぬ。何と致さうと存ずる所に、幸ひこれに、料理人を抱へうと、高札を打たれた。身共も寺に居た時分は、牛房・大根の切り刻みは、見事致したによつて、これで済む事ならばと思うて来たれば、初手からこの様な魚をあてがはれた。そなたが、近い頃まで料理人であつたらば、この様な魚は、良う切るであらうなあ。
▲小アト「をゝをゝ。料理一通(ひとゝほ)りは、何でもするわ。
▲シテ「扨も扨も、羨ましい事でおりある。
▲小アト「さりながら、そなたが近い頃まで出家であつたらば、この様な御経は、よう読むであらうな。
▲シテ「それは、本経には及ばぬ。空(そら)でも読む事ぢや。
▲小アト「扨々、それは羨ましい事ぢや。身共が思ふは、この後は互にして、御経はそなたに習はうず。また、料理は身共が教へうと思ふが、何とあらう。
▲シテ「これは、一段と良からう。
▲小アト「それならば、まづこの御経を、ちと読うでおくれあれ。
▲シテ「心得た。扨、わごりよは、この御経の名を知つてお居あるか。
▲小アト「何経とやら、仰(お)せあつた。
▲シテ「これは、心経ぢや。
▲小アト「をゝ、心経心経。勝手へ聞こゆる様に、高々と読めと仰(お)せあつた。
▲シテ「その筈ぢや。これは、祈祷経でおりある。追つ付け、読うで聞かせう。
{と云ひて、読む。仕様、色々あるべし。}
▲小アト「扨も扨も、読むわ読むわ。あの四角い字が、あの様によう読めた事ぢや。どうぞ、身共もあの様に読み習ひたいものぢやが。
▲シテ「いや、これこれ。その魚を、早う切つて見せておくれあれ。
▲小アト「まづ、身拵へをせねばならぬ。ちと、手伝うておくれあれ。
▲シテ「心得た。
{と云ひて、袖より色襷(いろだすき)を出し、襷かける。}
▲シテ「扨も扨も、凛々しい形(なり)でおりある。
▲小アト「この様にせねば、料理といふものは、できぬ事ぢや。
▲シテ「何(いづ)れ、さうであらうとも。
▲小アト「扨そなたは、この魚の名を覚えてゐるか。
▲シテ「何とやら、仰(お)せあつたが。
▲小アト「上のは鮒、下のは鯛ぢや。
▲シテ「をゝ、成程さうであつた。
▲小アト「扨、この鮒は、何にせいと仰(お)せあつた。
▲シテ「何すとやら云はれたが。
▲小アト「鱠ではないか。
▲シテ「それそれ、なますなます。そなたは良う知つてゐるなう。
▲小アト「これは、大方極(きはま)つたものぢや。まづ、これをかうして、かうする事でおりある。
▲シテ「はゝあ。皮を剥くの。
▲小アト「何ぢや。皮を剥く。
▲シテ「中々。
▲小アト「これは、鱗をふくと云ふ。
▲シテ「はあ。それが、鱗をふくと云ふか。
▲小アト「良う覚えさしませ。
▲シテ「心得た。
▲小アト「扨、これを、ぐわりゝ。
▲シテ「頭(かぶ)を離した。
▲小アト「《笑》これは、魚頭をつくと云ふ。
▲シテ「扨は、それが、魚頭をつくと云ふか。
▲小アト「扨又、これをかうして、かうする事でおりある。
▲シテ「三つにへいだわ。
▲小アト「三つにへいだ。
▲シテ「中々。
▲小アト「《笑》これは、三枚におろすと云ふ程に、良う覚えさしませ。
▲シテ「心得た。
▲小アト「扨、鱠にも作り様があつて、大きいを小さかれ、小さいを大きかれと、引つ筋違へて刀早(かたなばや)に、すつぱりすつぱりすつぱり。すぱすぱすつぱり。
▲シテ「はゝあ。松葉に刻(きざ)うだ。
▲小アト「何ぢや。松葉に刻うだ。
▲シテ「中々。
▲小アト「これが、鱠に作ると云ふ。
▲シテ「それが、鱠に作ると云ふか。
▲小アト「良う覚えさしめ。
▲シテ「心得た。
▲小アト「さあさあ。又、御経を読うでおくれあれ。
▲シテ「心得た。
{と云ひて、又初めの通り、経読む。}
▲小アト「扨も扨も、読むわ読むわ。立て板に水を流す様に読む。身共もいつあの様に、読み覚ゆる事ぢやまで。
▲シテ「いや、これこれ。その赤い魚も、切つて見せておくれやれ。
▲小アト「扨、この鯛は、何にせいと仰(お)せあつた。
▲シテ「それは、何切りとやら、仰(お)せあつた。
▲小アト「背切りか。
▲シテ「をゝ、背切り背切り。
▲小アト「これも大方、極(きはま)つたものぢや。扨、これをば、かうして、かうする事ぢや。
▲シテ「とかく初手は、皮を剥くの。
▲小アト「扨々、そなたは物覚えの悪い人ぢや。これは、鱗をふくでおりあるわいの。
▲シテ「誠に、さうであつた。
▲小アト「良う覚えさしませ。
▲シテ「心得た。
▲小アト「扨、これを、ぐわりゝ。
▲シテ「魚頭をついだの。
▲小アト「はあ。これは、奇特に覚えたの。
▲シテ「魚頭とは、魚の頭(かしら)と書くわ。
▲小アト「扨は、御経の字で覚えたか。
▲シテ「まづ、その様なものぢや。
▲小アト「扨々、羨ましい事ぢや。扨、これを、ぐわりゝ、ぐわりゝ、ぐわりゝ、ぐわりゝ。
▲シテ「いかだに切つたわ。
▲小アト「いかだに切つた。《笑》これが、背切りといふものぢや。
▲シテ「はあ。それが背切りか。
▲小アト「良う覚えさしませ。
▲シテ「心得た。
▲小アト「扨、これから料理も、同じ事ぢや。その経を、精出して読うでおくりあれ。
▲シテ「心得た、心得た。
{と云ひて、又、経を読むなり。}
▲小アト「魚頭を、三枚・六枚といふものに、崩し割りに。ぐわり、ぐわり。ちよん、ちよん。
▲アト「只今、帰つてござる。両人の者が、さぞ待つてゐるでござらう。いや、御経の声が聞こゆる。料理の音もする。わあ。坊主が魚を料理してゐる。料理人が御経を読む。扨々、憎い事かな。やいやい。戻つたぞ戻つたぞ。
▲二人「そりや、御帰りなされた。
{と云ひて、二人、うろたゑて、シテは御経に生箸を立てゝ料理する。小アトは、鯛を持つて脇座へ退(の)いて、経を読む真似をする。}
▲アト「やいやいやい、そこなやつ。
▲小アト「御帰りなされましたか。
▲アト「おのれ、それは鯛ではないか。
▲小アト「違ひました。
▲アト「何の、違ひました。
▲小アト「ご許されませ、ご許されませ。
{小アト、先へ逃げて入るなり。}
▲アト「やいやいやい、そこなやつ。
▲シテ「はあ。御帰りなされましたか。
▲アト「おのれ、それは御経ではないか。
▲シテ「あゝ、違ひました。
▲アト「何の、違ひました。
▲シテ「御許されませ。
▲アト「勿体ない。
▲シテ「許して下され。
▲アト「おのれを、何とせう。
▲シテ「御許されませ、御許されませ。
▲アト「やるまいぞ、やるまいぞ。
{と云ひて、追ひ込み、入るなり。}

校訂者注
 1:「生箸」は、不詳。「なまばし」で、「生鮮食材を扱うために使用する箸。真魚箸(まなばし)」の意か。

底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.

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宗八(ソウハチ)(三番目)(四番目)

▲アト「此辺の者で御座る、某存る仔細有つて、持仏堂坊主を一人抱うと存る、又何とやら似合ぬ事なれ共、料理人をも一人抱うと存ずる、先此由を高札に打う{ト云てシテ柱の内の方へ札を打つ形をするなり此類如常也主座にいる}▲小アト「此辺の者で御座る、某近い頃まで料理人で御座つたれ共、料理人といふ者は、数多の魚鳥を殺し思はぬ殺生をし、其上塩あんばいの何の彼のというて、殊の外辛労に御座るに依て、不図出家になつて御座れば俄坊主の事なれば、経陀羅尼はぞんぜず、たれ一ツ飯をわけてが御座らぬ、何と致さうと存ずる所に、山一つあなたに有徳人が在つて、持仏堂坊主を抱うと、高札をうたれて御座る、定て仏前の、はき掃除ですむ事で御座らう程に、参つて扶持を、得やうと存ずる、誠に出家になつて御座らば仏の陰で、身命をらくらくと送うと存たに、思ひの外の事で御座る、何卒扶持を得ればよう御座るが、いや、何彼といふ内に是ぢや、先案内を乞う{ト云て案内乞出るも如常}{*1}高札の表について参つた、持仏堂坊主で御座る、▲アト「成程抱うが何も望はないか、▲小アト「別に望は御座らぬ、冬紙子、常に衣一衣下さるればよう御座る、▲アト「夫は心安い事ぢや、抱う程にかう通らしめ、▲小アト「畏つて御座る、▲アト「夫にゆるりとお居あれ、▲小アト「はあ、▲シテ「此辺に住居致す料理人で御座る、某近い頃までは、出家で御座つた、出家と申す者は、先朝おきをせねばならず、仏前のはき掃除仏に香花を採り、第一旦那応答の、何の彼のというて、殊の外辛労なもので御座るに依つて、不図還俗致て御座れば仏の罰やら、後へも前へも参らぬ、何と致さうと存ずる所に、山一つあなたに有徳人があつて、料理人を抱うと高札を打れて御座る、某も寺に居た時分は、牛房大根を、きりきざみは致たに依つて、夫ですむ事ならば、参つて扶持を得やうと存ずる、誠に、俗になつて御座らば、何を致てなり共、世を、らくらくと送らうと存たに、あきないをしやうにも元手はなし、おぼえた職とては御座らず、此様な迷惑な事は御座らぬ、いや、何彼という内に是ぢや、{ト云て案内乞出るも如常}{*2}高札の表について参つた料理人で御座る、▲アト「抱うが名は何といふ▲シテ「何と成共呼せられい、答へませう、▲アト「今迄の名は何といふた▲シテ「唯今迄の名は、宗八と申ました、▲アト「夫はよい名ぢや、抱う程にかう通らしめ、▲シテ「畏つて御座る、▲アト「夫にゆるりとお居あれ▲シテ「心得ました、▲アト「両人の者を抱えて御座る、今日は用事有つて、山一つあなたへ参る、夫々に留守の儀を申付うと存ずる、{ト云て後見座に入御経を持出て}▲アト「なうなう御坊▲小アト「はあ、▲アト「身共は用事有つて、山一つあなたへ参る、是は真経ぢや、勝手へ聞ゆる様に、高々とよふでおくれあれ▲小アト「あの、是を私によめで御座るか、▲アト「中々、▲小アト「畏つて御座る、▲アト「頓戻らう、▲小アト「頓てお帰り被成ませ、▲アト「心得た{ト云て亦後見座へ入俎持出てシテの前に置て名乗座へ直り}▲アト「なうなう宗八、身共は用事有つて、山一つあなたへ行、扨夫は帰つてたぶる程に、上の鮒はなます、下の鯛は、せぎりにして置てたもれ、▲シテ「あの是を、私にきれで御座るか、▲アト「中々、▲シテ「畏つて御座る、▲アト「頓て戻らう、▲シテ「頓てお帰り被成ませ、▲アト「心得た、{ト云て中入するなり}▲小アト「出られた▲シテ「お出あつた▲小アト「是はいかな事、仏前のはき掃除で済事かと思ふたれば、初手から、此様なお経をあてがはれた、先あけて見やう、あゝ、是はしかくい字計で、一字もよめる事ではない、是は先、何とした者で有うぞ、▲シテ「是はいかな事、牛房大根の、きりきざみで済事かと思うて来たれば、しよてから、此様な魚をあてがはれた{*3}、是が何と成者ぢや、むゝ、なまぐさい匂ひがする、あゝ、此様な事ならば、こねばよかつた者を、是は先何とした者で有うぞ、此ぎろぎろとした目からほり出さうか、皮をむかうか、但し、株をはなさうか、何にもせよ、先此かぶをはなさう{ト云て生箸を直し既にきらんとする時に}▲小アト「あゝ先お待あれ、▲シテ「何とまてとは、▲小アト「そなたは料理人か▲シテ「中々▲小アト「いやいや料理人では有まい▲シテ「やあら爰な者が、料理人で有まいとは▲小アト「いやいや何程おせあつても、料理人ではない、まづそなたは新参の者で有う▲シテ「成程新参の者ぢや▲小アト「身共も新参の者ぢやが、何をかくさう、近い頃まで、そなたの様な、料理人であつた▲シテ「是はいかな事▲小アト「料理人といふ者は、あまたの魚鳥を殺し、思はぬ殺生をし、其上塩あんばいの、何のかのといふて、殊の外、辛労な者ぢやに依つて、ふと、出家になつたれば、俄坊主の事なれば、経陀羅尼は存ぜず、誰一つ飯をわけてがない、何といたさうと存ずる処に、幸ひ是に持仏堂坊主を抱うとの高札を打れた、定て仏前のはき掃除で、済事で有うと思うて来て見れば、しよてから、此様なお経をあてがはれて、一字もよめる事ではない、又最前からそなたの、料理をしかぬる体を見て、身共が此お経のよめぬにつまされて、あまり気の毒さに、ふと言葉をかけた事でおりある▲シテ「扨はさうでおりあるか、恥をいはねば理がきこえぬ某も近い頃迄、そなたの様な出家であつた▲小アト「あのそなたがや▲シテ「中々▲小アト「して何と▲シテ「出家といふ者は、先朝をきをせねばならず、其上仏前のはき掃除、仏に香花を採り、第一旦那応答の、何のかのというて、殊の外辛労な者ぢやに依つて、ふと、げんぞくしたれば、仏のばちやら、後へも前へも参らぬ、何といたさうと存ずる所に幸ひ是に料理人を抱うと高札を打れた、身共も寺に居た時分は、牛房大根の、切きざみは見事致たに依つて、是で済事ならばと思うて、来たれば、初手から、此様な魚をあてがはれた、そなたが、近い頃迄料理人であつたらば、此様な魚はよう切で有うなあ▲小アト「をゝをゝ料理一通りは何でもするは▲シテ「扨も扨も羨しい事でおりある▲小アト「去乍そなたが近い頃迄、出家であつたらば、此様なお経はようよむで有うな▲シテ「夫は本経には及ばぬ、空でも読む事ぢや▲小アト「扨々夫は羨しい事ぢや、身共が思ふは、此後は互にして、お経はそなたに習はうず、また料理は身共が教うと思ふが何と有う▲シテ「是れは一段とよからう、▲小アト「夫ならば、先此お経を、ちとようでおくれあれ、▲シテ「心得た、扨わごりよは、此お経の名を知つてお居あるか▲小アト「何経とやらおせあつた▲シテ「是れは真経ぢや▲小アト「をゝ真経真経、勝手へきこゆる様に高々とよめとおせあつた▲シテ「其筈ぢや、是は祈祷経でおりある、追付ようできかせう{ト云てよむ仕様色々あるべし}▲小アト「扨も扨もよむはよむは、あの四角い字があの様によう読た事ぢや、どうぞ身共もあの様に読習ひたい者ぢやが▲シテ「いや是々、其魚を早う切つて見せておくれあれ▲小アト「先身拵をせねばならぬ、ちと手伝ふておくれあれ▲シテ「心得た、{ト云て袖より色襷を出したすきかける}▲シテ「扨も扨もりゝしいなりでおりある▲小アト「此様にせねば{*4}、料理といふ物はできぬ事ぢや▲シテ「何れさうで有う共{*5}▲小アト「扨そなたは此魚の名を覚えてゐるか▲シテ「何とやらおせあつたが{*6}▲小アト「上のは鮒、下のは鯛ぢや▲シテ「をゝ成程さうであつた▲小アト「扨此鮒は何にせいとおせあつた{*7}▲シテ「何すとやらいはれたが▲小アト「鱠ではないか▲シテ「それそれなますなます、そなたはようしつてゐるのう▲小アト「是は大方極つた者ぢや、先是をかうして、かうする事でおりある▲シテ「はゝあ、皮をむくの▲小アト「何ぢや皮をむく▲シテ「中々▲小アト「是は、鱗をふくといふ▲シテ「はあ夫が鱗をふくといふか▲小アト「よう覚さしませ▲シテ「心得た▲小アト「扨是をぐわりゝ▲シテ「かぶをはなした▲小アト「《笑》是は、魚頭をつぐといふ▲シテ「扨は夫が魚頭をつぐといふか▲小アト「扨又是をかうしてかうする事でおりある▲シテ「三つにへいだわ▲小アト「三つにへいだ▲シテ「中々、▲小アト「《笑》是は、三枚におろすといふ程に、よう覚えさしませ▲シテ「心得た▲小アト「扨鱠にも作り様が有つて、大きいをちいさかれ、ちいさいを大きかれと、ひつ筋違て刀ばやに、すつぱりすつぱりすつぱりすぱすぱすつぱり▲シテ「はゝあ松葉にきぞうだ▲小アト「何ぢや、松葉に刻うだ▲シテ「中々▲小アト「是が鱠に作るといふ▲シテ「夫が生鮓に作るといふか▲小アト「よう覚えさしめ▲シテ「心得た▲小アト「さあさあ又お経をようでおくれあれ▲シテ「心得た{ト云て又初めの通り経よむ}▲小アト「扨も扨もよむはよむは、たて板に水を流す様に読、身共もいつあの様に読覚ゆる事ぢやまで▲シテ「いや是々、其赤い魚も切つて見せておくれやれ▲小アト「扨此鯛は何にせいとおせあつた▲シテ「夫は、何切とやらおせあつた▲小アト「せぎりか▲シテ「をゝ背ぎり背ぎり▲小アト「是も大方極つた者ぢや、扨是をばかうして、かうする事ぢや▲シテ「兎角初ては、皮をむくの▲小アト「扨々そなたは物覚えのわるい人ぢや、是は鱗をふくでおりあるわいの▲シテ「誠にさうで有つた▲小アト「よう覚えさしませ▲シテ「心得た▲小アト「扨是を、ぐわりゝ▲シテ「魚頭をついだの▲小アト「はあ是はきどくに覚えたの▲シテ「魚頭とは魚の頭とかくわ▲小アト「扨は、お経の字で覚たか▲シテ「先其様な者ぢや▲小アト「扨々羨しい事ぢや、扨是をぐわりゝぐわりゝぐわりゝぐわりゝ▲シテ「いかだに切つたは▲小アト「いかだに切つた、《笑》{*8}是が背ぎりといふ物ぢや▲シテ「はあ夫が背切か▲小アト「よう覚えさしませ▲シテ「心得た▲小アト「扨是から料理もおなじ事ぢや、其経を精出してようでおくりあれ▲シテ「心得た心得た{ト云て亦経をよむなり}▲小アト「魚頭を三枚六枚といふ物に崩割に、ぐわりぐわりちよんちよん▲アト「唯今帰つて御座る、両人の者が、嘸待つてゐるで御座らう、いやお経の声がきこゆる、料理の音もする、わあ、坊主が魚を料理してゐる、料理人がお経をよむ扨々憎ひ事かな、やいやい戻つたぞ戻つたぞ▲二人「そりやお帰り被成た{ト云て二人うろたゑてシテはお経に生箸をたてゝ料理する小アトは鯛を持つて脇座へのいて経をよむ真似をする}▲アト「やいやいやいそこなやつ▲小アト「お帰り被成ましたか▲アト「をのれ夫は鯛ではないか▲小アト「違ました▲アト「何の違ました▲小アト「御ゆるされませ御ゆるされませ{小アト先きへにげて入る也}▲アト「やいやいやいそこなやつ▲シテ「はあお帰り被成ましたか▲アト「をのれ夫はお経ではないか▲シテ「あゝ違ました▲アト「何の違ました▲シテ「御ゆるされませ▲アト「勿体ない▲シテ「ゆるして下され▲アト「をのれを何とせう▲シテ「御ゆるされませ御ゆるされませ▲アト「やるまいぞやるまいぞ、{ト云て追込入るなり}

校訂者注
 1:底本は、「▲小アト「高札の表について」。
 2:底本は、「▲シテ「高札の表について」。
 3:底本は、「あてかはれた」。
 4:底本は、「此様にうせねば」。
 5:底本は、「何れさうで共」。
 6:底本は、「何おとやらおせあつたが」。
 7:底本は、「何にせいと有せあつた」。
 8:底本は、「いかだに切つた、(笑ふ)」。