枕物狂(まくらものぐるひ)(二番目)
▲アト「この辺りの者でござる。某(それがし)、百年(もゝとせ)に余る祖父御(おほぢご)を持つてござる。承ればこの中(ぢゆう)、恋をなさるゝと申す事でござる。又こゝに、某の様な相孫(あひまご)がござる。これを呼び出し、相談を致さうと存ずる。なうなう、ござるか。
▲小アト「これに居まする。
▲アト「何と、祖父御の事を聞かせられたか。
▲小アト「成程、承りましたが、気の毒な事でござる。
▲アト「これは、外聞も宜しうない事でござる。さりながら又、孝行にもなりませうによつて、今日は参つて様子を承り、なりさうな事ならば、どうぞ叶へて進ぜたうござるが、何と思し召す。
▲小アト「成程、これは一段と良うござらう。
▲アト「それならば、さあさあ、ござれ。
▲小アト「心得ました。
▲アト「何(いづ)れ、年にこそよりませうけれ、今あの祖父御の、恋をなさるゝと申すは、思ひもよらぬ事でござる。
▲小アト「仰せの通りでござる。さりながら、老いの慰みでもござるによつて、どうぞ叶へて進じたいものでござる。
▲アト「いや、何かと申す内に、これでござる。まづ、案内を乞ひませう。
▲小アト「一段と良うござらう。
▲アト「ものもう。案内も。祖父御様、御内にござりまするか。太郎。
▲小アト「次郎が。
▲二人「御見舞ひ申してござるぞや。
{下り鼓、打ち出す。一の松にて打ち上げ。}
▲シテ「{*1}枕も物にや狂ふらん。
▲地「寝るも寝られず、起きられず。理(ことわり)や。枕さへ、後(あと)より恋の責めくれば、安からざりし身の狂乱は、新枕(にひまくら)なりけり。
▲シテ「はるや笹の張り枕。枕の主(ぬし)ぞ恋しかりける。乙御前(おとごぜ)ぞ恋しかりける。逢ふ夜は君が手枕、来ぬ夜はおのが袖枕、枕余りに床広し。
▲シテ「寄れ枕。こち寄れ枕。枕さへ、われを疎(うと)むか。
▲アト「太郎。
▲小アト「次郎が。
▲二人「御見舞ひ申してござるぞや。
▲シテ「太郎、次郎、ほい。
{と云つて、太鼓座へ行き、肩を着る{*2}。枕をとつて、懐中して、扇持ち出るなり。}
▲アト「何と、現(うつゝ)ない体(てい)ではござらぬか。
▲小アト「その通りでござる。
▲シテ「えいえいえい。何ぢや。孫共が、見舞うたと云ふか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「やれやれ。珍らしや、珍らしや。良う来たなあ。まづ、かう通れ。
▲二人「畏つてござる。
▲シテ「えいえい。
{シテ、舞台へ出ると、小アト、床机出し、腰かけさす。}
この中(ぢゆう)もこの中(ぢゆう)で、この孫どもは、ちと見舞うてもくれう事ぢやに、祖父(をぢ)を見限つて来ぬ。聞けばこの中(ぢゆう)、大名衆に、人数多(あまた)抱へさせらるゝと聞いた程に、この祖父も、弓の者になりとも、鉄砲の者になりとも、出うと思うですわ。
▲アト「御恨みの段は、御尤に存じまする。何かと、渡世に隙(ひま)を得ませいで、御不沙汰を致しましてござる。
▲シテ「その様な事とは知らなんだ。して、又今日(けふ)は、何と思うて来たぞ。
▲アト「今日(こんにち)参るは、別の事ではござらぬ。承れば、祖父御様には、恋をなさるゝと申すが、誠でござるか。
▲シテ「何ぢや。この祖父に鯉くれう。やれやれ、孝行な孫どもや。さりながら、祖父は年がよつて、歯が悪い。鯉をくるゝとも、魚頭・中打ちは、そなた衆喰うて、身所ばかりくれさしめ。
▲小アト「成程、鯉も上げませうず。承れば、祖父御には、恋をなさるゝと申す。誠でござるか。
▲シテ「何ぢや。この祖父が、恋する。
▲小アト「左様でござる。
▲シテ「あの、この祖父がや。
▲アト「中々。
▲シテ「《笑》やれやれ。興がつた事を云ふぞ。恋の、恋慕のといふは、十九(つゞ)や二十(はたち)になる者の事でこそあれ。この祖父は、目は悪し、腰は痛し、鯉やら鮒やら知り候はぬ。
▲アト「なぜに、お隠しなされまする。老いの慰みでもござれば、あるまい事でもござらぬ。ならう事ならば、叶へて上げませう程に、ありやうに仰せられい。
▲シテ「いかないかな。何程云うたりとも、この祖父は、その様な覚えはなけれども、こゝに、恋の恐ろしい昔物語がある。語つて聞かせう程に、良う聞け。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「汝も良う聞け。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「《語》扨も、京極の御息所、北野詣の御時、御輿(みこし)の内より御手ばかり、少し出されしを、志賀寺の上人、一目御覧じて、御心うつり、しづ心なき恋となり給ふ。同宿の人々、これはいかなる御事ぞや。かやうの御事は、世にある習ひにて候ふ程に。など御文をも参らせられぬぞ。とありしかば、その時、上人の御歌に、初春の初音の今日(けふ)の玉箒(たまはうき)、手に取るからに揺らぐ玉の緒。と、ひと揺らめかし、揺らめかされしかば、御息所は御返歌に、極楽の玉の台(うてな)の蓮葉(はちすば)に、我を誘(いざな)ひ揺らぐ玉の緒。と、又ひと揺らめかし、揺らめかされければ、上人、これを御覧じて、恋の心醒め、いよいよ尊(たつと)き身になり給ふ。又、柿の本の紀僧正は、染殿の后を恋ひかね、加茂の御手洗川(みたらしがは)に身を投げて、青き鬼となり給ふ。
{*3}祖父もこの恋叶はずば、いかなる井戸の中へも身を投げて、青き鬼とはえならずとも、青き蛙(かへる)ともならばやと、思ひ切つて候ふ。恋といへば、徒(あだ)にや人の思ふらん。胸に煙の立たぬ間もなし。恋や恋。我(われ)中空(なかぞら)になすな恋。恋風が来ては、袂にかいもつれての、袖の重たよ。恋風は、重いものかの。あゝ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
▲アト「さればこそ、早(はや)、色に出でさせられてござる。この上は、包まずとも、ありやうに仰せられい。
▲シテ「やあ、何ぢや。早(はや)色に出たと云ふか。
▲小アト「左様でござる。
▲シテ「なうなう、恥づかしや。この上は、包まう様もない。それならば、云つて聞かせう程に、必ず、人に云ふなよ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「汝も人に云ふなよ。
▲小アト「心得ました。
▲シテ「それ、先(せん)の月の地蔵講は、上の刑部三郎ではなかつたか。
▲アト「成程、刑部三郎でござりました。
▲シテ「その刑部三郎が娘に、いちやというて、あるな。
▲小アト「はあ。扨は、そのいちやでござるか。
▲シテ「いや。といへば、そのいちやではなうて、いちやが妹に、乙(おと)というて、あるわ。
▲アト「扨は、乙の事でござるか。
▲シテ「さゝ。その乙が、この祖父は、ちと用があつて遅う行(い)たれば、やれ、祖父御は、何とて遅なはらせ給ふぞ。早々、御出なされて、地蔵の法号をも唱へさせられいで。と云うて、につと笑うた顔を見たれば、まづ、たゞうがひ茶碗程の靨(ゑくぼ)が、七八十も見えた程に、扨も扨も美しい顔ぢやと思うて、行き違ひさまに、乙が居所を、ふつゝりとつめたれば、その時、乙が物と云うた。
▲アト「何と。
▲シテ「物と。
▲アト「何と。
▲シテ「{*4}推参な祖父めや。推参な祖父めや。きはめて色は黒うて、口は歪みて目は腐り、老いぼれたるか祖父とて。
▲シテ「鏡にても打てかし。
▲地「紅皿(べにざら)にても打たずして、この枕押つ取つて、祖父が顔を丁と打つ。打たれて目はまくらとなりぬれど、たゞ恋しきは乙御前と、足ずりしてぞ泣き居たる。
▲シテ「捨てゝも置かれず。
▲地「とれば面影に立ち増り、起き臥し分かで枕より、後(あと)より恋の責めくれば、詮方枕に臥し沈む事ぞ悲しき。
{と云ふ謡の内に、小アト、楽屋へ入りて、乙を連れて出づるなり。}
▲二人「《セル》いかにやいかに、祖父御よ。これこそおことの尋ぬる乙御前よ。よくよく寄りて見給へとよ。
▲シテ「どれ、どこに。はゝあ、したりしたり。《カゝル》恨めしや。疾(とく)にも御出あるならば、かやうに老いの恥をばさらさじものを。あら、面憎(つらにく)とは思へども。
▲地「たまたま会ふは乙御前か。げにもさあり、やよ、がりもさうよの、やよ、がりもさうよの。
▲シテ「なう、愛(いと)しい人。ちやつとおりやれ。
▲乙「心得ました。
{と、留めて入るなり。}
校訂者注
1:底本、ここから「こちよれ枕、枕さへわれをうとむか」まで、傍点がある。
2:それまで脱いでいた片肩をここで入れて、服装を整える。
3:底本、ここから「袖のおもたよ恋風は、おもひ物かの」まで、傍点がある。
4:底本、ここから「やよかりもそうよのやよかりもそうよの」まで、傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.)
枕物狂(マクラモノグルイ)(二番目)
▲アト「此辺りの者で御座る、某百年にあまる、祖父御を持つて御座る、承はれば此中、恋をなさるゝと申す事で御座る、又爰に某の様なあい孫が御座る、是を呼出し、相談を致さうと存ずる、なうなう御座るか▲小アト「是に居まする▲アト「何と祖父御の事をきかせられたか▲小アト「成程承りましたが、気の毒な事で御座る▲アト「是は外聞も宜敷うない事で御座る、去ながら、又孝行にもなりませうに依つて、今日は参つて様子を承り、なりさうな事ならば、どうぞ叶へて進ぜたう御座るが、何と思召す▲小アト「成程是は一段とよう御座らう▲アト「夫ならばさあさあ御座れ▲小アト「心得ました▲アト「何れ年にこそよりませうけれ、今あの祖父御の恋をなさるゝと申すは、思ひもよらぬ事で御座る▲小アト「仰せの通りで御座る、去ながら、老のなぐさみでも御座るに依つて、どうぞ叶へて、進じたい者で御座る▲アト「いや何かと申す内に是で御座る、先案内を乞ひませう▲小アト「一段とよう御座らう▲アト「ものもう案内も、祖父御様御内に御座りまするか、太郎▲小アト「次郎が▲二人「お見舞申して御座るぞや、{下り鼓打出す一の松にて打上}▲シテ「枕も物にや狂ふらん▲地「ねるも寝られずおきられず、理や枕さへ、跡より恋の責めくれば、安からざりし身の狂乱は新枕なりけり▲シテ「張や笹のはり枕、枕のぬしぞ恋しかりける、乙御前ぞ恋しかりける、逢夜は君が手枕、来ぬ夜はおのが袖枕、枕あまりに床ひろし▲シテ「よれ枕▲同「こちよれ枕、枕さへわれをうとむか▲アト「太郎▲小アト「次郎が▲二人「お見舞申して御座るぞや▲シテ「太郎次郎ホイ{と云つて太鼓座へ行き肩をきる枕をとつて懐中して扇持出る也}▲アト「何とうつゝない体では御座らぬか▲小アト「其通りで御座る▲シテ「えいえいえい、何ぢや孫共が、見舞うたといふか▲アト「左様で御座る▲シテ「やれやれ珍らしや珍らしや、よう来たなあ先かう通れ▲二人「畏つて御座る▲シテ「えいえい、{シテ舞台へ出ると小アト床机出腰かけさす}{*1}此中も此中で此孫共は、ちと見舞うてもくれう事ぢやに、祖父を見限つてこぬ、聞けば此中大名衆に、人あまた抱へさせらるゝときいた程に、此祖父も弓の者に成共、鉄砲の者に成共、出うと思ふですは{*2}▲アト「お恨みの段は御尤に存じまする、何かと渡世に隙を得ませいで、御不沙汰を致しまして御座る▲シテ「其様な事とはしらなんだ、して又けふは何と思ふて来たぞ▲アト「今日参るは別の事では御座らぬ、承れば祖父御様には、恋をなさるゝと申すが、誠で御座るか▲シテ「何ぢや此祖父に鯉くれう、やれやれ孝行な孫共や、乍去祖父は年がよつて歯がわるい、鯉をくるゝ共、魚頭中打はそなた衆喰ふて、身所斗りくれさしめ▲小アト「成程鯉も上げませうず、承れば祖父御には、恋をなさるゝと申す、誠で御座るか▲シテ「何ぢや此祖父が恋する▲小アト「左様で御座る▲シテ「あの此祖父がや▲アト「中々▲シテ「《笑》やれやれけうがつた事をいふぞ、恋のれんぼのといふは、つゝやはたちに成者の事でこそあれ、此祖父は目はわるし、腰はいたし、鯉やら鮒やらしり候はぬ▲アト「なぜにおかくしなされまする、老の慰みでも御座れば、有まい事でも御座らぬ、ならう事ならば、叶へて上げませう程に、有様に仰せられい▲シテ「いかないかな何程いふたり共此祖父は、其様な覚えはなけれ共、爰に恋のおそろしい、昔物語がある、語つてきかせう程にようきけ▲アト「畏つて御座る▲シテ「汝もようきけ▲小アト「畏つて御座る▲シテ「《語》扨も京極の御息所、北野詣の御時、御輿の内より、御手ばかりすこし出されしを、志賀寺の上人、一目御覧じて御心うつり、しづ心なき恋と成給ふ、同宿の人々、是はいかなる御事ぞや、斯様の御事は、世にある習ひにて候程になど、御文をも参らせられぬぞと有りしかば、其時上人の御歌に、初春の初音のけふの玉箒、手に取るからにゆらぐ玉の緒、とひとゆらめかし、ゆらめかされしかば、御息所は御返歌に、極楽の玉のうてなのはちす葉に、我をいざなひゆらぐ玉の緒、とまたひとゆらめかし、ゆらめかされければ、上人是を御覧じて、恋の心さめ、いよいよたつとき身に成給ふ、又柿の本の紀僧正は、染殿の后を恋ひ、かねかもの、みたらし川に身を投げて、青き鬼と成給ふ、祖父も此恋叶はずば、いかなる井戸の中へも身をなげて、青き鬼とは得ならずとも、青きかへる共ならばやと思ひ切つて候、恋といへば、あだにや人の思ふらん、胸に煙のたゝぬ間もなし恋や恋われなかぞらになすな恋、恋風が来ては袂にかいもつれての、袖のおもたよ恋風は、おもひ物かの、あゝ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏▲アト「さればこそ早色に出でさせられて御座る、此上はつゝまず共、あり様に仰せられい▲シテ「やあ何ぢや、はや色に出たといふか▲小アト「左様で御座る▲シテ「なうなう恥かしや此上は包まう様もない、夫ならば云つてきかせう程に、かならず人にいふなよ▲アト「畏つて御座る▲シテ「汝も人にいふなよ▲小アト「心得ました▲シテ「夫せんの月の地蔵講は、上の刑部三郎ではなかつたか▲アト「成程刑部三郎で御座りました▲シテ「其刑部三郎が娘に、いちやといふてあるな▲小アト「ハア、扨は其いちやで御座るか▲シテ「いやといへば、其いちやではなうて、いちやが妹に、乙といふてあるわ▲アト「扨は乙の事で御座るか▲シテ「さゝ其乙が、此祖父は、ちと用があつておそういたれば、やれ祖父御は、何とておそなはらせ給ふぞ、早々お出でなされて、地蔵の法号をも、となへさせられいでといふて、につと笑ふた顔を見たればまつたゞ、うがひ茶碗程のゑくぼが、七八十も見えた程に、扨も扨も、美しい顔ぢやと思ふて、ゆきちがひさまに、乙が居所をふつつりと、つめたれば、其時乙が物といふた▲アト「何と▲シテ「物と▲アト「何と▲シテ「推参な祖父めや、推参な祖父めや、きはめて色は黒うて、口はゆがみて目はくさり、老ぼれたるか祖父とて▲シテ「鏡にてもうてかし▲地「べにざらにてもうたずして、此枕押つ取つて{*3}、祖父が顔を丁と打つ、うたれて目は枕となりぬれど、たゞ恋しきは乙御前と、足ずりしてぞ泣き居たる▲シテ「捨ててもおかれず▲地「とれば面影に立増り、おきふしわかで枕より、跡より恋の責めくれば、詮方枕にふししづむ事ぞかなしき{ト云ふ謡の内に小アト楽屋へ入て乙をつれていづるなり}▲二人「《セル》いかにやいかに祖父御よ、是こそおことの尋る乙ごぜよ、よくよくよりて見たまへとよ▲シテ「どれどこに、ハゝアしたりしたり、《カゝル》{*4}うらめしや、とくにも御出で有るならば、かように老の恥をばさらさじ物を、あらつらにくとは思へ共▲地「たまたまあふは乙御前か、実も左あり、やよかりもそうよのやよかりもそうよの{*5} ▲シテ「なういとしい人、ちやつとおりやれ▲乙「心得ました{ト留めて入也}
校訂者注
1:底本は、「▲シテ「此中も此中で此孫共は」。
2:底本は、「思ふてすは」。
3:底本は、「追つ取つて」。
4:底本は、「ハゝアしたり(二文字以上の繰り返し記号)、カゝル」。
5:「やよかりもそうよのやよかりもそうよの{」は、底本のまま。同様の表現は、前の「三本柱」等にもある。
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