小傘(こがらかさ)(三番目 四番目)
▲アト「この辺りの者でござる。この度、一在所に草堂を建立致してござる。堂は、思ふ儘に出来てござれども、未だ、似合はしい堂守(だうもり)がござらぬ。今日(こんにち)は上下(じやうげ)の街道へ参り、似合はしい御出家もあらば、同道致して参らうと存ずる。誠に田舎とて、不自由な事でござる。堂は、思ふ儘に出来てござれども、堂守に致す様な御出家は、一人もござらぬ。何とぞ今日は、似合はしい御出家を誘引致したい事ぢや。いや、何かと云ふ内に、上下の街道ぢや。暫く此処(こゝ)に待ち合(あは)せ、似合はしい御出家も御通りならば、言葉を掛けうと存ずる。
▲シテ「しないたるなりかな。揉(も)む程に揉む程に、しゝの角の縄になる程揉うでござれば、さんざん揉み損なうて、金銀は申すに及ばず、家財まで打ち込まうで、ぱらりさんとなつて、後(あと)へも先へも参らぬ。難儀さの余りに、ふと出家になつてござれば、俄(にはか)坊主の事なれば、経陀羅尼は存ぜず、誰一飯(いつぱん)の分け手がござらぬ。この上は、在方(ざいかた)を廻つて田舎者をたぶらかし、草堂をなりとも求めうと存ずる。又こゝに、譜代召し使ふ者がござる。某(それがし)の不仕合(ふしあは)せ故、きやつまで出家致させて置いた。この者を呼び出し、相談を致さうと存ずる。新発意あるか。
{と云ひて、呼び出す。出るも常の如し。}
誠に、身共が不仕合(ふしあは)せ故、汝まで迷惑させて、この様な面目ない事はない。
▲小アト「まづ、かうあらうと存じて、前方(まへかた)から色々と御意見申せども、御承引ござらぬによつて、この通りでござる。
▲シテ「後悔先に立たずと云ふが、この事ぢや。扨、そちが知る通り、この様にしてゐては、渡世をせう様がない。何とぞ、在方を廻り、田舎者をたぶらかし、草堂をなりとも求めうと思ふが、何とあらうぞ。
▲小アト「御経も御存知なうて、寺持ちにはなられますまい。
▲シテ「いや。それも思案をして置いた。いつも博奕(ばくち)の場で仕合(しあは)せの良い時、その傘を以て踊るに歌があるが、覚えてゐるか。
▲小アト「それは、何とやらでござりました。
▲シテ「はて、昨日(きのふ)通る小傘が、今日(けふ)も通り候ふ。あれ見、差いたいよ。これ見、差いたいよ。といふ事ぢや。
▲小アト「それが、御経になりまするか。
▲シテ「いや。かう云うては御経にならぬ。これに節をつけて。
{と云ひて、この文句を御経の様に云ふ。}
▲小アト「いかさま。これは、御経の様に聞こえまする。
▲シテ「汝も、ちと云うて見よ。
▲小アト「畏つてござる。
{と云ひて、「きのふ通る」を節なしに云ふなり。}
▲シテ「やいやい。その様に、あらはに云うてはならぬ。その声に、うなりをつけて。
{と云ひて、「きのふ通る」を半分ほど、節にて云ふ。}
などゝ云ふ事ぢや。
▲小アト「左様ならば、今度は同音に申して見ませう。
▲シテ「一段と良からう。
▲二人「昨日(きのふ)通る小傘が、今日(けふ)も通り候ふ。あれ見、差いたいよ。これ見、差いたいよ。
▲小アト「これでは、後がつまらぬものでござる。
▲シテ「いや。この後へ、なまうだ、なまうだ。といふ事を入れうぞ。
▲小アト「もし、御経を読めと申したらば、何となされまする。
▲シテ「それは、草堂に忘れて来た、と云はう。
▲小アト「先(さき)から御経を出して、これを読め、と云うたらば、何となされます。
▲シテ「そちが様に、ものゝ先(さき)を祈る様に云うてはならぬ。それは又、その時しのぎによつて、某が面白可笑しう云はう。さあさあ、来い来い。
▲小アト「心得ました。
▲シテ「誠に、相撲の果ては喧嘩になり、博奕の果ては盗みになると申すが、これも、盗み同前の事ぢやなあ。
▲小アト「何(いづ)れ、盗みに遠からぬものでござる。
▲シテ「身から出した錆なれば、誰を恨むる事もならぬ。
▲アト「いや。これへ、一段の御出家が通らるゝ。言葉を掛けう。申し申し、これこれ。
▲シテ「この方の事でござるか。
▲アト「成程、こなたの事でござる。これは、どれからどれへお通りなさるゝぞ。
▲シテ「愚僧は、風に木の葉の散る如くでござる。
▲アト「これは、面白い御返答でござる。それには心がござるか。
▲シテ「別に、心と申す事もござらぬ。木の葉と申すものは、風が吹けば、何方(いづかた)へも参りまする。愚僧もまづ、その如く、誘はせらるゝ方へ参るによつて、風に木の葉の散る如くと申す事でござる。
▲アト「もし止めたらば、止まらせられうか。
▲シテ「それは、只今も申す通りでござる。
▲アト「幸ひの御方へ言葉を掛けてござる。この度、一在所として、草堂を建立致してござる。堂は、思ふ儘に出来てござれども、いまだ堂守がござらぬ。何とぞ、御出なされて下されますまいか。
▲シテ「それこそ、出家の望む所なれ。成程、参りませう。
▲アト「何も、御望みはござらぬか。
▲シテ「いや。別に望みはござらぬ。衣(ころも)と紙子を下さるれば、良うござる。
▲アト「それは、心安い事でござる。何と、只今でも御出なされうか。
▲シテ「何時なりとも参りませう。
▲アト「さあさあ、御出なされい。
▲シテ「相談が極(きはま)つた。汝も来い。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「あの御方は、どなたでござる。
▲シテ「あれは、愚僧が弟子でござる。
▲アト「いや。御前(おまへ)御一人(おひとり)、御出なされて下されい。
▲シテ「惣じて法事の時分には、是非とも人がいりまする。常は、修行になりとも出しまして、在所中の御世話には致しますまい程に、召し連れさせて下され。
▲アト「左様ならば、御勝手次第になされませ。
▲シテ「案内者のため、こなたからござれ。
▲アト「それならば、お先へ参りませう。さあさあ、御出なされませ。
▲シテ「心得ました。
▲アト「扨、ふと言葉をかけましたに、早速御同心なされて、この様な悦ばしい事はござらぬ。
▲シテ「袖の振り合(あは)せも他生の縁と申す。定めて、仏の御引き合(あは)せでござらう。
▲アト「それは、ありがたい事でござる。
▲シテ「扨、御建立の堂は、何程に出来ました。
▲アト「三間四面でござる。
▲シテ「大きい堂ぢやなあ。
▲小アト「左様でござる。
▲シテ「本尊なども、この度、御出来なされたか。
▲アト「成程、御本尊も、結構に御出来になつてござる。
▲シテ「仏具等も、悉く御用意でござらう。
▲アト「残らず調(とゝの)ひまする。別して、御経なども、悉く用意致してござる。
▲シテ「やあ。御経がござるか。
▲アト「中々。
▲シテ「扨々、苦々しい物があるではないか。
▲小アト「何(いづ)れ、いらぬ物がござりまする。
▲アト「申し申し。御出家の分として、御経を苦々しいの、いらぬ物のと仰せらるゝは、どうした事でござる。
▲シテ「御不審、御尤でござる。まづ某は、小僧の時より学文を励み、一切経を残らず暗(そら)んじて居りまする。師匠の申さるゝは、後世のためには、念仏に上越す事はない。もし御経などを読うだらば、勘当ぢやと申されたによつて、苦々しい、いらぬ物がある、と申す事でござる。
▲アト「これは、御尤でござる。又見ますれば、傘を御持参でござる。あれも何ぞ、法事にいりますか。
▲シテ「傘こそ、仏具第一のものでござる。それ、仏の後ろに後光といふものがある。ふな後光・ひかり後光・傘後光などと云うてある。別して法事の時分、入用(いりよう)の仏具でござるによりて、持たせてござる。
▲アト「扨々、聞き事でこそござれ。在所へ帰つて、何(いづ)れもへ申してござらば、定めて、ありがたう存ずるでござらう。
▲シテ「かう参るからは、寄り親殿と頼みまする。万事、引き廻して下されい。
▲アト「その段は、心安う思し召しませ。いや、何かと申す内に、早(はや)これでござる。
▲シテ「これでござるか。
▲アト「則ち、この度建立の堂も、これでござる。
▲シテ「信は荘厳より起こると申すが、結構な荘厳でござる。
▲アト「まづ、かう御通りなされませ。
▲シテ「心得ました。
{後見より、正面へ机を直すなり。}
▲アト「御下向の由を、在所中へ申しませう。暫く御待ちなされて下さりませ。
▲シテ「心得ました。
▲アト「なうなう。何(いづ)れもござるか。
▲立衆「これに居まする。
▲アト「都より、草堂の御住持を同道致して、只今帰つてござる。
▲立衆「扨々、それは御苦労でござつた。
▲アト「則ち、今日(こんにち)入院の儀式に、堂供養の法事をもなさるゝ。皆同道して、参詣致しませう。さあさあ、ござれござれ。
▲立衆「心得ました。
▲アト「在所の衆が、何(いづ)れも参られてござる。
▲シテ「これは、何(いづ)れもようこそ参らせられた。
▲立衆「遠方の所を御下りなされて、忝う存じまする。
▲シテ「追つ付け、法事を始めませう。さりながら、只参らせられては功徳が薄い。何なりとも、志の施物(せもつ)を上げさせられい。
▲アト「今日儀式の事でござるによつて、御布施の用意はござらぬ。
▲シテ「さもしい事を云ふ人ぢや。塵(ちり)を結んでも志ぢや。何なりとも、持ち合(あは)せの物をあげて、この様な法事を幸ひに、弔ひたい亡者もあらば、仰せられい。それも地獄へやりたくば、勝手次第ぢや。
▲小アト「さあさあ何(いづ)れも、何なりともあげて、現当二世、安楽を頼ませられい。
▲尼「申し申し。この小袖を、如来様へ手向けませう。妾(わらは)が後世菩提を、拝ませられて下されい。
▲シテ「御奇特でござる。心安う思はしめ。後世菩提を祈つて進ぜう。
▲アト「明日は、志す日でござる。この一腰を、仏へ上げまする。自他平等利益を拝うて下されい。
{と云ひて、銘々、少刀(ちひさがたな)抜いて、机の上に並べる。その他、良き妻をまうけるため・息災延命・二世安楽など、祈願色々面白く、せりふ色々あるべきなり。}
▲シテ「さらば、法事を始めませう。
▲アト「一段と良うござらう。
{シテ・小アト、二人立つて、シテ、鉦を切つて、仏前へ礼拝する仕方あり。扨、「きのふ通る」を経の様に云ひて、二人入れ違うて、道行の心持ちなり。立衆も、皆々廻る。扨、廻り仕舞ひ、立衆、大小の前に並びゐる。その内シテ、顔にて小アトに、「すき間あらば、仏前の道具を取れ」と云ふ心持ちをする。小アト、合点せず、うろうろするを、気の毒がる心持ち、色々あるべし。その内、尼が邪魔になり、度々引き立つるに、尼、本座に直る。扨、経を早め、拍子のゝりて、参詣の立衆、各うつりて踊る。念仏申すを見て、念仏早める。猶、知らぬ内、目くばせする。小アト、仏具・小袖・少刀(ちひさがたな)、皆々取りて、先へ行く。}
▲シテ「一段の仕合(しあは)せぢや。すかさう。
{と云ひて、二人入る。立衆、知らずに踊つてゐる内、心づきて、}
▲アト「なうなう。今の御坊が見えませぬ。
▲立衆「仏具が皆、ないぞや。
▲アト「扨は、売僧(まいす)坊主ぢや。皆、追つかけさせられい。
▲立衆「心得ました。
▲各「やるまいぞ、やるまいぞ。
▲尼「ゑゝ。腹立ちや、腹立ちや。孫にもやらぬ大事の小袖を、あの売僧(まいす)坊主にとられたか。誰(たれ)ぞ、取り返してくれいなう。腹立ちや、腹立ちや。
{と云ひて、追ひ込み入るなり。}
底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.)
小傘(コガラカサ)(三番目 四番目)
▲アト「此辺りの者で御座る、此度一在所に草堂を建立致して御座る、堂は思ふ儘に出来て御座れども、未だ似合しい堂守が御座らぬ、今日は上下の街道へ参り、似合はしい御出家もあらば、同道致して参らうと存ずる、誠に田舎とて不自由な事で御座る、堂は思ふ儘に出来て御座れども、堂守に致す様な御出家は一人も御座らぬ、何卒今日は似合はしい御出家を、誘引致したい事ぢや、いや何彼と言ふ内に上下の街道ぢや、暫らく此処に待合せ、似合はしい御出家もお通りならば、言葉を掛けうと存ずる▲シテ「しないたるなりかな、もむ程にもむ程に、しゝの角の縄に成程もふで御座れば、さんざんもみそこなうて、金銀は申すに及ばず、家財迄打込もうで、ぱらりさんとなつて後へも先へも参らぬ、難儀さの余りにふと出家になつて御座れば、俄坊主の事なれば経陀羅尼は存ぜず、誰一飯のわけてが御座らぬ、此上は在方を廻つて田舎ものをたぶらかし、草堂をなりとも求めうと存ずる、又爰に譜代召使う者が御座る、某の不仕合せ故、きやつ迄出家致させて置いた、此者を呼出し、相談を致さうと存ずる、新発意あるか{と云ひて呼出す出るも如常}{*1}誠に身共が不仕合せ故、汝迄迷惑させて、此様な面目ない事はない▲小アト「まづかう有らうと存じて、前方から色々と御意見申せども、御承引御座らぬに依つて此通りで御座る▲シテ「後悔先に立たずと云ふが此事ぢや、扨そちが知る通り、此様にして居ては渡世をせう様がない、何卒在方を廻り田舎者をたぶらかし、草堂をなりとも求めうと思ふが何と有らうぞ▲小アト「御経も御存知なうて、寺持にはなられますまい▲シテ「いや夫も思案をして置いた、毎も博奕の場で仕合せのよい時、其傘を以ておどるに哥があるが、覚えて居るか▲小アト「夫は何とやらで御座りました▲シテ「果きなふ通る小傘が、けふも通り候、あれ見さいたいよ、是見さいたいよといふ事ぢや▲小アト「夫がお経になりまするか▲シテ「いやかう言ふては御経にならぬ、是にふしをつけて{と云ひて此文句をお経の様に言ふ}▲小アト「いか様是は御経の様に聞えまする▲シテ「汝もちと言ふて見よ▲小アト「畏つて御座る{と云ひてきのう通るをふしなしに言ふなり}▲シテ「やいやい其様にあらはに言ふてはならぬ、其声にうなりをつけて{と云ひてきなのう通るを半分ほどふしにて言ふ}{*2}などゝいふ事ぢや▲小アト「左様ならば今度は同音に申して見ませう▲シテ「一段とよからう▲二人「きなふ通る小傘が、今日も通り候、あれ見さいたいよ、是見さいたいよ▲小アト「是では後がつまらぬ物で御座る▲シテ「いや此後へなまうだなまうだと云ふ事を入れうぞ▲小アト「若しお経を読めと申したらば、何となされまする▲シテ「夫は草堂にわすれて来たといはう▲小アト「先から御経を出して、是を読めと云ふたらば何と被成ます▲シテ「そちが様に物の先きを祈る様に云ふてはならぬ、夫は又其時しのぎに依つて、某が面白おかしういはう、さあさあこいこい▲小アト「心得ました▲シテ「誠に相撲の果は喧嘩になり、博奕の果は盗になると申すが、是も盗同前の事ぢやなあ▲小アト「何れ盗に遠からぬもので御座る▲シテ「身から出したさびなれば、誰を恨むる事もならぬ▲アト「いや是へ一段の御出家が通らるる、言葉を掛けう、申し申し是々▲シテ「此方の事で御座るか▲アト「成程こなたの事で御座る、是はどれからどれへお通りなさるゝぞ▲シテ「愚僧は風に木の葉の散る如くで御座る▲アト「是は面白い御返答で御座る、夫には心が御座るか▲シテ「別に心と申す事も御座らぬ、木の葉と申すものは、風が吹けば何方へも参りまする、愚僧もまづ其如く、誘はせらるゝ方へ参るに依つて、風に木の葉の散る如くと申す事で御座る▲アト「もし止めたらば止まらせられうか▲シテ「夫は唯今も申す通りで御座る▲アト「幸ひのお方へ言葉を掛て御座る、此度一在所として、草堂を建立致して御座る、堂は思ふ儘に出来て御座れ共、いまだ堂守が御座らぬ、何卒御出被成て下されますまいか▲シテ「夫こそ出家の望む所なれ、成程参りませう▲アト「何もお望みは御座らぬか▲シテ「いや別に望みは御座らぬ、衣と紙子を下さるればよう御座る▲アト「夫は心安い事で御座る何と唯今でも御出被成れうか▲シテ「何時なりとも参りませう▲アト「さあさあ御出被成い▲シテ「相談が極ツた汝もこい▲小アト「畏つて御座る▲アト「あのお方はどなたで御座る▲シテ「あれは愚僧が弟子で御座る▲アト「いやお前おひとり御出被成れて下されい▲シテ「惣じて法事の時分には是非共人がいりまする、常は修行に成り共出しまして、在所中のお世話には致しますまい程に、召連れさせて下され▲アト「左様ならば御勝手次第に被成れませ▲シテ「案内者の為こなたから御座れ▲アト「夫ならばお先へ参りませう、さあさあお出被成れませ▲シテ「心得ました▲アト「扨ふと言葉をかけましたに、早速御同心被成れて、此様な悦ばしい事は御座らぬ▲シテ「袖の振合せも他生の縁と申す、定めて仏のお引合せで御座らう▲アト「夫は難有い事で御座る▲シテ「扨御建立の堂は何程に出来ました▲アト「三間四面で御座る▲シテ「大きい堂ぢやなあ▲小アト「左様で御座る▲シテ「本尊なども此度御出来被成たか▲アト「成程御本尊も結構に御出来に成つて御座る▲シテ「仏具等も悉く御用意で御座らう▲アト「残らず調ひまする、別して御経抔も悉く用意致して御座る▲シテ「やあ御経が御座るか▲アト「中々▲シテ「扨々にがにがしい物があるではないか▲小アト「何れいらぬ物が御座りまする▲アト「申し申し、御出家の分として御経をにがにがしいの、いらぬ物のと仰せらるゝは、どうした事で御座る▲シテ「御不審御尤で御座る、先某は小僧の時より学文を励み、一切経を残らず暗じて居りまする、師匠の申さるゝは、後世の為には念仏に上こす事はない、もしお経抔をよふたらば、勘当ぢやと申されたに依つて、にがにがしい、いらぬ物があると申す事で御座る▲アト「是は御尤で御座る、又見ますれば傘を御持参で御座る、あれも何ぞ法事にいりますか▲シテ「傘こそ仏具第一のもので御座る、夫仏の後に後光と云ふものがある、ふな後光、ひかり後光、傘後光抔と云ふてある、別して法事の時分入用の仏具で御座るに依りて持せて御座る▲アト「扨々きき事でこそ御座れ、在所へ帰つて何れもへ申して御座らば、定めて難有う存ずるで御座らう▲シテ「かう参るからは寄り親殿と頼みまする、万事引廻して下されい▲アト「其段は心易う思召しませ{*3}いや何彼と申す内に早是で御座る▲シテ「是で御座るか▲アト「則此度建立の堂も是で御座る▲シテ「信は荘厳より起ると申すが、結構な荘厳で御座る▲アト「先づこうお通りなされませ▲シテ「心得ました{後見より正面へつくへを直す也{*4}}▲アト「お下向の由を在所中へ申しませう、暫くお待被成れて被下りませ▲シテ「心得ました▲アト「なうなう何れも御座るか▲立衆「是に居まする▲アト「都より草堂のお住持を同道致して、唯今帰つて御座る▲立衆「扨々夫は御苦労で御座つた▲アト「則今日入院の儀式に、堂供養の法事をもなさるゝ、皆同道して参詣致しませう、さあさあ御座れ御座れ▲立衆「心得ました▲アト「在所の衆が何れも参られて御座る▲シテ「是は何れもようこそ参らせられた▲立衆「遠方の所を御下り被成れて忝う存じまする▲シテ「追付{*5}法事を始めませう、去りながら、唯参らせられては功徳が薄い、何なりとも志の施物を上げさせられい▲アト「今日儀式の事で御座るに依つて、御布施の用意は御座らぬ▲シテ「さもしい事を云ふ人ぢや、ちりをむすんでも志ぢや、何成共持合せの物をあげて、此様な法事を幸ひに、吊ひたい亡者もあらば仰せられい、夫も地獄へやりたくば勝手次第ぢや▲小アト「さあさあ何れも何成共あげて、現当二世安楽を頼ませられい▲尼「申し申し、此小袖を如来様へ手向けませう、わらはが後世菩提をおがませられて下されい▲シテ「御奇特で御座る、心易う思はしめ、後世菩提を祈つて進ぜう▲アト「明日は志す日{*6}で御座る、此一腰を仏へ上げまする、自他平等利益を拝うて下されい{と云ひて銘々少刀抜いて机の上にならべる其他よき妻をもうけるため息災延命二世安楽抔祈願色々面白くせりふ色々あるべき也}▲シテ「さらば法事を始めませう▲アト「一段とよう御座らう{シテ小アト二人立つてシテ鉦を切て仏前へ礼拝する仕方あり扨きなふ通るを経の様に云ひて二人入違ふて道行{*7}の心持ちなり立衆も皆々廻る扨廻り仕舞ひ立衆大小の前にならびゐる其内シテ顔にて小アトにすき間あらば仏前の道具を取れと云ふ心持をする小アト合点せずうろうろするを気の毒がる心持{*8}色々ある可し其内尼が邪魔になり度々引立に尼本座に直る{*9}扨経を早め拍子ののりて参詣の立衆各うつりて踊る念仏申すを見て念仏早める猶しらぬ内目くばせする小アト仏具小袖少刀皆々取りて先きへ行く}▲シテ「一段の仕合せぢやすかそう{と云ひて二人入る立衆しらずに踊つている中心づきて}▲アト「なうなう今の御坊が見えませぬ▲立衆「仏具が皆ないぞや▲アト「扨はまいす坊主ぢや、皆追かけさせられい▲立衆「心得ました▲各「やるまいぞやるまいぞ▲尼「ゑゝ腹立や腹立や、孫にもやらぬ大事の小袖を、あのまいす坊主にとられたか、たれぞ取り返してくれいのう、腹立や腹立や、{と云て追込入るなり。}
校訂者注
1:底本は、「▲シテ「誠に身共が不仕合せ故」。
2:底本は、「▲シテ「などゝいふ事ぢや」。
3:底本は、「▲アト「いや何彼と申す中(うち)に」。
4:底本は、「つくへを直す事も也」。
5:底本は、「押付」。
6:底本は、「志日(こゝろざすひ)」。
7:底本は、「行道の心持ちなり」。
8:底本は、「心色々ある可し」。
9:底本は、「直る尼本座に直る」。
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