薩摩守(さつまのかみ)(二番目)
▲シテ「はるか遠国(をんごく)の坊主でござる。某(それがし)、いまだ住吉天王寺へ参詣致さぬ。この度思ひ立ち、住吉天王寺へ参らうと存ずる。誠に、若い時旅を致さねば、老いての物語がないと申すによつて、ふと思ひ立つた事でござる。いや、けさ、斎(とき)の儘なれば、いかう喉(のど)が渇く。湯なりとも茶なりとも、飲みたいものぢやが。
▲アト「なうなう、御坊。茶を参らぬか。
▲シテ「只今も、ひとりごとに申してござる。成程、一つたべませう。
▲アト「まづ、下にござれ。扨、御坊は旅出立(たびでたち)と見えたが、どれからどれへお行きある。
▲シテ「愚僧は、坂東方の者でござるが、住吉天王寺へ参詣致す事でござる。
▲アト「扨々、それは奇特な事でござるなう。
▲シテ「若い時旅をせねば、老いての物語がないと申すによつて、それ故思ひ立つた事でござる。
▲アト「誰しもさうは思へども、その様にはならぬものでおりやる。さあ参れ。
{と云ひて、茶を出す。シテ、飲みて、}
▲シテ「これは、余りぬるうござる。
▲アト「良い加減にして進ぜう。これこれ。
▲シテ「これは、良い加減でござる。
▲アト「も一つ参らぬか。
▲シテ「いや。もう、たべますまい。
▲アト「それならば、仕舞ひませう。
▲シテ「茶屋殿、過分にござる。
▲アト「あゝ、これこれ。代りも置かずに、どれへお行きやる。
▲シテ「代りとは。
▲アト「茶代りを置いて行かしめ。
▲シテ「はあ。今の茶には、代りがいりますか。
▲アト「これはいかな事。街道にゐる茶屋の茶を飲うで、代りのいらぬといふ事があるものか。
▲シテ「それならば、飲みますまいものを。
▲アト「それは、どうした事でおりやる。
▲シテ「恥づかしい事でござるが、代りというては、一銭も持ちませぬ。
▲アト「そなたは最前、住吉天王寺へ参るとは、仰(お)せあらぬか。
▲シテ「成程、その通りでござる。
▲アト「このあなたに、神崎の渡しというて、大事の渡しがある。これは、船中で船賃(せんちん)を取らねば渡さぬが、御坊は、何と召さるゝ。
▲シテ「何と仰せらるゝ。このあなたに、神崎の渡しと申してござるが、これは、船中で船賃を取らねば渡さぬ、と仰せらるゝか。
▲アト「中々。
▲シテ「それなら、是非に及びませぬ。あれへ参つて拝うだも、これから拝うだも、同じ事でござる。これから拝うで、下向致しませう。
{と云ひて、向うへ出て、下に居て拝む。}
▲アト「これはいかな事。茶代りのないが、定(ぢやう)さうな。許してやらうと存ずる。いや、なうなう。御坊は、茶代りのないが、定さうな。茶代りを許し、船賃をもおませうぞ。
▲シテ「それは、忝うござる。これへ下され。
▲アト「いやいや。その様に、笠の内へ入るゝ物ではない。神崎の渡し守は、秀句好きぢやによつて、船に只乗る秀句を教へてやらうといふ事ぢや。
▲シテ「それは、忝うござる。教へて下され。
▲アト「まづ、あれへお行きあつて、船に乗らう、と仰(お)せあれ。一人や二人は乗せぬ、と云うであらう。道者数多(あまた)ある、と云うて、謀(たばか)つて船に乗つたが良い。扨、船中で、船賃をおこせ、と云はゞ、平家の公達、と仰(お)せあれ。心は、と問はゞ、薩摩守。又、心は、と問はゞ、忠則、と仰(お)せあれ。これには仔細がある。昔、平家の公達に、薩摩守といふ人があつた。その名乗りを忠則と云うた。今、そなたがあれへ行(い)て、船に只乗ると、古(いにし)への薩摩守の名乗りを寄せ合(あは)せて、忠則と云うたは、何と面白うはないか。
▲シテ「これは、面白うござる。
▲アト「さうさへ仰(お)せあれば、船頭が悦うで、船に只乗(の)する事でおりやる。
▲シテ「やれやれ。忝うこそござれ。下向道には参つて、きつと御礼を申しませう。
▲アト「必ず、それを待つ事でおりやる。
▲シテ「も、かう参る。
▲アト「何と、お行きあるか。
▲シテ「中々。
▲アト「良うおりやつた。
▲シテ「はあ。なうなう、嬉しや嬉しや。まづ、急いで参らう。誠に、旅は道連れ世は情(なさけ)と申すが、茶代りを許すのみならず、船に只乗る秀句まで、教へてくれられた。茶屋の蔭で、ざつと住吉天王寺へ参るといふものぢや。わあ。これに大きな川がある。これは定めて、茶屋の仰(お)せあつた川であらう。幸ひ、あれに舟が見ゆる。ほをい、舟に乗らうやい。
{小アト、しかじかの内に立ち、「神崎の渡し守でござる」と名乗りて、脇座に居る。その内、シテより呼ぶ。但し、今は名乗らぬ事あり。}
▲小アト「をゝい。此所(こゝ)は大事の渡しぢやによつて、一人や二人は乗せぬわいやい。
▲シテ「道者数多(あまた)あるわいやい。
▲小アト「何ぢや。道者数多ある。
▲シテ「中々。
▲小アト「それをけさから待つてゐた。さらば、舟を寄せて、乗せうぞ。ゑいゑい。道者数多あると仰(お)せあつたが、そなた一人か。
▲シテ「道者数多あれども、身共は、先に宿を取りに行く者ぢや。どうぞ、乗せておくりやれ。
▲小アト「これは尤ぢや。それならば、さあさあ乗らしませ。
▲シテ「心得た。
{と云ひて、乗る。ぐれ付く心にて、}
あゝ、船頭。舟が返る。
▲小アト「こゝな者が、云ひ出した事は。
{と云ひて、突き出す。}
▲シテ「申し、船頭殿。申し申し、船頭殿。
▲小アト「かしましい。何ぢやぞいやい。
▲シテ「舟の中で、今の様な事は、云はぬものでござるか。
▲小アト「どこにか、舟の中で今の様な事を、云ふものでおりやるか。
▲シテ「私は船中、不案内でござる。その上、出家の事でござる。どうぞ、堪忍をして、乗せて下されい。
▲小アト「乗せまいと思へども、云ひ分が良い。了簡して、乗せてやらう。さあさあ、お乗りあれ。
▲シテ「舟を、じつと止めてゐて下され。
{と云ひて、飛び乗る。}
▲小アト「心得た。こりや、最前の麁相と違うて、いかう乗り振りが上がつておりやる。
▲シテ「さうもおりない。
▲小アト「さらば、舟を出すぞ。
▲シテ「一段と良うござらう。
▲小アト「ゑいゑい。扨、御坊は旅出立と見ゆるが、どれからどれへお行きある。
▲シテ「坂東方の坊主でござる。この度、住吉天王寺へ参る事でござる。
▲小アト「扨々、若いに、奇特な事ぢやなう。
▲シテ「若い時旅をせねば、老いての物語がないと申すによつて、思ひ立つた事でござる。
▲小アト「誰しもさう思へども、その様にはならぬものでおりやる。扨、聞きも及ばれう。此処(こゝ)は大事の渡しぢやによつて、船中で船賃を取らねば渡さぬが、定めて御坊にも、船賃をお持ちあつてあらう。
▲シテ「船賃を持たいで、舟に乗るものでおりやるか。
▲小アト「これは、身共が誤つた。扨、いつもこの辺(ほと)りで取る。船賃をお出しあれ。
▲シテ「やらうとも。
▲小アト「いや。いつも、この辺りで取る作法ぢや。さあさあ、出さしませ。
▲シテ「はて、やらうぞいの。
▲小アト「いや、こゝな者が。やらうぞいの、やらうぞいのと。やりもやらうず、とりもとらうず。いつも、この辺りで取るによつて、お出しあれ、といふ事ぢや。
▲シテ「船賃は、物ぢや。
▲小アト「物とは。
▲シテ「平家の公達。
▲小アト「何ぢや。平家の公達。
▲シテ「中々。
▲小アト「これはいかな事。船賃をお出しあれと云へば、平家の公達。これは、かつて合点が行かぬ。
▲シテ「神崎の渡し守が、これ程の事の、合点の行かぬと云ふ事はあるまい。
▲小アト「何ぢや。神崎の渡し守が、これ程の事の、合点の行かぬといふ事はあるまい。
▲シテ「中々。
▲小アト「何とやら仰(お)せあつたなう。
▲シテ「平家の公達。
▲小アト「おゝ。平家の公達、平家の公達。はあ。これはもし、秀句ではないか。
▲シテ「まづ、その様なものでもあらうかぢやまで。
▲小アト「あらうかぢやまで《笑》。扨は、御坊は秀句を云ふか。
▲シテ「おんでもない事。
▲小アト「扨々、面白い人を乗せ合(あは)せた。さりながら、不審がある。神崎の渡し守が秀句に好くといふ事を、何としてお知りあつた。
▲シテ「神崎の渡し守が秀句好くといふ事は、東(あづま)の果てまで隠れがない。
▲小アト「それは誠か。
{常の如く、詰めて、小アト笑ふ。}
扨も扨も、世には口のまめな者がある。身共が事でなくとも、外に話も多からうに、神崎の渡し守が秀句に好くといふ事を、東の果てまで持つて行(い)て、云ふよなう。壁に耳ぢや《笑》。何とやら、仰(お)せあつたなう。
▲シテ「平家の公達。
▲小アト「定めてこれには、心があらう。
▲シテ「おゝ。心があるとも。
▲小アト「その心が聞きたいの。
▲シテ「今の心は、薩摩守。
▲小アト「又、食はえた。
{と云ひて、笑ふ。}
扨々、面白い人を乗せ合(あは)せた。あの、向うに見ゆる葛家(くづや)は、身共が所ぢや。舟が着いたならば、身共が処へ連れて行(い)て、五日(ごにち)も十日(じふにち)も逗留させて、住吉天王寺へも、身共が案内しやして拝ませうぞ。
▲シテ「成程、舟が着いたらば、そなたの所へ上がつて、五日も十日も逗留して、夜もすがら、秀句を云うて遊ばうぞ。
▲小アト「それは、腹が立たうぞ《笑》。今のは、何とやら仰(お)せあつたの。
▲シテ「薩摩守。
▲小アト「成程、薩摩守。これにも、心があらう。
▲シテ「おゝ。あるとも。
▲小アト「さあさあ。早うその心が聞きたい。
▲シテ「いや。この心は、大事の心ぢやによつて、向うへ船が着かねば、云ふ事はならぬ。
▲小アト「それならば、早う船を着けて、心を聞かうぞ。ゑいゑい。そりやそりや、船が着くぞ。
▲シテ「誠に、舟が着くぞ。
▲小アト「それ、着いた。さあさあ、上がらしませ。
▲シテ「心得た。船頭殿、過分にござる。
▲小アト「あゝ、これこれ。今の心も云はずに、それへお行きある。
▲シテ「今の心は、下向道に申さう。
▲小アト「これはいかな事。船の着く間(ま)さへ、待ちかねた。下向道まで、何と待たるゝものぢや。さあさあ、早う仰(お)せあれ。
▲シテ「今の心は、茶屋が何とやら仰(お)せあつたが。
▲小アト「これはいかな事。今の心に、何の茶屋がいるものぢや。早う仰(お)せあれ。
▲シテ「今の心は、平家の公達。
▲小アト「されば、平家の公達の心が薩摩守。その薩摩守の心を仰(お)せあれ、といふ事ぢや。
▲シテ「はて。薩摩守の心は、薩摩守。
▲小アト「言語道断。こゝな者は、身共をなぶると見えた。その心を云はねば、どちへもやらぬぞ。
▲シテ「それは誠か。
{常の如く、詰める。}
いや。今、思ひ出した。物。
{常の如く、詰める。}
青のりの引きぼし。
▲小アト「何のやくたいもない。とつとゝお行きあれ。
▲シテ「面目もおりない。
{と云ひて、留めて入るなり。}
底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.)
薩摩守(サツマノカミ)(二番目)
▲シテ「はるか遠国の坊主で御座る、某いまだ住吉天王寺へ参詣致さぬ、此度思ひ立ち住吉天王寺へ参らうと存ずる、誠に若い時旅を致さねば、老ての物語がないと申すに依つて、ふと思ひ立つた事で御座る、いや、けさ斎の儘なればいかうのどがかはく、湯なりとも茶なりとも呑みたいものぢやが▲アト「なうなう御坊、茶を参らぬか▲シテ「唯今もひとりごとに申して御座る、成程一つたべませう▲アト「先下に御座れ、扨御坊は旅出立とみへたが、どれからどれへお行きある▲シテ「愚僧は坂東方の者で御座るが、住吉天王寺へ参詣致す事で御座る▲アト「扨々夫はきとくな事で御座るのう▲シテ「若い時旅をせねば、老ての物語がないと申すに依つて、夫故思ひ立つた事で御座る▲アト「誰しもさうは思へども、其様にはならぬものでおりやる、さあ参れ{と云ひて茶を出すシテのみて}▲シテ「是は余りぬるう御座る▲アト「よいかげんにして進ぜう{*1}、是々▲シテ「是はよいかげんで御座る▲アト「も一つ参らぬか▲シテ「いやまうたべますまい▲アト「夫ならば仕舞ませう▲シテ「茶や殿過分に御座る▲アト「あゝ是々、代りもおかずにどれへおゆきやる▲シテ「かはりとは▲アト「茶がはりを置てゆかしめ▲シテ「はあ今の茶には代りがいりますか▲アト「是はいかな事、街道にゐる茶屋の茶を呑うで、かはりのいらぬと云ふ事があるものか▲シテ「夫ならば呑ますまいものを▲アト「夫はどうした事でおりやる▲シテ「恥しい事で御座るが、代りと云ふては一銭も持ませぬ▲アト「そなたは最前住吉天王寺へ参るとはおせあらぬか▲シテ「成程其通りで御座る▲アト「此あなたに神崎の渡しといふて、大事の渡しがある、是は船中で船賃を取らねば渡さぬが、御坊は何とめさるゝ▲シテ「何と仰せらるゝ、此あなたに神崎の渡しと申して御座るが、是は船中で船賃をとらねば、渡さぬと仰せらるゝか▲アト「中々▲シテ「夫なら是非に及びませぬ、あれへ参つておがうだも、是からおがうだも同じ事で御座る、是からおがうで下向致しませう{と云ひて向へ出て下にゐて拝む}▲アト「是はいかな事茶がはりのないが定{*2}さうな、ゆるしてやらうと存ずる、いやなうなう、御坊は茶代りのないが定{*3}さうな、茶代りをゆるし船賃をもおませうぞ▲シテ「夫は忝う御座る、是へ下され▲アト「いやいや其様に笠の内へいるゝ物ではない、神崎の渡守は秀句すきぢやに依つて、船にたゞ乗る秀句をおしへてやらうといふ事ぢや▲シテ「夫は忝う御座る、おしへて下され▲アト「先あれへお行きあつて、船にのらうとおせあれ、一人や二人はのせぬと云ふであらう、道者数多あるといふて、たばかつて船にのつたがよい、扨船中で船賃をおこせと云はゞ、平家の公達とおせあれ、心はと問はゞ薩摩守、又心はと問はゞ忠則とおせあれ、是には仔細がある、昔平家の公達に薩摩守といふ人があつた、其名のりを忠則と云ふた、今そなたがあれへいて船に唯乗ると、古への薩摩守の名乗をよせ合せて、忠則といふたは何と面白うはないか▲シテ「是は面白う御座る▲アト「さうさへおせあれば、船頭が悦うで、船に唯のする事でおりやる▲シテ「やれやれ忝うこそ御座れ、下向道には参つて、きつと御礼を申しませう▲アト「かならず夫を待事でおりやる▲シテ「もかう参る▲アト「何とお行きあるか▲シテ「中々▲アト「ようおりやつた▲シテ「ハア、なうなう嬉しや嬉しや、先急いで参らう、誠に旅は道づれ世は情と申すが、茶がはりをゆるすのみならず、船に唯のる秀句まで教へてくれられた、茶屋の影でざつと住吉天王寺へ、参るといふ者ぢや、わあ、是に大きな川がある、是は定めて茶屋のおせあつた川であらう、幸ひあれに船が見ゆる、ホヲイ舟にのらうやい{小アトしかじかの内に立ち神崎の渡し守で{*4}御座ると名のりて脇座にいる其内シテよりよぶ但今は名乗らぬ事有}▲小アト「ヲゝイ、此所は大事の渡しぢやに依つて、一人や二人はのせぬわいやい▲シテ「道者数多あるわいやい▲小アト「何ぢや道者数多ある▲シテ「中々▲小アト「夫をけさから待つてゐた、さらば舟をよせてのせうぞ、ゑいゑい、道者数多あるとおせあつたが、そなた一人か▲シテ「道者数多あれども、身共は先に宿を取りに行く者ぢや、どうぞのせておくりやれ▲小アト「是は尤ぢや、夫ならばさあさあのらしませ▲シテ「心得た{と云ひてのるグレ付心にて}あゝ船頭{*5}、舟がかへる▲小アト「爰な者がいゝ出した事は{と云ひてつき出す}▲シテ「申し船頭殿、申し申し船頭殿▲小アト「かしましい何ぢやぞいやい▲シテ「舟の中で、今の様な事は云はぬもので御座るか▲小アト「どこにか舟の中で、今の様な事をいふものでおりやるか▲シテ「私は船中不案内で御座る、其上出家の事で御座る、どうぞ堪忍をしてのせて下されイ▲小アト「のせまいと思へどもいひ分がよい、了簡して乗せてやらう、さあさあおのりあれ▲シテ「舟をじつと留て居て下され{と云ひてとびのる}▲小アト「心得た、こりや最前の麁相と違ふて、いかう乗振が上つておりやる▲シテ「さうもおりない▲小アト「さらば船を出すぞ▲シテ「一段とよう御座らう▲小アト「ゑいゑい扨御坊は旅出立と見ゆるが、どれからどれへお行きある▲シテ「坂東方の坊主で御座る、此度住吉天王寺へ参る事で御座る▲アト「扨々若いに奇特な事ぢやのう▲シテ「若い時旅をせねば、老いての物語がないと申すに依つて、思ひ立つた事で御座る▲小アト「誰しもさう思へども、其様にはならぬものでおりやる、扨きゝも及ばれう、此処は大事の渡しぢやに依つて、船中で船賃を取らねば渡さぬが、定めて御坊にも、船賃をお持ちあつて有らう▲シテ「船賃を持たいで、船に乗る者でおりやるか▲小アト「是は身共があやまつた、扨いつも此辺りでとる、船賃をお出しあれ▲シテ「やらう共▲小アト「いやいつも此辺りでとる作法ぢや、さあさあ出さしませ▲シテ「はてやらうぞいの▲小アト「いや爰な者がやらうぞいのやらうぞいのと、やりもやらうずとりもとらうず、いつも此辺りで取るに依つて、お出しあれと云ふ事ぢや▲シテ「船賃は物ぢや▲小アト「物とは▲シテ「平家の公達▲小アト「何ぢや平家の公達▲シテ「中々▲小アト「是はいかな事、船賃をお出しあれといへば平家の公達、是はかつて合点が行かぬ▲シテ「神崎の渡し守が、是程の事の、合点のゆかぬと云ふ事はあるまい▲小アト「何ぢや神崎の渡守が、是程の事の合点の行かぬといふ事はあるまい▲シテ「中々▲小アト「何とやらおせあつたのを▲シテ「平家の公達▲小アト「おゝ平家の公達平家の公達、はあ是はもし、秀句ではないか▲シテ「先其様な者でも有らうかぢやまで▲小アト「あらうかぢやまで《笑》{*6}、扨は御坊は秀句をいふか▲シテ「おんでもない事▲小アト「扨々面白い人を乗せ合せた、去ながら不審がある、神崎の渡守が、秀句にすくといふ事を、何としてお知りあつた▲シテ「神崎の渡守が、秀句すくと云ふ事は、東の果までかくれがない▲小アト「夫は誠か{如常つめて小アト笑ふ}{*7}扨も扨も世には口のまめな者がある、身共が事でなくとも、外にはなしもおほからうに、神崎の渡守が秀句にすくといふ事を、東の果まで持つていていふよのう、壁に耳ぢや《笑》{*8}、何とやらおせあつたのう▲シテ「平家の公達▲小アト「定めて是には心があらう▲シテ「おゝ心がある共▲小アト「其心が聞きたいの▲シテ「今の心は薩摩守▲小アト「又くはえた{と云て笑ふ}扨々面白い人を乗せ合せた、あの向うに見ゆるくづ屋は、身共が所ぢや、舟がついたならば、身共が処へつれていて、五日も十日も逗留させて、住吉天王寺へも、身共が案内しやして拝ませうぞ▲シテ「成程舟がついたらば、そなたの所へ上つて、五日も十日も逗留して、夜もすがら秀句をいふて遊ばうぞ▲小アト「夫は腹が立たうぞ《笑》{*9}、今のは何とやらおせあつたの▲シテ「薩摩守▲小アト「成程薩摩守、是にも心があらう▲シテ「おゝある共▲小アト「さあさあ早う其心が聞きたい▲シテ「いや此心は大事の心ぢやに依つて、向うへ船がつかねばいふ事はならぬ▲小アト「夫ならば早う船をつけて心をきかうぞ、ゑいゑい、そりやそりや船がつくぞ▲シテ「誠に舟がつくぞ▲小アト「夫ついたさあさあ上らしませ▲シテ「心得た、船頭殿過分に御座る▲小アト「あゝ是々、今の心もいはずに、それへお行きある▲シテ「今の心は下向道に申さう▲小アト「是はいかな事、船のつくまさへ待ちかねた、下向道まで何とまたるゝものぢや、さあさあ早うおせあれ▲シテ「今の心は茶屋が何とやらおせあつたが{*10}▲小アト「是はいかな事、今の心に何の茶屋がいるものぢや、早うおせあれ▲シテ「今の心は平家の公達▲小アト「されば平家の公達の心が薩摩守、其薩摩守の心をおせあれといふ事ぢや▲シテ「果、薩摩守の心は薩摩守▲小アト「言語道断爰なものは身共をなぶると見えた、其心をいはねばどちへもやらぬぞ▲シテ「夫は誠か{如常つめる}{*11}いや今思ひ出した物、{如常つめる}{*12}青のりの引ぼし▲小アト「何のやくたいもない、とつとゝおゆきあれ▲シテ「面目もおりない、{と云て留て入也}
校訂者注
1:底本は、「進せう」。
2・3:底本は、「誠(ぜう)」。
4:底本は、「渡し守て御座る」。
5:底本は、「▲シテ「あゝ舟頭」。
6:底本は、「あらうかぢやまで、笑ふ」。
7:底本は、「▲小アト「扨も扨も世には」。
8:底本は、「壁に耳ぢや、笑ふ」。
9:底本は、「夫は腹が立たうぞ、笑ふ」。
10:底本は、「何とやらおせあつたか」。
11:底本は、「▲シテ「いや今思ひ出した物」。
12:底本は、「▲シテ「青のりの引ぼし」。
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