鈍太郎(どんたらう)(二番目 三番目)
▲シテ「都方に住居致す、鈍太郎と申す者でござる。某(それがし)、三年(みとせ)以前、ふと西国へ下つて、殊の外、仕合(しあは)せを致してござる。古郷忘じがたしと申すが、妻子が事を懐かしう存ずる程に、この度、都へ上らうと存ずる。誠に、都を出(づ)る時分は、妻子が方へ度々、音づれを致さうと存じたれども、何かと致して、音づれをも致さなんだ程に、さぞ恨むでござらう。さりながら、仕合(しあは)せを致した事を聞いたらば、悦ばうかとも存ずる。何かと申す内に、都ぢや。扨も扨も、懐かしや、懐かしや。又、田舎の様子とは違うて、賑々(にぎにぎ)しい事ぢや。身共が処は、もそつと下(しも)ぢや。下へ参らう。誠に、昨日(きのふ)は今日(けふ)の昔と申すが、仮初(かりそめ)ながら、三年とも他国致したれば、我が家居も、疎々(うとうと)しい事ぢや。何かと云ふ内に、これぢや。なうなう。西国から鈍太郎が戻つた。こゝをあけておくれあれ。
▲アト「鈍太郎殿は、三年(みとせ)以前、西国へ下らせられて、今に便儀(びんぎ)の音づれがござらぬ。誠の鈍太郎殿ではござるまい。
▲シテ「仰(お)せある処は尤ぢや。さりながら、仕合(しあは)せをして戻つた。何事も、内へ入つて云はう程に、まづ、こゝをあけておくれあれ。
▲アト「よし、誠の鈍太郎殿にもせよ、三年(みとせ)の留主を待ち兼ねて、今は、棒づかひを男に持つた。あたりへ寄つて、怪我を召さるな。
▲シテ「何ぢや。棒づかひを男に持つた。
▲アト「おゝ。扨、持つた。
▲シテ「やあら、おのれは憎いやつの。身共といふ夫(をつと)を持ちながら、外に男を持つたとは云はさぬ。おのれ、この戸をあけぬか、あけぬか。
▲アト「なう、腹立ちや腹立ちや。この棒づかひは、どれに居さします。あの和男(わをとこ)を、棒で打つて打つて、打ち殺して下されいなう。腹立ちや腹立ちや。
▲シテ「これはいかな事。こりや、男を持つたが定(ぢやう)さうな。扨々、憎い事かな。何としたものであらうぞ。むゝ、良いよう。この様な事もあらうと思うて、上京に心良しを拵へて置いた。まづ、急いで上京へ参らう。常に、きやつが顔(つら)が、見たむない、見たむないと存じたれども、かな法師が母ぢやと思うて、了簡をして置いた。これはざつと、良い病晴(やまひば)れをしたと云ふものぢや。いや、何かと云ふ内に、これぢや。なうなう。西国から、鈍太郎が戻つた。こゝをあけさしませ。
▲小アト「鈍太郎殿は、三年(みとせ)以前、西国へ下らせられて、今に便儀の音づれもござらぬ。誠の鈍太郎殿ではござるまい。
▲シテ「成程、恨みの段は尤ぢや。何事も、内へ入つて言ひ訳をせう。早う、この戸をあけておくれあれ。
▲小アト「よし、誠の鈍太郎殿にもせよ、三年(みとせ)の留主を待ち兼ねて、今は、長刀づかひを男に持つた。あたりへ寄つて、怪我を召さるな。
▲シテ「何ぢや。長刀づかひを男に持つた。
▲小アト「中々。
▲シテ「弓矢八幡。身共にも断りなしに、外に男を持つたとは云はせぬ。おのれ、この戸をあけねば、踏み破つて入るが。あけぬか、あけぬか。
▲小アト「なう、腹立ちや腹立ちや。この長刀づかひは、どれに居さします。あの和男(わをとこ)を、長刀にのして下されいなう。腹立ちや腹立ちや。
▲シテ「南無三宝。きやつも、男を持つたが定さうな。貞女両夫に見(まみ)えずと云ふが、おのれ等は畜生ぢやなあ。所詮、この戸を踏み破つて内へ入つて、彼の和男と討ち果たさうか。いやいや。あの様な傍若無人な者と討ち果たすは、畢竟、犬死にも同前ぢや。その上、憎い者は生けて見よといふ譬(たと)へもある。これを菩提の種として、元結(もとゆひ)を切り、隔夜(かくや){*1}に入つて、後世を願はう。さりながら、今など、かやうの姿にならうとは、思ひもよらぬ事ぢや。
{と云ひて泣き、扇にて髪の髷(まげ)をはぢく。}
南無三宝、しないたり。
{と云ひて、中入りする。}
▲アト「夜前、鈍太郎殿と云うて、御出なされたを、又、辺りの若い衆がなぶらせらるゝと存じて、荒々と申して返してござる。又、今朝承れば、誠の鈍太郎殿でござつたげな。残り多い事を致した。定めて、上京にござるであらう。尋ねに行かうと思ひまする。
▲小アト「夜前、鈍太郎殿と仰せられて、御出なされたを、又、辺りの若い衆がなぶらせらるゝかと存じて、荒々と申して返してござる。今朝承れば、誠の鈍太郎殿でござつたげなに、残り多い事を致した。定めて、下京にござらうによつて、尋ねに行かうと思ひまする。
▲アト「上京にござれば良いが。
▲小アト「下京にござれば良いが。
▲アト「ゑい。こなたは、上京のではござらぬか。
▲小アト「さう仰せらるゝは、鈍太郎殿のかみ様ではござらぬか。
▲アト「何と、こなたへ鈍太郎殿は見えませなんだか。
▲小アト「成程、夜前、鈍太郎殿と仰せられて、御出なされたを、又、辺りの若い衆がなぶらせらるゝと存じて、荒々と申して返してござる。今朝承れば、誠の鈍太郎殿でござつたげな。残り多い事を致しました。定めて御前(おまへ)にござらうと存じて、只今、尋ねに参る所でござる。
▲アト「成程、妾(わらは)の所へも、夜前、鈍太郎殿と云うて、御出なされたを、又、辺りの若い衆がなぶらせらるゝと思うて、荒々と申して返してござる。又、今朝承れば、誠の鈍太郎殿でござつたげなに、残り多い事を致しました。
▲小アト「はあ。扨は、こなたにでもござらぬか。
▲アト「又、今朝承れば、鈍太郎殿は、元結(もとゆひ)切り、隔夜(かくや)に入らせられたと申すが、聞かせられたか。
▲小アト「成程、風の吹くやうに、承つてござる。
▲アト「されば、誠でござらう。大方、此所(こゝ)を通られぬと云ふ事はござるまい。両人、此所(こゝ)に待ち合(あは)せて、止めうと存ずるが、何とでござらう。
▲小アト「これは、一段と良うござらう。
▲アト「それならば、まづ、これへ寄つてござれ。
▲小アト「心得ました。
{シテ、楽屋より、鉦叩き、念仏申して、一の松に居留まりて泣く。但し、念仏、心持ちある。}
▲シテ「あゝ。扨、昨日(きのふ)までは、我等如きの体(てい)を見ては、あれは世を捨て人か、又、世に捨てられた人かと思うたに、今は、我が身の上に思ひ当たつた。
{と云ひて泣く。念仏申して出る。}
▲アト「あれあれ。鈍太郎殿が見えました。いざ、止めませう。
▲小アト「一段と良うござらう。
▲アト「なうなう。鈍太郎殿。これはまづ、何とした浅ましい形(なり)でござる。早う戻つて下されいなう、早う戻つて下されいなう。
▲シテ「尊(たつと)い隔夜(かくや)の前へ、なまめいた女の。何者ぢや。
▲アト「何者と云ふ事があるものでござるか。妾は、かな法師が母でござるわいなう、母でござるわいなう。
▲シテ「かな法師が母はな、三年の留主を待ち兼ねて、今は、棒づかひを男に持つた。あたりへ寄つて、怪我を召さるな。
{「なむあみだ」と云ひて行く。}
▲アト「なうなう。こなた、止めて下されい。
▲小アト「心得ました。なうなう、鈍太郎殿。これはまづ、何とした形(なり)でござる。早う戻つて下されいなう、戻つて下されいなう。
▲シテ「そなたはどうやら、見た様な人ぢや。
▲小アト「見た様なと云ふ事があるものでござるか。妾でござるわいなう、妾でござるわいなう。
▲シテ「なう。そなたの様に、見目容貌(みめかたち)、麗(うるは)しう生まれついた人は、三年の留主を待ち兼ねて、今は、長刀づかひを男に持つたが良いものぢや。
{と云ひて、踊る拍子に念仏を申す。}
▲アト「申し申し、鈍太郎殿。両人、心を合(あは)せて止めに来ました程に、堪忍をして、戻つて下されい。
▲シテ「むゝ。こゝは、聞き所ぢや。両人、心を合(あは)せて止めに来たと云ふか。
▲小アト「その通りでござる。
▲シテ「それならば、了簡をして戻りもせうが、さりながら、今までの様に、上京にばかり居るの、下京にばかり居るのと、互の詮索が喧(かしま)しい。向後(きやうこう)は、日を極(きは)めて戻らうぞ。
▲アト「どうなりともして、早う戻つて下されい。
▲シテ「たとへば、三拾日の日を、二十五日はそなた、残り五日(いつか)は汝が方(はう)へ行かうぞ。
▲アト「何ぢや。妾が処へ五日来う。
▲シテ「中々。
▲アト「ゑゝ、腹立ちや腹立ちや。妾は、かな法師が母ではないか。その様な片手打ちな事は、せぬものぢやわいやい、せぬものぢやわいやい。
▲シテ「何ぢや。片手打ちゞや。
▲アト「おゝ。扨、片手打ちゞや。
▲シテ「片手打ちならば。
{と云ひて、踊る拍子に念仏申す。}
▲アト「あゝ、これこれ。止めて下され。
▲小アト「なう。鈍太郎殿、鈍太郎殿。それは、余り片手打ちでござる。どうぞ、半分半分にして、戻つて下されい。
▲シテ「わごりよの仰(お)せある事に、一つとして無理はない。それならば、半分半分にして、戻つてやらうぞ。
▲アト「上(かみ)十五日は、妾が処へ来て下されいや。
▲シテ「はて、同じ様な事を、上十五日と限つたは、どうした事ぢや。うゝ。小(せう)の月は、下の十五日は一日不足するといふ事か。まだ戻りもせぬ先から、大小の詮索は、何事ぢや。その様な心入れならば、いかないかな。
{と云ひて、踊る拍子に念仏申す。}
▲小アト「なうなう。どうなりともなりませう程に、早う戻つて下されい。
▲シテ「それならば、上十五日はそなた、下の十五日はそちが所へ行くぞよ。
▲アト「どうなりともしませう。早う戻つて下されい。
▲シテ「互に得心召されて、満足した。近所への外聞ぢや。両人の手車に乗つて行きたい。大儀ながら、手車を拵へておくれあれ。
▲二人「心得ました。
▲シテ「さあさあ、これへ寄らせられい。
▲二人「心得ました。
▲シテ「扨、これは誰(たれ)が手車と云うて問はゞ、鈍太郎が手車と云うて、囃してたもれ。
▲二人「心得ました。
▲シテ「これは、誰が手車、誰が手車。
▲二人「鈍太郎が手車、鈍太郎が手車。
▲シテ「あゝ。悪い悪い。そのがの字が、耳に障(さは)つて悪い。身共はつひに、殿(でん)文字を付いた事がない。とてもの事に、鈍太郎殿の手車と云うて、囃してたもれ。
▲二人「心得ました。
{これより囃子物。上京・心良しと、下京との心掛け、専一なり。仕様、色々あり。手車に乗り、楽屋まで囃し、舁き入るなり。但し、おろし、追ひ込む仕様もあるなり。}
校訂者注
1:「隔夜(かくや)」は、「隔夜詣 (かくやもうで)」。諸所の寺社を巡礼・参篭すること。
底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.)
鈍太郎(ドンタロヲ)(二番目 三番目)
▲シテ「都方に住居致す鈍太郎と申す者で御座る、某三年以前不図西国へ下つて、殊の外仕合せを致して御座る、古郷忘じがたしと申すが、妻子が事をなつかしう存ずる程に、此度都へ上らうと存ずる、誠に都を出る時分は、妻子が方へ度々音づれを致さうと存じたれども、何彼と致して、音づれをも致さなんだ程に、嘸恨むで御座らう、去ながら、仕合せを致した事を聞いたらば、悦ばうかとも存ずる、何彼と申す内に都ぢや、扨も扨もなつかしやなつかしや、又田舎の様子とは違うて賑々敷事ぢや、身共が処は最そつと下もぢや{*1}、下へ参らう、誠に、きのふは今日の昔と申すが、かりそめながら三年とも他国致したれば、我が家居もうとうとしい事ぢや、何彼と云ふ内に是ぢや、なうなう、西国から鈍太郎が戻つた、爰をあけておくれあれ、▲アト「鈍太郎殿は三とせ以前、西国へ下らせられて、今に便儀の音づれが御座らぬ、誠の鈍太郎殿では御座るまい▲シテ「おせある処は尤もぢや、去ながら仕合せをして戻つた、何事も内へはいつて云はう程に、先爰をあけておくれあれ▲アト「よし誠の鈍太郎殿にもせよ、三とせの留主を待兼て、今は棒づかいを男にもつた、あたりへよつて怪我をめさるな▲シテ「何ぢや棒づかいを男にもつた▲アト「おゝ扨もつた▲シテ「やあらおのれは憎ひやつの、身共と云ふおつとを持ちながら、外に男を持つたとはいはさぬ、おのれ此戸をあけぬかあけぬか▲アト「のう腹立や腹立や、是の棒づかいはどれにゐさします、あの和男を、棒で打つて打つて打殺して下されいのう、腹立や腹立や▲シテ「是はいかな事、こりや男を持つたが定{*2}さうな、扨々憎い事かな、何とした物であらうぞ、むゝよいよう、此様な事も有らうと思うて、上京に心よしを拵へて置た、先急いで上京へ参らう、常にきやつが顔が見たむない見たむないと存じたれども、かな法師が母ぢやと思ふて、了簡をして置た、是はざつとよいやまひばれをしたと云ふものぢや。いや何彼と云ふ内に是ぢや、なうなう西国から鈍太郎が戻つた、爰をあけさしませ▲小アト「鈍太郎殿は三とせ以前西国へ下らせられて、今に便儀の音づれも御座らぬ、誠の鈍太郎殿では御座るまい▲シテ「成程恨の段は尤もぢや、何事も内へはいつて言訳をせう、早う此戸をあけておくれあれ▲小アト「よし誠の鈍太郎殿にもせよ、三年せの留主を待兼て、今は長刀づかいを男に持つた、あたりへよつて怪我をめさるな▲シテ「何ぢや長刀づかいを男に持つた▲小アト「中々▲シテ「弓矢八幡、身共にも断りなしに、外に男を持つたとはいはせぬ、おのれ此戸をあけねば、踏み破つてはいるが、あけぬかあけぬか▲小アト「のう腹立や腹立や、是の長刀づかいはどれに居さします、あの和男を長刀にのして{*3}下されいのう、腹立や腹立や▲シテ「南無三宝、きやつも男を持つたが定{*4}さうな、貞女両夫にま見えずといふが、おのれ等は畜生ぢやなあ、所詮此戸を踏破つて内へはいつて、彼の和男と討果さうか、いやいや、あの様な傍若無人な者と討果すは、畢竟犬死も同前ぢや、其上憎い者はいけて見よといふたとへもある、是を菩提の種として、元ゆいを切、かくやに入つて、後世を願はう、去ながら、今抔斯様の姿にならうとは、思ひもよらぬ事ぢや{と云て泣扇にて髪のまげをはぢく}南無三宝しないたり{と云て中入りする}▲アト「夜前鈍太郎殿と云ふてお出被成たを、又あたりの若い衆がなぶらせらるゝと存じて、荒々と申して帰して御座る、又けさ承はれば、誠の鈍太郎殿で御座つたげな、残りおほい事を致した、定めて上京に御座るであらう、尋ねに行かうと思ひまする▲小アト「夜前鈍太郎殿と仰せられて御出なされたを、又辺りの若い衆がなぶらせらるゝかと存じて、荒々と申して帰して御座る、けさ承れば、誠の鈍太郎殿で御座つたげなに、残りおほい事を致した、定めて下京に御座らうに依つて、尋ねに行かうと思ひまする▲アト「上京に御座ればよいが▲小アト「下京に御座ればよいが▲アト「ゑいこなたは上京のでは御座らぬか▲小アト「さう仰せらるゝは、鈍太郎殿のかみ様では御座らぬか▲アト「なんとこなたへ鈍太郎殿は見えませなんだか▲小アト「成程夜前鈍太郎殿と仰られてお出被成たを、又辺りの若い衆がなぶらせらるゝと存じて、荒々と申して帰して御座る、けさ承れば誠の鈍太郎殿で御座つたげな、残りおゝい事を致しました、定めてお前に御座らうと存じて、唯今尋ねに参る所で御座る▲アト「成程妾の所へも、夜前鈍太郎殿と云ふて御出被成たを、又あたりの若い衆がなぶらせらるゝと思うて、荒々と申して返して御座る、又けさ承れば誠の鈍太郎殿で御座つたげなに、残りおゝい事を致しました▲小アト「はあ扨はこなたにでも御座らぬか▲アト「又けさ承れば鈍太郎殿は元ゆひ切り、かく屋に入らせられたと申すが、聞かせられたか▲小アト「成程風の吹ように承つて御座る▲アト「されば誠で御座らう、大方此所を通られぬと云ふ事は御座るまい、両人此所に待合はせて、留めうと存ずるが何とで御座らう▲小アト「是は一段とよう御座らう▲アト「夫ならば先是へよつて御座れ▲小アト「心得ました{シテ{*5}楽屋より鉦たゝき念仏申して一の松に居とまりて泣但念仏心持ある}▲シテ「あゝ扨きのふまでは、我等如きの体を見ては、あれは世を捨人か、又世に捨られた人かと思うたに、今は我身の上に思ひ当つた{と云て泣く念仏申して出る}▲アト「あれあれ鈍太郎殿が見えました、いざ留めませう▲小アト「一段とよう御座らう▲アト「なうなう鈍太郎殿、是は先何とした浅間しいなりで御座る、早う戻つて下されいのう早う戻つて下されいのう▲シテ「たつといかく屋の前へ、なまめいた女の、何者ぢや▲アト「何ものと云ふ事がある者で御座るか、妾はかな法師が母で御座るわいのう母で御座るわいのう▲シテ「かな法師が母はな、三年の留主を待兼て、今は棒づかひを男に持つた、あたりへよつて怪我をめさるな{なむあみだと云て行}▲アト「のうのうこなた留めて下されい▲小アト「心得ました、なうなう鈍太郎殿、是は先何としたなりで御座る、早う戻つて下されいのう戻つて下されいのう▲シテ「そなたはどうやら見た様な人ぢや▲小アト「見た様なと云ふ事が有るもので御座るか、妾で御座るわいのう妾で御座るわいのう▲シテ「のうそなたの様に、見め形ちうるはしう生れついた人は、三年せの留主を待兼て、今は長刀づかひを、男に持たがよいものぢや{と云て踊拍子に念仏を申す}▲アト「申々鈍太郎殿、両人心を合せて留めに来ました程に、堪忍をして戻つて下されい▲シテ「むゝ爰は聞所ぢや、両人心を合せて止めに来たといふか▲小アト「其通りで御座る▲シテ「夫ならば了簡をして戻りもせうが、去りながら、今迄の様に上京に計りゐるの、下京に計り居るのと、互の詮索がかしましい、向後は日を極めて戻らうぞ▲アト「どうなりともして早う戻つて下されい▲シテ「たとへば三拾日の日を、二十五日はそなた、残り五日は汝が方へ行かうぞ▲アト「何ぢやわらはが処へ五日こう▲シテ「中々▲アト「ゑゝ腹立や腹立や、わらはゝかな法師が母ではないか、其様な片手打な事はせぬ物ぢやわいやいせぬ物ぢやわいやい▲シテ「何ぢや片手打ぢや▲アト「おゝ扨片手打ぢや▲シテ「片手打ならば{と云て踊る拍子に念仏申す}▲アト「あゝ是々留めて下され▲小アト「のう鈍太郎殿鈍太郎殿、夫は余り片手打で御座る、どうぞ半分半分にして戻つて下されい▲シテ「わごりよのおせある事に一つとして無理はない、夫ならば半分半分にして戻つてやらうぞ▲アト「上十五日はわらはが処へ来て下されいや▲シテ「果同じ様な事を、上十五日と限つたはどうした事ぢや、ウゝ小の月は、下の十五日は一日不足すると云ふ事か、まだ戻りもせぬ先から大小のせんさくは何事ぢや、其様な心入ならばいかないかな{と云て踊拍子に念仏申す}▲小アト「のうのうどう成共なりませう程に、早う戻つて下されい▲シテ「夫ならば上十五日はそなた、下の十五日はそちが所へ行ぞよ▲アト「どうなりともしませう、早う戻つて下されい▲シテ「互に得心召れて満足した、近所への外聞{*6}ぢや、両人の手車に乗つて行たい、大儀ながら手車を拵へておくれあれ▲二人「心得ました▲シテ「さあさあ是へよらせられい▲二人「心得ました▲シテ「扨是は誰が{*7}手車といふて問はゞ、鈍太郎が手車と云ふてはやしてたもれ▲二人「心得ました▲シテ「是は誰が手車是は誰が手車▲二人「鈍太郎が手車鈍太郎が手車▲シテ「あゝわるいわるい、其がの字が耳にさはつてわるい、身共はついにでん文字をついた事がない、迚もの事に鈍太郎殿の手車と云ふてはやしてたもれ▲二人「心得ました{是よりはやしもの上京心吉と下京との心掛専一なり仕様色々有り手車に乗り楽屋迄はやしかき入なり但しおろし追込仕様もあるなり}
校訂者注
1:底本は、「下もちや」。
2・4:底本は、「誠(ぜう)」。
3:底本は、「長刀にのさて」。
5:底本は、「して楽屋より」。
6:底本は、「近所への外分」。
7:底本は、「是は誰か手車」。
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