飛越(とびこえ)(二番目)

▲アト「この辺りの者でござる。今日(こんにち)は、さる方へ茶の湯に参る。さりながら、某(それがし)は、茶の湯はつゝと不調法にござる。又こゝに、心安う致す新発意がござる。これを頼うで参り、身共の恥を隠して貰はうと存ずる。誠に、内に居れば、良うござるが。内にさへ居られたらば、某の申す事ぢやによつて、定めて来てくるゝでござらう。何かと云ふ内に、これぢや。
{と云ひて、案内乞ふ。出るも常の如し。}
今日(こんにち)は、さる方へ茶の湯に参る。お知りある通り、身共は、茶の湯は不調法なによつて、そなたを同道して、某の恥を隠して貰はうと思うて参つたが、何と、来ておくれあるまいか。
▲シテ「幸ひ今日は、隙(ひま)でをりまするによつて、随分参りませうが、何と、私が参つても、苦しうない所でござるか。
▲アト「いや。先からも念がいつて、心安い衆を一両人、同道して来る様にとの事ぢや。どうぞ、来ておくれあれ。
▲シテ「その様な事ならば、参りませう。
▲アト「それは、近頃過分な。さあさあ、おりあれ。
▲シテ「心得ました。
▲アト「扨、身共も、ちと茶の湯を稽古致したいが、何と、難しいものでおりあるか。
▲シテ「中々。難しいものでござる。あの湯のたぎりまするにも、色々の名がござる。まづ、蚯々(きうぎう)・車声(しやせい)・遠浪(ゑんらう)・不音(ぶいん)と申す事がござるが、御存じでござるか。
▲アト「その様な事は、かつて存ぜぬ。
▲シテ「まづ、蚯々(きうぎう)とは、みゝずの啼くやうに、湯がたぎりまする。又、車声(しやせい)とは、車の輪の音の様に、ごろごろと湯がたぎります。遠浪(ゑんらう)とは、遠い浪の音の様に、さつさつと聞こえまする。不音(ぶいん)とは、音のしづまる事を申しまする。まづ、この様な事から御稽古なされたが、良うござる。
▲アト「扨々、難しいものでおりある。この後は、せつせつ参らう程に、ちと指南をしておくれあれ。
▲シテ「成程、この後は、せつせつ御出なされませ。御指南を致しませう。
▲アト「それは過分な。
▲シテ「わあ。これは、大きな川へ出ました。
▲アト「扨々、わごりよは、ものを仰山に云ふ人ぢや。これは、飛び越えぢや。さあさあ、飛ばしめ。
▲シテ「この大きな川が、何と、飛ばるゝものでござる。
▲アト「これ程の所が、飛ばれぬといふ事があるものか。身共は飛ぶぞ。
{と云ひて、アト、脇座へ飛ぶ。}
▲シテ「ほう。こなたは、はや飛ばせられたか。
▲アト「飛ばいでならうか。早うお飛びあれ。
▲シテ「何(いづ)れこなたが、心安う飛ばせられた所を見ては、飛べさうなものでござる。それならば、飛んで見ませうぞ。
▲アト「早うお飛びあれ。
{と云ひて、飛ぶ・飛びかねる所、いろいろ心持ち・仕様あり。}
▲シテ「どうも、飛べませぬ。
▲アト「さてさて、臆病な人ぢや。思ひ切つて、お飛びあれ。
▲シテ「それならば、走りかゝつて、きほひ飛びに飛んで見ませう。
▲アト「一段と良からう。
{と云ひて、橋がゝりより走り飛ぶ心持ちあるべし。アト、咳払ひする。}
▲シテ「今、既に飛ぶ所であつたに。こなたが咳払ひをさせられたによつて、え飛びませなんだ。
▲アト「今のは、ふと申した。気にかけずとも、お飛びあれ。
▲シテ「この、目と申すものが臆病なもので、あの水の青い所を見ては、恐ろしうて、どうも飛ばれませぬ。今度は、目をふさいで飛びませう。
▲アト「それが良からう。
▲シテ「まづ、目をきつとふさいで、さあ、飛びまするぞや。
{と云ひて、走り飛ぶ所を、}
▲アト「おゝ、危ない危ない。
▲シテ「あれあれ。飛ばうとすれば、何のかのと云うて、嚇(おど)させらるゝ。私が参らうと云うたではなし。こなたが来てくれいと仰せられたによつて、参つた。身共はもはや、往(い)にまするぞ。
▲アト「あゝ、これこれ。折角こゝまで来て、往(い)ぬるといふ事があるものか。
▲シテ「こなたは又、飛ばつしやれたか。
▲アト「又飛んだかと云ふ事があるものか。これは、女童(をんなわらんべ)でも飛ぶ、飛び越えぢや。さあさあ、早うお飛びあれ。
▲シテ「私はどうも、え飛びませぬ。
▲アト「扨々、気の毒な事ぢや。先へも遅うなる。何としたものであらうぞ。いや。それならば、そなたと身共と手を引き合うて、飛ばうか。
▲シテ「何(いづ)れ、こなたの身の軽いと、私が身の重いと、手を引き合うて飛んだらば、飛ばれそうなものでござる。
▲アト「どれどれ。それならば、手をおこさしめ。
▲シテ「心得ました。
▲アト「扨、さあさあと三つ声をかけて、三つめの声で飛ばう。
▲シテ「良うござらう。
▲アト「良いか。
▲シテ「良うござる。
{と云ひて、二人手を引き合ひ、「さあさあ」と三つ云ひて飛ぶ。その時、シテ、はまる。アトは向うへ飛び、笑ふ。}
なうなうなう、そこな人。
▲アト「何事ぢや。
▲シテ「やあら、こなたは聞こえぬ人ぢや。身共が川へはまつたらば、あら笑止やと云うて、ともどもに袖をも絞つてくれうそなたが、身共が川へはまつたが、それ程可笑しいか。
▲アト「可笑しいか、可笑しうないか。その儘の、濡れ鼠ぢや。
{と云ひて、笑ふ。}
▲シテ「なうなうなう、そこな人。
▲アト「何ぢや。
▲シテ「総じて人の身の上には、可笑しい事がなうて叶はぬ。そなたの身の上にも、まだこれより可笑しい事がある程に、その様に笑うたものではおりない。
▲アト「いや。も、身共が身の上には、この濡れ鼠程、可笑しい事はない。
{と云ひて、笑ふ。これより後、「歌争」の通りなり。言葉・仕様、少しも違はず。相撲をとらうと云ひて、追ひ廻す。シテ逃げるを追ひ込みて、入るなり。}

底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.

前頁  目次  次頁

飛越(トビコエ)(二番目)

▲アト「此辺りの者で御座る、今日は去方へ茶の湯に参る、乍去、某は茶の湯はつゝと不調法に御座る、又爰に心易う致す新発意が御座る、是を頼うで参り、身共の恥を隠して貰はうと存る、誠に内に居ればよう御座るが、内にさへいられたらば、某の申事ぢやに依て、定て来てくるゝで御座らう、何かと云内に是ぢや{ト云て案内乞出るも如常}{*1}今日は去方へ、茶の湯に参る、お知りある通り、身共は茶の湯は不調法なに依つて、そなたを同道して、某の恥を隠して貰はうと思うて参つたが、何んと来ておくれあるまいか▲シテ「幸ひ今日は、隙でおりまするに依つて、ずゐぶん参りませうが、何と私が参つても、苦敷うない所で御座るか▲アト「いや先からも念がいつて、心易い衆を一両人、同道して来る様にとの事ぢや、どうぞ来ておくれあれ▲シテ「其様な事ならば参りませう▲アト「夫は近頃過分な、さあさあおりあれ▲シテ「心得ました、▲アト「扨身共も、ちと茶の湯を稽古致たいが、何とむつかしい者でおりあるか▲シテ「中々六ケ敷者で御座る、あの湯のたぎりまするにも、種々の名が御座る、先蚯々、車声、遠浪、不音と申事が御座るが、御存で御座るか▲アト「其様な事は曽て存ぜぬ▲シテ「先きうぎうとは、みゝずの啼くやうに、湯がたぎりまする、又しやせいとは、車の輪の音の様に、ごろごろと湯がたぎります、ゑんろうとは遠い浪の音の様に、さつさつときこえまする、不音とは、音のしづまる事を申まする、先此様な事から、御稽古なされたがよう御座る▲アト「扨々六ケ敷者でおりある、此後はせつせつ参らう程に、ちと指南をしておくれあれ▲シテ「成程此後は、せつせつお出なされませ、御指南を致ませう▲アト「夫は過分な▲シテ「わあ是は大きな川へ出ました▲アト「扨々わごりよは物をげうさんにいふ人ぢや、是は飛越ぢや、さあさあとばしめ、▲シテ「此大きな川が、何ととばるゝ者で御座る▲アト「是程の所が、とばれぬといふ事がある者か、身共はとぶぞ{ト云てアト{*2}わき座へ飛}▲シテ「ほうこなたははや飛せられたか▲アト「とばいでならうか、早うお飛あれ▲シテ「何れこなたが、心易う飛せられた所を見ては、とべさうな者で御座る、それならば飛んで見ませうぞ▲アト「早うお飛あれ{ト云てとぶ飛かねる所いろいろ心持仕様あり}▲シテ「どうもとべませぬ▲アト「さてさておく病な人ぢや、思ひきつてお飛びあれ▲シテ「夫ならば走りかゝつて、きほひ飛に飛んで見ませう▲アト「一段とよからう{ト云て橋がゝりより走り飛心持あるべしアトせきばらいする}▲シテ「今既に飛所であつたに、こなたがせきはらいをさせられたに依て、得飛ませなんだ▲アト「今のは不図申た気にかけず共お飛あれ▲シテ「此目と申者がおく病な者で、あの水の青い所を見ては、おそろしうてどうも飛れませぬ今度は目をふさいで飛ませう▲アト「夫がよからう▲シテ「先目をきつとふさいで、さあ飛まするぞや{ト云て走りとぶ所を}▲アト「おゝあぶないあぶない▲シテ「あれあれ飛ばうとすれば、何のかのというておどさせらるゝ、私が参らうというたではなし、こなたが来てくれいと仰せられたに依つて参つた、身共は最早いにまするぞ▲アト「あゝこれこれ、折角爰まで来ていぬるといふ事がある者か▲シテ「こなたは又とばつしやれたか▲アト「又飛んだかといふ事が有者か、是は女わらんべでも飛ぶ飛び越ぢや、さあさあ早うお飛あれ▲シテ「私はどうも得飛ませぬ▲アト「扨々気毒な事ぢや、先へもおそうなる、何とした者であらうぞ、いや夫ならば、そなたと身共と、手を引合ふて飛ばうか▲シテ「何れこなたの身の軽いと、私が身のおもいと、手を引合ふて飛んだらば、とばれそうな者で御座る▲アト「どれどれ夫ならば手をおこさしめ▲シテ「心得ました▲アト「扨さあさあと三つ声をかけて、三つめの声で飛う▲シテ「よう御座らう▲アト「よいか▲シテ「よう御座る{ト云て二人手を引合さあさあと三つ云て飛其時シテはまるアトは向へ飛笑ふ}{*3}なうなうなうそこな人▲アト「何事ぢや▲シテ「やあらこなたはきこえぬ人ぢや、身共が川へはまつたらば、あら笑止やというて、ともともに袖をも、しぼつて呉うそなたが、身共が川へはまつたが、夫程おかしいか▲アト「おかしいかおかしうないか、其儘のぬれ鼠ぢや{ト云て笑ふ}▲シテ「なうなうなうそこな人▲アト「何ぢや▲シテ「総じて人の身の上には、おかしい事がなうて叶はぬ、そなたの身の上にも、まだ是よりおかしい事がある程に、其様に笑うた者ではおりない▲アト「いやも身共が身の上には、此ぬれ鼠程おかしい事はない{ト云て笑ふ是より後歌争の通り也言葉仕様少しも違はず相撲をとらうと云て追廻すシテにげるを追込ているなり}

校訂者注
 1:底本は、「▲アト「今日は去方へ」。
 2:底本は、「アド」。
 3:底本は、「▲シテ「なう(二字以上の繰り返し記号二つ)そこな人」。