金岡(かなをか)(二番目)

▲アト「妾(わらは)は、金岡と申す絵師の妻でござる。夫の金岡は、十日(とをか)あまりさきに、ふと内を出でられて、それより今に帰られぬ。又承れば、狂気召されて、洛外を物に狂うて歩(あり)かるゝと申す。今日(けふ)は、尋ねに出うと思ひまする。
{しかじか。}
誠に、気の毒な事でござる。日頃、正直な人でござつたに、何が心にかかつて、狂気になられたぞ。世間の聞こえも悪うござる。何とぞ、今日(けふ)は連れて戻りたい事ぢやが。何かといふ内に、清水(きよみづ)ぢや。此処(こゝ)に待たうと思ひまする
《一セイ》▲シテ「{*1}いかに、あれなる童(わらんべ)どもは、何を笑ふぞ。
何。物狂ひが可笑しいとや。
{*2}うたてやな。今までは、揺るがぬ梢と見えつるに、風の誘へば一葉も散るなり。たまたま心直(すぐ)なるを、物狂ひと仰せある故に、乱れ心や狂ふらん。
{かけり、常のごとく、打上なしにゐる。}
なうなう、そなたへ行く女郎の、御笠の内こそゆかしけれ。や、また物狂ひとて笑はるゝよ。
《小謡》{*3}花の都のたてぬき、知らぬ道をも、心して訪へば迷はず。恋路など、通ひ馴れても迷ふらん。恋や、恋。我(われ)中空(なかぞら)になすな、恋。恋風が来ては、袂にかいもつれての、袖の重さよ。恋風は、重いものかの。いつの春か見初(みそ)め、思ひ染めて忘られぬ。花の縁や、花の縁やい。《ノル》清水(きよみづ)の、清水の桜の下で、若い衆と出逢うて、一度すやしてふてふ、二度すやしてふてふ。あぢきなの身やな、おれが身は。
{と云つて、泣き、下にゐる。}
▲アト「なうなう、不興(ぶつきよう)や不興や。これはまづ、何とした事でござるぞいなう。
▲シテ「女共か。わごりよは、何しに来た。
▲アト「何しに来たといふ事があるものでござるか。そなたは、この十日余りも外にござる。又聞けば、狂気して、洛外を狂ひ歩かせらるゝといふによつて、それ故、尋ねに来ました。何が心にかゝつて、その様に狂はせらるゝ。
▲シテ「扨々、むさとした事を仰(お)せある。身共は狂気はせぬ程に、必ず気遣ひ召さるな。
▲アト「まだ云はせらるゝ。その様な取り乱した形(なり)をして、洛外を歩かせらるゝ。それが狂気であるまい事は。
▲シテ「扨は、早(はや)、色に顕れたか。さりながら、様子をお聞きあつたりとも、叶はぬ事ぢや。その分に召され。
▲アト「はて、妾が心一つで叶はぬ事ならば、人を頼うでなりとも、叶へて進ぜう程に、平(ひら)に語らしませ。
▲シテ「それならば云うて聞かせうが、さりながら、必ず聞いて、腹を立てまいぞや。
▲アト「何の、腹を立てませう。早う仰せられい。
▲シテ「いつぞや、御殿の絵を仰せ付けられて、通つた事があつた。御化粧の間の、襖・遣戸(やりど)を建てながら、四季の図を画(か)け、と仰せ出だされた。畏つて、金岡が習ひ置きし彩色絵(さいしきゑ)、秘術を尽くして画(か)いてゐた。何が、大勢の女中が、芥子の花を飾り立てた様に、結構な小袖を召して、我も我もと覆ひ重なつて御見物ある。何(いづ)れを何(いづ)れと分けがたく、美しい女中達であつた。その中に、まだ二十(はたち)ばかりでもあらうか、美人が一人(ひとり)、出させられての。
▲アト「これはいかな事。
▲シテ「必ず必ず、腹を立てまいぞや。
▲アト「気遣ひせずとも、話させられい。
▲シテ「いや、その顔のしほらしさ、華奢さ。物にたとへて云はゞ、雲の鬢(びんづら)花の顔(かんばせ)、漢の李夫人・楊貴妃はいざ知らず、絵に画(か)く天人の姿も、いかないかな、及ぶまい。扨も扨も、美しい女郎かなと思うて、しほしほとして、しばし御顔を眺めてゐたれば、かの女郎が、白い扇を出させられて、これに絵を画(か)いてくれいと仰せらるゝ。嬉しさは嬉しゝ、御意は重し、取りあへず、表には秋の野の草尽くしを薄墨絵、裏には唐子(からこ)の戯絵(ざれゑ)、ざつと画(か)いて参らせたが、余り堪(た)へかねて、かの扇を参らせしなに、御手をじつとしめたれば、尻目にかけて、につと笑はせられた、その美しさ。明けても暮れても、寝ても覚めても忘れられいで、この様に物に狂ふ。
{と云つて泣く処、色々心持ちあるべし。}
▲アト「えゝ、腹立ちや、腹立ちや。どうで、その様な事であらうと思うた。妾といふ妻を持ちながら、その様ないたづらな事が、あるものかいやい、あるものかいやい。
▲シテ「それそれ、お見あれ。嫌と云ふものを、無理にと云うて、聞いて腹をお立ちある程にの。
▲アト「いや、腹を立つるではない。まづ、心を静めて聞かせられい。惣じて、女といふものは、化粧(けはい)・化粧(けしやう)をするによつて、美しう見えまする。別して、その様な女中は、付子鉄漿(ふしかね)・紅白粉を付け、長かもじをかけ、結構な小袖を召してござるによつて、又もない様に思し召す。妾ぢやというて、その様に取り繕うてゐたらば、その女郎に負ける事ではござるまいぞ。
▲シテ「いかないかな、わごりよの様な黒い顔を、三日三夜化粧したというて、傍へも寄る事ではおりやらぬ。
▲アト「それならば、良い仕様がござる。幸ひこなたは、天下に隠れもない絵師ぢや程に、妾が顔を、いかやうにも彩色(さいしき)して見させられい。
▲シテ「これは尤ぢや。知らぬ唐土(もろこし)の草木(さうもく)をも彩色し、その図に似せる。まして、かの女郎の面影は、きつと覚えてゐる。さらば、家伝の絵の具を取り集め、筆に任せて絵どつて見よう。
▲アト「一段と良うござらう。
▲シテ「まづ、これに腰をかけさしめ。
▲アト「心得ました。
▲シテ「《カゝル》げに面白き御巧(おたく)みかな。螺(にし)の殻(から)には膠(にかは)を溶き。
▲アト「《セル》{*4}絵の具箱を取り出し。
▲シテ「いでいで、さらば絵どらん。
{かけり、常のごとく、その内、アトの左右より二度ほど絵どる仕様・心持ち、色々あるべし。口伝なり。大小打上。}
いでいで、さらば絵どらんとて。
▲地「紅や白粉、摺り塗りたれど、下地は黒き山鳥の、よそにも人や笑ふらん。
▲シテ「もしもや似ると思ひつゝ。
▲地「又立ち寄りて、丹花の唇、柔和の姿を、何と絵どれど、この面(つら)は、恋しき人の顔には似いで、恋しき人の顔には似いで、狐の化けたに異ならず。

校訂者注
 1:底本、ここから「わらんべ共は何を笑ふぞ」まで、傍点がある。
 2:底本、ここから「乱れ心や狂ふらん」まで、傍点がある。
 3:底本、ここから「あぢきなの身やなおのが身は」まで、傍点がある。
 4:底本、ここから最後まで、全て傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.

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金岡(カナオカ)(二番目)

▲アト「妾は金岡と申す絵師の妻で御座る、夫の金岡は十日あまりさきに、不斗内を出でられて、夫より今に帰へられぬ、又承れば狂気めされて、洛外を物に狂うてありかるゝと申す、けふは尋ねに出うと思ひまする{シカジカ}誠に気の毒な事で御座る、日頃正直な人で御座つたに、何が心にかかつて狂気になられたぞ、世間のきこえもわるう御座る、何卒けふはつれて戻りたい事ぢやが、何かといふ内に清水ぢや、此処に待うと思ひまする《一セイ{*1}》▲シテ「いかにあれなる、わらんべ共は何を笑ふぞ、何物狂がおかしいとや、うたてやな今迄は、ゆるがぬ梢と見えつるに、風のさそへば一葉もちるなり、たまたま心すぐなるを、物狂と仰せあるゆゑに、乱れ心や狂ふらん、{かけり常のごとく打上なしにいる}{*2}なうなうそなたへゆく女郎の、お笠の内こそゆかしけれ、や、また物狂とて笑はるゝよ《小謡》花の都のたてぬき、しらぬ道をも心して、とへばまよはず恋路など、通ひ馴れても、まよふらん、恋や恋、我中空になすな恋、恋風が来ては袂に、かいもつれての、袖のおもさよ、恋風はおもいものかの、いつの春か、見そめ思ひ染めて、わすられぬ、花の縁や、花の縁やい《ノル》清水の清水の、桜の下で若い衆と出合ふて、一度すやしてふてふ、二度すやしてふてふ、あぢきなの身やなおれが身は{ト云て泣下にゐる}▲アト「なうなうぶつ興やぶつ興や、是は先何とした事で御座るぞいのう▲シテ「女共かわごりよは何しに来た▲アト「何しに来たといふ事が、有者で御座るか、そなたは此十日余りも外に御座る、又きけば狂気して、洛外を狂ひあるかせらるゝといふに依つて、夫故尋ねに来ました、何が心にかゝつて、其様に狂はせらるゝ▲シテ「扨々むさとした事をおせある、身共は狂気はせぬ程に、かならず気遣ひめさるな▲アト{*3}「まだいはせらるゝ、其様な取りみだしたなりをして、洛外をあるかせらるゝ、夫が狂気であるまい事は▲シテ「扨ははや、色に顕はれたか、去乍、様子をお聞きあつたり共叶はぬ事ぢや、其分にめされ▲アト「果妾が心一つで叶はぬ事ならば、人を頼うで成共、叶へて進ぜう程に、ひらに語らしませ▲シテ「夫ならばいふてきかせうが、去ながらかならずきいて、腹を立てまいぞや▲アト「何の腹を立てませう、早う仰せられい▲シテ「いつぞや御殿の絵を仰せ付られて、通つた事があつた、御化粧の間の、ふすまやり戸を建てながら、四季の図をかけと仰せ出された、畏つて金岡が習ひ置きしさいしき絵、秘術をつくしてかいてゐた、何が大勢の女中が、芥子の花をかざり立た様に、結構な小袖をめして、我も我もとおほい重て御見物ある、何れを何れと分がたく、美しい女中達であつた、其中にまだ二十斗りでもあらうか、美人がひとり出させられての▲アト「是はいかな事▲シテ「必ず必ず腹を立まいぞや▲アト「気遣ひせずとも咄させられい▲シテ「いやその顔のしほらしさ、きやしやさ、物にたとへていはゞ、雲のびんづら花の顔ばせ、漢の李夫人楊貴妃{*4}はいざしらず、絵にかく天人の姿も、いかないかな及ぶまい、扨も扨も美しい女郎かなと思ふて、しほしほとして、しばしお顔を詠めてゐたれば、彼女郎が白い扇を出させられて、是に絵をかいてくれいと仰せらるゝ、嬉しさは嬉しゝ御意は重し、取りあへず表には、秋の野の草づくしを薄墨絵、裏には唐子のざれ絵、ざつと画て参らせたが、余り堪へ兼て、彼扇を参らせしなに、お手をじつとしめたれば尻目にかけて、につとわらはせられた其美くしさ、あけても暮ても、寝てもさめても、忘れられいで此様に物に狂ふ{ト云つて泣処色々心持有べし}▲アト「えゝ腹立や腹立や、どうで其様な事で有らうと思ふた、妾といふ妻を持ちながら、其様ないたづらな事が、有者かいやい有者かいやい▲シテ「夫々お見あれ、いやといふ者を無理にといふて、きいて腹をお立ちある程にの▲アト「いや腹をたつるではない、先心を静めてきかせられい、惣じて女といふ者は、けはい化粧をするに依つて、美くしう見えまする、別して其様な女中は、ふしかね紅白粉をつけ、長かもじをかけ、結構な小袖をめして御座るに依て、又もない様に思しめす、妾ぢやといふて、其様に取りつくらうてゐたらば、其女郎にまける事では御座るまいぞ▲シテ「いかないかなわごりよの様な黒い顔を、三日三夜化粧したといふて、そばへもよる事ではおりやらぬ▲アト「夫ならばよい仕様が御座る、幸ひこなたは、天下に隠れもない絵師ぢや程に、妾が顔をいか様にも、さいしきして見させられい▲シテ「是は尤ぢや、しらぬ唐土の草木をも彩色し、其図に似せる、まして彼女郎の面影は、屹度おぼえてゐる、さらば家伝の絵の具を取りあつめ、筆に任せてゑどつて見やう▲アト「一段とよう御座らう▲シテ「先是に腰をかけさしめ▲アト「心得ました▲シテ「《カゝル》実面白きおたくみかな、にしのからにはにかはをとき▲アト「《セル》絵の具箱を取り出し▲シテ「いでいでさらばゑどらん、{かけり常のごとく其内アトの左右より二度ほど絵どる仕様こゝろもち色々あるべし口伝なり大小打上}{*5}いでいでさらばゑどらんとて▲地「紅や白粉すりぬりたれど、下地は黒き山鳥の、よそにも人や笑ふらん▲シテ「もしもや似ると思ひつゝ▲地「又たちよりて、たんくわの口びる、にうわの姿を、何とゑどれど此つらは、恋しき人の顔には似いで、恋しき人の顔には似いで、狐の化たにことならず。

 1:底本は、「シテ一セイ」。
 2:底本は、「▲シテ「なう(二字以上の繰り返し記号)そなたへゆく女郎の」。
 3:底本は、「▲女」。以下、「▲女」と「▲アト」が混在するが、全て「▲アト」に統一した。
 4:底本は、「揚貴妃」。
 5:底本は、「▲シテ「いでいでさらばゑどらんとて」。