蛸(たこ)(二番目)
▲ワキ「《上》{*1}我は仏と思へども、我は仏と思へども、人は何とか思ふらん。
《詞》これは、日向の国の者にて候ふ。我、いまだ都を見ず候ふ程に、この度、都に上り候ふ。
{道行。打切。}
《上》{*2}筑紫人、虚言(そらごと)すると聞きつるに。
{打切。}
虚言(そらごと)すると聞きつるに、我は誠の修行して、清水の浦に着きにけり。
急ぎ候ふ程に、清水の浦に着いて候ふ。これなる卒都婆の蔭に立ち寄り、休まばやと思ひ候ふ。
▲シテ「なうなう。あれなる修行者に、申すべき事の候ふ。
▲ワキ「こなたの事にて候ふか。何事にて候ふぞ。
▲シテ「これは、去年(こぞ)の春の頃、この清水の浦にて身罷りたる、蛸の精にて候ふなり。後(あと)弔ひて給(た)び給へ。
▲ワキ「不思議の事を聞くものかな。何とて魚類の身を転じ、などか仏果に到らざらん。
▲シテ「げにげに、仰せはさる事なれども、漁師に恨みをなす故か、浮かみもやらぬ悲しさよ。かまへてかまへて、御弔ひあれと。
▲地「{*3}かき消す様に失せにけり、かき消す様に失せにけり。
{中入り。}
▲ワキ「扨々、只今の者は、蛸の精なる由、申し候ふ。これなる卒都婆について、謂(いは)れの候ふべし。所の人に尋ねばやと思ひ候ふ。所の人の渡り候ふか。
▲間「所の者と御尋ねは、誰にて渡り候ふぞ。
▲ワキ「これに立てられたる卒都婆は、様ありげに見えて候ふ。定めて、謂(いは)れのなき事は候ふまじ。御存知候はゞ、語つて御聞かせ候へ。
▲間「その事にて候ふ。去年(こぞ)の春の頃、播磨の国、この清水の浦にて、大きなる蛸を引き揚げ申して候ふ程に、漁師も悦び、又、所の者どもも、これを料理致し、食べて候ふが、かの大蛸、化生(けしやう)となつて、夜な夜な罷り出で候ふ程に、所の者集まり、この卒都婆を立て、弔ひ申して候ふが、成仏したると見えて、その後は出申さず候ふ。御僧も、逆縁ながら、弔うて御通り候へ。
▲ワキ「懇ろに御物語、祝着申して候ふ。さあらば、立ち寄り、弔うて通らうずるにて候ふ。
▲間「重ねて御用もあらば、仰せられい。
▲ワキ「頼みませう。
▲間「心得ました。
▲ワキ「それ、仏事は様々多けれども、取りわき、亡者の悦ばんと、中に妙(たへ)なる心経の文(もん)。
《上》{*4}蛸とくあのくたら三百三文に買うて、仏に奉る。あゝ、なま蛸、なま蛸。
《一セイ》▲シテ「あら、堪(た)え難(がた)の生害(しやうがい)やな。猶々弔ひて給ふべし。
▲ワキ「不思議やな。人家も見ゆる昼中に、化したる姿の顕れたるは、
《詞》いかなる者ぞ、何者ぞ。
▲シテ「これは、昨日(きのふ)の暮れ程に、言葉を交(かは)し参らせたる、蛸の幽霊にて候ふなり。御弔ひのありがたさに、これまで顕れ出て候ふ。
▲ワキ「{*5}扨は、昨日(きのふ)の暮れ程に、言葉を交(かは)す蛸の精か。
《詞》最期の有様、懺悔せよ。後をば訪うて、得さすべし。
▲シテ「思ひ出るも疎(うと)ましや。漁師の網に引き揚げられ、渋皮も、剥けよ剥けよと洗はれて、
{*6}削り立てたる生板の上に。
{かけり、常の如し。打上。打切。}
引き据ゑられて、後ろより。
{打切。}
引き据ゑられて、後ろより、庖丁を押し当てらるれば眼(まなこ)くらみ、息詰まつて、俯(うつぶ)きに押し臥せられて、頭(づ)を剥(は)いでぞ臥したりける、頭(づ)を剥(は)いでぞ臥したりける。而(しか)うして、起き上がれば。
▲地「或いは四方へ張り蛸の、照る日にさらされ足手を削られ塩にさらされて、隙(ひま)もなき苦しみなるを、妙(たへ)なる御法(みのり)の場(には)に出でゝ、仏果に参るありがたさよ。只一声ぞ、南無阿弥陀仏。只一声ぞ、なま蛸とて、かきふく様にぞ失せにける。
校訂者注
1:底本、ここ「我は仏と思へども」から「人は何とか思ふらん」まで、傍点がある。
2:底本、ここ「筑紫人そら事すると」から「清水の浦に着にけり」まで、傍点がある。
3:底本、ここ「かきけす様に」から「失にけり(二字以上の繰り返し記号)」まで、傍点がある。
4:底本、ここ「蛸とくあのくたら」から「化したる姿の顕れたるは」まで、傍点がある。
5:底本、ここ「扨はきのふの暮程に」から「言葉をかはす蛸の精か」まで、傍点がある。
6:底本、ここ「けづり立たる生板の上に」から最後まで、全て傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.)
蛸(タコ)(二番目)
▲ワキ「《上》我は仏と思へども。我は仏と思へども。人は何とか思ふらん《詞》是は日向の国の者にて候、我いまだ都を見ず候程に、此度都にのぼり候{道行打切}《上》筑紫人そら事するときゝつるに。{打切}{*1} そら事するときゝつるに。我は誠の修行して清水の浦に着にけり、急ぎ候程に清水の浦に着て候、是成卒都婆の影に立寄り休まばやと思ひ候▲シテ「なうなうあれなる修行者に申す可き事の候▲ワキ「こなたの事にて候か何事にて候ぞ▲シテ「是は去年の春の比、此清水の浦にて身まかりたる蛸の精にて候なり、跡吊らひてたび給へ{*2}▲ワキ「不思議の事をきく者かな、何迚魚類の身をてんじ、などか仏果に到らざらん{*3}▲シテ「実々仰せは去事なれ共、漁師に恨をなす故か、うかみもやらぬかなしさよ、かまへてかまへてお吊らひあれと▲地「かきけす様に。失にけりかきけす様に。失にけり{中入}{*4}▲ワキ「扨々唯今の者は蛸の精なる由申し候、是成卒都婆について謂の候べし、所の人に尋ねばやと思ひ候、所の人の渡り候か▲間「所の者とお尋ねは誰にて渡り候ぞ▲ワキ「是にたてられたる卒都婆は様有りげに見えて候、定めて謂のなき事は候まじ、御存知候はゞ語つて御きかせ候へ▲間「其事にて候、こぞの春の比播磨の国此清水の浦にて、大きなる蛸を引揚申して候程に、漁師も悦び、又所の者共も、是を料理致したべて候が、彼大蛸化生となつて、夜な夜な罷出候程に、所の者集り、此卒都婆をたて吊ひ申して候が、成仏したると見えて、其後は出不申候、お僧も逆縁ながら吊らうてお通り候へ▲ワキ「懇に御物語祝着申して候、左あらば立寄り吊らうて通らうずるにて候▲間「重て御用もあらば仰せられい▲ワキ「頼みませう▲間「心得ました▲ワキ「夫仏事は様々おほけれども、取わき亡者の悦ばんと、中にたへなる真経の文《上》蛸とくあのくたら三百三文に買うて仏に奉る。あゝなま蛸なま蛸《一セイ》▲シテ「荒たへがたのしようがいやな。猶々吊ひて給ふべし▲ワキ「不思議やな人家も見ゆる昼中に。化したる姿の顕はれたるは《詞》いか成者ぞ何者ぞ▲シテ「是はきのふの暮程に、言葉をかはし参らせたる、蛸の幽霊にて候なり、御吊ひの有難さに、是迄顕はれ出て候▲ワキ「扨はきのふの暮程に。言葉をかはす蛸の精か《詞》最期の有様ざんげせよ、跡をばとふて得さすべし▲シテ「思ひ出るもうとましや、漁師の網に引揚られ、渋皮もむけよむけよと洗はれて、けづり立たる生板の上に{かけり如常打上打切}{*5}引すゑられてうしろより{打切}引すゑられてうしろより庖丁を押あてらるればまなこくらみいきづまつて。うつぶきに押ふせられて。づをはいてぞふしたりける。づをはいてぞふしたりける{*6}しかふしておき上れば▲地「あるひは四方へはり蛸の。てる日にさらされ足手をけづられ塩にさらされて隙もなきくるしみなるを。たへなる御法の。場に出でゝ。仏果に参る有難さよ唯一声ぞ南無阿弥陀仏唯一声ぞなま蛸とて。かきふく様にぞ失にける
校訂者注
1:底本は、「{打切(二字以上の繰り返し記号)}」。 2:底本は、「跡吊らひてたひ給へ」。
3:底本は、「到らさらん」。
4:底本は、「かきけす様に。失にけり(二字以上の繰り返し記号)中入」。
5:底本は、「▲シテ「引すゑられてうしろより」。
6:底本は、「▲シテ「しかふしておき上れば」。
コメント