蝉(せみ)(二番目)
▲ワキ「{*1}いづくともなき往来の、いづくともなき往来の、身の果て何となりぬらん。
《詞》これは、行脚の僧にて候ふ。我、未だ信濃善光寺へ参らず候ふ程に、只今思ひ立ち、善光寺へ参らばやと存じ候ふ。
{道行。打切。}
{*2}信濃なるそわの掛け橋{*3}打ち渡り、信濃なるそわの掛け橋打ち渡り、乱れし糸は更科の、月影残る浅間嶽(あさまだけ)。宿も定めぬ遠近(をちこち)の、上松(あげまつ)の里{*4}に着きにけり。
《詞》急ぎ候ふ程に、上松の里に着いて候ふ。これなる一木の松を見れば、余り美事に生ひ茂りて候ふ程に、立ち寄り休まばやと思ひ候ふ。あら、不思議や。この生ひ下(さが)りたる枝を見れば、短冊の付いて候ふよ。蝉の羽(は)にかき置く露の木隠れて忍び忍びに濡るゝ袖かな。扨もこの歌は、空蝉の長き別れの跡訪ひし、言の葉草と見えて候ふ。いかさま、謂(いは)れのなき事は候ふまじ。所の人に尋ねばやと思ひ候ふ。所の人の渡り候ふか。
▲間「所の者と御尋ねは、誰にて渡り候ふぞ。
▲ワキ「これなる松に、様ありげなる短冊を付けられて候ふ。謂れのなき事は候ふまじ。御存じにおいては、語つてお聞かせ候へ。
▲間「さん候ふ。この松原は、いつも夏になり候へば、蝉の声涼しく聞こえ候ふとて、皆人この松原にて、歌を詠み詩を作り遊び給ふが、去年(こぞ)の夏、この松の枝に大きなる蝉、留まり申して候ふを、烏ども集まり、程なくかの蝉をとつて候ふ。人々、不憫に思し召し、それよりこの松に短冊を掛けられて候ふ。今も、心ある人は短冊を掛け、御弔ひなさるゝ。御僧も、立ち寄り弔うて御通り候へ。
▲ワキ「懇ろに物語、祝着申して候ふ。さらば立ち寄り、弔うて通らうずるにて候ふ。
▲間「重ねて御用もあらば、仰せられい。
▲ワキ「頼みませう。
▲間「心得ました。
▲ワキ「痛はしや。その身は儚(はかな)き夏の蝉の、春秋知らぬ露の命。短き内の夢の世を、身果てぬるこそ便(びん)なけれ。
《カゝル》{*5}南無伽羅たんなうとらや、南無伽羅たんなうとらや。
《一セイ》▲シテ「空蝉の身を変へてげる木の本に、猶人がらの懐しきかな。
▲ワキ「不思議やな。まどろむとなき枕上(まくらがみ)に、人間と見えぬありさまは。
《詞》いかなる者ぞ、名を名乗れ。
▲シテ「これは、蝉の亡魂なるが、御弔ひのありがたさに、これまで顕れ出でて候ふ。
▲ワキ「扨は、蝉の亡魂、仮(かり)に顕れたるとや。猶々、苦界の依身(えしん)を転じ、人畜無差別の御法(みのり)を説いて得さすべし。懺悔に消ゆる罪業を、詳しく語り聞かせよかし。
▲シテ「いでいでさらば、逃れ得ぬ、苦患(くげん)の程を語らんと。
{カケリ。打上。}
《上》{*6}夕村鳥羽をのして。
▲地「《打切》夕村鳥羽をのして、鳶より先(さき)に飛び来り、身は砕けよと鷲掴み、不浄の嘴(くちばし)打ち立てゝ、微塵になせども友蝉も、木の葉に隠れ朽木に逃れて、助くるものこそなかりけれ、助くるものこそなかりけれ。
▲シテ「扨、数々の冥途のありさま、扨数々の冥途のありさま、娑婆にて手馴れし梢にのぼれば、忽ち剱(つるぎ)の枝と変じてこの身を裂き、虚空を飛べば、鉄(くろがね)の山蛛蜘の、縦横無窮に張り廻す、網にかゝれば千筋(ちすぢ)の縄、くるりくるり、くるくるくる。暮るれば鵂(みゝづく)梟(ふくろふ)の、餌食になるこそ浅ましき。夜昼分かたぬこの業報の身なれども、今御僧の弟子となれば、成仏得脱疑ひあらじと、髪剃り落とし五戒を授かり、扨こそ蝉の羽衣着て、つくつく法師となりにけり。
校訂者注
1:底本、ここから「身の果何と成りぬらん」まで、傍点がある。
2:底本、ここから「あげ松の里に着きにけり」まで、傍点がある。
3・4:信濃国の「木曽の桟(かけはし)」は歌枕の地。中山道・上松宿に近い。
5:底本、ここから「人間と見えぬ有様は」まで、傍点がある。
6:底本、ここから最後まで、全て傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.)
蝉(セミ)(二番目)
▲ワキ「いづくともなき往来の。いづくともなき往来の。身の果何と成りぬらん《詞》是は行脚の僧にて候、我未信濃善光寺へ参らず候程に、唯今思ひ立ち善光寺へ参らばやと存じ候{道行打切}信濃なるそわの掛橋打渡り。信濃なるそわの掛橋打渡り。乱れし糸は更科の。月影残る浅間嶽。宿も定めぬをちこちのあげ松の里に着きにけり《詞》急ぎ候程にあげ松の里に着いて候、是成一木の松を見れば、余り美事におひしげりて候程に、立寄り休まばやと思ひ候、荒不思議や、此おひさがりたる枝を見れば、短冊のついて候よ、蝉の葉にかきおく露のこがくれて忍び忍びにぬるゝ袖かな、扨も此歌は空蝉の長きわかれの跡とひし、言の葉草と見えて候、いか様謂のなき事は候まじ、所の人に尋ねばやと思ひ候、所の人の渡り候か▲間「所の者とお尋ねは誰にて渡り候ぞ▲ワキ「是成松によう有げなる短冊を付けられて候、謂のなき事は候まじ、御存じにおいては語つておきかせ候へ▲間「さん候此松原は、毎も夏になり候へば蝉の声すゞしくきこえ候とて、皆人此松原にて歌を読み詩を作り遊び給ふが、こぞの夏此松の枝に大きなる蝉とまり申して候を、烏共集り程なく彼蝉を取つて候、人々不便に思召し、夫より此松に短冊をかけられて候、今も心ある人は短冊をかけ、御とむらひなさるゝ、お僧も立寄り吊うて御通り候へ▲ワキ「懇に物語祝着申して候、さらば立寄り吊うて通らうずるにて候▲間「重ねて御用もあらば仰せられい▲ワキ「頼みませう▲間「心得ました▲ワキ「痛はしや其身ははかなき夏の蝉の、春秋しらぬ露の命、みじかき内の夢の世を、身果ぬるこそびんなけれ《カゝル》南無伽羅たんなふとらや南無伽羅たんなふとらや《一セイ》▲シテ「空蝉の、身をかへてげる木の本に、猶人がらの、なつかしきかな▲ワキ「ふしぎやな、まどろむとなき枕がみに。人間と見えぬ有様は《詞》いかなる者ぞ名をなのれ▲シテ「是は蝉の亡魂なるが、御吊ひの有難さに、是迄あらはれ出でて候▲ワキ「扨は蝉の亡魂かりに顕はれたるとや、猶々苦界の依身を転じ、人畜無差別の御法をとひて得さすべし、さんげにきゆる罪業を、くはしく語りきかせよかし▲シテ「いでいでさらばのがれ得ぬ、くげんの程を語らんと{カケリ打上}{*1}《上》夕村鳥羽をのして▲地「《打切》夕村鳥羽をのして鳶よりさきに飛び来り。身はくだけよとわしづかみ、不浄の口ばし打ちたてゝ、みじんになせども友蝉も木の葉に隠れ。朽木にのがれてたすくる者こそなかりけれたすくる者こそなかりけれ▲シテ「扨数々の冥途の有様扨数々の冥途の有様娑婆にて手馴れし梢にのぼれば忽剱の枝と変じて此身をさき。虚空を飛べば黒がねの山蛛蜘の。じゆうわう無窮にはりまはす。網にかゝれば千筋の縄。くるりくるりくるくるくる。暮ればみゝづくふくらふの餌食に成るこそ浅間敷き。夜昼わかたぬ此の業報の身なれ共。今御僧の弟子となれば、成仏得脱うたがひあらじと髪剃落し。五戒をさづかり扨こそ蝉の羽衣きて、つくつく法師となりにけり。
校訂者注
1:底本は、「▲シテ「《上》夕村鳥羽を」。
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