不腹立(はらたてず)(二番目)
▲アト「この辺りの者でござる。一在所として、一間四面の堂を建立致いてござる。堂は、思ふ儘に出来てござれども、いまだ、堂守(だうもり)がござらぬ。又こゝに、身共が様な施主がござる。これを呼び出し、相談致さうと存ずる。なうなう、ござるか。
▲小アト「これに居まする。
▲アト「内々(ないない)の堂守の事も、とかく似合(にあは)しい御出家がござらぬ。私の存じまするは、今日(こんにち)は、上下(じやうげ)の街道へ参つて、似合(にあは)しい御出家も通らるゝならば、同道致して参らうと存ずるが、何とでござらう。
▲小アト「仰せらるゝ通り、その様な事でなくば、調(とゝの)ひますまい。
▲アト「それならば、追つ付け参りませう。さあさあ、ござれ。
▲小アト「心得ました。
▲アト「何と思し召す。田舎と申すは、不自由なものでござる。堂は思ふ儘に出来てござれども、堂守が極(きま)らいで、気の毒でござる。
▲小アト「いや。今日(こんにち)、街道へ参つてござらば、定めて、似合(にあは)しい御出家がござらう。
▲アト「何かと申す内に、上下の街道でござる。まづ、これへ寄つてござれ。
▲小アト「心得ました。
▲シテ「一所不住の坊主でござる。某(それがし)、近い頃まで俗でござつたれども、浮世を見限つて、かやうの体(てい)になつてござる。さりながら、俄(にはか)坊主の事なれば、経陀羅尼は存ぜず、誰一飯(いつぱん)の分け手がござらぬ。それ故、諸国を修行致す。又、これより上方へ登り、こゝかしこを見物致し、似合(にあは)しい所もあらば、足をも留(とゞ)めうと存ずる。誠に出家程、心安いものはござらぬ。衣一重(ころもいちゑ)、珠数一連あれば、どれからどれへ参らうと、儘でござる。
▲アト「これへ、重畳の御坊が見えました。言葉をかけませう。
▲小アト「一段と良うござらう。
▲アト「しゝ申し、これこれ。
▲シテ「この方の事でござるか。
▲アト「中々。御前(おまへ)の事でござる。これは、どれからどれへ御通りなされまする。
▲シテ「愚僧は、風に木の葉の散る如くでござる。
▲アト「これは、面白い御返答でござる。して、それには何ぞ、心がござるか。
▲シテ「別に、心と申す事もござらぬ。総じて、木の葉と申す物は、風が吹けば、何方(いづかた)へも散りまする。愚僧もまづ、その如く、誘はせらるゝ方(はう)へ参るによつて、風に木の葉の散る如く、と申す事でござる。
▲アト「それならば、留(とゞ)めたらば、留(とゞ)まらせられやうか。
▲シテ「それは、只今申す通りの事でござる。
▲アト「言葉をかけまするも、別の儀ではござらぬ。私ども、一在所として、一間四面の堂を建立致してござる。堂は、思ふ儘に出来てござれども、いまだ、堂守がござらぬ。どうぞ、御出なされて下されうならば、忝う存じまする。
▲シテ「それこそ、出家の望む所なれ。随分、参りませう。
▲アト「それは、忝うござる。扨、何も御望みはござらぬか。
▲シテ「出家の事でござれば、別に深しい望みはござらぬ。冬、紙子、常に衣一衣(ころもいちえ)下さるれば、良うござる。
▲アト「それは、何より易い事でござる。何と、今でも御出なされませうか。
▲シテ「何時(なんどき)でも参りませう。
▲アト「それならば、いざ、御出なされい。
▲シテ「何が扨、案内のため、前(さき)へござれ。
▲アト「左様ならば、御前(おさき)へ参りませう。さあさあ、御出なされませ。
▲シテ「御間(おあひだ)を隔てませう。
▲小アト「一段と良うござらう。
▲アト「扨、ふと言葉を掛けましたに、早速、御同心なされて、この様な悦ばしい事はござりませぬ。
▲シテ「袖の振り合(あは)せも他生の縁と申すが、定めてこれも、仏の御引き合(あは)せでござらう。
▲小アト「扨、御坊様には、御手をなされまするか。
▲シテ「やあ。
▲小アト「御手をなさるゝか、と申す事でござる。
▲シテ「手とは、何でござる。
▲アト「それは、あの者の申し様が悪うござる。手をお書きなさるゝか、と申す事でござる。
▲シテ「書く、と申す程の事もござらぬが、雀の躍り足の様な事や、蚯蚓(みゝず)のぬたくつた程の事は、致しまする。
▲アト「かやうに申すも、別の事ではござらぬ。在所には、子供が大勢ござるによつて、手習ひを致させたさに、お尋ね申す事でござる。
▲シテ「子供衆に教へまする程の事は、心安い事でござる。
▲小アト「扨、御坊様には、もし経をお読みなされまするか。
▲シテ「まづ、お待ちなされ。凡そ、大般若六百巻、華厳・阿含・方等・法華・涅槃、その外一切の経は、空(そら)でも読みまするが、私の不執心故、教へられませなんだか、但し又、師匠が存ぜられいで習ひませなんだか、もし経といふ経は、覚えませぬ。
▲アト「いや。それも、あの者の申し様が悪うござる。もし経ではござらぬ。もし、御経をお読みなさるゝか、と申す事でござる。
▲シテ「それは、只今も申す通りの事でござる。
▲アト「扨々、夥(おびたゞ)しい御修行でござる。
{と云ふシテ、口の内にてうなる。}
御坊様、御坊様。申し、御坊様。
▲シテ「やあ。
▲アト「それは、何を仰せられまする。
▲シテ「御不審、尤でござる。愚僧は、幼少から出家致して、朝暮、称名を稽古致いてござる。それが、口癖になりまして、やゝもすれば、この様に申しまする。
▲小アト「扨々、御殊勝な事でござる。
▲アト「扨、御坊様の御名は、何と申しまする。
▲シテ「何となりとも、呼ばせられい。答へませう。
▲小アト「只今までの御名は、何と申しまする。承りたうござる。
▲シテ「しばらく、それに待たせられい。
▲アト「心得ました。こびた事に詰まられました。
▲小アト「左様でござる。
▲シテ「これはいかな事。身共は、いまだ名がない。何としたものであらうぞ。いや、申し様がある。なうなう、愚僧が名を云へ、でござるか。
▲アト「承りたう存じまする。
▲シテ「それならば、申さう。腹立てずの正直坊と申す。
▲アト「これは又、長い御名でござる。それには何ぞ、仔細がござるか。
▲シテ「成程、仔細がござる。師匠の申されまするは、そちが様な者はない。人の物とては、楊枝一本違(ちが)へた事もなし。その上つひに、腹を立てた事がない。とあつて、腹立てずの正直坊と付けられてござる。
▲アト「しばらく、それにお待ちなされませ。
▲シテ「心得ました。
▲アト「なうなう。今のを聞かせられたか。
▲小アト「成程、承つてござる。
▲アト「人の物とては、楊枝一本違へた事もない、と仰(お)せありまする。これは、かうもありさうな事でござる。さりながら、人間と生まれて、腹の立たぬといふ事は、ござるまい。
▲小アト「いか様(さま)。これは、ちと合点が参りませぬ。
▲アト「いざ、名を覚えぬ体(てい)にして、腹を立てさせて見ますまいか。
▲小アト「一段と良うござらう。
▲アト「構へて、ぬからせらるゝな。
▲小アト「心得ました。
▲アト「申し申し、御坊様。御前の御名は、何とやら仰せられましたの。
▲シテ「腹立てずの正直坊。只、腹を立てぬ正直な者ぢや、と覚えて下され。
▲小アト「いや。なうなう、御坊。こなたの名は、姜(はじかみ)の生姜坊(しやうがばう)か。
▲シテ「やあら、こゝな人は。生姜坊といふ事があるものか。腹立てずの正直坊ぢや。
▲小アト「それ、腹が立つさうにござる。
▲シテ「《笑》いかないかな。腹は立ちませぬ。
▲アト「なう、御坊。
▲シテ「やあ。
▲アト「おぬしの名は、張り損なひの障子骨ぢや。
▲シテ「扨々、物覚えの悪い。出家の名に、障子骨といふ事があるものか。腹立てずの正直坊ぢや。
▲アト「そりや、腹が立つさうな。
▲シテ「《笑》いや、腹は立ちませぬ。
▲小アト「やい、そこな者。そちが名は、腹ふくれの正月坊か。
▲シテ「ゑゝ、苦々しい。正直坊ぢや。
▲小アト「そりや、腹を立つるわ。
▲シテ「《笑》いや、腹は立たぬ。
▲アト「やい、坊主。
▲シテ「何ぢや。
▲アト「をのれが名は、腹こげの焦熱坊ぢや。
▲シテ「えゝ、こゝな者が。正直坊ぢやわいやい。
▲アト「そりあ、腹を立つるわ。
▲シテ「《笑》いやいや、腹は立ちませぬ。
▲小アト「そりあ、腹を立つるは。
{これよりアト二人、シテを引つぱり、「そりあ腹を立つる」「腹を立る」と云ひて、なぶる。シテ、「腹は立たぬ」と云ひて、笑ふ心持ち、あるなり。}
▲シテ「あゝ。まづ、待て待て。
▲二人「何と、待てとは。
▲シテ「何程仰(お)せあつても、愚僧は腹は立たねども、両人その様に仰(お)せあれば、業(ごふ)が燃ゆるわいやい。燃ゆるわいやい、燃ゆるわいやい。
{と云ひて、泣く。}
▲アト「売僧(まいす)坊主ぢや。打擲させられい。
▲シテ「許して下されい。許して下されい、許して下されい。
▲二人「横着者。やるまいぞ、やるまいぞ。
{と云ひて、二人、追ひ込み入るなり。}
底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.)
不腹立(ハラタテズ)(二番目)
▲アト「此辺の者で御座る、一在所として、一間四面の堂を建立致て御座る、堂は思ふ儘に出来て御座れ共、いまだ堂守が御座らぬ、又爰に身共が様な施主が御座る、是を呼出し相談致さうと存ずる、なうなう御座るか▲小アト「是に居まする▲アト「内々の堂守の事も、兎角似合しい御出家が御座らぬ、私の存まするは、今日は上下の街道へ参つて、似合しい御出家も通らるゝならば、同道致て参らうと存ずるが、何とで御座らう▲小アト「仰らるゝ通り、其様な事でなくば調ひますまい▲アト「夫ならば追付{*1}参りませうさあさあ御座れ▲小アト「心得ました{*2}▲アト「何と思召、田舎と申は不自由な者で御座る、堂は思ふ儘に出来て御座れ共、堂守が極らいで気の毒で御座る▲小アト「いや今日街道へ参つて御座らば、定て似合しい御出家が御座らう▲アト「何彼と申内に上下の街道で御座る、先是へ寄て御座れ▲小アト「心得ました▲シテ「一所不住の坊主で御座る、某近い頃迄俗で御座つたれ共、浮世を見限つて、斯様の体に成つて御座る、去乍俄坊主の事なれば、経陀羅尼は存ぜず{*3}、誰{*4}一つ飯のわけてが御座らぬ、夫故諸国を修行致す、又是より上方へ登り、爰かしこを見物致、似合しい所もあらば、足をも留と存ずる、誠に、出家程心安い者は御座らぬ、衣一ゑ珠数一れんあれば、どれからどれへ参らうと儘で御座る▲アト「是へ重畳の御坊が見えました、言葉をかけませう▲小アト「一段とよふ御座らふ▲アト「しゝ申し是々▲シテ「此方の事で御座るか▲アト「中々お前の事で御座る、是はどれから、どれへお通り被成まする▲シテ「愚僧は、風に木の葉のちるごとくで御座る▲アト「是は面白い御返答で御座る、して夫には何ぞ心が御座るか▲シテ「別に心と申事も御座らぬ、総て木の葉と申物は、風が吹けば何方へもちりまする、愚僧もまツ其如く誘はせらるゝ方へ参るに依つて、風に木の葉のちる如くと申事で御座る▲アト「夫ならばとゞめたらば、とゞまらせられやうか▲シテ「夫は唯今申通りの事で御座る▲アト「言葉をかけまするも別の儀では御座らぬ、私共一在所として一間四面の堂を建立致て御座る、堂は思ふ儘に出来て御座れ共、いまだ堂守が御座らぬ、どふぞ御出被成て下されうならば忝なう存じまする▲シテ「夫こそ出家の望む所なれ、随分参りませう▲アト「夫は忝う御座る、扨何もお望は御座らぬか▲シテ「出家の事で御座れば、別に深しい望は御座らぬ冬紙子常に衣一衣下さるればよふ御座る▲アト「夫は何より安い事で御座る、何と今でもお出被成ませうか▲シテ「何時でも参りませう▲アト「夫ならば、いざお出被成い▲シテ「何が扨案内の為前へ御座れ▲アト「左様ならばお前へ参りませう、さあさあお出被成ませ▲シテ「おあいだをへだてませう▲小アト「一段とよふ御座らう▲アト「扨ふと言葉を掛ましたに、早速御同心被成て此様な悦しい事は御座りませぬ▲シテ「袖の振合せも他生の縁と申が、定て是も仏のお引合せで御座らう▲小アト「扨御坊様には、お手を被成まするか▲シテ「やあ▲小アト「お手を被成るゝかと申事で御座る▲シテ「手とは何んで御座る▲アト「夫はあの者の申様がわるう御座る、手をおかき被成るゝかと申事で御座る▲シテ「かくと申程の事も御座らぬが、すゞめのおどり足の様な事や、みゝずのぬたくつた程の事は致まする▲アト「斯様に申も別の事では御座らぬ、在所には子供が大勢御座るに依つて、手習ひを致させたさにお尋申事で御座る▲シテ「子供衆に教まする程の事は心安い事で御座る▲小アト「扨御坊様には、もし経をおよみ被成まするか▲シテ「先お待なされ、凡大般若六百巻、華厳、阿含、方等法華涅槃、其外一切の経は空でもよみまするが、私の不執心故おしへられませなんだか、但し又師匠が存ぜられいで習ひませなんだか、もし経といふ経は覚ませぬ▲アト「いや夫もあの者の申様がわるう御座るもし経では御座らぬ、もしお経をおよみ被成るゝかと申事{*5}で御座る▲シテ「夫は唯今も申通りの事で御座る▲アト「扨々おびたゞ敷御修行で御座る{ト云ふシテ口の内にてうなる}{*6}御坊様御坊様申御坊様▲シテ「やあ▲アト「夫は何を仰られまする▲シテ「御不審尤もで御座る、愚僧は幼少から出家致て朝暮称名を稽古致て御座る、夫が口くせに成まして、やゝもすれば此様に申まする▲小アト「扨々御殊勝な事で御座る▲アト「扨御坊様のお名は何んと申まする▲シテ「何と成り共呼せられい答へませう▲小アト「唯今迄のお名は何と申まする、承りたう御座る▲シテ「しばらく夫にまたせられい▲アト「心得ましたこびた事につまられました▲小アト「左様で御座る▲シテ「是はいかな事、身共はいまだ名がない、何んとした者で有うぞいや申様がある、なうなう愚僧が名をいへで御座るか▲アト「承りたう存じまする▲シテ「夫ならば申さう、腹立ずの正直坊と申す▲アト「是は又長いお名で御座る、夫には何んぞ仔細が御座るか▲シテ「成程仔細が御座る、師匠の申されまするは、そちが様な者はない、人の物とては楊枝一本違へた事もなし、其上つひに、腹を立た事がないと有つて、腹立ずの正直坊と付られて御座る▲アト「しばらく夫におまち被成ませ▲シテ「心得ました▲アト「なうなう、今のをきかせられたか▲小アト「成程承つて御座る▲アト「人の物とては楊枝一本違へた事もないとおせありまする、是はかうもありさうな事で御座る、去乍人間と生れて、腹の立ぬと云ふ事は御座るまい▲小アト「いか様是はちと合点が参りませぬ▲アト「いざ名を覚えぬ体にして、腹をたてさせて見ますまいか▲小アト「一段とよう御座らう▲アト「かまへてぬからせらるゝな▲小アト「心得ました▲アト「申々御坊様、お前のお名は何とやら仰られましたの▲シテ「腹立ずの正直坊、唯腹を立ぬ正直な者ぢやと、覚えて下され▲小アト「いやなうなう御坊、こなたの名は、姜の生姜坊か▲シテ「やあら爰な人は、生姜坊といふ事が有る者か、腹立ずの正直坊ぢや▲小アト「夫腹が立さうに御座る▲シテ「《笑》いかないかな腹は立ませぬ▲アト「なう御坊▲シテ「やあ▲アト「おぬしの名は、はりぞこないの障子骨ぢや▲シテ「扨々物覚えのわるい、出家の名に障子骨といふ事が有る者か、腹立ずの正直坊ぢや▲アト「そりや腹が立さうな▲シテ「《笑》いや腹は立ませぬ▲小アト「やいそこな者、そちが名は腹ふくれの正月坊か▲シテ「ゑゝにがにがしい、正直坊ぢや▲小アト「そりや腹を立つるわ▲シテ「《笑》いや腹はたゝぬ▲アト「やい坊主▲シテ「何ぢや▲アト「をのれが名は、腹こげの焦熱坊ぢや▲シテ「えゝ爰な者が正直坊ぢやわいやい▲アト「そりあ腹を立つるは▲シテ「《笑》いやいや腹はたちませぬ▲小アト「そりあ腹を立つるは{是よりアト二人シテを引ぱりそりあ腹を立る腹を立ると云てなぶるシテ腹はたゝぬと云て笑ふ心持有るなり}▲シテ「あゝ先づまてまて▲二人「何とまてとは▲シテ「何程おせあつても、愚僧は腹はたゝね共、両人其様におせあれば、ごうがもゆるわいやい、もゆるわいやいもゆるわいやい、{ト云て泣く}▲アト「まいす坊主ぢや、ちやうちやくさせられい▲シテ「ゆるして下されいゆるして下されいゆるして下されい▲二人「横ちやく者、やるまいぞやるまいぞ、{ト云て二人追込いるなり}
校訂者注
1:底本は、「押付(おつゝけ)」。
2:底本は、「▲小アト「心得ました、何と思召、」。
3:底本は、「存せず」。
4:底本は、「唯(たれ)一つ飯」。
5:底本は、「申で御座る」。
6:底本は、「▲アト「御坊様」。
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