重喜(じゆうき)(二番目)
▲アト「当庵の住持でござる。重喜を呼び出し、申し付くる事がござる。
{と云ひて、呼び出す。出るも常の如し。}
そなたを呼び出す、別の事でない。何と、この中(ぢゆう)、寺僧達の勤めに行かれた所を、知つてゐるか。
▲シテ「成程、存じてをりまする。
▲アト「乃ち、明日(みやうにち)は結願ぢやによつて、愚僧は、導師に頼まれて行かねばならぬ。袈裟も衣(ころも)も、新らしいを出して置かしませ。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「扨、そなたも供に連れて行かうぞ。
▲シテ「それは、忝うござる。私も御供に参つてござらば、御布施が大分ござらうと存じて、この様な悦ばしい事はござらぬ。
▲アト「いや、こゝな者が。どこにか、出家の布施があつたらなかつたら、大事か。
▲シテ「いや、さうも仰せられな。御前(おまへ)がどれへぞ御出なされて、御布施が大分ござれば、御機嫌が良うござる。そつとござれば、中の御機嫌、又、かつてござらねば、科(とが)もない私を叱らせらるゝではござらぬか。
▲アト「愚僧が何時(いつ)、その様な事があるぞ。
▲シテ「いつも左様でござる。
▲アト「これはいかな事。いかにさうあればとて、その様な事を云ふといふ事があるものか。扨、長髪でも行かれまい。頭(つむり)を剃らねばなるまい。円喜は留守なり。誰に剃らしたものであらうぞ。
▲シテ「誰彼と仰せられうより、私が剃りませう。
▲アト「汝が様な麁相な者には、危ない。
▲シテ「危ない事はなけれども、余り剃りたうもござらぬ。こなた次第ぢや。
▲アト「いや、こゝな者が。大事にかけて剃りませうとは云はいで、こなた次第とは、どうした事ぢや。
▲シテ「はて、御前次第ぢやによつて、こなた次第と申す事でござる。
▲アト「扨々、汝は、師匠に口をあかせぬ様に云ふ者ぢや。伜の時分から随意に育つたによつて、あの様な事ぢや。と云うても、誰に剃らせう者もない。汝になりとも、剃らさずばなるまい。さりながら、余の麁相とは逢うて、刃物を身に当つる事ぢや程に、随分大事にかけて、お剃りあれ。
▲シテ「心得ました。
▲アト「剃刀が合(あは)ずば、痛からう。まづ、剃刀を合(あは)さしませ。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「愚僧は、その間に頭(つむり)を揉まう。
{と云ひて、扇を広げて、頭(つむり)を揉む心なり。シテ、太鼓座より剃刀を持ち出し、剃刀を合(あは)せつ、手合(てあは)せなどするなり。}
やいやい、重喜。
▲シテ「はあ《引》。
▲アト「最前も云ふ通り、刃物を身へ当つる事ぢや程に、随分大事にかけて、お剃りあれ。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「何と、剃刀は合うたか。
{シテ、手合(てあは)せして見て、云ふなり。}
▲シテ「成程、合ひました。
▲アト「頭(つむり)も揉めた。さあさあ。これへ寄つて、お剃りあれ。
▲シテ「心得ました。
{と云ひて、手合(てあは)せをして、アトに行き当たるなり。}
あゝ。御許されませ、御許されませ。
▲アト「これは、何とする。
▲シテ「剃刀の手合(てあは)せをして参りましたれば、見えませなんだ。
▲アト「いかに剃刀の手合(てあは)せをすればとて、この大きな坊主が見えぬといふ事があるものか。汝が様な者は、それへ出よ。物を云うて聞かせう。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「総じて汝程、師匠に慮外をする者はない。昔から、弟子、七尺を去つて師の影を踏まず。といふ事がある。この様な事も、知らぬであらう。
▲シテ「はあ。只今までは、左様の事も存じませず、只うかうかと暮らしてござる。向後(きやうこう)は、嗜(たしな)みませう程に、只今までの不調法は、真平(まつぴら)、お許されて下さりませ。
▲アト「せめて、それ程までに仰(お)せあれば、愚僧も満足した。さあさあ。これへ寄つて、お剃りあれ。
▲シテ「畏つてござる。何と頭(つむり)は、良う揉めてござるか。
▲アト「おゝ。良う揉めてある。
{これより、舞台の四方を這ひ廻る。脇座まで行き、アトの頭を見て、}
▲シテ「まだ、こちらの方が、揉めぬさうにござる。
▲アト「はて、良う揉めてあると云ふに。あれは、何をする事ぢや知らぬ。
{と云ふ内に、アトの後ろを通り行き、飛び上がるなり。}
▲シテ「南無三宝。
▲アト「何とした。
▲シテ「只今の御示しの下から、すでに、御前の影を踏まうと致してござる。
▲アト「これはいかな事。それは、たとへでこそあれ。聊爾に物の云はるゝ事ではない。あゝ。どうなりともして、早うお剃りあれ。
▲シテ「畏つてござる。
{と云ひて、太鼓座へ入り、剃刀、竹の先にくゝりたるを持ち出る。}
{アト、その内、文句云ふ。}
▲アト「今日(けふ)に限つて、円喜は留守なり。きやつは又、物事不調法なり。この様な苦々しい事はござらぬ。
▲シテ「{*1}いでいで髪を剃らんとて、いでいで髪を剃らんとて、弟子七尺を去つて、師の影を踏まずといふ事あれば、剃刀の柄(つか)を、七尺五寸に継ぎ延べて、及び剃りにぞ剃つたりける。
▲アト「猶々剃れや、良く剃れや。
▲シテ「重喜は師匠の仰せに従ひ、剃刀を引き寄せ、手合(てあは)せして、又剃刀を取り延べて、前を後ろ、後ろを前、逆剃りして、鼻の先をぞ削いだりける。
▲アト「あ痛、あ痛。
▲シテ「これはいかな事。
▲アト「《上》{*2}師匠は肝を潰しつゝ、こゝやかしこと立ち廻れば。
▲シテ「重喜は余りの迷惑さに、門前さして逃げゝれば。
{と云ひて、シテは先へ入るなり。}
▲アト「坊主は鼻を抱(かゝ)へつゝ、眠蔵(めんざう){*3}さして入りにけり。
{と云ひて、入るなり。}
校訂者注
1:底本、ここ「いでいで髪をそらんとて」から「あいたあいた」まで、傍点がある。
2:底本、ここ「師匠は肝をつぶしつゝ」から最後まで、全て傍点がある。
3:「眠蔵(めんざう)」は、納戸や寝室の類の部屋を指す。
底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.)
重喜(ヂユウキ)(二番目)
▲アト「当庵の住持で御座る、重喜を呼出し申付る事が御座る、{ト云て呼出す出るも如常}{*1}そなたを呼出す別の事でない、何と此中寺僧達の勤めにゆかれた所を知つて居るか▲シテ「成程存てをりまする▲アト「乃明日は、結願ぢやに依つて、愚僧は導師に頼まれてゆかねばならぬ、袈裟も衣も新らしいを出してをかしませ▲シテ「畏つて御座る▲アト「扨そなたも供につれて行うぞ▲シテ「夫は忝う御座る、私もお供に参つて御座らば、お布施が大分御座らうと存じて、此様な悦ばしい事は御座らぬ▲アト「いや爰な者が、どこにか出家の、布施があつたらなかつたら大事か▲シテ「いやさうも仰られな、お前がどれへぞお出被成て、お布施が大分御座れば御機嫌がよう御座る、そつと御座れば中の御機嫌、又曽て御座らねば科もない私をしからせらるゝでは御座らぬか、▲アト「愚僧がいつ其様な事が有るぞ▲シテ「いつも左様で御座る▲アト「是はいかな事、いかにさうあれば迚、其様な事をいふといふ事が有者か、扨長髪でもゆかれまい、つむりをそらねばなるまい、円喜は留守なり、誰に剃した者で有うぞ▲シテ「誰かれと仰られうより私が剃ませう▲アト「汝が様な麁相な者にはあぶない▲シテ「あぶない事はなけれ共、余り剃たうも御座らぬ、こなた次第ぢや▲アト「いや爰な者が大事にかけて剃ませうとはいはいで、こなた次第とはどうした事ぢや▲シテ「果お前次第ぢやによつて、こなた次第と申事で御座る▲アト「扨々汝は師匠に口をあかせぬ様にいふ者ぢや、忰の時分から、随意にそだつたに依つてあの様な事ぢや、というても誰に剃せう者もない、汝になり共剃さずばなるまい、乍去余の麁相とは逢うて刃物を身にあつる事ぢや程に、随分大事にかけてお剃あれ▲シテ「心得ました▲アト「剃刀があはずばいたからう、先剃刀をあはさしませ▲シテ「畏つて御座る▲アト「愚僧は其間につむりをもゝう、{ト云て扇を広げてつむりをもむ心なりシテ太鼓座より剃刀を持出剃刀を合せつ手合せ抔するなり}{*2}やいやい重喜▲シテ「ハア《引》▲アト「最前もいふ通り、刃物を身へあつる事ぢや程に、随分大事にかけてお剃りあれ▲シテ「畏つて御座る▲アト「何と剃刀はあふたか、{シテ手合して見て云ふ也}▲シテ「成程あいました▲アト「つむりももめた、さあさあ是へ寄つておそりあれ▲シテ「心得ました{ト云て手合せをしてアトに行当るなり}{*3}あゝ御ゆるされませ御ゆるされませ▲アト「是は何とする▲シテ「剃刀の手合せをして参りましたれば、見えませなんだ▲アト「いかに剃刀の手合せをすれば迚、此大きな坊主が見えぬといふ事が有者か汝が様な者は夫へ出よ、物をいうてきかせう▲シテ「畏つて御座る▲アト「総て汝程師匠に慮外をする者はない、むかしから弟子七尺をさつて師の影をふまずといふ事がある、此様な事もしらぬで有う▲シテ「はあ唯今迄は、左様の事も存ませず唯うかうかとくらして御座る、けふかうはたしなみませう程に、唯今迄の不調法は、真平御ゆるされて下さりませ▲アト「責て夫程迄におせあれば、愚僧も満足した、さあさあ是へよつておそりあれ▲シテ「畏つて御座る、何とつむりはようもめて御座るか▲アト「おゝようもめてある{是より舞台の四方をはいまわるわき座迄行アトの頭を見て}▲シテ「まだこちらの方がもめぬさうに御座る▲アト「果ようもめてあるといふに、あれは何をする事ぢやしらぬ{ト云内にアトのうしろを通り行飛上る也{*4}}▲シテ「南無三宝▲アト「何とした▲シテ「唯今のお示しのしたから、すでに、お前の影をふもふと致て御座る▲アト「是はいかな事、夫はたとへでこそあれ、りやうじに物のいはるゝ事ではない、あゝどうなり共して早うお剃りあれ▲シテ「畏つて御座る、{ト云て太鼓座へ入り剃刀竹の先にくゝりたるを持出る}{アト其内文句云}▲アト「けふに限つて円喜は留主なり、きやつは又、物事不調法なり、此様なにがにがしい事は御座らぬ▲シテ「いでいで髪をそらんとて、いでいで髪をそらんとて、弟子七尺をさつて、師の影をふまずといふ事あれば、剃刀のつかを七尺五寸につぎのべて、及びぞりにぞそつたりける▲アト「猶々それやよくそれや▲シテ「重喜は師匠の仰にしたがひ、髪そりをひきよせ手合せして、又剃刀を取りのべて、まへを後うしろをまへ、逆剃して、鼻の先きをぞそいだりける▲アト「あいたあいた▲シテ「是はいかな事▲アト「《上》師匠は肝をつぶしつゝ、爰やかしこと立廻れば▲シテ「重喜は余りの迷惑さに、門前さして逃ければ、{ト云てシテは先へ入るなり}▲アト「坊主は鼻をかゝへつゝ、めんぞうさしていりにけり、{ト云て入るなり}
校訂者注
1:底本は、「▲アト「そなたを呼出す」。
2:底本は、「▲アト「やいやい重喜」。
3:底本は、「▲アト「あゝ御ゆるされませ」。
4:底本は、「ト云内に通りアトのうしろを行飛上る也」。
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