歌争(うたあらそひ)(二番目)

▲アト「この辺りの者でござる。今日(こんにち)は、長閑にござるによつて、野遊びに参らうと存ずる。又こゝに、心安う致す人がござる。これを誘うて参らうと存ずる。誠に、内に居らるれば、良うござるが。余り外へ出ぬ人でござる程に、内に居られたらば、身共が申す事ぢやによつて、大方御出なさるゝであらう。いや、何かと申す内に、これぢや。
{と云ひて、案内乞ふ。シテ出るも常の如し。}
今日(けふ)は、野遊びに参らうと存ずるが、何と、こなたにも御出なされぬか。
▲シテ「幸ひ今日(こんにち)は、隙(ひま)でをりまする。成程、御供致しませう。
▲アト「それならば、いざ、御出なされい。
▲シテ「いや、ちと御目にかくる物がござる。
▲アト「それは、何でござる。
▲シテ「まづ、かうお通りなされい。
▲アト「心得ました。
▲シテ「ざらざらざら。
{と云ひて、扇を広げ、戸をあくる体(てい)する。}
はあ。これは、庭を作らせられたか。
▲シテ「この中(ぢゆう)、庭を作りました。
▲アト「扨々、綺麗な事でござる。
▲シテ「何と、御気に入りましたか。
▲アト「御物数寄と、かう申された事ではござらぬ。
▲シテ「いや。左様にもござらぬ。
▲アト「あの向うの花壇に、赤う芽を出したは、何でござる。
▲シテ「あれは、芍薬でござる。
▲アト「扨も、心地良う芽を出しました。花の時分は、さぞ見事にござらう。
▲シテ「おそらく、見事でござる。
▲アト「ちと、お知らせなされ。見物に参りませう。
▲シテ「成程、お知らせ申さう。さりながら、あの芍薬程の見事な花に、昔から、なぜ歌にはござらぬの。
▲アト「いや。歌にござるぞや。
▲シテ「芍薬の歌は、承りませぬ。
▲アト「それ、応仁(おうにん)の歌に、難波津に芍薬の花冬籠り今は春べと芍薬の花。とござる。
▲シテ「何がどうぢやと云はつしやる。
▲アト「いや。応仁の歌に。
{を、又云ふなり。}
▲シテ「何ぢや。芍薬、芍薬。
{と云ひて、笑ふ。}
▲アト「あゝ、これこれ。そなたの分として、応仁の歌を笑ふ事は、なりますまいぞや。
▲シテ「いかないかな。応仁の歌を笑ひは致さぬ。こなたの吟じ様が、悪うござる。
▲アト「何と、悪うござる。
▲シテ「応仁の歌は、難波津に咲くやこの花冬籠り、今は春べと咲くやこの花。とこそござれ。芍薬、芍薬。
{と云ひて、笑ふ。}
▲アト「あゝ、これこれ。身共は、野遊びにこそ参れ、歌争ひには参らぬぞや。もはや、かう行きまする。
▲シテ「あゝ、これこれ。まづ、待たせられい。私も御供致しませう。
▲アト「はあ。扨は、こなたにも御出なさるゝか。
▲シテ「中々。
▲アト「それならば、さあさあ御出なされい。
▲シテ「心得ました。扨、只今は、御心安さの儘、ふと聊爾を申してござる。必ず、気にかけて下さるゝな。
▲アト「何が扨、そなたと身共との間で、気にかくるの懸けぬのと申す事はござらぬ。
▲シテ「それならば、安堵致いてござる。
▲アト「いや。何かと申す内に、野へ出ました。
▲シテ「誠に、野へ出ました。
▲アト「何と、春の野の気色は、青々として、面白い事ではござらぬか。
▲シテ「何(いづ)れ、これを存じては、内にうかうかとして居やう事ではござらぬ。
▲アト「はあ。これは、まだ土筆(つくづくし)がござる。
▲シテ「誠に、大分、土筆がござる。
▲アト「それそれ、そこにある。踏ませらるゝな。
▲シテ「そなたの足元にもある。踏ませらるゝな。
▲アト「あゝ、あゝ。
{と云ふ。二人とも笑ふ。}
扨も扨も、夥(おびた)ゞしい土筆でござるわ。
▲シテ「ちと摘んで、宿元へのみやげに致しませうか。
▲アト「これは、一段と良うござらう。
▲シテ「さりながら、只摘むも、如何でござる。何ぞ、云ひ捨ての様な事を申して、摘みますまいか。
▲アト「これは、猶良うござらう。
▲シテ「まづ、案じて見させられい。
▲アト「心得ました。
▲シテ「何とでござらうぞ。
▲アト「されば、何とござらうぞ。
▲シテ「いや。かうもござらうか。
▲アト「早(はや)、出ましたか。
▲シテ「まづ、申して見ませう。
▲アト「何とでござる。
▲シテ「春の野に。
▲アト「春の野に。
▲シテ「土筆萎(しを)れてぐんなり。
▲アト「やあ。何がどうぢやと云はつしやる。
{シテ、「春の野に」、返して云ふなり。}
何ぢや。ぐんなり。
▲シテ「中々。
▲アト「ぐんなり、ぐんなり《笑》。
▲シテ「いや、なうなう。そなたは、いかう笑はつしやるが、ぐんなりといふ事は、歌の止めはない事ぢやと思はつしやるか。
▲アト「なんぼの歌の止めも聞いたが、ぐんなりといふ歌の止めは、今が聞き始めぢや。
{と云ひて、笑ふ。}
▲シテ「慈鎮和尚(じちんくわしやう)の歌に、我が恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風さはぐんなり、とあるわ。
▲アト「又、食(く)はした。
{と云ひて、笑ふ。}
▲シテ「あゝ、これこれ。身共の歌を笑はつしやるは、苦しうないが、そなたの分として、慈鎮和尚の歌を笑ふ事は、なりますまいぞや。
▲アト「いかないかな。慈鎮和尚の歌を、笑ひは致さぬ。そなたの吟じ様が、悪うござる。
▲シテ「何と、悪うござる。
▲アト「慈鎮和尚の歌は、我が恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風騒ぐなり。とこそあれ。どこにか、そなたの様に、ぐんなり、ぐんなり、ぐんなり。
{と云ひて、笑ふ。}
▲シテ「なうなうなう、そこな人。
▲アト「何事ぢや。
▲シテ「総じて人の身の上には、可笑しい事がなうて叶はぬ。そなたの身の上にも、これより可笑しい事がある程に、その様に笑うたものではをりない。
▲アト「いや。身共が身の上には、このぐんなり程、可笑しい事はない。ぐんなり、ぐんなり《笑》。
▲シテ「云うたらば、恥であらう。
▲アト「恥になる事は、持たぬ。あらば、仰(お)せあれ。
▲シテ「さらば、申さう。それ、いつぞや月の夜、川原に相撲があつたを、覚えておゐあるか。
▲アト「それが、こゝへ出(づ)る事か。
▲シテ「まづ、お聞きあれ。身共も見物に行(い)たれば、東の方(かた)から小男が出て、西の方(かた)を取り干(ほ)した。もはや、あの相撲に続く相撲はあるまいと、座中評判であつた。所へ、裸になつて、によろによろ出(づ)るを、誰ぞと思うたれば、おぬしではなかつたか。
▲アト「身共であつたが、それが何とした。
▲シテ「まづ、お聞きあれ。あれは慥かに何某(なにがし)ぢや、とてもあの相撲にはなるまいに、置かれいで、と思うて、相撲も立つ方(かた){*1}と、手に汗を握つて見物してゐたれば、案のごとく、かの小男は、手どりなり。やつ、と手合(てあひ)をすると否や、そなたの小腕(こがひな)をみじとゝらへ、きりきりきりと引き廻し、小股(さまた)に上げて、見えたか。と云うたれば、上げられてゐながら、まだ見えぬ。と仰(お)せあつた。所を引つぱづし、大地へ、ずでいどう、と打ちつけたれば《笑》、そなたは腰の骨を打ち折つたか、膝の皿をすりむいたか、ちんばを引き引き、蛙のぬたくる様に、方屋(かたや)の内へ、こゝ、ちと御免あれ、御免あれ。と云うて、お入りあつた顔を、今思ひ出せば。
{と云ひて、笑ふ。}
▲アト「あゝ、これこれ。総じて相撲は、勝つも習ひ、負くるも習ひぢや。その時、身共が相撲に負けたが、それ程可笑しいか。
▲シテ「それそれ。その様に腹をお立ちあるが、その時相撲に負けた顔に、その儘ぢや。
{と云ひて、笑ふ。}
▲アト「はあ。扨は、こゝへ出(づ)る事でもないを云ひ出すからは、身共と相撲が望みか。
▲シテ「いかないかな。相撲は望みでをりない。
▲アト「いや、望みさうな。一番参らう。
{と云ひて、手合(てあひ)をして、追ひ込み、入る。シテ、「望みない」と云ふ。アト、追ひ廻す。「許せ、許せ」と云ひて、逃げて入るなり。但し、シテ逃げる所を、手を取り引き廻し、打ちこかし入る。シテ、「相撲は一番では勝負が知れぬ。も一番取らう」と云ひて、追ひ込み入るもあり。}

校訂者注
 1:「相撲も立つ方」は、「相撲も上手な人」の意。

底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.

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歌争(ウタアラソイ)(二番目)

▲アト「此辺の者で御座る、今日は長閑に御座るに依て、野遊びに参らうと存ずる、又爰に心易う致人が御座る、是を誘うて参らうと存ずる、誠に、内に居らるればよう御座るが、余りそとへ出ぬ人で御座る程に、内に居られたらば、身共が申事ぢやに依て、大方お出被成るゝで有う、いや何彼と申内に是ぢや{ト云て案内乞シテ出るも如常}{*1}今日は野遊びに参らうと存ずるが、何とこなたにもお出被成れぬか▲シテ「幸ひ今日は隙{*2}でおりまする、成程御供致ませう▲アト「夫ならばいざお出なされい▲シテ「いやちとお目にかくる物が御座る▲アト「夫は何んで御座る▲シテ「先かうお通りなされい▲アト「心得ました▲シテ「ざらざらざら{ト云て扇をひろげ戸をあくるていする}{*3}はあ是は庭を作らせられたか▲シテ「此中庭を作りました▲アト「扨々綺麗な事で御座る▲シテ「何とお気に入りましたか▲アト「お物数寄、とかふ申された事では御座らぬ▲シテ「いや左様にも御座らぬ▲アト「あの向うの花壇に赤う芽を出したは何で御座る▲シテ「あれは芍薬で御座る▲アト「扨も心地よう芽を出しました、花の時分は嘸見事に御座らう▲シテ「おそらく見事で御座る▲アト「ちとお知らせなされ、見物に参りませう▲シテ「成程お知らせ申さう去乍、あの芍薬程の見事な花に、昔からなぜ歌には御座らぬの▲アト「いや歌に御座るぞや▲シテ「芍薬の歌は承りませぬ▲アト「夫応仁の歌に、難波津に芍薬の花冬籠り今は春べと芍薬の花、と御座る▲シテ「何がどうじやといはつしやる▲アト「いや応仁の歌に{を亦云也}▲シテ「何ぢや芍薬芍薬{ト云て笑ふ}▲アト「あゝ是々そなたの分として、応仁の歌を笑ふ事はなりますまいぞや▲シテ「いかないかな応仁の歌を笑ひは致さぬ、こなたの吟じ様がわるう御座る▲アト「何とわるう御座る▲シテ「応仁の歌は、難波津に咲や此花冬籠り、今は春べと咲や此花、とこそ御座れ芍薬芍薬{ト云て笑ふ}▲アト「あゝ是々身共は野遊びにこそ参れ歌争には参らぬぞや、最早かう行まする▲シテ「あゝ是々先またせられい、私もお供致ませう▲アト「はあ扨はこなたにもお出なさるゝか▲シテ「中々▲アト「夫ならばさあさあお出なされい▲シテ「心得ました、扨唯今は、お心易さの儘不図聊爾を申て御座る、必ず気にかけて下さるゝな▲アト「何が扨{*4}そなたと身共との間で、気にかくるの懸ぬのと申事は御座らぬ▲シテ「夫ならば安堵致て御座る▲アト「いや何彼と申内に野へ出ました▲シテ「誠に野へ出ました▲アト「何と春の野の気色は、青々として面白い事では御座らぬか▲シテ「何れ是を存じては、内にうかうかとして居やう事では御座らぬ▲アト「はあ是はまだ土筆が御座る▲シテ「誠に大分土筆が御座る▲アト「夫々そこにある、踏せらるゝな▲シテ「そなたの足許にもある、踏せらるゝな▲アト「あゝあゝ{ト云ふ二人とも笑ふ}{*5}扨も扨も夥しい土筆で御座るは▲シテ「ちとつんで宿元へのみやげに致ませうか▲アト「是は一段とよう御座らう▲シテ「乍去唯つむも如何で御座る、何ぞ云捨の様な事を申て摘ますまいか▲アト「是は猶よう御座らう▲シテ「先案じて見させられい▲アト「心得ました▲シテ「何とで御座らうぞ▲アト「されば何と御座らうぞ▲シテ「いやかうも御座らうか▲アト「早出ましたか▲シテ「先申て見ませう▲アト「何とで御座る▲シテ「春の野に▲アト「春の野に▲シテ「土筆しをれてぐんなり▲アト「やあ何がどうぢやといはつしやる{シテ春の野に返して云也}{*6}何ぢやぐんなり▲シテ「中々▲アト「ぐんなりぐんなり《笑》{*7}▲シテ「いやなうなうそなたは、いかう笑はつしやるが、ぐんなりといふ事は歌のとめはない事ぢやと思はつしやるか▲アト「なんぼの歌のとめもきいたが、ぐんなりといふ歌のとめは今がきゝ始めぢや{ト云て笑ふ}▲シテ「慈鎮和尚の歌に、我恋は松を時雨の染かねて真葛が原に風さはぐんなり、とあるは▲アト「又くはした{ト云てわらふ}▲シテ「あゝ是々身共の歌をわらはつしやるは苦敷うないが、そなたの分として慈鎮和尚の歌を笑ふ事はなりますまいぞや▲アト「いかないかな慈鎮和尚の歌を笑ひは致さぬ、そなたの吟じ様がわるう御座る▲シテ「何とわるう御座る▲アト「慈鎮和尚の歌は、我恋は松を時雨のそめかねて真葛が原に風さはぐなり、とこそあれ、どこにかそなたの様にぐんなりぐんなりぐんなり{ト云て笑ふ}▲シテ「なうなうなうそこな人▲アト「何事ぢや▲シテ「総じて人の身の上にはおかしい事がなうて叶はぬ、そなたの身の上にも是よりおかしい事が有程に、其様に笑うた者ではおりない▲アト「いや身共が身の上には、此ぐんなり程おかしい事はない、ぐんなりぐんなり《笑》{*8}▲シテ「いふたらばはぢであらう▲アト「はぢに成事はもたぬ、あらばおせあれ▲シテ「さらば申さう、それいつぞや、月の夜川原に相撲があつたを覚えておゐあるか、▲アト「夫が爰へ出る事か▲シテ「先おきゝあれ、身共も見物にいたれば、東の方から小男が出て西の方を取ほした、最早あの相撲に続相撲は有まいと、座中評判であつた、所へはだかになつてによろによろづるを、誰ぞと思うたれば、おぬしではなかつたか▲アト「身共であつたが夫が何とした▲シテ「先おきゝあれ、あれは慥に何某ぢや、迚もあの相撲にはなるまいに、おかれいでと思うて、相撲もたつ方と手に汗をにぎつて見物してゐたれば、案のごとく、彼小男はてどりなりやつと手合をするといなや、そなたの小がひなをみじととらへ、きりきりきりと引まわし、さまたに上て、見えたかといふたれば、上られてゐながらまだ見えぬとおせあつた、所を引はづし、大地へずでい、どうと打つけたれば《笑》{*9}、そなたは腰の骨を打折つたか、ひざの皿をすりむいたか、ちんばをひきひき、蛙のぬたくる様に、方やの内へ、爰ちと御免あれ、御免あれ、というておはいりあつた顔を今思ひ出せば{ト云て笑ふ}▲アト「あゝ是々、総じて相撲は勝もならひまくるも習ひぢや、其時身共が相撲にまけたが、夫程おかしいか▲シテ「夫々、其様に腹をお立あるが、其時相撲にまけた顔に其儘ぢや{ト云て笑ふ}▲アト「はあ扨は爰へ出る事でもないを云出すからは、身共と相撲が望か▲シテ「いかないかな相撲は望でおりない▲アト「いや望さうな一番参らう{ト云て手合をして追込入るシテ望ないと云アト追廻すゆるせゆるせと云てにげて入るなり但しシテにげる所を手をとり引まわし打こかし入るシテ角力は一番では勝負がしれぬも一番とらうと云て追込入るも有{*10}}

校訂者注
 1:底本は、「▲アト「今日は野遊びに」。
 2:底本は、「障(ひま)」。
 3:底本は、「▲アト「はあ是は庭を作らせせれたか」。
 4:底本は、「何か扨」。
 5:底本は、「▲アト「扨も扨も夥しい」。
 6:底本は、「▲アト「何ぢやぐんなり」。
 7・8:底本は、「ぐんなり(二字以上の繰り返し記号)(笑)」。
 9:底本は、「打つけたれば(笑ふ)」。
 10:底本は、「も一番とらうと云追て込入るも有」。