悪太郎(あくたらう)(二番目 三番目)
▲シテ「この辺(ほと)りに住居(すまひ)致す、悪太郎と申す者でござる。某(それがし)、伯父を一人持つてござる。身共が常に好いて呑む酒を、陰でいかう叱らるゝと承つてござる。今日(こんにち)は、この長刀を持つて参り、重ねて喧(かしま)しう云はれぬ様に、口を止めて帰らうと存ずる。誠に、余所外(よそほか)ではなし、伯父と甥との事ぢやによつて、気に入らぬ事があらば、直(ぢき)に仰(お)せあつたが良いに。陰沙汰をせらるゝは、言語道断、聞こえぬ事でござる。何かと云ふ内に、これぢや。
{と云つて、案内乞ひ、出るも常の如し。}
身共でござる。
▲アト「ゑい、悪太郎。この中(ぢゆう)は、久しう逢はぬが、変る事もないか。
▲シテ「こなたは、異な事を云はつしやる。余所外ではなし、伯父と甥との中に、変る事があれば、知らせずには置きませぬわいの。
▲アト「これは、身共が誤つた。して、また今日は、何と思うて御出やつた。
▲シテ「おれはこの中(ぢゆう)、長刀を拵へたによつて、見せうと思うて、持つて来ました。これを見て下され。
▲アト「あゝ。それからも見ゆるわいやい。
▲シテ「何と、この長刀は、切れませうかの。
▲アト「されば、何とあらうぞ。
▲シテ「何とあらうとは、切れまいといふ事か。
▲アト「いやいや。さうではない。
▲シテ「おそらく、切つて見せませう。
▲アト「あゝ。危ない危ない。そちは、道で喧嘩がな、したさうな。
▲シテ「喧嘩などする様な者ではござらぬ。
▲アト「それならば、酒に酔うたか。
▲シテ「いよいよ聞こえぬ事を言はつしやる。こなたが、いつ身共に酒を振舞うて、呑む事を知つてゐさつしやる。
▲アト「扨々、汝は、ものをとがとがしう云ふ者ぢや。下地もなくば、貰うた酒があるによつて、振舞はうかと云ふ事ぢや。
▲シテ「それならばそれと、仰(お)せあつたが良い。そりや良からう。出さつしやれ。遅ければ、呑みませぬぞや。
▲アト「まづ、下にお居あれ。
{と云つて、笛座より、盃持ち出るなり。}
▲アト「さあさあ、盃を取つて来た。一つお呑みあれ。
▲シテ「何と、この酒は良いか。
▲アト「貰うた酒ぢやによつて、良いやら悪いやら、知らぬ。
▲シテ「悪ければ、呑みませぬぞや。
▲アト「はて、まづ一つ呑うでお見あれ。
▲シテ「それならば、つがせられい。
▲アト「心得た。
▲シテ「おゝ、あるある。あるわいなう。
{と云つて呑む。}
▲アト「何とあつたぞ。
▲シテ「いや。只、冷(ひい)やりとして、何も覚えぬ。
▲アト「それならば、も一つ呑うで、味を覚えさしめ。
▲シテ「も一つ呑みませう。ついで下され。
▲アト「心得た。
{と云つて、又つぐ。}
▲シテ「おゝ、あるある。あると云ふに。酒と云ふものは、この様に、こぼるゝ程はつがぬものでござるわいなう。ちと、酌もし習はつしやれ。
{と云つて呑む。}
これは、良い酒ぢや。
▲アト「何と、良い酒か。
▲シテ「思ひの外、良い酒ぢや。ちと、こなたへさゝう。
▲アト「汝が知る通り、身共は下戸ぢや。
▲シテ「何の役に立たぬ人ぢや。ちと、酒も呑み習はつしやれ。扨、こなたにいつぞは、言はう言はうと思うて居たが、こなたは、おれが好いて呑む酒を、陰でいかう叱らつしやるげな。
▲アト「いゝや。叱りはせぬ。
▲シテ「いやいや。叱らつしやるげな。
▲アト「いや。叱りはせぬ。もし、酒が過ぎて、病気でも出れば、悪いによつて、過ごさぬ程お呑みあれ、といふ事ぢや。
▲シテ「それは、誰も知つてゐます。総じて酒といふ物は、百薬の長なりと云うて、もろもろの病を癒すも、この酒ぢや。その薬になる酒を、呑むなと云ふ事があるものか。重ねて意見は、置いて貰ひませう。
▲アト「おゝおゝ。意見をする事ではない。
▲シテ「おれが、かう言ひ出してからは、誰殿がお止めあつても、いかないかな、止まる事ではござらぬ。
{と云つて、盃を出す。}
▲アト「まだ呑むか。
▲シテ「献(こん)が悪い。
▲アト「過ぎはせまいか。
▲シテ「何の、この小さい盃に、二つや三つ呑うだとて、何の酔ふものでござる。
▲アト「それならば、さあさあ、お呑みあれ。
▲シテ「さりながら、ちと軽うついで下され。
▲アト「とても、呑むなら恰度(ちやうど)、お呑みあれ。
▲シテ「軽うつがつしやれ。おゝ、あるある。あると云ふに。こぼるゝわいなう。たつた今も言うて聞かすに、酒といふものは、この様にこぼるゝ程はつがぬものぢやと云ふに。扨も扨も、さもしいつぎ様をする人ぢや。
{と云つて、半分呑んで、むせる。}
▲アト「何とした、何とした。
▲シテ「あまりこなたが喧(かしま)しう仰(お)せあるによつて、むせた。
▲アト「それならば、静かにお呑みあれ。
▲シテ「ちと休んで、呑みませう。
▲アト「それが良からう。
▲シテ「扨、いつぞは云はう云はうと思うてゐたが、こなたは、おれが好いて呑む酒を、陰でいかう叱らせらるげな。
▲アト「いゝや。叱りはせぬ。
▲シテ「いやいや。叱らつしやるげな。
▲アト「何も、叱るではない。もし、酒が過ぎて、病気でも出(づ)れば、悪いによつて、過ごさぬ程お呑みあれ、といふ事ぢや。
▲シテ「まだその様な、むさとした事を云はつしやる。総じて酒は、百薬の長なりと云うて、もろもろの病を癒すも、皆この酒ぢや。その薬になる酒を、呑むなと云はつしやるは、こなた何ぞ、おれに意趣があるか。
▲アト「いや。何も意趣はない。
▲シテ「いや。意趣があらう。又、こなた何ぞ、好いてさつしやる事を、はたからとやかう云うたらば、余り機嫌は良うあるまい。まづ、その如く、おれが好いて呑む酒を、誰殿がお止めあつても、いかないかな、止まる事ではござらぬ。重ねて意見は、置いて貰ひませう。
▲アト「いかないかな。意見をする事ではない。
▲シテ「さあ、おれがかう言ひ出してからは、誰殿がお止めあつても、止まる事ではない。
{と云つて呑む。}
▲シテ「さあ、とらつしやれ。
▲アト「もはや、呑まぬか。
▲シテ「もう、嫌ぢや。
▲アト「それならば、とるぞよ。
▲シテ「はて、とらつしやれ。あゝ、くどい人ぢや。こなたの様な人には、長刀を使うて見せう。
▲アト「やいやい。何をするぞいやい。
▲シテ「長刀を使ひまする。
▲アト「あゝ。強戯(こはざ)れ事をするないやい。
▲シテ「おれに誰ぞ、敵たう者があれかし。この長刀に、のせてくれうものを。
▲アト「あゝ。危ないわいやい、危ないわいやい。
▲シテ「恐いか。
▲アト「恐い恐い。
▲シテ「それならば、もう、かう行かう。
▲アト「もう、お行きあるか。
▲シテ「中々。
▲アト「良うおりあつた。
▲シテ「あゝあゝ、あゝ。吝(しわ)い伯父なれども、この長刀を持つて行(い)たれば、恐ろしがつて、酒を呑ませた。今から酒が呑みたければ、この長刀さへ持つて行けば、いつでも酒が呑まるゝといふものぢや。《笑》ちと、謡はう。
{と云つて、小謡「ざゝんざ」謡ふ。}
こりや、見知らぬ人が手をついて。この方への御辞儀ならば、御手を上げられい。それは、迷惑ぢや。平(ひら)に、御手を上げられい。やあ。こなた、誰ぢや。《笑》人か人かと思うたれば、こりや、石仏(いしぼとけ)ぢや。石仏が人に見えては、行かれぬ。ちと、こゝに寝て行かう。ゑいゑい。酔うた事かな、酔うた事かな。
{と云つて、小刀を抜き、壺折{*1}解き、寝るなり。}
▲アト「最前、甥の悪太郎が参つて、殊の外、酒にたべ、酔うて帰つてござる。路次の程も心元ない。見に参らうと存ずる。誠に、酒を呑ますれば、酔ふ。呑まさねば、機嫌が悪し。この様な気の毒な事はござらぬ。これはいかな事。あれに、正体もなう寝てゐる。扨も扨も、苦々しい事かな。やい、悪太郎。こゝは街道ぢや。起きて行け、起きて行け。ゑゝ、熟柿(じゆくし)くさやの、熟柿くさやの。したゝか酒に酔ひをつた。何とぞ、これに懲りて、以来、酒を呑まぬ様にしたいものぢやが。いや、致し様がある。
{と云つて、さし足して傍へ行き、長刀をとり、元へ戻り、}
▲アト「まづ、これさへとれば、心安い。
{と云つて、大鼓座より十徳を持ちて出て、壺折脱がせ、燕尾(えんび)頭巾{*2}とり、強師頭巾ばかり残し、髭もとり、一緒に持ち、後見座へ置き(小刀、長刀のときにとるなり)、}
▲アト「やい、悪太郎。たしかに聞け。汝、日頃酔狂をし、悪逆ばかりなすによつて、今、かやうの姿にする。向後(きやうこう)は、悪心をひるがへし、仏道に入つて後世を願へ。則ち、汝が名を南無阿弥陀仏と付くるぞ。ゑい。まづ、帰つて様子を見うと存ずる。
▲シテ「むゝ。寝た事かな、寝た事かな。誰(た)そ、湯か茶か一つ、くれいよ。これはいかな事。内か内かと思うたれば、野原ぢや。何として、こゝに寝てゐた事ぢや知らぬまで。おゝ、誠に。夜前、伯父者人(をぢぢやひと)の方(かた)ヘ行(い)て、したゝか酒を呑うだが、扨は又、その酒に酔うて、こゝを路次とも知らず、寝て居たものであらう。それならば、長刀がありさうなものぢやが。こりあ何ぢや。衣(ころも)か。小袖もなし。その上どうやら、頭(つむり)が軽うなつた様な。わあ。こりあ、坊主にしをつた。南無三宝。大事の髭まで剃りをつた。扨々、腹の立つ事かな。これは、何者の仕業ぢや知らぬまで。あゝ。今、思ひ出した。夜前、夢うつゝの様に、汝、日頃酔狂をして、悪逆ばかりなすによつて、今、かやうの姿になす。向後は悪心をひるがへし、仏道に入つて後世を願へ。則ち、汝が名を南無阿弥陀仏と付くるぞ。ゑい。と仰せらるゝ事と思うたれば、目が覚めた。扨は、身共が日頃酔狂をして、悪逆ばかりなすによつて、釈迦か達磨が変化(へんげ)させられて、この様な姿になされたものであらう。これを菩提の種として、隔夜(かくや){*3}に入つて、後世を願はう。さりながら、今などかやうの姿にならうとは、思ひもよらぬ事ぢや。
{と云つて泣く。十徳着る。小アト出る。}
▲小アト「南無阿弥陀。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀。
▲シテ「これはいかな事。たつた今、身共が付いた名を、早(はや)何者やら知つて、呼ぶわ。あれあれ。正(まさ)しう、身共が名ぢや。これは、返事をせずばなるまい。
{と云つて、返事す。坊主、不思議さうにして、念仏申す。いろいろ仕様あり。口伝。}
▲小アト「これはいかな事。愚僧が念仏を申せば、返事をする。あの様な者には、構はぬが良い。
{と云つて、念仏申して出るなり。}
▲シテ「これはいかな事。身共が名を云うて呼ぶによつて、返事をすれば、異な顔をする。合点の行かぬ事ぢや。あれあれ。又、呼ぶ。こりあ、返事を致さう。やあ、何ぞいなう。
{と云つて、念仏の間に返事をする。小アト、可笑しがり、笑ふなり。}
▲小アト「どうでも、きやつは気違ひさうな。踊念仏を始めて、きやつをからかうてやらう。
▲シテ「これはいかな事。笑ひをる。はて扨、合点の行かぬ事ぢや。
{小アト、拍子にかゝり念仏申す。シテも、拍子にかゝり返事する。口伝。}
やあ、こりや、しきりに呼ぶわ。返事をせずばなるまい。
{これより、「やあ、やあ」と云つて返事、色々あり。口伝。}
あゝ、これこれ。そなたは最前から、身共が名を云うて呼ぶによつて、返事をすれば、可笑しさうに笑ふが、どうした事ぢや。
▲小アト「して、そなたの名は、何と云ふぞ。
▲シテ「身共が名は、南無阿弥陀仏。
▲小アト「何ぢや。南無阿弥陀仏。
▲シテ「中々。
▲小アト「して、それには何ぞ、仔細があるか。
▲シテ「成程、仔細がある。身共は、この辺りに悪太郎というて、大の酔狂人ぢや。夜前も、伯父者人の方へ行(い)て、したゝか酒にたべ酔うて、こゝを路次とも知らず、臥せつてゐたれば、夢うつゝの様に、汝、日頃酔狂をして、悪逆ばかりなすによつて、今、かやうの姿にする。向後は悪心をひるがへし、仏道に入つて後世を願へ。則ち、汝が名を南無阿弥陀仏とつくるぞ。ゑい。と仰せらるゝ事と思うたれば、目が覚めた。所へそなたが、南無阿弥陀仏と仰(お)せあるによつて、身共が事ぢやと思うて、返事をした事でおりやる。
▲小アト「扨は、さうでおりやるか。さりながら、南無阿弥陀仏といふは、これより西方十万億土極楽世界の仏の御名(みな)で、中々、そなた達の付く名では、おりないぞ。
▲シテ「何と仰(お)せある。南無阿弥陀仏といふは、これより西方十万億土極楽世界の仏の御名で、中々、我等如きの付く名ではない、と仰(お)せあるか。
▲小アト「中々。
▲シテ「それは、誠か。
{常の如く、つめる。}
{*4}げに、今こそは悟りたれ。扨は、六字の名号は。
▲小アト「夢に付きたる。
▲シテ「我が名なれば。
▲二人「今よりは思ひ切り、今よりは思ひ切り、只一念に弥陀を頼み、只一心に弥陀を頼み、念仏申して別れけり。
校訂者注
1:「壺折(つぼをり)」は、衣装及び着付けの一種。
2:「燕尾(えんび)頭巾」は、狂言で無頼者等がかぶる頭巾。「強師(がうし)頭巾」は、同じく僧等がかぶる頭巾。
3:「隔夜(かくや)」は、「隔夜詣 (かくやもうで)」。諸所の寺社を巡礼・参篭すること。
4:底本、ここ「実今こそはさとりたれ」から最後まで、全て傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.)
悪太郎(アクタロヲ)(二番目 三番目)
▲シテ「此辺りに住居致す悪太郎と申す者で御座る、某伯父を一人持つて御座る、身共が常にすいて呑む酒を、陰でいかうしからるゝと承つて御座る、今日は此長刀を持つて参り、重てかしましういはれぬ様に、口を止めて帰らうと存ずる、誠に余所外ではなし、伯父と甥との事ぢやに依つて、気に入らぬ事があらば、直におせあつたがよいに、陰沙汰をせらるゝは、言語道断きこえぬ事で御座る、何彼といふ内に是ぢや{と云て案内乞ひ出るも如常}{*1}身共で御座る▲アト「ゑい悪太郎、此中は久敷う逢ぬがかはる{*2}事もないか▲シテ「こなたは異な事をいはつしやる、余所外ではなし、伯父と甥との中に、かはる事があれば、しらせずには置きませぬわいの▲アト「是は身共があやまつた、してまた今日は、何と思ふてお出でやつた▲シテ「おれは此中長刀を拵へたに依つて、見せうと思ふて持て来ました、是を見て下され▲アト「あゝ夫からも見ゆるわいやい▲シテ「何と此長刀は切れませうかの▲アト「されば何と有らうぞ▲シテ「何と有らうとは切れまいといふ事か▲アト「いやいやさうではない▲シテ「おそらく切つて見せませう▲アト「あゝあぶないあぶない、そちは道でけんくわがなしたさうな▲シテ「けんくわなどする様な者では御座らぬ▲アト「夫ならば酒に酔ふたか▲シテ「いよいよきこえぬ事を言はつしやる、こなたがいつ身共に酒を振舞うて、呑む事をしつてゐさつしやる▲アト「扨々汝は物をとがとがしう云ふ者ぢや、下地もなくば貰らうた酒があるに依つて、振舞はうかと云ふ事ぢや▲シテ「夫ならば夫とおせあつたがよいそりやよからう出さつしやれ{*3}遅ければ呑ませぬぞや▲アト「先下にお居あれ{と云て笛座より盃持ち出るなり}▲アト「さあさあ盃を取つて来た、一つお呑みあれ▲シテ「何と此酒はよいか▲アト「貰うた酒ぢやに依つて、よいやらわるいやら知らぬ▲シテ「わるければ呑ませぬぞや▲アト「果先一つのうでお見あれ▲シテ「夫ならばつがせられい▲アト「心得た▲シテ「おゝあるあるあるわいなう{と云て呑む}▲アト「何とあつたぞ▲シテ「いや唯ひいやりとして何も覚えぬ▲アト「夫ならばも一つ呑うであぢを覚えさしめ▲シテ「も一つ呑みませうついで下され▲アト「心得た{と云て亦つぐ}▲シテ「おゝあるあるあると云ふに、酒と云ふものは、此様にこぼるゝ程はつがぬもので御座るわいなう、ちと酌も仕習はつしやれ{と云て呑む}{*4}是はよい酒ぢや▲アト「何とよい酒か▲シテ「思ひの外よい酒ぢや、ちとこなたへさゝう▲アト「汝が知る通り身共は下戸ぢや▲シテ「何の役にたゝぬ人ぢや、ちと酒も呑みならはつしやれ、扨こなたにいつぞは言はう言はうと思ふて居たが、こなたはおれがすいて呑む酒を、陰でいかうしからつしやるげな▲アト「いゝやしかりはせぬ▲シテ「いやいやしからつしやるげな▲アト「いやしかりはせぬ、もし酒が過ぎて、病気でも出ればわるいに依つて、過さぬ程お呑みあれといふ事ぢや▲シテ「夫は誰も知つてゐます、総じて酒といふ物は、百薬の長なりといふて、もろもろの病を癒すも此酒ぢや、其薬になる酒を呑むなと云ふ事がある者か、重ねて意見はおいて貰ひませう▲アト「おゝおゝ意見をする事ではない▲シテ「おれがかう言ひ出してからは、誰殿がおとめあつても、いかないかな留る事では御座らぬ{と云つて盃を出す}▲アト「まだ呑むか▲シテ「献がわるい▲アト「過はせまいか▲シテ「何の此ちひさい盃に、二つや三つ呑うだとて、何の酔ふ者で御座る▲アト「夫ならばさあさあお呑みあれ▲シテ「去ながら、ちと軽うついで下され▲アト「迚も呑むなら恰度お呑みあれ▲シテ「軽うつがつしやれ、おゝあるある、あるといふに、こぼるゝわいなう、たつた今も言ふてきかすに、酒と云ふものは此様に、こぼるゝ程はつがぬものぢやといふに、扨も扨もさもしいつぎ様をする人ぢや{と云つて半分呑んでむせる}▲アト「何とした何とした▲シテ「あまりこなたがかしましうおせあるに依つてむせた▲アト「夫ならば静かにお呑みあれ▲シテ「ちと休んで呑みませう▲アト「夫がよからう▲シテ「扨いつぞはいはういはうと思ふてゐたが、こなたはおれがすいて呑む酒を、陰でいかうしからせらるげな▲アト「いゝやしかりはせぬ▲シテ「いやいやしからつしやるげな▲アト「何もしかるではない、若し酒がすぎて、病気でもづればわるいに依つて、過さぬ程お呑みあれといふ事ぢや▲シテ「未だ其様なむさとした事を云はつしやる、総じて酒は百薬の長なりといふて、もろもろの病を癒すも皆此酒ぢや、其薬になる酒を呑むなと言はつしやるは、こなた何ぞおれに意趣があるか▲アト「いや何も意趣はない▲シテ「いや意趣があらう、又こなた何ぞすいてさつしやる事を、はたからとやかう云ふたらば、余り機嫌はようあるまい、まづその如く、おれがすいて呑む酒を、誰殿がおとめあつても、いかないかなとまる事では御座らぬ、重ねて意見はおいて貰ひませう▲アト「いかないかな意見をする事ではない▲シテ「さあおれがかう言ひ出してからは、誰殿がお止めあつても、止る事ではない{と云つて呑む}▲シテ「さあとらつしやれ▲アト「最早のまぬか▲シテ「まういやぢや▲アト「夫ならばとるぞよ▲シテ「果とらつしやれ、あゝくどい人ぢや、こなたの様な人には、長刀をつかうて見せう▲アト「やいやい何をするぞいやい▲シテ「長刀をつかいまする▲アト「あゝこはざれ事をするないやい▲シテ「おれに誰ぞ敵たう者があれかし、此長刀にのせてくれうものを▲アト「あゝあぶないわいやいあぶないわいやい▲シテ「こわいか▲アト「こわいこわい▲シテ「夫ならば最うかうゆかう▲アト「もうおゆきあるか▲シテ「中々▲アト「ようおりあつた▲シテ「あゝあゝ、あゝしはい伯父なれども、此長刀を持つていたれば、恐ろしがつて酒を呑ませた、今から酒が呑みたければ、此長刀さへ持てゆけば、いつでも酒が呑るゝといふものぢや、《笑》{*5}、ちと謡はう{と云つて小謡ざゝんざ{*6}謡ふ}{*7}こりや見知らぬ人が手をついて、此方へのお辞儀ならばお手を上られい、夫は迷惑ぢや、ひらに御手を上げられい、やあこなた誰ぢや、《笑》{*8}、人か人かと思ふたればこりや石仏ぢや、石仏が人に見えてはゆかれぬ、ちと爰に寝てゆかう、ゑいゑい、酔ふた事かな酔ふた事かな{と云つて小刀をぬき壺折とき寝る也}▲アト「最前甥の悪太郎が参つて、殊の外酒にたべ酔ふて帰つて御座る、路次の程も心もとない、見に参らうと存ずる、誠に酒を呑ますれば酔ふ、呑まさねば機嫌がわるし、此様な気の毒な事は御座らぬ、是はいかな事、あれに正体もなう寝てゐる、扨も扨もにがにがしい事かな、やい悪太郎爰は街道ぢや、おきて行けおきて行け、ゑゝ熟柿くさやの熟柿くさやの、したゝか酒に酔ひをつた、何卒是にこりて、以来酒を呑まぬ様にしたいものぢやが、いや致し様がある{と云つてさし足してそばへ行き長刀をとり元へもどり}▲アト「先是さへとれば心安い{と云つて大鼓座より十徳を持ちて出てつぼ折ぬがせゑんび頭巾とり強師頭巾計りのこし髭もとり一緒に持ち後見座へ置き小刀{*9}長刀のときにとるなり}▲アト「やい悪太郎慥にきけ、汝日比酔狂をし悪逆計りなすに依つて、今加様の姿にする、向後は悪心をひるがへし、仏道に入つて後世を願へ則汝が名を南無阿弥陀仏とつくるぞゑい、先帰つて様子を見うと存ずる▲シテ「むゝ寝た事かな寝た事かな、たそ湯か茶か一つくれいよ、是はいかな事、内か内かと思ふたれば野原ぢや、何として爰に寝てゐた事ぢや知らぬまで、おゝ誠に、夜前伯父ぢや人{*10}の方ヘいて、したゝか酒を呑うだが、扨は又其酒に酔ふて、爰を路次ともしらず寝て居たものであらう、夫ならば長刀がありさうなものぢやが、こりあ何ぢや、衣か、小袖もなし、其上どうやらつむりがかるうなつた様なわあこりあ坊主に仕をつた、南無三宝、大事の髭まで剃をつた、扨々腹の立事かな、是は何者の仕業ぢやしらぬまで、あゝ今思ひ出した、夜前夢うつゝの様に、汝日比酔狂をして、悪逆計りなすに依つて、今加様の姿になす、向後は悪心をひるがへし、仏道に入つて後世を願へ、則汝が名を南無阿弥陀仏とつくるぞゑいと、仰せらるゝと思ふたれば目がさめた、扨は身共が日比酔狂をして、悪逆計りなすに依つて、釈迦か達磨が変化させられて、此様な姿に被成たものであらう、是を菩提の種として、かく屋にいつて後世を願はう、去り乍ら、今など加様の姿にならうとは、思ひもよらぬ事ぢや{と云つて泣く十徳きる小アト出る}▲小アト「南無阿弥陀、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀▲シテ「是はいかな事、たつた今身共がついた名を、はや何者やらしつてよぶわ、あれあれまさしう身共が名ぢや、是は返事をせずばなるまい{と云つて返事す坊主不思議そうにして念仏申すいろいろ仕様あり口伝{*11}}▲小アト「是はいかな事、愚僧が念仏を申せば返事をする、あの様な者には構はぬがよい{と云つて念仏申して出るなり}▲シテ「是はいかな事、身共が名をいふて呼ぶに依つて、返事をすれば異な顔をする、合点のゆかぬ事ぢや、あれあれ又呼ぶ、こりあ返事を致さう、やあ、なんぞいのう{*12}{と云つて念仏の間に返事をする小アトおかしがり笑ふなり}▲小アト「どうでもきやつは気違いさうな、踊念仏をはじめて、きやつをからかうてやらう{*13}▲シテ「是はいかな事、わらひをる、果扨合点のゆかぬ事ぢや{小アト拍子にかゝり念仏申シテも{*14}拍子にかゝり返事する口伝}{*15}やあ、こりやしきりに呼ぶわ、返事をせずばなるまい{是よりやあやあと云つて返事色々あり口伝}{*16}あゝ是々、そなたは最前から、身共が名をいふて呼ぶに依つて返事をすれば、おかしさうに笑ふがどうした事ぢや▲小アト「してそなたの名は何といふぞ▲シテ「身共が名は南無阿弥陀仏▲小アト「何ぢや南無阿弥陀仏{*17}▲シテ「中々▲小アト「して夫には何ぞ仔細があるか▲シテ「成程仔細がある、身共は此辺りに悪太郎といふて、大の酔狂人ぢや、夜前も伯父者人の方へいて、したゝか酒にたべ酔ふて、爰を路次{*18}共しらずふせつていたれば、夢うつゝの様に、汝日比酔狂をして悪逆計りなすに依つて、今ケ様の姿にする、向後は悪心をひるがへし、仏道に入つて後世を願へ、則汝が名を南無阿弥陀仏{*19}とつくるぞゑいと、仰せらるゝ事と思ふたれば、目が覚めた、所へそなたが、南無阿弥陀仏とおせあるに依つて、身共が事ぢやと思ふて、返事をした事でおりやる▲小アト「扨はさうでおりやるか、去り乍ら、南無阿弥陀仏といふは、是より西方十万億土極楽世界の仏の御名で、中々そなた達の付名ではおりないぞ▲シテ{*20}「何とおせある、南無阿弥陀仏と云ふは、是より西方十万億土極楽世界の仏の御名で、中々我等如きの付名ではないとおせあるか▲小アト「中々▲シテ「夫は誠か{如常つめる}{*21}実今こそはさとりたれ。扨は六字の名号は▲小アト「夢につきたる▲シテ「我名なれば▲二人「今よりは思ひ切。今よりは思ひ切。唯一念にみだを頼み、唯一心にみだを頼み、念仏申してわかれけり。
校訂者注
1:底本は、「▲シテ「身共で御座る」。
2:底本は、「かははる事」。
3:底本は、「▲シテ「遅ければ呑ませぬぞや
4:底本は、「▲シテ「是はよい酒ぢや」。
5:底本は、「いふものぢや、笑ふ」。
6:底本は、「小謡ざんざ謡ふ」。
7:底本は、「▲シテ「こりや見知らぬ人が」。
8:底本は、「やあこなた誰ぢや、笑ふ」。
9:底本は、「少刀」。
10:底本は、「伯父や人」。
11:底本は、「いろいろ仕様口伝あり」。
12:底本は、「なんそいのう」。
13:底本は、「踊念仏とはじめて、きやつをうからかいてやらう」。
14:底本は、「しても」。
15:底本は、「▲シテ「やあ、こりやしきりに呼ぶわ」。
16:底本は、「▲シテ「あゝ是々、そなたは最前から」。
17:底本は、「何ぢや南無阿陀仏」。
18:底本は、「路士(ろじ)」。
19:底本は、「名を南無阿弥陀とつくるぞ」。
20:底本は、「▲小アト「何とおせある」。
21:底本は、「▲シテ「実今こそはさとりたれ」。
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