若和布(ワカメ)(二番目 三番目)
▲アト「丹波の国能勢の郡、当寺の住持でござる。この寺、久しう大破に及んでござるを、旦那衆の助力を以て、思ふ儘に建立致した。それに就いて、肝煎(きもい)らせられた衆中を申し入れ、振舞はうと存ずる。まづ、新発意を呼び出し、申し付くる事がござる。
{と云ひて呼び出す。出るも常の如し。}
そちが知る通り、年月(としつき)の大望(たいまう)であつたに、思ふ儘に建立した。何と、めでたい事ではないか。
▲シテ「御意なさるゝ通り、本堂は申すに及ばず、庫裡・方丈まで結構に御建立なされて、この様なおめでたい事はござりませぬ。
▲アト「扨、それについて、この度、肝煎りされた旦那衆を、ざつと一振舞(ひとふるま)ひせうと思ふが、何とあらう。
▲シテ「御意もなくは、申し上げうと存じてござる。一段と良うござりませう。
▲アト「さりながら、この山から出(づ)る物ばかりでは、馳走にならぬ。海から出る物を使ひたいが、何が良からう。
▲シテ「海から出る肴に、寺で使ふ様な物は、何もござりますまい。
▲アト「これはいかな事。そちは、魚類ばかり、海から出ると思ふか。一切の海苔類は、皆、海から出る物ぢや。それに就いて、酒の肴には若和布が良いものぢや程に、求めて来い。
▲シテ「畏つてはござれども、私は、若和布と申す物は存じませぬ。
▲アト「知らいでも大事ない。都には、沢山な物ぢや。さりながら、伊勢若和布でなければならぬ。それも、古ければ色が悪い。随分新らしい、色の良い、塩のほろりとこぽるゝ様なを求めて来い。
▲シテ「その段は、そつとも御気遣ひなされますな。
▲アト「急いで行(い)て、やがて戻れ。
{と云ひて、常の如く云ひ付け、つめるなり。}
▲シテ「火急な事を仰せ付けられた。まづ、急いで都へ上らう。某(それがし)は、未だ都を見物致さぬ。この度を幸ひに、此所彼所(こゝかしこ)をゆるゆる見物致さうと存ずる。
{これより、この類、同じ事。都へ着きて、「若和布屋はござらぬか。若和布買はう」と云ふ。小アト出て名乗る。「人を売つて渡世する者」と云ふ。扨、「若和布屋の主ぢや」と云ふ。「若和布を見せう」と云ふ。この類、何(いづ)れも同断。}
▲小アト「田舎者を、まんまと騙してはござれども、何を若和布ぢやと云うて、売つてやらう物がござらぬ。それに就いて、こゝに、いたづらな女を買ひ取りてござる。これを、若和布ぢやと云うて、売つて遣はさうと存ずる。なうなう、居さしますか。
▲女「妾(わらは)を召すは、何の御用でござる。
▲小アト「別の事でもない。御知りある通り、某も、段々不仕合(ふしあは)せなによつて、そなたを若和布ぢやと云うて、さる田舎者を騙して売つてやる程に、何事も某がためぢやと思うて、行(い)ておくりあれ。
▲女「田舎へ行く事は嫌でござれども、御前のためになる事なれば、参りませう。
▲小アト「それは、近頃満足した。さりながら、末では結句、そなたのためになる事もあらう。又、さもなくば、良い時分に迎ひに行かうぞ。
▲女「それは忝うござる。必ず迎ひに来て下され。
▲小アト「まづ、かう御通りあれ。
▲女「心得ました。
▲小アト「最前の人、居さしますか。
▲シテ「これに居まする。
▲小アト「さあさあ、若和布を見さしめ。
▲シテ「どれどれ、見せて下されい。
▲小アト「いや、これが若和布でおりある。
▲シテ「これは、存じもよらぬ事でござる。師匠の仰(お)せありましたは、振舞ひの時、酒の肴にして、口に食ふ物ぢやと云はれましたが、この人が肴になりまするか。
▲小アト「いや。昔から、名僧でなければ若和布は好ませられぬ。さりながら、口に食ふばかりが肴ではない。この若和布に酌を取らすれば、御酒(ごしゆ)も一入(ひとしほ)進むによつて、すぐにそれが、肴になる事でおりある。
▲シテ「でも、伊勢若和布でなければ悪いと云はれました。
▲小アト「いよいよ、そなたの御師匠は御功者(ごかうしや)な。惣じて、京男に伊勢女と云うて、女は伊勢の名物でおりある。この女は、伊勢の生まれで、正真の伊勢若和布でおりある。
▲シテ「扨は、そなたは伊勢生まれの人か。
▲女「中々。伊勢生まれでござる。
▲シテ「これは、合ひました。さりながら、古いは悪い、随分新らしい、塩のほろりとこぼるゝ様なを求めて来いと云はれました。
▲小アト「成程、好みにも悉く合はせてやらう。まづ、古いと云ふは、年寄りの事。年がよれば、顔の色も悪うなつて、塩もない。また、この若和布は年若なによつて、お見ある通り、貌(かほ)は桜色。あれあれ、目元に塩のこぼるゝ様な。何と良い若和布であらうが。
▲シテ「何(いづ)れ、これは好みにも悉く合ひました。求めませうが、代物(だいもつ)は何程でござる。
▲小アト「万疋でおりある。
▲シテ「それは、余り高うござる。もそつと負けて下されい。
▲小アト「いやいや。若和布に限つて負けはない。嫌ならば、おかしませ。
▲シテ「それとても、求めませう。則ち、代物は三條の大黒屋で渡しませう。
▲小アト「成程、大黒屋。存じて居る。あれで受け取るであらう。
{と云ひて、常の通り暇乞ひして、小アトは入るなり。}
▲シテ「さらば、同道致さう。さあさあ、おりあれ。
▲女「心得ました。
▲シテ「誠に不思議な縁で、同道する事ぢや。あの方へ行(い)たらば、万事心易う話すであらうぞ。
▲女「かう参るからは、そなたを寄り親殿と頼みまする。引き廻して下され。
▲シテ「それは、気遣ひ召さるな。
▲女「又、縫ひ針の御用は、妾が聞きませうぞ。
▲シテ「それは、嬉しうおりある。いや、何かと云ふ内に、これぢや。わごりよのわせた通りを申し上げう程に、暫く待たしませ。
{と云ひて、呼び出す。出るも常の如し。}
▲アト「何と、若和布を求めて来たか。
▲シテ「都に又とない、上々の若和布を求めて参りました。御目に掛けませう。
▲アト「早う見せい。
▲シテ「畏つてござる。さあさあ、あれへ御出あれ。
{と云ひて、後ろへ隠し、連れて出る。}
▲アト「はあ。見知らぬ女中がわせたが。あれは誰ぢや。
▲シテ「何と良い若和布でござりませうが。
▲アト「いや。おのれは何をぬかしをる。洒の肴にする若和布を求めて来いと云うたが、何と聞いた。
▲シテ「惣じて昔から、名僧でなければ若和布は遣はせられぬ、とかく御前(おまへ)を物知りぢや、と申して、いかう都の者が褒めました。
▲アト「呆れもせぬ事を云ふ。若和布といふは、酒の肴にして、口に喰ふ物ぢやわいやい。
▲シテ「口に喰ふばかりが肴ではない。かの女に酌を取らすれば、御酒も一入進むによつて、それがすぐに肴になる、と申してござる。
▲アト「扨は、都でぬかれてうせをつた。やい、うつけ。愚僧が念を入れて、伊勢若和布をと云うてやつたに。あの様な女を連れて来るは、どうした事ぢや。
▲シテ「成程、御好みにも悉く合ひました。惣じて、京男に伊勢女と申して、女は伊勢の名物でござる。この女は伊勢生まれで、正真の若和布でござる。
▲アト「まだそのつれをぬかし居る。口に喰ふ物なればこそ、古いは悪し、新らしい色の良い、塩のほろりとこぼるゝ様なを求めて来いと云うてやつたが。それも、忘れたか。
▲シテ「それを忘れて良いものでござるか。まづ、古いと申すは年寄りの事。新しいと云ふは年若な事。年が寄れば、顔の色も悪うなり、塩もないものでござる。この若和布は、まだ年若にはあり、顔は桜色。あれあれ、目元に塩のこぼるゝ様な。何と良い若和布でござりませうが。
▲アト「扨々、腹の立つ事かな。うまうまと、都でぬかれてうせをつた。おのれはおのれとも思はうが、遥々(はるばる)と来る女めが、いたづら者ぢや。
▲女「いや、おうおう。妾がいたづらを、いつ見さつしやれた。
▲シテ「これは、若和布の仰(お)せあるが、尤ぢや。
▲アト「何の、尤と云ふ事があるものぢや。この寺へ女を引つ込うたなどゝ、旦那衆の耳へ入つては、愚僧までこの寺を去らねばならぬ。両人ともに、寺内(じない)に置く事はならぬ。出てうせう。まだそこに居るか、そこに居るか。
{と云ひて追ふ。二人、橋掛りへ逃ぐるなり。}
▲シテ「扨も扨も、以ての外な事ぢや。
▲女「あれは、短気な御坊様でござる。
▲シテ「遥々(はるばる)とわせて大儀ながら、お聞きある通りの事ぢや。都へ帰つておくりあれ。
▲女「成程、妾はどうなりともしませうが、こなたは何とさせらるゝ。
▲シテ「身共は、外へ行く処はなし。詫び言をして、この寺に居ねばならぬ。
▲女「何と、あの様な短気な人の傍に居ようより、俗になつて、妾と夫婦(めをと)になり、ひと稼ぎせうとは思はつしあれぬか。
▲シテ「ありやうは、身共もかねて、その志もあれども、伜の時分から出家して、今更俗になるといふも、勿体ない事でおりある。
▲女「堅い事を云はせらるゝ。この短い浮世に、うかうかと坊主になつて居ようより、平(ひら)に思案をさせられい。
▲シテ「何(いづ)れ、この世は僅かの事ぢや。もし俗になつたらば、夫婦になつておくれあるか。
▲女「五百八十年も連れ添ひませうぞ。
▲シテ「やれやれ、嬉しや嬉しや。それならば、庫裡へ行(い)て、酒を取つて来う。本堂へ行(い)て、待つてお居あれ。
▲女「心得ました。
▲シテ「さあさあ、酒を取つて来た。夫婦の盃をせう。扨、この様な時は、呑うで差すものぢやと聞いた。一つ呑うで、差さしませ。
▲女「それならば、たべて進ぜう。
{と云ひて、呑んで差す。}
▲シテ「どれどれ、戴きませう。幾久しう、めでたうおりやる。
▲女「その通りでござる。
▲シテ「扨、むすばう。
▲女「これへ下され。
{と云ひて、此処(こゝ)にて小謡うたふなり。}
▲女「一つ、受け持ちました。ひとさし舞はせられい。
▲シテ「めでたう舞はう。地を謡うておくれあれ。
▲女「心得ました。
{と云ひて、小舞あり。}
▲アト「本堂の辺りが、いかう騒がしい。何事ぢや知らぬまで。これはいかな事。いたづら者どもが、酒盛をして居る。扨々、憎い事かな。やいやいやい、そこなやつ。
{と云ひて、常の如く追ひ廻す。女は先へ逃げて入る。シテ、その内に、酒を呑んで入るなり。}
▲アト「よう本堂をけがし居つた。扨々、憎いやつの。やるまいぞ、やるまいぞ。
{と云ひて、追ひ込み入るなり。}
底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.)
若和布(ワカメ)(二番目 三番目)
▲アト「丹波の国能勢の郡、当寺の住持で御座る、此寺久しう大破に及んで御座るを、旦那衆の助力を以て、思ふ儘に建立致した、夫に就て、肝煎らせられた衆中を申し入、振舞はうと存ずる、先新発意を呼出し、申し付る事が御座る{と云て呼出す出るも如常}{*1}そちが知る通り、年月の大望であつたに、思ふ儘に建立した、何と目出度い事ではないか▲シテ「御意なさるゝ通り、本堂は申すに及ばず{*2}、庫裡方丈迄結構に御建立被成て、此の様な御目出たい事は御座りませぬ▲アト「扨夫について、此度肝煎された旦那衆を、ざつと一と振舞せうと思ふが、何とあらう▲シテ「御意もなくは申上げうと存じて御座る、一段とよう御座りませう▲アト「乍去、此山から出る物計りでは馳走にならぬ、海から出る物をつかひ度いが何がよからう▲シテ「海から出る肴に、寺でつかう様な物は、何も御座りますまい▲アト「是はいかな事、そちは魚類計り海から出ると思ふか、一切ののり類は、皆海から出る物ぢや、夫に就て、酒の肴には、若和布がよい物ぢや程に求めてこい▲シテ「畏つては御座れども、私は若和布と申す物は存じませぬ▲アト「知らいでも大事ない、都には沢山なものぢや、去りながら、伊勢若和布でなければならぬ、夫も古ければ色がわるい、随分新らしい色のよい、塩のほろりとこぽるゝ様なを求めてこい▲シテ「其段は卒ツ都もお気遣ひ被成ますな▲アト「急いでいて頓て戻れ{と云ひて如常云付つめるなり}▲シテ「火急な事を仰付られた、先づ急いで都へ上らう、某は未だ都を見物致さぬ、此度を幸ひに、此所彼所をゆるゆる、見物致さうと存ずる{是より此類同じ事都へつきて若和布屋は御座らぬか若和布かはう{*3}と云ふ小アト出て名乗る人を売つて渡世する者と云ふ扨若和布屋の主ぢやと云ふ若和布を見せうと云ふ此るい何れも同断}▲小アト「田舎者をまんまとだましては御座れども、何を若和布ぢやと云ふて売つてやらうものが御座らぬ、夫に就て爰にいたづらな女を買ひ取りて御座る、是を若和布ぢやと云ふて、売つて遣はさうと存ずる、なうなう居さしますか▲女「わらはを召すは何の御用で御座る▲小アト「別の事でもない、御知りある通り、某も段々不仕合せなに依つて、そなたを若和布ぢやと云ふて、去る田舎者をだまして売つてやる程に、何事も某が為ぢやと思ふていておくりあれ▲女「田舎へ行く事はいやで御座れども、御前の為になる事なれば参りませう▲小アト「夫は近頃満足した、去ながら、末では結句そなたの為になる事も有らう、又左もなくば、よい時分に迎ひに行かうぞ▲女「夫は忝う御座る、必ず迎ひに来て下され▲小アト「先かう御通りあれ▲女「心得ました▲小アト「最前の人居さしますか▲シテ「是に居まする▲小アト「さあさあ若和布を見さしめ▲シテ「どれどれ見せて下されい▲小アト「いや是が若和布でおりある▲シテ「是は存じもよらぬ事で御座る、師匠のおせありましたは、振舞の時、酒の肴にして口にくふ物ぢやと云はれましたが、此人が肴に成りまするか▲小アト「いやむかしから名僧でなければ若和布は好ませられぬ、去り乍、口に食ふ計りが肴ではない、此若和布に酌を取らすれば、御酒も一入すゝむに依つて、すぐに夫が肴に成る事でおりある▲シテ「でも伊勢若和布でなければわるい{*4}と云はれました▲小アト「いよいよそなたのお師匠は御功者な、惣じて京男に伊勢女と云ふて、女は伊勢の名物でおりある、此女は伊勢の生れで、正真の伊勢若和布でおりある▲シテ「扨はそなたは伊勢生れの人か▲女「中々伊勢生れで御座る▲シテ「是はあいました、去り乍ら、古いはわるい、随分新らしい塩のほろりと、こぼるゝ様なを求めてこいと云はれました▲小アト「成程好みにも悉くあはせてやらう、先古いと云ふは年寄の事、年がよれば顔の色もわるう成つて塩もない、また此若和布は年若なに依つて、お見ある通り、貌は桜色、あれあれ目元に塩のこぼるゝ様な、何とよい若和布で有らうが▲シテ「何れ是は好みにも悉くあいました、求めませうが代物は何程で御座る▲小アト「万疋でおりある▲シテ「夫は余り高う御座る、最卒ツ都負て下されい▲小アト「いやいや若和布に限つて負はない、いやならばおかしませ▲シテ「夫迚も求めませう、則代物は三條の大黒屋で渡しませう▲小アト「成程大黒屋存じて居る、あれで請取であらう{と云ひて常の通り暇乞ひして小アトは入るなり}▲シテ「さらば同道致さう、さあさあおりあれ▲女「心得ました▲シテ「誠に不思議な縁で同道する事ぢや、あの方へいたらば、万事心易うはなすであらうぞ▲女「かう参るからは、そなたを寄り親殿と頼みまする、引廻して下され▲シテ「夫は気遣ひめさるな▲女「又ぬひ針の御用は妾がきゝませうぞ▲シテ「夫はうれしうおりある、いや何彼といふ内に是ぢや、わごりよのわせた通りを申し上げう程に、暫くまたしませ{と云ひて呼出す出るも如常}▲アト「何と若和布を求めて来たか▲シテ「都に又とない、上々の若和布を求めて参りました、お目に掛けませう▲アト「早う見せい▲シテ「畏つて御座る、さあさああれへ御出あれ{と云ひてうしろへ隠しつれて出る}▲アト「はあ見知らぬ女中がわせたが、あれは誰ぢや▲シテ「何とよい若和布で御座りませうが▲アト「いやおのれは何をぬかしをる、洒の肴にする、若和布を求めてこいと云ふたが、何と聞た▲シテ「惣じて昔から、名僧でなければ若和布は遣はせられぬ、兎角お前を物知りぢやと申して、いかう都の者が褒ました▲アト「あきれもせぬ事をいふ、若和布と云ふは酒の肴にして、口に喰ふ物ぢやわいやい▲シテ「口に喰ふ計りが肴ではない、彼の女に酌を取らすれば、御酒も一入すゝむに依つて、夫がすぐに肴に成と申して御座る▲アト「扨は都でぬかれてうせおつた、やいうつけ愚僧が念を入れて、伊勢若和布をと云ふてやつたに、あの様な女を連れて来るはどうした事ぢや▲シテ「成程お好みにも悉く合ました、惣じて京男に伊勢女と申して、女は伊勢の名物で御座る、此女は伊勢生れで、正真の若和布で御座る▲アト「まだ其つれをぬかし居る、口に喰ふ物なればこそ、古いはわるし、新らしい色のよい、塩のほろりとこぼるゝ様なを求めてこいと云ふてやつたが、夫も忘れたか▲シテ「夫を忘れてよい者で御座るか、先古いと申すは年寄の事、新しいと云ふは年若な事、年が寄れば顔の色もわるうなり塩もない者で御座る、此若和布は、まだ年若にはあり顔は桜色、あれあれ目元に塩のこぼるゝ様な、何とよい若和布で御座りませうが▲アト「扨々腹の立つ事かな、うまうまと都でぬかれてうせをつた、おのれはおのれ共思はうが、はるばると来る女めがいたづら者ぢや▲女「いやおうおう妾がいたづらを、いつ見さつしやれた▲シテ「是は若和布のおせあるが尤もぢや▲アト「何の尤と云ふ事が有るものぢや、此寺へ女を引込うた抔と、旦那衆の耳へ入つては、愚僧迄此寺を去らねばならぬ、両人共に寺内に置事はならぬ、出てうせう、まだそこに居るかそこに居るか{と云ひて追ふ二人橋掛りへ逃るなり}▲シテ「扨も扨も以ての外な事ぢや▲女「あれは短気な御坊様で御座る▲シテ「はるばるとわせて大儀ながら、おきゝある通りの事ぢや、都へ帰つておくりあれ▲女「成程妾はどう成共しませうが、こなたは何とさせらるゝ▲シテ「身共は外へ行く処はなし、詫言をして此寺に居ねばならぬ▲女「何とあの様な短気な人のそばに居様より、俗になつて、妾と夫婦になり、ひとかせぎせうとは思はつしあれぬか▲シテ「ありやうは身共も、兼て其志もあれども、忰の時分から出家して、今更俗になると云ふも勿体ない事でおりある▲女「かたい事をいはせらるゝ、此短い浮世に、うかうかと坊主になつていようより、ひらに思案をさせられい▲シテ「何れ此世は僅かの事ぢや、もし俗になつたらば、夫婦になつておくれあるか▲女「五百八十年もつれそひませうぞ▲シテ「やれやれ嬉しや嬉しや、夫ならば庫裡へいて酒を取つてかう、本堂へいて待てお居あれ▲女「心得ました▲シテ「さあさあ酒を取つて来た、夫婦の盃をせう、扨此様な時は呑うでさす物ぢやと聞いた、一つのうでささしませ▲女「夫ならばたべて進ぜう{と云ひて呑んでさす}▲シテ「どれどれ戴きませう、幾久しう目出度うおりやる▲女「其通りで御座る▲シテ「扨むすばう▲女「是へ下され{と云ひて此処にて小謡うたふなり}▲女「一つ請持ました、ひとさしまはせられい▲シテ「目出たう舞はふ、地を謡うておくれあれ▲女「心得ました{と云ひて小舞有り}▲アト「本堂の辺りがいかうさはがしい、何事ぢやしらぬ迄、是はいかな事、いたづら者共が酒盛をして居る、扨々憎事かな、やいやいやいそこなやつ{と云ひて如常追ひ廻す女は先へ逃げて入るシテ其内に酒を呑んで入る也}▲アト「よう本堂をけがし居つた、扨々にくいやつの、やるまいぞやるまいぞ、{と云ひて追込入るなり}
校訂者注
1:底本は、「▲アト「そちが知る通り」。
2:底本は、「及ばす」。
3:底本は、「若和布かう」。
4:底本は、「なければふるい」。
コメント