呂連(ろれん)(二番目)

▲シテ「諸国修行一所不住の坊主でござる。この間は、東国を廻(めぐ)つてござる。又、これより西国を廻らうと存ずる。誠に、出家と申すものは、心安いものでござる。衣一重(ころもいちゑ)・珠数一連ござれば、どれからどれへ参らうと、儘でござる。いや、これまで参つたれば、日が暮れさうな。宿を借りたいものぢやが。幸ひこれに、家がある。まづ、案内を乞はう。
{と云ひて、案内乞ふ。出るも常の如し。}
旅の坊主でござる。一夜の宿を貸して下され。
▲アト「この所の大法で、往来の一人(ひとり)旅人に、宿を貸す事はなりませねども、御出家の事でござる。貸しませう。かうお通りなされませ。
▲シテ「それは忝うござる。
▲アト「それにゆるりとござれ。
▲シテ「心得ました。
▲アト「やいやい。旅の御出家を一人、御宿申した。一飯(いつぱん)を拵へい。ゑい。さぞ、お疲れなされたでござらう。
▲シテ「いや、左様にもござらぬ。
▲アト「扨、御出家は、どれからどれへお通りなされまする。
▲シテ「愚僧は、諸国修行の坊主でござる。この間は、東国を廻つてござる。又、これより西国を廻る事でござる。
▲アト「扨々、それは、御苦労な事でござる。
▲シテ「いや。も、毎日の事でござるによつて、さのみ苦労なとも、存じませぬ。
▲アト「定めて、御出家の境界は、御心安い事でござりませう。
▲シテ「おゝおゝ。出家の境界程、心安いものはござらぬ。まづ、妻子がない。妻子がなければ、家もなし。只、三界を住家(すみか)として、諸国を廻る事でござる。
▲アト「扨、ついでながら、お尋ね申しまする。あの、後生(ごしやう)と申すは、あるとも申し、ないとも申すが、あるが定(ぢやう)でござるか。ないが定でござるか。
▲シテ「こなたは、いかに俗ぢやと云うて、あまりな事を仰(お)せある。後生がなうて、何となるものでござるか。まづ、人間の身の果敢(はか)ない事を、朝開暮落と云うて、朝顔の花にたとへてござる。朝顔といふものは、朝(あした)には色麗(うるは)しう咲けども、夕(ゆふべ)にはしぼみまする。人間も、まづその如く、今日(けふ)あつて明日(あす)ない命。それはそれは、果敢ないものぢやによつて、こなたも随分、後生を大事にかけさつしあれ。
▲アト「すれば、地獄・極楽も、あるが定でござるか。
▲シテ「まだ、そのつれな事を云はつしある。地獄・極楽がなうて、何となるものでござる。まづ、地獄の体(てい)をあらあら申さば、無間ようちん{*1}、釼(つるぎ)の山、血の池。嘘を云うた者は、舌を抜かれ、臼ではたかれ、箕(み)で簸(ひ)られ、暫時も安からぬ事ぢや。又、極楽のありがたさは、生死(しやうじ)がない。生死とは、生まれ、死する事がないぢやまで。廿五の菩薩の音楽を聞き、百味の飲食(おんじき)は満ち満ちて、暑いといふ事もなく、寒いといふ事もなし。それはそれは、ありがたい事でござる。そのありがたい所へ行きたさに、この様に、頭(つむり)を剃つて、諸国を廻る事でござる。
▲アト「扨も扨も、ありがたい御示しを受けましてござる、只今までは、左様の事とも存じませず、只、うかうかと暮らしてをりました。只今の御示しで、私も発起致してござる。この上は、頭(つむり)を剃つて、御弟子になされて、諸国を連れて廻つて下されい。
▲シテ「何ぢや、坊主にならう。
▲アト「中々。
▲シテ「扨々、こなたは、奇特な志でござる。さりながら、出家になつて願ふ後生も、俗で願ふ後生も、別に変つた事はない程に、矢張り、その儘願はつしあれ。
▲アト「いや。この儘願ひましては、渡世の事に心がおかれて、どうも後生が願はれませぬ。どうぞ、お剃りなされて下されい。
▲シテ「それならば、剃つても進ぜうが、見れば、御内儀もあるさうな。又、一門中とも相談を召され、その上で剃つて進ぜう。
▲アト「いや。その段は、そつとも御気遣ひなされますな。かねて、女共とも、又、一門どもとも相談を致して、早(はや)、相談は済んでござる。
▲シテ「はあ。扨は、相談は済んでござるか。
▲アト「中々。
▲シテ「その様な事ならば、剃つて進ぜうが。あゝ。ひよつと、御内儀の心が変るまいものでもない。是非とも、も一度談合召されい。
▲アト「さりとては、御気遣ひなされますな。この中(ぢゆう)もこの中(ぢゆう)で、女共が申しまするは、こなたは坊主になると云うて、いつ坊主になる事ぢや、早うなれ。と申して、せがみまする。どうぞ、お剃りなされて下されませ。
▲シテ「それ程に極(きはま)つた事ならば、随分、剃つて進ぜう。幸ひ、剃刀も持ち合(あは)せてゐる。それで、頭(つむり)を揉まつしあれ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「愚僧も、その間に剃刀を合(あは)しませう。
{と云ひて、剃刀を出し、砥に合(あは)す体(てい)をする。アト、太鼓座にて肩衣を取り、扇披き出て、頭(つむり)を揉むなり。}
扨々、こなたは奇特な人ぢや。いや、又、ありやうは、出家になつて願ふ後生は、格別ありがたい功徳がござる。
▲アト「左様でござりませうとも。
▲シテ「何と、頭(つむり)は揉めましたか。
▲アト「成程、揉めました。
▲シテ「剃刀も合ひました。扨、三儀といふ事を授くる程に、合掌さつしあれ。
▲アト「かうでござるか。
▲シテ「をゝ、さうぢやさうぢや。南無帰依仏。
▲アト「なむ帰依仏。
▲シテ「南無帰依法。
▲アト「なむ帰依法。
▲シテ「南無帰依僧。
▲アト「なむ帰依僧。
▲シテ「あゝ。こなたの頭(つむり)は、剃り良い頭(つむり)でござる。
▲アト「あゝ。御手の軽い事でござる。
{シテ、懐中より強師頭巾(がうしづきん){*2}出し、着せる。色々、しかじかあるべきなり。口伝。}
▲シテ「さあ、剃れました。
▲アト「もはや、良うござるか。
▲シテ「扨も、良う似合(にあひ)ました。
▲アト「御蔭で、私の大願、成就致してござる。
▲シテ「これに、愚僧の掛け替への衣(ころも)がある。これを、そなたへ譲りませう。
▲アト「それは、忝うござる。
▲シテ「どれどれ。着せて進ぜう。
▲アト「これは、慮外でござる。
▲シテ「をゝ。衣(ころも)を着さつしあつたれば、今々の出家の様にはござらぬ。
▲アト「御蔭で、出家らしうなりました。扨、とてもの事に、名もお付けなされて下されませ。
▲シテ「何ぢや。名を付けてくれい。
▲アト「中々。
▲シテ「それは又、外の出家を頼まつしあれ。
▲アト「御弟子になりまするからの事でござる程に、どうぞ御前(おまへ)、お付けなされて下されい。
▲シテ「今までの名は、何と云ひました。
▲アト「只今までの名は、何某(なにがし)と申しました。
▲シテ「その何某が、良い名ぢや。やはり、その名にしておかせられい。
▲アト「出家の名に何某と申すは、いかゝでござる。どうぞ、出家らしい名を、お付けなされて下されい。
▲シテ「しばらくそれに、待たせられい。
▲アト「心得ました。
▲シテ「これはいかな事。愚僧はつひに、人の名を付けた事がない。何としたものであらうぞ。いや。幸ひこれに、伜の時分習うた、いろはの手本がある。この内で、付けて見ようと存ずる。いや、なうなう。是非とも愚僧に名を付けいぢやいの。
▲アト「どうぞ、お付けなされて下されい。
▲シテ「何も望みはござらぬか。
▲アト「代々、はちすと申す字を付きまする。
▲シテ「何ぢや。はちのすをつく。
▲アト「いや。はちすと申す。蓮(れん)の字の事でござる。
▲シテ「ゑゝ。蓮(れん)の字の事でござるか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「蓮(れん)の字は、良い字でござる。蓮(れん)の字の時には。
{と云ひて、懐中より折手本出し名を付くる所、仕様、色々あるべし。}
物と付けう。
▲アト「何とでござる。
▲シテ「いれん坊。
▲アト「いれん坊。これは、余り宜しうござらぬ。
▲シテ「気にいりませぬか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「それならば、はれん坊。
▲アト「これも、良うござらぬ。
▲シテ「ほれん坊は。
▲アト「出家の名に、ほれん坊と申すは、どうやら、唱へが悪うござる。その上、どうやら短うござる。もそつと長い名を、お付けなされて下されい。
▲シテ「はあ。長い名が望みか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「長い名の時は。をゝ、良い名がござる。
▲アト「何とでござる。
▲シテ「ちりぬれん坊。
▲アト「いや。それはまた、余り長うござる。もそつと短い名を付けて下され。
▲シテ「あゝ。長ければ長いと云はつしある。短ければ短いと仰(お)せあるし。よたれん坊は。
▲アト「これも、悪うござる。
▲シテ「へとれん坊。
▲アト「こりや、なほ悪うござる。
{種々ありて、}
▲シテ「あゝ、気の毒な事ぢや。いれん坊は気にいらず、呂れん坊も気にいるまいし。
▲アト「いやあいやあ。その、ろれん坊が良うござる。
▲シテ「呂れん坊が気にいりましたか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「やれやれ、嬉しや嬉しや。やうやうと付けました。
▲アト「忝うこそござれ。この後は、呂れん坊、呂れん坊と仰せられて、諸国を連れて廻つて下されい。
▲アト「成程、向後(きやうこう)は、呂れん坊、呂れん坊と云うて、諸国を連れて廻りませうぞ。
▲女「やうやう、御飯(おめし)が出来てござる。これの人は、どれにござるぞ。これはいかな事。御出家は一人ぢやと仰(お)せあつたが、こりや、二人(にゝん)ござる。これの人は、どれにござるぞいなう。
▲アト「やいやい、女共。こゝにゐるわいやい。
▲女「やあ。こなたは坊主になつたか。
▲シテ「をゝ。後生程、大事のものはないと思うて、坊主になつたが。何と、良う似合うたか。
▲女「何ぢや。似合うたか。
▲アト「中々。
▲女「ゑゝ、腹立ちや腹立ちや。妾(わらは)にも断りなしに、なぜに坊主になりをつたぞい、やいやい。
▲アト「扨々、汝は女ぢやによつて、何も知らぬ。身共が出家すれば、そちまでが浮かむ事ぢや。
▲女「何の、浮かむといふ事があるものか。元のやうに、毛を生やせ、毛を生やせ。
▲アト「あゝ。まづ、待て待て。
▲女「何と、待てとは。
▲アト「あり様は、身共もあまり、剃りたうはなかつたれども。あれ、あれにござる御出家が、坊主になれば何やら良い事がある。と仰(お)せあつたによつて、剃つて貰うた。云ふ事があらば、あれへ行(い)て仰(お)せあれ。
▲女「さあ。扨は、あいつが坊主にしましたか。
▲アト「中々。
▲女「扨々、憎いやつの。やい、そこなやつ。
▲シテ「何ぢや。
▲女「よう、こちの人を坊主にしをつた。元のやうにして、返しをれ、返しをれ。
▲シテ「あゝ。まづ、待て待て。
▲女「何と、待てとは。
▲シテ「身共が、まづ、かうあらうと思うて、御内儀とも、一門とも、相談を召されい、その上で剃つてやらう。と云うたれば、はや相談は済んである。と仰(お)せあつたによつて、剃つてやつた。云ふ事があらば、あれへ行(い)て仰(お)せあれ。
▲女「扨は、あいつがなりたうてなりましたか。
▲シテ「をゝ。なりたうてなつたとも。
▲女「さうでござらうとも。どうでも、おのれが坊主になりたうてなりをつたげな。元のやうに、毛を生やせ、毛を生やせ。
▲アト「あゝ、こりやこりや。とかく、身共は坊主になりたうはなけれども、とらまへてゐて剃れば、せう事がない。
▲シテ「やいやいやい、そこなやつ。
▲アト「何ぢや。
▲シテ「おのれは、今の間にその様に心が変つたか。扨も扨も、浅ましい根性ぢやなあ。
▲アト「とかく、身共は知らぬ。あれへ行(い)て云へ、あれへ行(い)て云へ。
▲女「どうでも、おのれが剃りをつたげな。元の様にして返せ、返せ。
▲シテ「やいやい。これは、何とするぞいやい。
▲アト「やいやいやい、そこなやつ。
▲シテ「何ぢや。
▲アト「おのれは、身共が女共に手を差いて{*3}、何とする。
▲シテ「手は差さねども、しがみつくによつて、退(の)け。といふ事ぢや。
▲アト「何の、退(の)けといふ事があるものぢや。女共、小股をとれ、小股をとれ。
▲女「心得ました。
{と云ひて、二人、シテを打ちこかして入るなり。}
なう、いとしい人。ちやつとござれ。
▲アト「心得た、心得た。
▲シテ「扨も扨も、胴欲な目に遭(あ)はしをつた{*4}。この様な事を思うては、一期(いちご)、人の頭(あたま)を剃らうものではござらぬ。南無三宝、しないたり{*5}、しないたり。
{と云ひて、留めて入るなり。}

校訂者注
 1:「無間ようちん」は、不詳。
 2:「強師頭巾(がうしづきん)」は、能・狂言で用いる頭巾で、狂言では僧を示す。能力(のうりき)頭巾。
 3:「手を差す」は、「手出しをする」の意。
 4:「胴欲な目に遭ふ」は、「ひどい目に遭う」の意。
 5:「しなす」は、「しくじる」の意。

底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.

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呂連(ロレン)(二番目)

▲シテ「諸国修行一所不住の坊主で御座る、此間は東国を廻つて御座る、又是より西国を廻らうと存ずる、誠に出家と申者は心安い者で御座る、衣いちゑ珠数一れん御座れば、どれからどれへ参らうと儘で御座る、いや是迄参つたれば日がくれさうな、宿をかりたいものぢやが、幸ひ是に家がある、先案内を乞う{ト云て案内乞出るも如常}{*1}旅の坊主で御座る、一夜の宿をかして下され▲アト「此所の大法で往来の独り旅人に宿をかす事はなりませね共、御出家の事で御座る、かしませうかう御通り被成ませ▲シテ「夫は忝う御座る▲アト「夫にゆるりと御座れ▲シテ「心得ました▲アト「やいやい旅の御出家を一人お宿申た、一ツ飯を拵へい、ヱイ、嘸おつかれ被成たで御座らう▲シテ「いや左様にも御座らぬ▲アト「扨御出家は、どれからどれへお通り被成まする▲シテ「愚僧は諸国修行の坊主で御座る、此間は東国を廻つて御座る、又是より西国を廻る事で御座る▲アト「扨々夫は御苦労な事で御座る▲シテ「いやも毎日の事で御座るに依つて、さのみ苦労な共存ませぬ▲アト「定めて御出家の境界は、お心安い事で御座りませう▲シテ「おゝおゝ出家の境界程、心安い者は御座らぬ、先妻子がない、妻子がなければ家もなし、唯三界を住家として、諸国を廻る事で御座る▲アト「扨序乍お尋申まする、あの後生と申は、有る共申ないとも申が、有が定で御座るかないが定で御座るか{*2}▲シテ「こなたはいかに俗ぢやと云てあまりな事をおせある、後生がなうて何と成者で御座るか、先人間の身のはかない事を、朝開暮落というて、朝顔の花にたとへて御座る、朝顔と云ふ物は、あしたには色うるはしう咲け共、ゆふべにはしぼみまする、人間もまツ其ごとく、けふあつてあすない命、夫は夫ははかないものぢやに依つて、こなたもずゐ分、後生を大事にかけさつしあれ▲アト「すれば地獄極楽も、あるが定で御座るか{*3}▲シテ「まだ其つれな事をいはつしある、地獄極楽がなうて何と成者で御座る、先地獄の体をあらあら申さば、無間ようちん、釼の山、血の池、うそをいふた者は舌をぬかれ、うすではたかれ、箕で簸られ、暫時{*4}も安からぬ事ぢや、又極楽の有難さは、生死がない、生死とは生れ死する事がないぢや迄、廿五のぼさつの音楽をきゝ、百味のおんじきはみちみちて、あついと云ふ事もなく、寒いと云ふ事もなし、夫は夫は有難い事で御座る、其の有難い所へ行たさに、此様につむりを剃つて、諸国を廻る事で御座る▲アト「扨も扨も有難いお示しを受まして御座る、唯今迄は左様の事共存ませず、唯うかうかと暮ておりました、唯今のお示しで、私も発起致て御座る、此上はつむりを剃つて、お弟子に被成て、諸国をつれて廻つて下されい▲シテ「何ぢや坊主にならう▲アト「中々▲シテ「扨々こなたは、奇特な志で御座る、去乍出家になつて願ふ後生も、俗で願ふ後生も、別にかはつた事はない程に、矢張其儘願はつしあれ▲アト「いや此儘願ましては、渡世の事に心がおかれて、どうも後生が願はれませぬ{*5}、どうぞお剃被成て下されい▲シテ「夫ならば剃つても進ぜうが、見ればお内儀も有るさうな、又一門中共相談を召れ、其上で剃つて進ぜう▲アト「いや其段はそつともお気遣い被成ますな、かねて女共とも又一門共とも、相談を致て早相談はすんで御座る▲シテ「はあ扨は、相談はすんで御座るか▲アト「中々▲シテ「其様な事ならば剃つて進ぜうが、あゝひよつとお内儀の心がかはるまいものでもない、是非共も一度談合めされい▲アト「去り迚はお気遣い被成ますな、此中も此中で、女共が申まするは、こなたは坊主に成というて、いつ坊主に成事ぢや、早う成れと申てせがみまする、どうぞお剃被成て下されませ▲シテ「夫程に極つた事ならば、随分剃つて進ぜう、幸ひ剃刀も持合てゐる、夫でつむりをもまつしあれ▲アト「畏つて御座る▲シテ「愚僧も其間に剃刀を合しませう{ト云て剃刀を出し砥に合す体をするアト太鼓座にて肩衣を取り扇披き出てつむりをもむなり}{*6}扨々こなたは奇特な人ぢや、いや又有りやうは、出家になつて願ふ後生は格別有難い功徳が御座る▲アト「左様で御座りませう共▲シテ「何とつむりはもめましたか▲アト「成程もめました▲シテ「剃刀もあいました扨三儀といふ事を、さづくる程に、合掌さつしあれ▲アト「かうで御座るか▲シテ「をゝさうぢやさうぢや、南無帰依仏、▲アト「なむ帰依仏▲シテ「南無帰依法▲アト「なむ帰依法▲シテ「南無帰依僧▲アト「なむ帰依僧▲シテ「あゝこなたのつむりは剃よいつむりで御座る▲アト「あゝお手のかるい事で御座る{シテ懐中より強師頭巾出しきせる色々しかじかあるべき也口伝}▲シテ「さあ剃れました▲アト「最早よう御座るか▲シテ「扨もよう似合ました▲アト「お陰で私の大願成就致て御座る▲シテ「是に愚僧の掛がへの衣がある、是をそなたへ譲りませう▲アト「夫は忝う御座る▲シテ「どれどれきせて進ぜう▲アト「是は慮外で御座る▲シテ「をゝ衣をきさつしあつたれば、今々の出家の様には御座らぬ▲アト「お蔭で出家らしう成ました、扨迚もの事に名もおつけ被成て被下ませ▲シテ「何ぢや名を付てくれい▲アト「中々▲シテ「夫は又外の出家を頼まつしあれ▲アト「お弟子に成りまするからの事で御座る程に、どうぞお前お附被成て下されい▲シテ「今迄の名は何と云ました▲アト「唯今迄の名は、何某と申ました▲シテ「其何某がよい名ぢや、やはり其名にしておかせられい▲アト「出家の名に何某と申はいかゝで御座る、どうぞ出家らしい名をおつけ被成て下されい▲シテ「しばらく夫に待たせられい▲アト「心得ました▲シテ「是はいかな事、愚僧はついに人の名をつけた事がない何とした者で有うぞ、いや幸ひ是に忰の時分習うた、いろはの手本がある、此内で付て見やうと存る、いやなうなう是非共愚僧に名を付けいぢやいの▲アト「どうぞお付被成て被下い▲シテ「何も望は御座らぬか▲アト「代々、はちす、と申字をつきまする▲シテ「何ぢや、はちのすをつく▲アト「いや、はちすと申、蓮の字の事で御座る▲シテ「ゑゝ蓮の字の事で御座るか▲アト「左様で御座る▲シテ「れんの字はよい字で御座る、蓮の字の時には、{ト云て懐中より折手本出し名を付る所仕様色々あるべし}{*7}物と付う▲アト「何とで御座る▲シテ「いれん坊▲アト「いれん坊、是は余り宜しう御座らぬ▲シテ「気にいりませぬか▲アト「左様で御座る▲シテ「夫ならば、はれん坊▲アト「是もよう御座らぬ▲シテ「ほれん坊、は▲アト「出家の名に、ほれん坊と申は、どうやらとなへがわるう御座る、其上どうやら短ふ御座る、最そつと長い名をお付被成て被下れい▲シテ「はあ、長い名が望か▲アト「左様で御座る▲シテ「長い名の時は、をゝよい名が御座る▲アト「何とで御座る▲シテ「ちりぬれん坊▲アト「いや夫はまた、余り長ふ御座る、もそつと短い名を付て被下▲シテ「あゝ長ければ、長いといはつしある短かければ短いとおせあるし、よたれん坊は▲アト「是もわるう御座る▲シテ「へとれん坊▲アト「こりや尚わるう御座る{種々有て}▲シテ「あゝ気の毒な事ぢや、いれん坊は気にいらず、呂れん坊も気にいるまいし▲アト「いやあいやあ其、ろれん坊がよふ御座る▲シテ「呂れん坊が気にいりましたか▲アト「左様で御座る▲シテ「やれやれ嬉しや嬉しや漸とつけました▲アト「忝うこそ御座れ、此後は、呂れん坊呂れん坊と仰られて、諸国をつれて廻つて下されい▲アト「成程向後は、呂れん坊呂れん坊というて、諸国をつれて廻りませうぞ▲女「漸おめしが出来て御座る、是の人はどれに御座るぞ、是はいかな事、御出家は一人ぢやとおせあつたが、こりや二人御座る、是の人はどれに御座るぞいのう▲アト「やいやい女共、爰にゐるわいやい▲女「やあこなたは坊主になつたか▲シテ「をゝ後生程大事の者はないと思うて、坊主になつたが、何とよう似合ふたか▲女「何ぢや似合ふたか▲アト「中々▲女「ゑゝ腹立や腹立や、わらはにも断なしになぜに坊主になりをつたぞいやいやい▲アト「扨々汝は女ぢやに依つて何もしらぬ、身共が出家すれば、そち迄がうかむ事ぢや▲女「何のうかむと云ふ事が{*8}有者か、元のやうに毛をはやせ毛をはやせ▲アト「あゝ先まてまて▲女「何とまてとは▲アト「あり様は、身共もあまり、剃たうはなかつたれ共あれ、あれに御座る御出家が坊主になれば、何やらよい事が有るとおせあつたに依つて剃つて貰ふた、いふ事があらば、あれへいておせあれ▲女「さあ扨はあいつが坊主にしましたか▲アト「中々▲女「扨々憎いやつの、やいそこなやつ▲シテ「何ぢや▲女「ようこちの人を坊主にしをつた、元のやうにして返しをれ、返しをれ▲シテ「あゝ先まてまて▲女「何とまてとは▲シテ「身共が、まつかう有うと思うて、お内儀共、一門共相談をめされい、其上で剃つてやらうと、いふたれば、はや相談はすんで有るとをせあつたに依つて、剃つてやつた、いふ事があらばあれへいておせあれ▲女「扨はあいつが、なりたうてなりましたか▲シテ「をゝなりたうてなつた共▲女「さうで御座らう共、どうでもおのれが坊主になりたうて、なりおつたげな、元のやうに毛をはやせ{*9}毛をはやせ▲アト「あゝこりやこりや、兎角身共は坊主になりたうはなけれ共、とらまへていてそればせう事がない▲シテ「やいやいやいそこなやつ▲アト「何ぢや▲シテ「おのれは今の間に其様に心がかはつたか、扨も扨も浅間敷根性{*10}ぢやなあ▲アト「兎角身共はしらぬ、あれへいていへあれへいていへ▲女「どうでもおのれが剃をつたげな、元の様にしてかへせかへせ▲シテ「やいやい、是れは何とするぞいやい▲アト「やいやいやいそこなやつ▲シテ「何ぢや▲アト「己は{*11}身共が女共に手をさいて何とする▲シテ「手はさゝね共、しがみつくに依つて、のけといふ事ぢや▲アト「何ののけといふ事が有者ぢや、女共、小股をとれ小股をとれ▲女「心得ました{ト云て二人シテを打こかして入るなり}{*12}なういとしい人、ちやつと御座れ▲アト「心得た心得た▲シテ「扨も扨もどうよくなめにあはしをつた、此様な事を思うては、一期人のあたまを剃らう者では御座らぬ、南無三宝しないたりしないたり{ト云て留て入るなり}

校訂者注
 1:底本は、「▲シテ「旅の坊主で御座る」。
 2:底本は、「有が誠(ぜう)で御座るか、ないが誠(ぜう)で御座るか」。
 3:底本は、「あるが誠(ぜう)で御座るか」。
 4:底本は、「残時」。
 5:底本は、「願われませぬ」。
 6:底本は、「▲シテ「扨々こなたは」。
 7:底本は、「▲シテ「物と付う」。
 8:底本は、「云ふ事か有者か」。
 9:底本は、「毛おはやせ(二字以上の繰り返し記号)」。
 10:底本は、「浅間敷根生ぢやなあ」。
 11:底本は、「巳は」。
 12:底本は、「▲女「なういとしい人」。