水汲(みづくみ)(二番目)

▲女「妾(わらは)は、この辺りの者でござる。野中の清水(しみづ)へ参り、濯ぎ物を致さうと思ひまする。誠に、女のわざには縫ひ針と申すが、夏冬共に、汚れた物を人にも着せず、我が身にも着ぬ様にと思へば、しばしの暇も無い事でござる。何かと云ふ内に、清水ぢや。まづ、水を汲み上げて、そろりそろりと、濯ぎ物を致さうと思ひまする。
▲シテ「この寺の新発意でござる。今夜は、寺へ客来がある。野中の清水へ参り、茶の水を汲んで来いと云ひ付けられた。まづ、急いで参らう。総じて水と申すも、様々ござる。まづ、柳の水・左女牛(さめがゐ)の水などゝ申すは、名所なれども、取り分け野中の清水は、清々(せいせい)として、良い水でござる。何かと申す内に、これぢや。はあ。あれに、門前のいちやが、濯ぎ物をしに来たと見えて、居る。きやつには日頃、某(それがし)が無心を云ひ掛けて置いたれども、未だ返事をせぬ。幸ひの所へ来た。是非とも今日(けふ)は、返事を聞き切らうと存ずる。
▲女「なう、怖(こは)や。誰ぢや、誰ぢや。
▲シテ「{*1}水を掬べば、月も手に宿る。花を折れば、香衣にうつるならひの候ふものを、袖を引くに引かれぬは、あら憎やの。
▲女「えゝ、御新発意か。いつの間にござつた。
▲シテ「そなたがこゝへ来たといふ事を聞いて、後を追うて来たが、お主は何しに来た。
▲女「濯ぎ物をしに来ました。人が見れば悪い。早う帰らつしやれ。
▲シテ「いや。身共も只は来ぬ。ちと、用があつて来た。
▲女「何の用でござつた。
▲シテ「今宵、寺に客がある。御茶の水を汲みに来た。幸ひ、そなたを頼む程に、一杯汲んでくれさしめ。
▲女「妾(わらは)に水を汲ませて、そなたは寺へ戻らせらるゝか。
▲シテ「いや。こゝに待つてゐる。
▲女「その隙(ひま)があらば、そなた汲ませられい。
▲シテ「いや。水といふものは、者にあやかる。お主の様な、心の浮いた優しい人が汲めば、水が軽うて、御茶の風味も一入(ひとしほ)良いものぢや。とかく、汲んでくれさしめ。
▲女「その様に仰(お)せあらば、汲んで進ぜう。
▲シテ「それは過分な。さりながら、とてもの事に、上を汲めば塵や木の葉がある。下を汲めば砂が立つ。中頃を汲んでたもれ。
▲女「それ程の事を知らいで良いものか。
▲シテ「はて、知つたればこそ頼め。知らぬ者を頼まうか。いや。なう、いちや。わごりよの小歌を久しう聞かぬ。水のためにもならう。小歌を一節(ひとふし)謡うて、面白う水を汲んでたもれ。
▲女「謡はうと謡ふまいと、妾が儘でござる。
▲シテ「それは知れた事ぢや。ちと謡はしめ。
▲女「《小歌》{*2}身は浜松、ぬほれてほれて{*3}、あらはれぞする、待つ夜は来もせで、待たぬ夜は来て、濡れてしよぼ濡れて、露に。
▲シテ「身は在京、妻持ちながら、二人(ふたり)、一人寝ぞする。
▲女「地主の桜は、散るか散らぬか、見たか水汲み、散るやらう、散らぬやらう、嵐こそ知れ。
▲シテ「舟行けば岸うつる、涙河の瀬枕、雲早ければ月運ぶ、上(うわ)の空の心や、上の空かや、何ともな。
▲女「小松かき分け、清水汲みにこそ来れ、今に限らうか、まづ放せ。
▲シテ「扨、潮の干る時は。
▲女「行き連れて汲まうよ。
▲シテ「扨、潮の満つる時は。
▲女「軒端に待ちて汲まうよ。
▲シテ「汀(みぎは)の浪の夜の汐、月影ながら汲まうよ。
▲女「つれなく命ながらへて。
▲シテ「秋の木の実の落ちぶれてや。
▲二人「いつまで汲むべきぞ、あぢきなやな。
▲シテ「それは胴欲ぢや。もそつと、こゝに遊ばしめ。
▲女「いやいや。御寺まで、水は持(も)て行(い)て進ぜう。そなた遊びたくば、後に居させられい。
▲シテ「とかく、戻しはせぬぞ。
▲女「{*4}御茶の水が遅くなり候。まづ放さしめ、まづ放せ。なんぼうこじやれた{*5}御新発意ぢやの。なうなう。恥づかしや、恥づかしや。
▲シテ「なう、悲しや。一搾(ひとしぼ)りになつた。悉皆(しつかい)、濡れ鼠ぢや。くさめ。

校訂者注
 1:底本、ここから「袖を引にひかれぬはあらにくやの」まで、傍点がある。
 2:底本、ここから「いつ迄汲べきぞ、あぢきなやな」まで、傍点がある。
 3:「ぬほれてほれて」は、不詳。
 4:底本、ここから「なんぼうこじやれた御新発意ぢやの」まで、傍点がある。
 5:「なんぼうこじやれた」は、「ずいぶんとふざけた」の意。

底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.

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水汲(ミヅクミ)(二番目)

▲女「妾は此辺りの者で御座る、野中の清水へ参、濯ぎ物を致さうと思ひまする、誠に女のわざには縫針と申が、夏冬共に、よごれた物を人にも着せず、我身にも着ぬ様にと思へば、しばしの暇も無ひ事で御座る、何かと云内に清水ぢや、先水を汲上て、そろりそろりと、すゝぎ物を致さうと思ひまする▲シテ「此寺の新発意で御座る、今夜は寺へ客来が有、野中の清水へ参、茶の水を汲でこいと云付られた、先急で参らう{*1}、総て水と申も様々御座る、先柳の水、左女牛の水抔と申は名所なれ共、取分野中の清水は、せいせいとしてよい水で御座る、何かと申内に是ぢや、はああれに門前のいちやが、すゝぎ物をしに来たと見えて居る、きやつには日頃、某が無心を云掛て置たれ共未だ返事をせぬ、幸の所へ来た、是非共今日は、返事を聞切うと存ずる▲女「なうこわや誰ぢや誰ぢや▲シテ「水を掬べば、月も手に宿る、花を折ば香衣にうつるならひの候物を、袖を引にひかれぬはあらにくやの▲女「えゝお新発意か、いつの間に御座つた▲シテ「そなたが爰へ来たと云事を聞て、跡を追うてきたがお主は何しに来た▲女「すゝぎ物をしに来ました、人が見れば悪い、早う帰らつしやれ▲シテ「いや身共も唯はこぬ、ちと用が有て来た▲女「何の用で御座つた▲シテ「今宵寺に客が有お茶の水を汲にきた、幸ひそなたを頼程に、一ぱい汲で呉さしめ▲女「妾に水を汲せて、そなたは寺へ戻らせらるゝか▲シテ「いや爰に待てゐる▲女「其隙があらばそなた汲せられい▲シテ「いや水と云物は者にあやかる、お主の様な、心の浮たやさしい人がくめば、水が軽ふて、お茶の風味も一しほよい物ぢや、兎角汲んで呉さしめ▲女「其様におせあらば汲で進ぜう▲シテ「夫は過分な去ながら、迚もの事に、上を汲ば塵や木の葉が有、下を汲ば砂が立、中頃を汲でたもれ▲女「夫程の事を知らひでよい者か▲シテ「果、しつたれば社頼め、知らぬ者を頼うか、いやのふいちや、わごりよの小哥を久敷う聞ぬ、水の為にも成らう、小歌を一ふし謡ふて面白ふ水を汲でたもれ▲女「うたはうと謡ふまいと妾が儘で御座る▲シテ「夫はしれた事ぢや、ちとうたはしめ▲女「《小歌》身は浜松、ぬほれてほれて、あらはれぞする、待夜は来もせで、待たぬ夜は来て、ぬれてしよぼぬれて露に▲シテ「身は在京妻持ながら、ふたり独り寝ぞする▲女「地主の桜は、散かちらぬか、見たか水汲、散やらう、散ぬやらう、嵐こそしれ▲シテ「舟ゆけば岸うつる、涙河の瀬枕、雲早ければ月はこぶ、うわの空の心や、うわの空かや何共な▲女「小松かき分、清水汲にこそ来れ、今に限うか先放せ▲シテ「扨潮の干る時は▲女「行つれて汲ふよ▲シテ「扨潮の満時は▲女「軒端に待て汲ふよ▲シテ「みぎわの浪の夜の汐、月影ながら汲ふよ▲女「つれなく命ながらへて▲シテ「秋の木の実の落ぶれてや▲二人「いつ迄汲べきぞ、あぢきなやな▲シテ「夫はどうよくじや、もそつと爰に遊ばしめ▲女「いやいやお寺迄、水は持ていて進ぜう、そなた遊び度ば、後に居させられい▲シテ「兎角戻しはせぬぞ▲女「お茶の水が遅く成候、先放さしめ先放せ、南宝こしやれたお新発意ぢやの、なうなう恥かしや恥かしや▲シテ「なうかなしや、ひとしぼりに成た、しつかいぬれ鼠ぢや、くさめ。

校訂者注
 1:底本は、「先急て参らう」。