大般若(だいはんにや)(二番目 三番目)

▲アト「妾(わらは)は、この辺りの神子(みこ)でござる。いつも、月の末にはさる御方へ、神楽を上げに参る。今日(けふ)も、参らうと思ひまする。誠に、世には信心な御方がござる。毎月毎月、神楽を参らせらるゝによつて、次第に御繁昌なさるゝ事でござる。何かと申す内に、これぢや。
{と云ひて、案内乞ふ。出るも常の如し。}
▲アト「いつもの通り、晦日払(つもごりはら)ひに参りました。
▲小アト「ようこそ出られたれ。まづ、かう通らしめ。
▲アト「心得ました。
▲小アト「供物(くもつ)の用意をして案内するまで、暫く神楽を待ちて、休息召され。
▲アト「心得ました。
{と云ひて、アト、笛座の上にゐる。小アトは、笛座の前にゐる。}
▲シテ「この寺の住持でござる。毎月決まつて、さる御旦那へ御祈祷に参る。今日(こんにち)参る様にとあつて、昨日(きのふ)自身、頼みに見えた。只今、参らうと存ずる。誠に、毎月退転なう、御祈祷をなさるゝによつて、その身の事は云ふに及ばず、御一門まで次第次第に、御繁栄なさるゝ事でござる。
{と云ひて行き着き、案内乞ふ。小アト、又出る。常の如し。}
▲シテ「昨日(きのふ)は御念入らせられて、御自身の御出。忝う存じまする。
▲小アト「わざと参つたでもござらぬ。御近所へ参つた序(ついで)ながらでござつた。
▲シテ「茶でも参つたではござらいで、早々の御帰り。今に残り多(おほ)、存じまする。扨、この中(ぢゆう)、夥(おびたゞ)しい手柄を致しました。
▲小アト「何とでござつた。
▲シテ「さる方に、大切な病人がござつて、薬・鍼、或いは氏神へ湯を参らせ、祈念・祈祷、色々の事どもを召さるれども、少しもその験(しるし)がござらぬ所で、某(それがし)へ頼うで参つたと思し召せ。何が、方々の祈祷がつかへて、忙しうござつたれども、人を助くるは出家の役と存じて、何が、揉(も)みに揉うで{*1}、大般若経を転読致したれば、御経の功徳。忝い事でござる。手の裏を返す様に、めつきめつきと癒つて、二三日の内に、本服召されました。何が、一家一門の悦び。金・銀・巻物{*2}を持参で、自身、礼に見えました。
▲小アト「扨々、いかい御手柄でござりました。これと申すも、御経の功徳。又は、御前(おまへ)の正直正路に殊勝な御志故でござる。
▲シテ「これへ参る道すがら、一人言(ひとりごと)にも申してござる。こなたには毎月毎月、油断なく御祈祷をなさるゝによつて、御一門末々まで、御繁昌なさるゝ事でござる。
▲小アト「これと申すも皆、御蔭でござる。いざ、お通りなされませ。
▲シテ「さらば、いつもの通り、御祈祷を始めませう。
▲小アト「一段と良うござらう。
{シテ、脇正面の先へ出て、印を結び、礼をして、「大般若六百巻」を云つて、読むなり。口伝。}
▲小アト「なうなう、神子殿。神楽を始めさせられい。
▲アト「心得ました。
《神楽》おゝ、遥かなる沖にも石のあるものを。{*3}夷(えびす)の御前(ごぜ)の腰懸の石。
{神楽打ち出し。鼓・管、云ひ合(あは)せあるべし。一段、順に舞ふなり。}
▲シテ「御亭主、御亭主。神楽の鈴の音(おと)が喧(かしま)しうて、大般若が読まれませぬ。神楽をやめいと仰せられい。
▲小アト「心得ました。なうなう、神子殿。鈴の音に紛れて経が読まれぬと、御出家が仰せらるゝ。暫く待たしめ。
▲アト「いや。御経は仏道、神楽は神道。別の事でござる。その上、鈴の音に紛れて読まれぬ御経ならば、お読みあるなと仰せられい。
▲小アト「今のを聞かせられたか。
▲シテ「扨々、推参な事を申す。忝くも、大般若と申すは名経なれば、これを読誦申してこそ、祈祷にもなれ。何ぞや、あの神子づれが、袖神楽を参らせたと云うて、何の役に立ちませう。とかく、やめいと仰せられい。
▲シテ「心得ました。なうなう、今のを御聞きあつたか。
▲アト「無理な事を云ふ人でござる。仏在世の時より、一切の経は皆、衆生を済度せんがためでござる。又、神楽と申すは、忝くも天照大神(あまてらすおほかみ)、岩戸にとぢ籠らせられ、世界暗闇(くらやみ)になつて、夜昼の分かちもなかりし所に、諸神これを嘆き、岩戸の前にて神楽を奏し給へば、神は悦び、岩戸を開き出させられしより、日月の光、明らかにござる。これ皆、神楽の威徳でござる。されば、今生の御祈祷と申すは、これでござる。神楽をやめる事はならぬと仰せられい。
▲小アト「心得た。今のを聞かせられたか。
▲シテ「成程、承りました。つべつべと、よう物を云ふ女でござる。第一に、そなたが聞こえませぬ。あの神子づれと愚僧を、同じ様に思し召すさうな。
▲小アト「何しに、同じ様に存じませうぞ。さりながら、その様に仰せらるれば、何とやら、似た様にござる。とかく、神子にお構ひなされぬが、良うござる。
▲シテ「何(いづ)れ、その様なものでござる。畢竟、あれに構ふからの事でござる。愚僧は、構はずとも、御経を読みませう。
▲小アト「一段と良うござらう。
{シテ、始めの所にゐて、大般若を読むなり。}
▲小アト「さあさあ、神子殿。神楽を参らせられい。
▲アト「心得ました。
《神楽》おゝ、めでたやな、めでたやな。只今の御神楽の威徳により、夜の驚き、昼の騒ぎなく、何事も、思ふ所望を叶へ給ふ。ありがたや。
{と云ひて又、舞ひ出す。シテ、喧(かしま)しがる体(てい)、色々あり。神子、シテのゐる所にて拍子踏む。耳をふさぎて経を読む。仕様、色々あり。後に、神楽にうつり、面白がり、え堪(こら)へられぬと云つて笑ひ、経を鈴にして真似などしうつり、段に過ぎて、しやぎりにて留まつて入るなり。口伝。}

校訂者注
 1:「揉(も)みに揉む」は、「数珠を激しく揉んで仏に祈る」の意。
 2:「巻物」は、「反物(たんもの)」の意。
 3:底本、「夷のごぜの腰懸の石」に、傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.

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大般若(ダイハンニヤ)(二番目 三番目)

▲アト「妾は此辺りの神子で御座る、毎も月の末には去るお方へ、神楽をあげに参る、今日も参らうと思ひまする、誠に世には信心なお方が御座る、毎月々々神楽を参らせらるゝに依つて、次第に御繁昌なさるゝ事で御座る、何彼と申す内に是ぢや{と云て案内乞出るも如常}▲アト「いつもの通り、晦日払ひに参りました▲小アト「ようこそ出られたれ、先かう通らしめ▲アト「心得ました▲小アト「供物の用意をして案内する迄暫く神楽を待ちて、休息めされ▲アト「心得ました{と云てアト笛座の上にゐる小アトは笛座の前にゐる}▲シテ「此寺の住持で御座る、毎月決つて{*1}去るお旦那へ御祈祷に参る、今日参る様にと有て、昨日自身頼みに見えた、唯今参らうと存ずる、誠に毎月退転なう、御祈祷を被成るゝに依つて、其の身の事は云ふに及ばず、御一門まで次第次第に、御繁栄被成る事で御座る{と云て行つき案内乞ふ小アト又出る如常}▲シテ「きのふは御念入らせられて、御自身のお出で忝う存じまする▲小アト「態と参つたでも御座らぬ、御近所へ参つた序ながらで御座つた▲シテ「茶でも参つたでは御座らいで、早々の御帰り、今に残りおほ存じまする、扨此中夥敷い手柄{*2}を致しました▲小アト「何とで御座つた▲シテ「去る方に、大切な病人が御座つて、薬鍼、或は氏神へ湯を参らせ、祈念祈祷色々の事共をめさるれ共、少しも其印が御座らぬ、所で某へ頼うで参つたと思召せ、何が方々の祈祷がつかへていそがしう御座つたれども、人を助くるは出家の役と存じて、何がもみにもうで、大般若経を転読致したれば、御経の功徳忝い事で御座る、手の裏を返す様に、めつきめつきと癒つて、二三日の内に本服召されました、何が一家一門の悦び、金銀巻物を持参で、自身礼に見えました▲小アト「扨々いかい御手柄{*3}で御座りました、是と申すもお経の功徳、又はお前の正直正路に殊勝な御志故で御座る▲シテ「是へ参る道すがら独り言にも申して御座る、こなたには毎月毎月、無油断御祈祷を被成るゝに依つて、御一門末々まで、御繁昌被成るゝ事で御座る▲小アト「是と申すも皆お陰で御座る、いざお通り被成ませ▲シテ「さらば毎もの通り御祈祷を始めませう▲小アト「一段とよう御座らう{シテ脇正面の先へ出て印を結び礼をして大般若六百巻を云つて読むなり口伝}▲小アト「なうなう神子殿神楽を始めさせられい▲アト「心得ました、《神楽》、おゝはるかなる沖にも石のあるものを、夷のごぜの腰懸の石{神楽打出し鼓管云合あるべし一段順に舞ふなり}▲シテ「御亭主々々神楽の鈴の音がかしましうて、大般若がよまれませぬ、神楽をやめいと仰せられい▲小アト「心得ました、なうなう神子殿、鈴の音に紛れて経が読まれぬと、御出家が仰せらるゝ、暫らく待しめ▲アト「いや御経は仏道、神楽は神道、別の事で御座る、其上鈴の音に紛れて読れぬお経ならば、お読みあるなと仰せられい▲小アト「今のを聞せられたか▲シテ「扨々推参な事を申す、忝くも大般若と申すは名経なれば、是を読誦申してこそ祈祷にもなれ、何ぞやあの神子づれが、袖神楽を参らせたといふて、何の役に立ませう、兎角やめいと仰せられい▲シテ「心得ました、なうなう今のを御聞きあつたか▲アト「無理な事を云ふ人で御座る、仏在世の時より、一切の経は皆衆生を済度{*4}せんが為で御座る、又神楽と申すは、忝なくも天照大神岩戸にとぢ籠らせられ世界くら闇になつて、夜昼の別ちもなかりし所に、諸神是を嘆き、岩戸の前にて神楽を奏し給へば、神は悦び、岩戸を開き出させられしより、日月の光り明らかに御座る、是れ皆神楽の威徳で御座る、されば今生の御祈祷と申すは是で御座る、神楽を止める事はならぬと仰せられい▲小アト「心得た、今のを聞せられたか▲シテ「成程承りました、つべつべとよう物{*5}を云ふ女で御座る、第一にそなたがきこえませぬ、あの神子づれと愚僧を同じ様に思召さうな▲小アト「何しに同じ様に存じませうぞ、去ながら其様に仰せらるれば、何とやら似た様に御座る、兎角神子にお構ひ被成ぬがよう御座る▲シテ「何れ其様な者で御座る、畢竟あれに構ふからの事で御座る、愚僧は構はず共お経を読ませう▲小アト「一段とよう御座らう{シテ始めの所にゐて大般若を読むなり}▲小アト「さあさあ神子殿、神楽を参らせられい▲アト「心得ました、《神楽》、おゝ目出たやな目出たやな唯今のお神楽の威徳により、夜の驚、昼のさわぎなく何事も思ふ所望を叶へ給ふ、有難や{と云て又舞出すシテかしましがるてい色々あり神子シテのゐる所にて拍子ふむ耳をふさぎて経を読む仕様色々あり後に神楽にうつり面白がりえこらへられぬと云つて笑ひ経を鈴にして真似などしうつり段に過ぎてしやぎりにて留つて入るなり口伝}

校訂者注
 1:底本は、「毎月定つて」。1巻「無布施経」翻字(注3・6)参照。
 2・3:底本は、「手抦」。
 4:底本は、「衆を生済度」。
 5:底本は、「言(もの)」。