塗師平六(ぬしへいろく)(二番目)

▲アト「これは、都方に住居(すまひ)致す塗師でござる。某(それがし)、塗師細工ひと通りは、何によらず随分致せども、何と致してやら、細工が隙(ひま)でござるによつて、渡世に迷惑致す。又、越前の一條と申す所に、平六と申して某の弟子がござる。これは、さのみ細工は上手ではござらねども、殊の外、繁昌致す。もし隙(ひま)ならば、何時(なんどき)なりとも下れ、細工を分けてさせうと、かねがね申し越してござる。この度、越前へ下り、平六の世話にならうと存ずる。誠に、人は運でござる。平六は、塗師ひと通り、細工も未熟でござれども、仕合(しあはせ)が良し。又、某は、塗師ひと通りは誰恐ろしいとも思はねども、かやうの体(てい)でござる。いや、何かと申す内に、越前の一條へ着いた。幸ひ、これに塗師がある。これで尋ねて見うと存ずる。
{と云つて、常の如く案内乞ふ。女出るも常の如し。}
近頃卒爾ながら、もし、塗師の平六と申すは、こゝ元ではござらぬか。
▲女「成程、塗師の平六はこれでござるが、まづ、御前(おまへ)はどれから御出でござる。
▲アト「いや、某は上方の者で、則ち、平六がためには塗師の師匠でござる。かねて平六より、上方の細工が隙(ひま)ならば、何時(いつ)でも下れ、細工を分けて致させうと、懇ろに申し越されました。この頃は、手空(てすき)になりましたによつて、平六の世話にならうと存じて、下つてござる。
▲女「やれやれ。それは、ようこそ御出なされました。成程、かねて承り及うでござる。まづ、かうお通りなされませ。
▲アト「それならば、通りませうか。
▲女「つゝと、お通りなされませ。まづ、それにゆるりとござりませ。
▲アト「心得ました。
{アトは脇座に下に居、その内女、脇へ退(の)き、}
▲女「なうなう、気の毒な事かな。あの人は、平六殿の御師匠で、隠れもない塗師の上手と聞いた。平六は、細工もしかと致さねども、所に塗師が無いによつて、繁昌致す。あの人が、此所(こゝ)に足を留められたらば、平六に細工の誂へ手はござるまい。これは、とかく偽つて、帰さうと存ずる。何と、御草臥(おくたびれ)なされませう。
▲アト「いや、左様にもござらぬ。扨、平六はどれに居られまする。早う逢ひたうござる。
▲女「されば、平六は常々、御前の事を申してばかり居られましたが、思ひ出せば、悲しうござる。
{と云つて、泣く。}
▲アト「あゝ。これこれ、御内儀。こなたは、異な言葉の端で落涙召さるゝが、どうした事でござる。
▲女「さればの事でござる。平六は、去年(こぞ)の秋、お死にありました。
▲アト「やあやあ、何と仰(お)せある。平六は去年(こぞ)の秋、お死にあつたと仰(お)せあるか。
▲女「秋の露と消えられましてござる。
▲アト「扨々、それは気の毒な事でござる。扨、二人の中に、子はないか。
▲女「いや、子もござらぬ。
▲アト「そなたも笑止なが、某も力を落としました。あゝ、この様な難儀な事はござらぬ。
▲シテ「やいやい、女共。色漆が足らぬ。女共はどれに居るぞ。女共、女共。ゑい、御師匠様。扨々、お懐かしや。
{女驚き、シテを引き立て、橋掛りへ行く。アト、不審さうにする。}
これは、何とする。
▲女「後先(あとさき)も見ずに、とばとば出るといふ事があるものでござるか。
▲シテ「汝は知るまい。あれは、かねがね話をした、上方の御師匠様ぢや。やれやれ、お懐かしや、お懐かしや。
{と云つて出る。女、止める。}
▲女「あゝ。まづ、待たせられい。
▲シテ「何と、待てとは。
▲女「これには段々、様子がござる。成程、最前、都の御師匠ぢやと云うて見えました。あの人は隠れもない、塗師の上手と聞きました。又こなたは、細工もさのみ上手ではござらねども、所に塗師がないによつて、繁昌せらるゝ。あの御師匠が、この所に足を留められたらば、そなたに細工の誂へ手はあるまいと思うて、平六は去年(こぞ)の秋お死にあつたと云うて、騙して置いたに、あそこへ出るといふ事があるものか。
▲シテ「何ぢや。平六は、去年(こぞ)の秋死んだ。
▲女「中々。
▲シテ「いや、こゝな者が。これ程息災で居る者を、死んだといふ様な、忌々しい事があるものか。その上、未だ墨刷毛の伝授もせねばならぬ。扨々、お懐かしや、お懐かしや。
{と云つて、又出る。女、止める。}
▲女「あゝ。まづ、待たせられい、待たせられい。
▲シテ「何と、待てとは。
▲女「それならば、妾(わらは)に暇を下されい。
▲シテ「どうした事ぢや。
▲女「はて、最前、平六は去年(こぞ)の秋お死にあつたと云うた所へ、そなたが御出あつて、妾が何と、御師匠へ顔が合はさるゝものでござる。是非出て逢はせらるゝならば、暇を下されい。
▲シテ「何(いづ)れ、これは尤ぢや。久しう連れ添うたそなたに、暇を遣るも気の毒。又、某を頼みに思うて、遥々(はるばる)見えた人を、逢はずに帰すも気の毒。これはまづ、何としたものであらうぞ。
▲女「いや。それは、良い仕様がござる。
▲シテ「何とするぞ。
▲女「最前、平六は去年(こぞ)の秋お死にあつたと云うたによつて、今のは平六が幽霊ぢやと云ひませう程に、こなたは、幽霊の様に取り繕うて出させられい。
▲シテ「身共はつひに、幽霊になつた事がない。
▲女「こゝな人が。誰あつて、幽霊になつた者がござらうぞ。時の間を合(あは)すためぢや。どうなりとも、取り繕うて出させられい。
▲シテ「それならば、聞いた事もあるによつて、取り繕うて出よう程に、そこの首尾を頼むぞ。
▲女「心得ました。早う出させられい。
▲シテ「心得た、心得た。
{と云つて、シテ中入りする。女、泣く泣く出る。}
▲アト「これこれ、御内儀。事にこそよれ。あれ程息災で居る平六を、死んだといふ様な、卒忽(そこつ)な事があるものでござるか。
▲女「御前の事を申してばかり居られましたに、この様な残り多い事はござらぬ。
▲アト「あれあれ、まだ仰(お)せある。たつた今平六は、これへ出られたではござらぬか。
▲女「やあやあ、どれへ出られました。
▲アト「今こゝへちらと見えたは、平六ではござらぬか。
▲女「扨も扨も、妾は、夢になりとも見たいと思ひまするに。扨は、御前を懐かしう思うて、平六が幽霊かな、出たものでござらう。
▲アト「扨は、お死にあつたが誠でござるか。
▲女「何しに偽りを申しませうぞ。
▲アト「扨も扨も、某の運も知れた。せつかく頼みに思ふ平六は、お死にある。この様な迷惑な事はござらぬ。
{このしかじかの内、女、鉦鼓・橦木(しゆもく)持ち出る。}
▲女「申し申し。これは、平六が朝夕(あさゆふ)手馴れた鉦鼓でござる。持仏堂へ御出なされて、平六が跡を弔うて下されい。
▲アト「扨は、これも形見になりましたか。逆(さかさま)な回向なれども、仏前へ参つて、平六が跡を弔ひませう。こなたも、念仏を申させられい。
▲女「心得ました。
{と云つて、二人脇座の方にて、}
▲アト「{*1}旅人は、鉦鼓を鳴らし女房と、鉦鼓を鳴らし女房と、念仏申し平六が、亡き後いざや弔はん、亡き後いざや弔はん。
《一セイ》▲シテ「あら、ありがたの御弔ひやな、あらありがたの御弔ひやな。
▲アト「《カゝル》不思議やな。平六が姿の、影の如くに顕れたるは、念仏の功力なるかや。ありがたや。
▲シテ「これは、平六が幽霊なるが、御弔ひのありがたさに、これまで顕れ参りたり。
▲アト「扨は、平六の幽霊なるかや。都にて見し時よりも、衰へはつる無慙さよ。
▲シテ「昔は花漆、今は年長(た)け蝋色(らふいろ)の。
▲アト「{*2}漆の罰も当たりたる、職のありさま懺悔せよ。
▲シテ「いでいで、さらば語つて聞かせ申さんと、恥づかしながら餓鬼道の、恥づかしながら餓鬼道の、塗師となつて、青漆の如くなる淵に臨んで、漆濾(うるしごし)に水を入れて呑まんとすれば、程なく火焔と燃え上つて、身は焼け漆となりたるぞや、身は焼け漆となりたるぞや。又ある時は、布に巻かれ。
▲同「捩木(ねぢぎ)を入れて、ひたねぢに捩ぢ詰めらるれば、あら心漆刷毛(うるしばけ)の{*3}、ばけ損(そこ)なはゞいかならんと、風呂{*4}の木蔭に入りにけり。塗籠他行(ぬりごめたぎやう){*5}といふ事も、塗籠他行といふ事も、この世よりこそは始まりたれ。

校訂者注
 1:底本、ここから「念仏の功力なるかやありがたや」まで、傍点がある。
 2:底本、ここから最後まで、全て傍点がある。
 3:「憂(う)し」と「漆(うるし)」を掛けている。
 4:「風呂」は、漆を塗った器を乾燥させるための設備。
 5:「塗籠他行(ぬりごめたぎやう)」は、「居留守」の意の慣用句。

底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.

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塗師平六(ヌシヘイロク)(二番目)

▲アト「是は都方に住居致す塗師で御座る、某塗師細工一ト通りは、何によらず随分致せ共、何と致してやら細工が隙で御座るに依つて、渡世に迷惑致す、又越前の一條と申す所に平六と申して某の弟子が御座る、是はさのみ細工は上手では御座らね共、殊の外繁昌致す、若隙ならば何時成共下れ、細工を分てさせうと、兼々申し越して御座る、此度越前へ下り、平六の世話にならうと存ずる、誠に人は運で御座る、平六は塗師一ト通り、細工も未熟で御座れ共仕合がよし、又某は塗師一ト通りは、誰恐ろしい共思はね共、加様の体で御座る、いや何彼と申す内に越前の一條へ着いた、幸ひ是に塗師がある、是れで尋ねて見うと存ずる{ト云て如常案内乞女出るも如常}{*1}近頃卒爾ながら、若塗師の平六と申すは、爰許では御座らぬか▲女「成程塗師の平六はこれでござるが、先お前はどれからお出ででござる▲アト「いや某は上方の者で、則平六が為には塗師の師匠で御座る、兼て平六より上方の細工が隙ならば、何時でも下れ、細工を分けて致させうと、懇に申し越されました、此頃は手空になりましたに依つて、平六の世話にならうと存じて下つてござる▲女「やれやれ其はようこそお出なされました、成程兼て承り及うでござる、先かうお通りなされませ▲アト「夫ならば通りませうか▲女「つツとお通りなされませ、先夫にゆるりと御座りませ▲アト「心得ました{アトは脇座に下に居其内女脇へのき}▲女「なうなう気の毒な事かな、あの人は平六殿のお師匠で、隠れもない塗師の上手と聞いた、平六は細工もしかと致さね共、所に塗師が無いに依つて繁昌致す、あの人が此所に足を留められたらば、平六に細工の誂人はござるまい、是は兎角偽つて帰さうと存ずる、何とお草臥なされませう▲アト「いや左様にも御座らぬ、扨平六はどれに居られまする、早う逢ひたうござる▲女「されば平六は、常々お前の事を申して計り居られましたが、思ひ出せば悲しうござる{ト云てなく}▲アト「あゝ是々お内儀、こなたは異な言葉のはしで、落涙めさるゝが、どうした事で御座る▲女「さればの事でござる、平六は去年の秋お死にありました▲アト「やあやあ何とおせある、平六は去年の秋お死にあつたとおせあるか▲女「秋の露と消えられましてござる▲アト「扨々夫は気の毒な事でござる、扨二人の中に子はないか▲女「いや子もござらぬ▲アト「其方も笑止なが、某も力を落しました、あゝ此様な難儀な事はござらぬ▲シテ「やいやい女共、色漆が足らぬ、女共はどれに居るぞ、女共女共、ゑいお師匠様、扨々おなつかしや{女驚きシテを引立て橋掛りへ行くアト不審さうにする}{*2}是は何とする▲女「跡先も見ずに、とばとば出るといふ事があるものでござるか▲シテ「汝は知るまい、あれは兼々咄をした、上方のお師匠様ぢや、やれやれおなつかしやおなつかしや{ト云て出る女とめる}▲女「あゝ先待たせられい▲シテ「何とまてとは▲女「是には段々様子がござる、成程最前都のお師匠ぢやといふて見えました、あの人は隠れもない、塗師の上手と聞きました、又こなたは細工もさのみ上手ではござらね共、所に塗師がないに依つて繁昌せらるゝ、あのお師匠が、此所に足をとめられたらばそなたに細工のあつらへてはあるまいと思ふて、平六は去年の秋お死にあつたといふて、だましておいたに、あそこへ出るといふ事があるものか▲シテ「何ぢや平六は、去年の秋死むだ▲女「中々▲シテ「いや爰な者が、是程息災{*3}で居る者を、死むだといふ様な、忌々敷い事があるものか、其上未だ墨刷毛の伝授もせねばならぬ、扨々お懐しやお懐しや{ト云て又出る女とめる}▲女「あゝ先またせられいまたせられい▲シテ「何と待てとは▲女「夫ならば妾に暇を下されい▲シテ「どうした事ぢや▲女「はて最前平六は、去年の秋お死にあつたといふた所へそなたがお出あつて、妾が何とお師匠へ、顔が合はさるゝものでござる、是非出て逢はせらるゝならば暇を下されい▲シテ「何れ是は尤ぢや、久敷う連添うたそなたに、暇を遣るも気の毒、又某を頼みに思ふて、はるばるみえた人を、逢はずに帰すも気の毒、是は先何としたものであらうぞ▲女「いや夫は能い仕様がござる▲シテ「何とするぞ▲女「最前平六は去年の秋、お死にあつたといふたに依つて、今のは平六が幽霊ぢやと云ひませう程に、こなたは幽霊の様に取繕うて出させられい▲シテ「身共はつひに幽霊になつた事がない▲女「爰な人が、誰あつて幽霊になつたものがござらうぞ、時の間を合す為ぢや、だうなり共取繕うて出させられい▲シテ「夫ならば聞いた事もあるに依つて取繕うて出よう程に、そこの首尾を頼むぞ▲女「心得ました、早う出させられい▲シテ「心得た心得た{ト云てシテ中入する女泣々出る}▲アト「是々お内儀事にこそよれ、あれ程息災{*4}で居る平六を死むだと言ふ様な卒忽な事があるものでござるか▲女「お前の事を申して計り居られましたに、此様な残り多い事はござらぬ▲アト「あれあれまだおせある、たつたいま平六は、是へ出られたではござらぬか▲女「やあやあどれへ出られました▲アト「今爰へちらと見えたは、平六ではござらぬか▲女「扨も扨も、妾は夢になりとも見たいと思ひまするに、扨はお前をなつかしう思ふて、平六が幽霊かな出た者でござらう▲アト「扨はお死にあつたが誠でござるか▲女「何しに偽りを申しませうぞ▲アト「扨も扨も某の運も知れた、せつかく頼みに思ふ、平六はお死にある、此様な迷惑な事はござらぬ{此シカジカの内女鉦鼓シユモク持ち出る}▲女「申し申し、是は平六が朝夕手馴れた鉦鼓でござる、持仏堂へお出なされて、平六が跡を吊うて下されい▲アト「扨は是も形見{*5}になりましたか、逆な回向なれども仏前へ参つて平六が跡を吊ひませう、こなたも念仏を申させられい▲女「心得ました{ト云つて二人脇座の方にて}▲アト「旅人は鉦鼓をならし女房と、鉦鼓をならし女房と、念仏申し平六が、なきあといざや、吊らはんなきあといざや、吊らはん《一セイ》▲シテ「荒有難の御吊ひやな、あらありがたの御吊ひやな▲アト「《カゝル》不思議やな平六が姿の、影のごとくにあらはれたるは、念仏の功力なるかやありがたや▲シテ「是は平六が幽霊なるが、御吊ひの難有さに、是迄あらはれ参りたり▲アト「扨は平六の幽霊なるかや、都にて見し時よりも衰へはつる無慙さよ▲シテ「昔は花漆今は年たけ蝋色の▲アト「漆の罰もあたりたる、職の有様さんげせよ▲シテ「いでいでさらば語つてきかせ申さんと、恥かしながら餓鬼道の、恥かしながら餓鬼道の、塗師となつて、青漆のごとくなる、淵にのぞむで、漆ごしに水を入れて呑まんとすれば、程なく火焔と燃へ上つて身はやけ漆となりたるぞや身はやけ漆となりたるぞや{*6}又ある時は布にまかれ▲同「ねぢ木をいれて、ひたねぢに捻つめらるれば、あら心漆ばけの、ばけそこなはゞいかならんと、風呂のこかげに入りにけり、ぬりごめたぎやうといふ事もぬりごめたぎやうといふ事も此世よりこそははじまりたれ。

校訂者注
 1:底本は、「▲アト「 近頃卒爾ながら」。
 2:底本は、「▲シテ「是は何とする」。
 3・4:底本は、「息才」。
 5:底本は、「遺物(かたみ)」。
 6:底本は、「▲シテ「又ある時は布にまかれ」。