悪坊(あくばう)(二番目)

▲アト「これは、東近江に住居(すまひ)致す者でござる。今朝(こんてう)、西近江へ御斎(おとき)に参つて、只今、帰るさでござる。誠に、今朝(こんてう)は雨が降りさうなにござつたによつて、傘(からかさ)を用意致してござれば、重畳の天気になつて、この様な悦ばしい事はござらぬ。
{と云ふ内に、シテ、酒に酔ひながら、謡うたうて出るなり。}
▲シテ「御坊、御坊。なう、御坊。
▲アト「この方の事でござるか。
▲シテ「成程、そなたの事ぢや。御坊は、どれからどれへ、お行きある。
▲アト「東近江から西近江へ、帰る者でござる。
▲シテ「何ぢや。東近江が西近江へ、ひつくり返つた。
▲アト「いや、左様ではござらぬ。東近江の者でござるが、西近江へ御斎に参つて、只今帰るさでござりまする。
▲シテ「御供致さうぞ。
▲アト「見ますれば、御仁体(ごじんたい)でござる。御連れには似合ひませぬ。御先へ参りませう。
▲シテ「あゝ、これこれ。連れには、似合うたもあり、又、似合(にあは)ぬもある。是非とも、御供申さう。
▲アト「扨は、是非ともでござるか。
▲シテ「中々。
▲アト「左様ならば、御供仕(つかまつ)りませう。
▲シテ「さあさあ、お行きあれ。
▲アト「何が扨、まづ、御出なされませ。
▲シテ「いやいや。御出家を後には置かれぬ。さあさあ、お行きあれ。
{と云ひて、ひよろひよろ、シテ、アトの後より行く内、長刀を杖につき、又、アトの鼻の先などへ出す。恐ろしがる仕様あるべし。}
扨、御坊は、どれからどれへ、お行きあるなう。
▲アト「東近江の者でござるが、今朝(こんてう)、西近江へ御斎に参つて、只今、帰るさでござる。
▲シテ「ぢや、ところで、御供致さう。
▲アト「御供仕りませう。
▲シテ「扨、御坊。何と、この長刀をお見あつたか。
▲アト「成程、見ましてござる。
▲シテ「この長刀を、かう構へたが早からうか。但し又、かう構へたが早からうか。
▲アト「されば、何とござりませうぞ。
▲シテ「何とあらうとは、遅からうといふ事か。
▲アト「いかないかな。左様ではござりませぬ。
▲シテ「おそらく、早からうと思ふ。
▲アト「あゝ。危なうござる、危なうござる。
▲シテ「御坊は、手者(てしや)ぢやわいの。
▲アト「なぜにでござります。
▲シテ「その傘でお留めあつたは、この長刀が切れまいといふ事か。
▲アト「いかないかな。左様ではござりませぬ。
▲シテ「おそらく、傘の五本や十本は、なで切りにして見せう。
▲アト「あゝ。お許されませ、お許されませ。
▲シテ「恐いか。
▲アト「恐うござる。
▲シテ「それならば、御坊。ちと、手を引いておくりあれ。
▲アト「何を。手を引け、とござるか。
▲シテ「中々。
▲アト「畏つてござる。
{と云ひて、恐る恐る、手を引き行く。仕様あり。}
▲シテ「扨、御坊は、どれからどれへ、お行きある。
▲アト「東近江から西近江へ、帰る者でござる。
▲シテ「扨、このあなたに、存じた茶屋がある。これへ連れて行(い)て、休ませうぞ。
▲アト「それは、忝う存じまする。
▲シテ「何かと云ふ内に、これぢや。さあさあ、お通りあれ。
▲アト「通つても、苦しうござらぬか。
▲シテ「つゝとお通りあれ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「亭主はをらぬか、やい。
▲小アト「これに居ります。
▲シテ「旅の御出家を一人、御供申した。一飯(いつぱん)を拵(こしら)へい。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「嫌か。
▲小アト「あゝ。嫌ではござりませぬ。
▲シテ「憎いやつの。早う拵へい。
▲小アト「心得ました。
▲シテ「御坊、御草臥(おくたびれ)あつたか。
▲アト「いや、左様にもござりませぬ。
▲シテ「扨、この長刀を、どこに置かうぞ。
▲アト「されば、どれが良うござりませうぞ。
▲シテ「向うへ立てゝ置かうぞ。
▲アト「それが良うござりませう。
{目附柱へ立つ心にて、ひよろひよろとするなり。}
▲シテ「これは、立たぬ。
▲アト「立ちませぬか。
▲シテ「こりあ、御坊の肩に置かう。
▲アト「あゝ。ご許されませ、ご許されませ。
▲シテ「恐いか。
▲アト「恐うござる。
▲シテ「それならば、下に置かうぞ。
▲アト「それが良うござりませう。
▲シテ「どれどれ。下に置かう。扨、御坊。大儀ながら、これへ来て、ちと腰を打つておくりやれ。
▲アト「あの、御腰を打て、でござるか。
▲シテ「中々。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「さあさあ。早う打つておくりやれ。
{と云ひて、横になる。アト、ことさらに腰を打つ事、四五度ありて後、強く打つなり。}
▲アト「このくらゐでござるか。
{と云ひて、強く打つ。シテ、驚き起き、刀に手をかける。}
▲シテ「何とする。
▲アト「眠りました。ご許されませ。
▲シテ「何ぢや。眠つた。
▲アト「はあ。
▲シテ「いや、こゝな者が。眠るといふ事があるものか。眠らぬ様に、お打ちあれ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「御坊。眠らぬ様に、静かに打つておくりやれ。
▲アト「畏つてござる。
{と云ひて、又以前の通りに、「この位、この位」と云ひて打つ。その内、シテ、寝る。アト、段々強く打つ。仕方、色々あるべし。}
▲アト「なうなう、御亭主。ござるか。
▲小アト「これに居ます。
▲アト「あれはまづ、何といふ人でござる。
▲小アト「こなたは、あれを知らせられぬか。
▲アト「いや、存じませぬ。
▲小アト「あれは、六角堂の悪坊と申して、大の酔狂人でござる。あの人に会うて、なま疵を求めぬ者はござらぬが、こなたは、どこも御怪我はござらぬか。
▲アト「いや。私はどこも、怪我は致しませなんだ。
▲小アト「それは、お仕合(しあは)せでござる。
▲アト「どうぞ、私を裏道から往(い)なして下されい。
▲小アト「こなたを往(い)なしては、身共が迷惑致す。さりながら、御出家の事ぢや程に、帰らせられい。
▲アト「それは、忝うござる。良い様に頼みまするぞ。
▲小アト「心得ました。
▲アト「なうなう、嬉しや嬉しや。まづ、急いで帰らうか。いやいや。最前から、身共をいろいろとなぶりをつたが、腹が立つ。致し様がござる。
{と云ひて、さし足して行く。傘を置き、長刀を取り、そつと柱まで戻りて、}
まづ、これさへ取れば、心安い。
{と云ひて、長刀を下に置き、又、さし足して行く。十徳{*1}を脱ぎて、助老(じよらう){*2}を抜き、下に置き、小さ刀・小袖を取り、元の座へそつと行き、小袖着、刀差し、長刀持ち、}
やい、そこなやつ。最前からいろいろとなぶつたが、良いか。これが良いか。今起きて見よ。この長刀にのせてくれうものを。はつちや{*3}、怖(こは)もの。まづ、急いですかさう。
▲シテ「むゝ。寝た事かな、寝た事かな。誰(た)そ、湯か茶か、一つくれいよ。これはいかな事。内か内かと思うたれば、いつもの茶屋ぢや。何として、こゝに寝てゐた知らぬまで。あゝ、それそれ。最前、旅の御出家を一人、御供したが、又、例の酒に酔うて、この処に寝てゐたものであらう。それならば、長刀がありさうなものぢやが。これは何ぢや。傘。はて。異(い)な物がある。こりや、何ぢや。これは確か、禅宗の座禅工夫を召さるゝ時、とやらする、助老(じよらう)といふ物ぢや。小袖もなし。これは、衣(ころも)か。こりや、一つも合点が行かぬ。何とした事ぢや知らぬまで。あゝ。今、思ひ出した。扨は、身共が日頃、酔狂をして、悪逆ばかりなすによつて、最前の御出家は、釈迦か達磨が変化(へんげ)なされて、この様の姿にとなつたものであらう。これを菩提の種として、隔夜(かくや) {*4}に入つて、後世を願はう。さりながら、今など、かやうの姿にならうとは、思ひも寄らぬ事ぢや。
{と云ひて、泣く。}{*5}思ひ寄らずの遁世や、思ひ寄らずの遁世や。小袖に替へた、この衣。刀に替へし、この助老。長刀に替へたる唐傘を、かたげて頭陀に、出よう出ようよ。
行脚の僧に。はつち、はつち。
{と云ひて、留めて入るなり。}

校訂者注
 1:「十徳」は、外出用の上衣。
 2:「助老(じよらう)」は、座禅の時に肘を置くための具。
 3:「はつちや」は、驚きや恐れを覚えた時に言う感動詞。
 4:「隔夜(かくや)」は、「隔夜詣 (かくやもうで)」。諸所の寺社を巡礼・参篭すること。
 5:底本、ここ「思ひよらずのとんせいや」から「出ふよ(二字以上の繰り返し記号)」まで、傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.

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悪坊(アクボヲ)(二番目)

▲アト「是は東近江に住居致す者で御座る、今朝西近江へお斎に参つて、只今帰るさで御座る、誠に、今朝は雨がふりさうなに御座つたに依つて、傘を用意致して御座れば、重畳の天気に成つて、此様な悦ばしい事は御座らぬ{と云う内にシテ酒にゑひ乍ら謡うたふて出るなり}▲シテ「{*1}御坊御坊、のう御坊▲アト「此方の事で御座るか▲シテ「成程そなたの事ぢや、御坊はどれからどれへ{*2}お行きある▲アト「東近江から西近江へ帰る者で御座る▲シテ「何ぢや東近江が西近江へひつくりかへつた▲アト「いや左様では御座らぬ、東近江の者で御座るが、西近江へお斎に参つて唯今帰るさで御座りまする▲シテ「お供致さうぞ▲アト「見ますれば御仁体で御座る、おつれには似合ひませぬ、御先へ参りませう▲シテ「あゝ是々、つれには似合ふたも有り、又似合ぬもある、是非共御供申さう▲アト「扨は是非共で御座るか▲シテ「中々▲アト「左様ならば御供仕りませう▲シテ「さあさあお行きあれ▲アト「何が扨先お出なされませ▲シテ「いやいや御出家を跡にはおかれぬ、さあさあおゆきあれ{と云てひよろひよろシテアトの後より行く内長刀を杖につき又アトの鼻のさき抔へだすおそろしがる仕様あるべし}扨御坊は、どれからどれへおゆきあるのう▲アト「東近江の者で御座るが今朝西近江へお斎に参つて、只今帰るさで御座る▲シテ「ぢや処で、お供致さう▲アト「お供仕りませう▲シテ「扨御坊、何と此長刀をお見あつたか▲アト「成程見まして御座る▲シテ「此長刀をかうかまへたが早からうか、但し亦かうかまへたが早からうか▲アト「されば何と御座りませうぞ▲シテ「何とあらうとは、おそからうといふ事か▲アト「いかないかな左様では御座りませぬ▲シテ「おそらく、早からうと思ふ▲アト「あゝあぶなう御座るあぶなう御座る▲シテ「御坊は手者ぢやわいの▲アト「なぜにで御座ります▲シテ「其傘でお留めあつたは、此長刀が切れまいと云ふ事か▲アト「いかないかな左様では御座りませぬ▲シテ「おそらく、傘の五本や十本は、なでぎりにして見せう▲アト「あゝおゆるされませおゆるされませ▲シテ「こわいか▲アト「こわう御座る▲シテ「夫ならば御坊、ちと手を引ておくりあれ▲アト「何を手をひけと御座るか▲シテ「中々▲アト「畏つて御座る{と云ひておそるおそる手を引き行く仕様あり}▲シテ「扨御坊は、どれからどれへおゆきある▲アト「東近江から、西近江へ帰る者で御座る▲シテ「扨此あなたに存じた茶屋がある、是へつれていて休ませうぞ▲アト「夫は忝ふ存じまする▲シテ「何彼といふ内に是ぢや、さあさあお通りあれ▲アト「通ツても苦敷う御座らぬか▲シテ「つゝとお通りあれ▲アト「畏つて御座る▲シテ「亭主はおらぬかやい▲小アト「是におります▲シテ「旅の御出家を一人お供申した、一飯をこしらへい▲小アト「畏つて御座る▲シテ「いやか▲小アト「あゝいやでは御座りませぬ▲シテ「にくいやつの、早うこしらへい▲小アト「心得ました▲シテ「御坊お草臥あつたか▲アト「いや左様にも御座りませぬ▲シテ「扨此長刀をどこに置かうぞ▲アト「さればどれがよう御座りませうぞ▲シテ{*3}「向うへたてゝ置うぞ▲アト「夫がよう御座りませう{目附柱へ立つ心にてひよろひよろとするなり}▲シテ「是はたゝぬ▲アト「たちませぬか▲シテ「こりあ御坊のかたに置かう▲アト「あゝごゆるされませごゆるされませ▲シテ「こわいか▲アト「こわう御座る▲シテ「夫ならば下に置かうぞ▲アト「夫がよう御座りませう▲シテ「どれどれ下に置かう、扨御坊大儀ながら是へ来てちと腰を打つておくりやれ▲アト「あのお腰を打てゞ御座るか▲シテ「中々▲アト「畏つて御座る▲シテ「さあさあ早う打つておくりやれ{と云て横になるアトことさらに腰を打つ事四五度ありてのちつよく打つなり}▲アト「此くらゐで御座るか{と云ひてつよく打つシテおどろきをき刀に手をかける}▲シテ「何とする▲アト「眠りましたごゆるされませ▲シテ「何ぢやねむつた▲アト「ハア▲シテ「いや爰な者が、眠ると云ふ事がある者か、眠らぬ様にお打ちあれ▲アト「畏つて御座る▲シテ「御坊眠らぬ様に、静かに打つておくりやれ▲アト「畏つて御座る{と云ひて亦以前の通りに此位此位と云ひて打つ其内シテねるアト段々つよく打つ仕方色々可有}▲アト「なうなう御亭主御座るか▲小アト「是に居ます▲アト「あれは先何と云ふ人で御座る▲小アト「こなたはあれを知らせられぬか▲アト「いや存じませぬ▲小アト「あれは六角堂の悪坊と申して大の酔狂人で御座る、あの人にあふて、なま疵をもとめぬ者は御座らぬが、こなたはどこもお怪我は御座らぬか▲アト「いや私はどこも怪我は致しませなむだ▲小アト「夫はお仕合で御座る▲アト「どうぞ私を裏道からいなして下されい▲小アト「こなたをいなしては身共が迷惑致す、さりながら御出家の事ぢや程にかへらせられい▲アト「夫は忝なう御座る、よい様に頼みまするぞ▲小アト「心得ました▲アト「のうのう嬉しや嬉しや、先急いで帰らうか、いやいや最前から身共を、いろいろとなぶりをつたが腹が立つ、致し様が御座る{と云ひてさし足して行く傘をおき長刀をとりそつと柱迄戻りて}{*4}先是さへとれば心易い{と云ひて長刀を下におき又さし足して行く十徳をぬぎてじよろうをぬき下におき小さ刀小袖をとり元の座へそつと行き小袖き刀さし長刀持}{*5}やいそこなやつ、最前からいろいろとなぶつたがよいか、是がよいか、今おきて見よ、此長刀にのせてくれうものを、はつちやこは者、先急いですかさう▲シテ「むゝ寝た事かな寝た事かな、たそ湯か茶か一つくれいよ、是はいかな事、内か内かと思ふたれば、いつもの茶屋ぢや、何として爰に寝ていたしらぬまで、あゝ夫々、最前旅の御出家を一人お供したが、又例の酒に酔ふて、此処に寝ていたもので有らう、夫ならば長刀がありさうなものぢやが、是は何ぢや、傘、果いな物がある、こりや何ぢや、是はたしか、禅宗の座禅工夫をめさるゝ時、と、やらする、じよらうといふ物ぢや、小袖もなし、是は衣か、こりや一つも合点が行ぬ、何とした事ぢやしらぬまで、あゝ今思ひ出した、扨は身共が日比酔狂をして、悪逆ばかりなすに依つて、最前の御出家は、釈迦か達磨が変化なされて、此様の姿にと成つたものであらう、是を菩提の種として、かく屋にいつて後世を願はう、去りながら、今抔加様の姿にならうとは、思ひもよらぬ事ぢや{と云ひてなく}{*6}思ひよらずのとんせいや思ひよらずのとんせいや。小袖にかへた此衣。刀にかへし此じよらふ。長刀にかへたる唐かさを、かたげてずだに。出ふよ出ふよ、あんぎやの僧に、はつち、はつち、{と云て留て入也。}

校訂者注
 1:底本、ここに「▲シテ「」はない。
 2:底本は、「とれからとれへ」。
 3:底本は、「▲アト「向うへたてゝ置うぞ」。
 4:底本は、「▲アト「先是さへとれば」。
 5:底本は、「▲アト「やいそこなやつ」。
 6:底本は、「▲シテ「思ひよらずのとんせいや」。