石神(いしがみ)(三番目 四番目)

▲シテ「この辺りの者でござる。某(それがし)が、常々好いて呑む酒を、女共が嫌うて、とやかう申し、又、夜前も大御酒(おほごしゆ)を下されてござれば、今朝(こんてう)はめつきり腹を立て、隙(ひま)をくれい、往(い)なうと申す。あれが帰つては、片時(かたとき)も世帯の世話もならず、その上身共まで、この家に居る事のならぬ訳がござる。と申して、女に向うて、堪忍をしてくれいと申すも、口惜しうござる。又、こゝに、彼(かれ)が参つた時、肝煎りせられた御方がござる。これへ参り、何とぞ女共が帰らぬ様に、異見をして貰はうと存ずる。しかじか、誠に女共が申すも、無理ではござらぬ。昼夜ともに酒が好きで、渡世の事も打ち忘れてゐるによつて、腹を立つるも、尤でござる。
{と云ひて、行き着き、案内乞ふ。常の如し。}
▲アト「何として、わせられたぞ。
▲シテ「只今参るは、別の事でもござらぬ。女共が、隙(ひま)をくれい、出て行かうと申しまする。
▲アト「それは、何ぞ夫婦いさかいでも召されたか。
▲シテ「いや。かつて、左様の事も致しませぬ。
▲アト「でも、只往(い)なうと云ふ筈はないが。あゝ。いつぞやであつた、御内儀がわせられたが、世帯の事も構はず、昼夜、酒ばかり呑うでゐると云うて、殊の外、不機嫌にあつたが。扨は又、酒が過ぎたものであらう。
▲シテ「何(いづ)れ、この中(ぢゆう)は、少し過ぎましたさうにござる。
▲アト「それそれ、お見あれ。身共が節々(せつせつ)異見をすれども、御聞きあらぬ。とかく酒を止(と)まるならば、取り扱はうず。又、止(と)まるまいならば、身共は存ぜぬ。
▲シテ「何が扨、この後はふつふつ、御酒(ごしゆ)は止(と)まりませう程に、どうぞ、女共が帰らぬ様に、なされて下されい。
▲アト「それならば、御内儀が往(い)ぬると云うても、某が方(はう)へ断りなしには行かぬであらう。これへ見えたらば、良い様に云はうぞ。
※▲シテ「いや。女共は、今朝(けさ)から恐ろしい顔つきで、身づくろひを致してをりました。定めて、これへ参るでござりませう。途中で逢へば、難しうござる。暫く、これに置かせられて下されい。
▲アト「成程、尤ぢや。それならば、奥の間へ入つて居て、様子をお聞きあれ。
▲シテ「畏つてござる。
▲女「この辺りの者でござる。妾(わらは)が連れ合ひは、大酒呑みで、世帯の事も構はず、外を家にして出歩(であり)きまするによつて、人を頼うで意見をしてもらひつゝ、色々と致せども、とかく根性が直りませぬ。妾もほうど、厭(あ)き果てゝござるによつて、親里へ往(い)なうと思ひまする。さりながら、妾が嫁入りをして来る時より、世話をして下された御方がござる。これへ御断りを申して、すぐに帰らうと思ひまする。誠に、一度や二度の事ならば、堪(こら)へもしませうが、余り再々でござるによつて、愛想も尽き果てた事でござる。とかく、これまでの縁であらうと思ひまする。何かと申す内に、これぢや。
{と云ひて案内乞ふ。出るも常の如し。}
和男(わをとこ)が又、度々大酒(たいしゆ)をして、酔狂を致す。御前の御耳へ入れまするも、恥づかしうござれども、どうもなりませぬ。もはや、妾も愛想が尽きましたによつて、出て行かうと存じまして、御断りに参りました。
▲アト「又か。
▲女「中々。
▲アト「扨々、気の毒な事かな。身共も、良い事を聞く様になうて、笑止な事ぢや。さりながら、何とぞ意見をせう程に、まづこの度は、了簡を召され。
▲女「あの、仰せらるゝ事は。仏の顔も、三度撫(な)づれば腹を立てさせらるゝ。もはや、堪忍袋が切れました程に、左様に御心得なされて下されい。
▲アト「して、何と、暇(いとま)の印(しるし)を取つたか。
▲女「いや。暇の印は取りませねども、御前に御断り申せば、良うござる。
▲アト「いやいや。某に断りを云うた分では済むまい。
▲女「それならば帰つて、暇の印を取つて参りませう。
▲アト「あゝ、これこれ。まづ、御待ちあれ。それ程までに思ひつめたらば、止めもせまい。さりながら、物は良う思案をしたが良い。まづ、そなたが因果の程を知らぬ。あれを嫌うて、又あれに重を越した大酒呑みを、男に持つまいものでもない。とかくこの上は、神仏次第に召され。則ち、出雲寺(いづもじ)の夜刃神(やしやじん)は、殊の外、申す事は叶ふと云ふ程に、あれへ行(い)て、石神を引いて見て、御鬮(みくじ)次第に召されたらば、良からうと思ふ。
▲女「誠に、仰せらるれば、尤でござる。妾が因果で、又どの様な男に連れ添ふまいものでもござらぬ。成程、この上は石神を引いて、御鬮次第に致しませう。
▲アト「一段と良からう。さりながら、昼は人目も繁い。暮れに及うで行かしめ。
▲女「心得ました。又しても又しても、良い事は申して参らいで、御世話になりまして、この様な気の毒な事はござらぬ。
▲アト「何しにさう思はうぞ。又、御出あれ。
▲女「も、かう参りまする。
{と云ひて、常の如く暇乞して、女は大鼓座へ行く。
※シテ、始終立ち聞きし、扨、女、暇乞ひして行くと、アトの袖を引くなり。}
▲シテ「申し申し。参りましたの。
▲アト「何と、御聞きあつたか。
▲シテ「成程、承りました。
▲アト「そなたが世帯の事も構はず、大酒ばかり呑うでゐると云うて、いかう腹を立てた。
▲シテ「いや。この度の事は、女共の申すが皆、尤でござる。この間は、御酒も少々、過ぎましてござる。
▲アト「いや。少々ではなかつたさうな。
▲シテ「面目もござりませぬ。扨、只今仰せられました事は、一つとして私は合点が参りませぬが、あれはどうした事でござる。
▲アト「されば、お聞きある通り、色々と云うたれども、聞かぬによつて、ふと、身共が分別をした。某が思案には、そなたを石神にして出雲寺へやつておいて、扨、御内儀が参詣して、添へと思し召さば上がらせられいとか、上がらせられなとか、云うであらう。そなたは、傍に聞いてゐる事ぢやによつて、どうなりとも、良い様にしたが良い。
▲シテ「はあ。扨は、私が石神になる事でござるか。
▲アト「中々。
▲シテ「これは、格別の御分別が出ましたが、して、その石神には何としてなりませうぞ。
▲アト「それは、何もかも道具を貸して、取りつくらうてやらう程に、これへ寄らしめ。
▲シテ「畏つてござる。
{と云ひて、大小の前にて肩衣をとり、水衣(みづごろも)を着せ、強師頭巾着せしめ、縄、左の肩より筋交(すぢか)ひに掛くるなり。口伝。}
▲アト「扨、云ふまではないが、これに懲りて、以来はふつふつ大酒(おほさけ)を召されな。
▲シテ「向後(きやうこう)は、禁酒に仕(つかまつ)りませう。
▲アト「それそれ。それで良いぞ。
▲シテ「これは、変つた形(なり)になりました。
▲アト「扨、この面を貸さう程に、あれへ行(い)て、良い時分に着さしめ。
▲シテ「忝うござる。も、かう参りまする。
{と云ひて、暇乞ひして行く。}
▲シテ「扨も扨も、分別のある人かな。あの女が、大抵の事で聞く様なやつではないに、あの人の蔭で、ざつと往(い)なしはせまいと存ずる。いや、何かと云ふ内に、出雲寺ぢや。その、石神は、どれにござるぞ。さればこそ、これにある。まづ、この石神は、のけておいて。
{と云ひて、石神をのける。仕様あり。}
もはや、暮れに及うだ。女共が参るであらう。さらば、石神になつて居ようと存ずる。
{と云ひて、脇座にて、葛桶に腰掛け、面を着る。}
▲女「やうやう、暮れに及うでござる。参らうと思ひまする。誠に、この度は、是非とも暇を取らうと存じたれども、何某(なにがし)殿の仰せらるゝが、余り尤でござるによつて、とかくこの上は、神仏次第に致さうと思ひまする。何かと云ふ内に、これぢや。扨も扨も、御殊勝な事かな。
{と云ひて、拝む。}
只今参る事、別の義でござらぬ。妾が夫は、大酒呑みのならず者で、世帯の事も構はず、外を家にして、出歩(であ)きまする。末々の事も、心元なうござるによつて、縁を切らうと思ひまする。さりながら、妾が因果の程を存じませぬによつて、今、石神を引いて、御鬮次第に致しまする。今までの男に添へと思し召さば、上がらせられい。添ふなと思し召さば、上がらせられな。
《小歌》{*1}我が恋は、遂げうずやらう、末遂げうずやらう。上がれ上がれ上がれ、上がらしめ。なう、石神。
{と云ひて、引き立つる。石神、上がる。}扨も扨も、あの男に縁があるやら。石神が上がらせられた。迷惑な事かな。いや。疑うではござらねども、今度は、さか鬮を引きまする。添へと思し召さば、上がらせ給ふな。添ふなと思し召さば、上がらせられい。
《小歌》{*2}たゞ人は。見るに惚れ候。もしは又、文殊の再来か。行平の中納言も。見ずば何ともな。
{女、引き立つる。シテ、少しも動かぬなり。}
なうなう。不興(ぶつきよう)や、不興や。とかく、あの男に縁があるやら、石神が上がらせられぬ。是非に及ばぬ。添ふぢやまで。扨、この様な神様に御苦労をかけて、只は帰られまい。妾が辺りには神子(みこ)がござるによつて、神楽の参らせ様を習うて置いた。今の御礼にぞと、袖神楽を参らせうと思ひまする。
{と云ひて、大鼓座より鈴を持ち出し、}
おゝ、遥かなる沖にも石のあるものを。夷(えびす)の御前(ごぜ)の腰懸けの石。
{神楽打ち出し。鼓・笛、云ひ合(あは)せするべし。一段、順に舞ふ。シテ、少しうつる。}
おゝ、めでたやな、めでたやな。只今の御神楽(みかぐら)の感応(かんのう)により、夜の驚き、昼の騒ぎなく、何事も、思ふ所望を叶へ給ふ。ありがたや。
{と云ひて、又舞ひ出す。シテ、脇にうつり、後には面を額へ掛けて、面白がる。仕様、色々工夫あるべし。その内に、女見つけて、}
やあ。和男ではないか。
▲シテ「南無三宝。見つけられた。
▲女「なうなう。腹立ちや、腹立ちや。
{と云ひて、追ひ込み入るなり。}

(但しシテ、中入りをする事もあり。その時は、
※▲シテ「近頃、忝うござる。とかく、宜しく願ひ上げまする。
{と云ひて、暇乞ふ。常の如し。シテ、中入りする。女出て、しかじかありて、大鼓座につくと、出る。}
※▲シテ「女共が、内に居らぬ。定めて、何某殿へ参つたものであらう。参つて、様子を承うと存ずる。何とぞ、誰殿の御意見を承つて、承引致せば良うござるが。何とござらう。心元ない事でござる。何かと云ふ内に、これぢや。
{と云ひて、案内乞ふ。出るも常の如し。}
▲アト「ゑい、誰。良い所へ御出やつた。
▲シテ「帰つて見ましたれば、女共が、内に居りませぬ。定めて、こなたへ参つたでござらうと存じまして、様子を承りに参りました。
▲アト「成程、わせたが。そなたが、世帯の事も構はず(前の通り)扨、身共も色々と云うたれども、聞かぬによつて、ふと思ひついて、出雲寺へ行(い)て、石神を引いて、御鬮次第に召されい。さりながら、昼は人目も繁い。暮れに及うでお行きやれ。と云うたれば、やうやう得心をして往(い)んだ。身共が思ふは、そなたを石神にして、
しかじかとなる。)

校訂者注
 1:底本、ここから「上らしめのう石神」まで、傍点がある。
 2:底本、ここから「行平の中納言も。みずは何ともな」まで、傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.

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石神(イシガミ)(三番目 四番目)

▲シテ「此辺りの者で御座る、某が常々すいて呑む酒を、女共がきらうて、とやかう申し、又夜前も大御酒を下されて御座れば、今朝はめつきり腹を立て、隙をくれいいのうと申す、あれが帰つては、片時も世帯の世話もならず、其上身共迄此家に居る事のならぬ訳が御座る、と申して女に向うて、堪忍をしてくれいと申すも、口惜しう御座る、又爰に彼が参つた時、肝煎せられた御方が御座る、是へ参り何卒女共が帰らぬ様に、異見をして貰はうと存ずる、しかしか、誠に女共が申すも無理では御座らぬ、昼夜共に酒がすきで、渡世の事も打ち忘れて居るに依つて、腹を立つるも尤もで御座る{と云て行つき案内乞如常}▲アト「何としてわせられたぞ▲シテ「唯今参るは別の事でも御座らぬ、女共が隙をくれい出て行かうと申しまする▲アト「夫は何ぞ夫婦いさかいでもめされたか▲シテ「いや曽て左様の事も致しませぬ▲アト「でも唯いのうと云ふ筈はないが、あゝいつぞやであつた、御内儀がわせられたが、世帯の事も構はず、昼夜酒計り呑うでゐると云ふて殊の外不機嫌にあつたが、扨は又酒が過ぎた者で有らう▲シテ「何れ此中は少し過ぎましたさうに御座る▲アト「夫々お見あれ、身共がせつせつ異見をすれどもお聞あらぬ、兎角酒をとまるならば取扱はうず{*1}、又とまるまいならば身共は存ぜぬ▲シテ「何が扨此後はふつふつ御酒はとまりませう程に、どうぞ女共が還らぬ様に被成て下されい▲アト「夫ならばお内儀がいぬると云ふても、某が方へ断りなしにはゆかぬであらう、是へ見えたらばよい様に云はうぞ▲シテ「いや女共は今朝からおそろしい顔つきで、身づくろひを致しておりました、定て是へ参るで御座りませう、途中で逢へば六ツケ敷う御座る、暫らく是におかせられて下されい▲アト「成程尤もぢや、夫ならば奥の間へはいつて居て様子をお聞きあれ▲シテ「畏つて御座る▲女「此辺りの者で御座る、わらはがつれあひは大酒呑で世帯の事も構はず、外を家にして出ありきまするに依つて、人を頼うで意見をしてもらひつゝ{*2}、色々と致せども、兎角根性がなほりませぬ、わらはもほうど{*3}あきはてゝ御座るに依つて、親里へいのうと思ひまする、去り乍ら妾が嫁入をして来る時より、世話をして下されたお方が御座る、是へお断を申してすぐに帰らうと思ひまする、誠に一度や二度の事ならばこらへもしませうが、余り再々で御座るに依つてあいそもつきはてた事で御座る、兎角是迄の縁であらうと思ひまする、何彼と申す内に是ぢや{と云て案内乞出るも如常}{*4}和男が又度々大酒をして酔狂を致す、お前のお耳へ入れまするも恥かしう御座れども、どうもなりませぬ、最早妾もあいそがつきましたに依つて、出て行かうと存じましてお断りに参りました▲アト「又か▲女「中々▲アト「扨々気の毒な事かな、身共もよい事を聞く様になうて笑止な事ぢや、去り乍ら何卒意見をせう程に、先此度は了簡をめされ▲女「あの仰せらるゝ事は、仏の顔も三度なづれば腹を立てさせらるゝ、最早堪忍袋がきれました程に、左様にお心得被成て下されい▲アト「して何と暇の印を取つたか▲女「いや暇の印は取りませね共、お前にお断り申せばよう御座る▲アト「いやいや某に断りを云ふた分ではすむまい▲女「夫ならば帰つて暇の印を取て参りませう▲アト「あゝ是々先お待ちあれ、夫程迄に思ひつめたらば止めもせまい、去り乍ら物はよう思案をしたがよい、先そなたが因果の程を知らぬ、あれを嫌うて又あれに重をこした大酒呑を男に持つまい物でもない、兎角此上は神仏次第にめされ、則出雲寺の夜刃神は殊の外申す事は叶ふといふ程に、あれへいて石神を引いて見て、御鬮次第にめされたらばよからうと思ふ▲女「誠に仰せらるれば尤もで御座る、わらはが因果で又どの様な男につれそうまいものでも御座らぬ、成程此上は石神をひいて、御鬮次第に致しませう▲アト「一段とよからう、去り乍ら昼は人目も繁い、くれに及うでゆかしめ▲女「心得ました、又しても又しても、よい事は申して参らいでお世話になりまして、此様な気の毒な事は御座らぬ▲アト「何しにさう思はうぞ、又お出であれ▲女「もかう参りまする{と云ひて如常暇乞して女は大鼓座へ行シテ始終立聞し扨女暇乞して行くとアトのそでを引くなり}▲シテ「申し申し参りましたの▲アト「何とお聞あつたか▲シテ「成程承はりました▲アト「そなたが世帯の事も構はず、大酒ばかり呑うでゐると云ふていかう腹を立てた▲シテ「いや此度の事は女共の申すが皆尤で御座る、此間は御酒も少々過ぎまして御座る▲アト「いや少々ではなかつたさうな▲シテ「面目も御座りませぬ、扨唯今仰せられました事は、一つとして私は合点が参りませぬが、あれはどうした事で御座る▲アト「さればお聞ある通り、色々と云ふたれどもきかぬに依つて、不斗身共が分別をした、某が思案には、そなたを石神にして出雲寺へやつておいて、扨御内儀が参詣して、添へと思召さば上らせられいとか、上らせられなとか云ふであらう、そなたはそばに聞いてゐる事ぢやに依つて、どう成共よい様にしたがよい▲シテ「はあ扨は私が石神になる事で御座るか▲アト「中々▲シテ「是は格別の御分別が出ましたが、して其石神には何として成ませうぞ▲アト「夫は何も彼も道具をかして、取つくらうてやらう程に是へよらしめ▲シテ「畏つて御座る{と云て大小の前にて肩衣をとり水衣をきせ強師頭巾きせしめ縄左の肩よりすぢかひに掛るなり口伝}▲アト「扨云ふ迄はないが、是にこりて以来は、ふつふつ大酒をめされな▲シテ「向後は禁酒に仕りませう▲アト「夫々夫でよいぞ▲シテ「是はかはつたなりに成りました▲アト「扨此面をかさう程にあれへ行てよい時分にきさしめ▲シテ「忝う御座る、もかう参りまする{と云て暇乞して行く}▲シテ「扨も扨も分別のある人かな、あの女が大抵{*5}の事できく様なやつではないに、あの人の影でざつといなしはせまいと存ずる、いや何彼と云ふ内に出雲寺ぢや、其石神はどれに御座るぞ、さればこそ是に有る、先此石神はのけておいて{と云て石神をのけるしやうあり}{*6}最早くれに及うだ、女共が参るであらう、さらば石神になつて居様と存ずる{と云て脇座にて葛桶に腰掛け面をきる}▲女「漸々暮に及うで御座る参らうと思ひまする、誠に此度は是非共暇をとらうと存じたれ共、何某殿の仰せらるゝが余り尤もで御座るに依つて、兎角此上は神仏次第に致さうと思ひまする、何彼と云ふ内に是ぢや、扨も扨も御殊勝な事かな{と云ておがむ}只今参る事別の義で御座らぬ、わらはが夫は大酒呑のならず者で世帯の事もかまはず、そとを家にして出ありきまする、すゑずゑの事も心許なう御座るに依つて縁を切らうと思ひまする、去り乍らわらはが因果の程を存じませぬに依つて、今石神をひいて御鬮次第に致しまする、今迄の男にそへと思し召さば上らせられい、そうなと思し召さば上らせられな《小歌》わが恋は、とげうずやらう、すゑとげうずやらう、あがれあがれあがれ{*7}。上らしめのう石神{と云て引立る石神上る}{*8}扨も扨もあの男に縁があるやら石神が上らせられた、迷惑な事かな、いや疑うでは御座らねども、今度はさか鬮を引きまする、そへとおぼしめさば上らせ給うな、そうなと思召さば上らせられい、《小歌》たゞ人は。見るにほれ候。もしは又文殊のさいらいか{*9}。行平の中納言も。みずば{*10}何ともな{女引立るシテ少も動かぬ也}{*11}なうなう不興や不興や、兎角あの男に縁があるやら、石神が上らせられぬ、是非に及ばぬそうぢやまで{*12}、扨此様な神様に御苦労をかけて唯は帰られまい、わらはが辺りには神子が御座るに依つて、神楽の参らせ様を習うておいた、今のお礼にぞと袖神楽を参らせうと思ひまする{と云て大鼓座より鈴を持出}{*13}おゝはるかなる沖にも石のある物を、夷のごぜの腰懸の石{神楽打出し鼓笛云合するべし一段順に舞シテ{*14}少写}{*15}おゝ目出たやな目出たやな、唯今の御神楽の感応により、夜の驚き、昼のさわぎなく、何事も思ふ所望を叶へ給ふ、有難や{と云て又舞出すシテ脇にうつり後には面を段{*16}へかけて面白がる仕様色々工夫あるべし其内に女見つけて}{*17}やあ和男ではないか▲シテ「南無三宝見つけられた▲女「なうなう腹立や腹立や、{*18}{と云ひて追込入るなり}(但しシテ中入をする事も有り其時は▲シテ「近頃忝う御座る、兎角宜敷願ひ上げまする{と云ていとま乞如常シテ{*19}中入する女出てシカシカありて大鼓座につくと出る}▲シテ「女共が内に居らぬ、定めて何某殿へ参つた者であらう、参つて様子を承らうと存ずる、何卒誰殿の御意見を承はつて承引致せばよう御座るが、何と御座らう心許ない事で御座る、何彼と云ふ内に是ぢや{と云て案内乞出るも如常}▲アト「ゑい誰、よい所へお出やつた▲シテ「帰つて見ましたれば、女共が内に居りませぬ、定めてこなたへ参つたで御座らうと存じまして、様子を承りに参りました▲アト「成程わせたがそなたが{*20}、世帯の事もかまはず(前ノ通){*21}扨身共も色々と云ふたれ共、きかぬに依つてふと思ひついて、出雲寺へいて石神を引いて御鬮次第にめされい、去り乍ら昼は人目もしげい暮に及うでお行きやれと云ふたれば{*22}、ようよう得心をしていんだ、身共が思ふはそなたを石神にして。シカシカとなる){*23}

校訂者注
 1:底本は、「酒をとまるならば取扱はず」。
 2:底本は、「意見をしてもらひつ、」。
 3:底本は、「ほうと」。
 4:底本は、「▲女「和男が又々大酒をして」。
 5:底本は、「大低」。
 6:底本は、「▲シテ「最早くれに及うだ」。
 7:底本は、「とけうすやらう、すゑとけうすやら、あかれ(二字以上の繰り返し記号)あかれ」。
 8:底本は、「▲女「扨も扨もあの男に」。
 9:底本は、「たゝ人は。見るにほれ候。もしは又文殊のさいらいが」。
 10:底本は、「みずは何ともな」。
 11:底本は、「▲女「なうなう不興や」。
 12:底本は、「そうぢやまて」。
 13:底本は、「▲女「おゝはるかなる沖にも」。
 14:底本は、「して少写」。
 15:底本は、「▲女「あう目出たやな」。
 16:底本、「段」の字、不審。或いは「額」などの誤植か。
 17:底本は、「▲女「やあ和男ではないか」。
 18:底本は、「と云ひて追込入るなり」は本文と同じ活字で、割注になっていない。
 19:底本は、「して中入する」。
 20:底本は、「そなたか」。
 21:底本は、「▲アト「扨身共も色々と云ふたれ共」。
 22:底本は、「云ふなれば」。
 23:底本、ここに「)」はない。