老武者(らうむしや)(三番目 四番目)
▲三位「《次第》{*1}人目を忍ぶ旅なれば、人目を忍ぶ旅なれば、まだ夜の中(うち)に出でうよ。
これは、曽我の里に住居(すまひ)する者にて候ふ。又、これにござ候ふは、さる御方の御子息にて候ふが、鎌倉を御覧ありたき由、仰せ候ふ程に、我等、御供申し、只今、鎌倉へと急ぎ候ふ。
{道行。打切。}
{*2}住み馴れし、曽我の里をば立ち出でゝ、曽我の里をば立ち出でゝ、足に任せて行く程に、鎌倉山に着きもせで、傍なる宿(しゆく)に着きにけり。
御急ぎ候ふ程に、これは早(はや)、相模の国・藤沢の宿(しゆく)に御着きにて候ふ。此処(こゝ)に、宿を借らうと存ずる。まづ、かう御出なされい。
{児(ちご)、橋がゝりへ行き、三位、案内乞ふ。宿、出る。}
▲三位「旅の者でござる。小人(せうじん)を一人、御供申した。御宿(おやど)を貸して下されい。
▲宿「易い事でござる。かう、お通りなされませ。
▲三位「忍びの御下向ぢや程に、奥の間を貸して下されい。
▲宿「成程、つゝと奥の間へ、お通りなされませ。
▲三位「心得ました。さあさあ、かう通らせられい。
▲立頭「この辺りの者でござる。承れば、この宿(しゆく)へ、小人のお着きと申し、殊の外美しい小人ぢやと申す。皆若い衆を、同道致して参り、ひと目見うと存ずる。なうなう、何(いづ)れもござるか。
▲立衆「これに居まする。
▲立頭「聞けば、誰(たれ)が方(はう)へ、器量の良い小人が着かせられたと聞いたが、何(いづ)れも、聞かつしやれたか。
▲立衆「成程、殊の外美しい御若衆がお着きぢやと、承つてござる。
▲頭「いざ参つて、盃を頂きませうか。
▲衆「一段と良うござらう。
▲頭「さあさあ、ござれ。
▲衆「心得ました。
{立頭、案内を乞ふ。宿(やど)、出る。それ、常の如し。}
▲頭「聞けば、これへ小人がお着きぢやが、殊の外美しい御若衆ぢやと聞いたによつて、若い衆を同道して来た。そと、御盃をさしてたもれ。
▲宿「殊の外、御忍びぢやによつて、何とあらうぞ。まづ、御供の三位殿まで、ひそかに尋ねう。暫く待たしめ。
▲頭「心得た。
▲宿「三位殿、三位殿。
▲三位「何事でござる。
▲宿「近所の若い衆が、二三人見えまして、小人の御盃を頂きたいと申されますが、なりますまいか。
▲三位「いかないかな。御忍びぢやによつて、ならぬ事でござる。
▲宿「どうぞ、御前(おまへ)の御心入れで、なりますまいか。
▲三位「いやいや。いかう人目を忍ばせらるゝによつて、なるまいと云うて下され。
▲宿「畏つてござる。なうなう、ならぬと仰せらるゝ。
▲頭「せつかく参つたに、残念な事ぢや。いや、それならば、亭主の知らぬ分で、只押しかけて参らうか。
▲宿「それは、ともかくも召され。
▲頭「心得た。なうなう、何(いづ)れも、身共についてござれ。
▲衆「心得ました。
▲頭「御免なりませう。私共は、この近所の者でござる。これへお着きと承つて、御見舞ひ申してござる。
▲三位「これは、見知らぬ衆ぢや。何として、御出あつたぞ。
▲頭「いや。卒爾に思し召さうけれども、別に、聊爾な者ではござらぬ。お淋しうござらうと存じて、御伽(おとぎ)に参つてござる。
▲宿「いや。なうなう、わごりよ達は、身共へも知らせずに、御座敷へ出るといふ事があるものか。
▲頭「そなたまでが、その様に仰(お)せあるか。ちと、取り合(あは)せを申し上げさしませ。
▲宿「いや。私の良う存じた衆で、聊爾な者でござらぬ。御心安う思し召しませ。ちと御慰みに、盃を出しませう。
{と云つて、葛桶のふたを持ちて、出づるなり。}
▲三位「いづれ、旅宿(りよしゆく)で、物淋しうござつたに、各御出(おいで)故、中々、殷々(にぎにぎ)しくなりました。
▲宿「御盃を持ちました。
▲三位「さらば、ちと御酒(ごしゆ)を参つて、あの若い衆に、おさしなされませ。
▲児「おれは、盃は嫌。饅頭なら、食はう。
▲三位「又、さもしい事を仰せらるゝ。まづ、笠もとらせられい。
▲児「それなら、おとゝ呑まう{*3}。
{と云つて、笠を脱ぎ、酒を受けて呑み、舌を出して盃の内をねぶる。三位、袖を引きて叱るなり。}
▲三位「さあさあ、小人のさゝれまする。
▲頭「これは、御盃、ありがたう存じまする。一つ、たべませう。
▲宿「ちと、謡ひませう。
▲衆「一段と良うござらう。
{小謡あり。}
▲児「とんぼ、とんぼ、蝶々とまれ。我もとまろ。とまつた、とまつた。
{と云つて、立つて踊る。仕方あり。三位、叱る。この一段、三位の舞の後へ廻してする事もあり。口伝多し。盃、段々廻す。}
▲頭「扨、一つ受け持ちました。小人のお立ち姿が見たうござる。
▲三位「ちと、舞はせられぬか。
▲児「舞ひは知らぬ。相撲を取らうか。
▲三位「扨々、むさとした事を仰せらるゝ。いや。私、名代(みやうだい)に舞ひませう。
▲各「これは、一段と良うござらう。
{と云つて、三位、舞ふ。その内に児、手そぶり、いろいろ仕様あるべし。}
▲各「よいや、よいや。扨々、面白い事でござる。
{又、小謡あり。盃、段々廻す。この内にシテ、一の松へ上る。}
▲シテ「なうなう、珍しや、珍しや。この宿(しゆく)へ、美しい小人のお着きなされて、謡(うた)うつ舞(ま)うつ、召さるゝと云ふが、老いの楽しみに祖父(おほぢ)も行(い)て、御盃をせう。亭主、亭主。
▲宿「いや、祖父御。何として、出させられたぞ。
▲シテ「何としてと云ふ事があるものか。これの内へは、小人が着かせられて、殷々(にぎにぎ)しい事は、在所中に隠れがない。祖父にも、来いと云うて人をよこしたりとも、科(とが)にもなるまいに。よう隠いたな。
▲宿「いや。殊の外、御忍びぢやによつて、身共の儘にはならぬ。
▲シテ「祖父も奥へ行(い)て、老いの思ひ出に、御盃を頂かう。
▲宿「いや。今、若い衆が大勢来てをらるゝによつて、なりますまい。
▲シテ「いよいよ合点の行かぬ事を云ふ。年寄つた者はならいで、若い者は苦しうないとは、何とした事ぢや。
▲宿「まづ、只今は帰らせられい。若い衆が帰られたらば、その後で呼びに進ぜう。
▲シテ「推参千万な。身共は、所で極老(ごくらう)の者なれば、つひに、寄会(よりあひ)にも、後に出たゝめしはない。
▲宿「いや。それとは違うた事でござる。
▲シテ「いや。どうでも、出ねばならぬ。
▲三位「何やら、表がいかう騒がしうござる。何事でござる。
▲衆「いかさま、何やら騒がしうござる。
▲頭「私、行(い)て見て参りませう。
▲衆「良うござらう。
▲頭「なうなう、祖父御。これは、見苦しい。人に御意見もなさるゝ程のこなたが、事にこそよれ、小人と御盃の相手を、若い者とせり合ふといふ事があるものでござるか。早う帰らつしやれ。
▲シテ「おぬし達まで、そのつれを云ふか。何の、年寄つたというて、小人の御盃を頂くまいものか。
▲宿「扨も扨も、くどい人ぢや。あの様な人に、かまはつしやれな。
▲シテ「いや、亭主。かまうなとは。なぜ、人選みをする。
▲宿「くどい事を云ふ人ぢや。こなたは奥に入らつしやれ。この座敷へ、年寄りはならぬ。とつとゝ、お帰りあれ。
▲シテ「いやいや。どうあつても、出ねばならぬ。
▲宿「まだそのつれを仰(お)せある。戸より外へお出あれ。
{と云つて、突き出し、戸をさし、皆々、奥へ入る心なり。}
▲三位「何事でござる。
▲頭「いや。何(いづ)れも、御気遣ひなさるゝ事ではござらぬ。
▲シテ「やあ。これは、戸をさいたか。やれやれ、腹立ちや、腹立ちや。こゝをあけぬか、あけぬか。良い良い。この祖父に、恥を与へた。おのれ、今の間に思ひ知らせうぞ。
{と云つて、中入りする。この内に、酒盛り・謡、いろいろあるべし。}
▲宿「やあやあ、何と云ふぞ。それは、誠か。なうなう、何(いづ)れも。只今、祖父を帰したといふ腹立ちに、大勢、年寄りどもを語らひ、長道具を持つて押し寄すると申す。ちと、用心をなされい。
▲頭「押し寄するというて、深しい事はござるまい。
▲宿「いやいや、油断はなるまい。とかく、用心めされ。
▲頭「それならば、何(いづ)れも。身拵へをさせられい。
▲衆「心得ました。
▲児「おれや、怖い、怖い。
▲三位「何も怖い事はない。気遣ひさせられな。
▲宿「三位殿。小人を連れ申(ま)して、奥へござれ。
▲三位「心得ました。
{立衆、皆々肩を脱ぎ、杖をつき、待つてゐるなり。}
《一セイ》▲シテ「{*4}老武者の。
▲同「腰に梓の弓を張り、翁さびたる鑓長刀を、かたげつれてぞ押し寄せたる。
▲頭「若衆の勢はこれを見て、若衆の勢はこれを見て、昔は知らず当代は、若俗(にやくぞく)好きこそひと手はとれ、いかに勢ひ給ふとも、さしたる事はあらじものをと、一度にどつとぞ笑ひける、一度にどつとぞ笑ひける。《笑》
▲シテ「年寄りどもはこれを聞き、年寄りどもはこれを聞き、熊坂の入道六十三、斎藤別当実盛も、六十に余つて討死する。その上老武者の、くうたる所が蛸になるぞと。
▲シテ「或いは七十。
▲同「或いは。
▲シテ「八十。
▲同「いづれも劣らぬ老武者ども、切つ先を揃へてかゝりける。
{「ヱイ、トウトウ」と、互に寄せ合ふ。}
▲三位「若衆の内より下知をなし、若衆の内より下知をなし、皆々、これは親方(おやかた)達なり。かまへてかまへて過(あやま)ちすなと、走り寄り抱(いだ)きつけば、思の外なる若俗(にやくぞく)好きし、思の外なる若俗好きして、我が家我が家にぞ帰りける。
{と云つて、児を手車に乗せて、老人ども、かいて入るなり。}
{但し、}
▲シテ「なう、愛(いと)しい人。
{を云ひ、}
▲児「足の冷たいに、草履買うてたもれ。
{を云うて、走りこぎ{*5}して入るあり。その時は立衆の、老人謡ひ済むと、先へ入るなり。}
校訂者注
1:底本、ここから「まだ夜の中に出でうよ」まで、傍点がある。
2:底本、ここから「そば成るしゆくに着きにけり」まで、傍点がある。
3:「おとゝ」は幼児語で、「酒」の意。
4:底本、ここから「わが家わが家にぞ帰りける」まで、傍点がある。
5:「走りこぎ」は、「かけくらべ、競争」の意。
底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.)
老武者(ロヲムシヤ)(三番目 四番目)
▲三位「《次第》人目を忍ぶ旅なれば人目を忍ぶ旅なれば、まだ夜の中に出でうよ、是は曽我の里に住居する者にて候、又是に御座候は、去御方の御子息にて候が、鎌倉を御覧有り度き由仰せ候程に、我等御供申し、唯今鎌倉へと急ぎ候{道行打切}{*1}》住みなれし、曽我の里をば立ち出でて曽我の里をば立ち出でて、足に任せてゆく程に、鎌倉山に着きもせで、そば成るしゆくに着きにけり、御急ぎ候程に、是ははや相模の国藤沢の宿に御着きにて候、此処に宿をからうと存ずる、先かう御出でなされい{児橋がゝりへ行き三位案内乞ふ宿出る}▲三位「旅の者で御座る、小人を一人お供申した、お宿をかして下されい▲宿「安い事で御座る、かうお通りなされませ▲三位「忍びの御下向ぢや程に、奥の間をかして下されい▲宿「成程つゝと奥の間へ、お通り被成ませ▲三位「心得ました、さあさあかう通らせられい▲立頭「此辺りの者で御座る、承れば此宿へ、小人のお着きと申し、殊の外美しい小人ぢやと申す、皆若い衆を同道致して参り、一と目見うと存ずる、なうなう何れもござるか▲立衆「是に居まする▲立頭「きけば誰が方へ、きりようのよい小人が、つかせられたときいたが、何れもきかつしやれたか▲立衆「成程殊の外美しい、お若衆がお着きぢやと、承つて御座る▲頭「いざ参つて盃をいたゞきませうか▲衆「一段とよう御座らう▲頭「さあさあ御座れ▲衆「心得ました{立頭案内を乞宿出る其如常}▲頭「きけば是へ小人がお着きぢやが、殊の外美しい、お若衆ぢやときいたに依つて、若い衆を同道して来た、そとお盃をさしてたもれ▲宿「殊の外お忍びぢやに依つて何と有らうぞ、先お供の三位殿迄、ひそかに尋ねう、暫くまたしめ▲頭{*2}「心得た▲宿「三位殿三位殿▲三位「何事で御座る▲宿「近所の若い衆が、二三人見えまして、小人のお盃を、いたゞきたいと申されますが、なりますまいか▲三位「いかないかなお忍びぢやに依つて、ならぬ事で御座る▲宿「どうぞお前のお心入れでなりますまいか▲三位「いやいやいかう人目を忍ばせらるゝに依つて、なるまいといふて下され▲宿「畏つて御座る、なうなうならぬと仰せらるゝ▲頭「せつかく参つたに、残念な事ぢや、いや夫ならば、亭主のしらぬ分で、唯押しかけて参らうか▲宿「夫は兎も角もめされ▲頭「心得た、なうなう何れも、身共について御座れ▲衆「心得ました▲頭「御免成りませう、私共は此近所の者で御座る、是へお着きと承つて、お見舞ひ申して御座る▲三位「是は見知らぬ衆ぢや、何としてお出であつたぞ▲頭「いやそつじに思召さうけれ共、別にれうじな者では御座らぬ、お淋しう御座らうと存じて、お伽に参つて御座る▲宿「いやなうなうわごりよ達は、身共へもしらせずに、御座敷へ出るといふ事がある者か▲頭「そなたまでが其様におせあるか、ちと取り合せを申し上げさしませ▲宿「いや私のよう存じた衆で、れうじな者で御座らぬ、お心易う思召しませ、ちとお慰みに盃を出しませう{ト云つて葛桶のふたをもちていづるなり}▲三位「いづれ旅宿で物淋しう御座つたに、各お出で故、中々殷々敷成りました▲宿「お盃を持ちました▲三位「さらばちと御酒を参つて、あの若い衆におさし被成ませ▲児「おれは盃はいや、饅頭ならくはう▲三位「又さもしい事を仰せらるゝ、先笠もとらせられい▲児「それならおとゝ呑まう{ト云つて笠をぬぎ酒をうけて呑したをだして{*3}さかづきの内をねぶる三位袖を引てしかるなり}▲三位「さあさあ小人のさゝれまする▲頭「是はお盃有難う存じまする、一つたべませう▲宿「ちと謡ひませう▲衆「一段とよう御座らう{小謡あり}▲児「とんぼとんぼ、てふてふとまれ、われもとまろ、とまつたとまつた{ト云つて立つて踊仕方あり三位しかる此一段三位の舞の跡へ廻してする事もあり口伝多し盃段々まわす}▲頭「扨一つ請持ちました、小人のお立姿が見たう御座る▲三位「ちと舞はせられぬか▲児「舞はしらぬ、相撲を取らうか▲三位「扨々むさとした事を仰せらるゝ、いや私名代に舞ませう▲各「是は一段とよう御座らう{ト云つて三位舞其内に児手そぶりいろいろ仕様有べし}▲各「よいやよいや、扨々面白い事で御座る{亦小謡あり盃段々まはす此内にシテ一の松へ上る}▲シテ「なうなう珍らしや珍らしや、此宿へ美しい小人の、お着きなされて、謡うつ舞うつめさるゝといふが、老のたのしみに祖父もいて、お盃をせう、亭主亭主▲宿「いや祖父御、何として出させられたぞ▲シテ「何としてといふ事が有る者か、是の内へは、小人がつかせられて、殷々敷事は、在所中に隠れがない、祖父にも来いといふて、人をよこしたり共、科にも成るまいにようかくいたな▲宿「いや殊の外お忍びぢやに依つて、身共の儘にはならぬ▲シテ「祖父も奥へいて、老の思ひでに、お盃をいたゞかう▲宿「いや今若い衆が、大勢きてをらるゝに依つてなりますまい▲シテ「いよいよ合点のゆかぬ事をいふ、年寄つた者はならいで若い者は苦敷ないとは、何とした事ぢや▲宿「先唯今は帰らせられい、若い衆が帰られたらば、其後で呼びに進ぜう▲シテ「推参千万な、身共は所で極老の者なれば、ついに寄会にも、後に出たためしはない▲宿「いや夫とは違うた事で御座る▲シテ「いやどうでも出ねばならぬ▲三位「何やら表がいかうさはがしう御座る何事で御座る▲衆「いか様何やらさはがしう御座る▲頭「私いて見て参りませう▲衆「よう御座らう▲頭「なうなう祖父御是は見苦しい、人に御意見も被成るゝ程のこなたが、事にこそよれ、小人とお盃の相手を、若い者とせり合ふといふ事が、有る者で御座るか、早う帰らつしやれ▲シテ「おぬし達迄其つれをいふか、何の年よつたといふて、小人のお盃をいたゞくまい者か▲宿「扨も扨もくどい人ぢや、あの様な人にかまはつしやれな▲シテ「いや亭主かまうなとは、なぜ人えらみをする▲宿「くどい事をいふ人ぢや、こなたは奥にはいらつしやれ、此座敷へ年寄はならぬ、とつとゝお帰へりあれ▲シテ「いやいやどうあつても出ねばならぬ▲宿「まだ其つれをおせある、戸より外へお出あれ{ト云つてつき出し戸をさし皆々奥へ入る心なり}▲三位「何事で御座る▲頭「いや何れも、お気づかひなさるゝ事では御座らぬ▲シテ「やあ是は戸をさいたか、やれやれ腹立や腹立や、爰をあけぬかあけぬか、よいよい此祖父に恥をあたへた、おのれ今の間に、思ひしらせうぞ{ト云つて中入する此内に酒盛り謡いろいろ可有}▲宿「やあやあ何といふぞ、夫は誠か、なうなう何れも、唯今祖父を帰へしたといふ腹立に、大勢年寄共をかたらひ、長道具を持つて押しよすると申す、ちと用心を被成い▲頭「押しよするといふて、ふかしい事は御座るまい▲宿「いやいや油断はなるまい、兎角用心めされ▲頭「夫ならば何れも、身拵へをさせられい▲衆「心得ました▲児「おれやこはいこはい▲三位「何もこはい事はない、気遣ひさせられな▲宿「三位殿小人を連まして奥へ御座れ▲三位「心得ました{立衆皆々肩をぬぎ杖をつき待てゐる也}《一セイ》▲シテ「老武者の▲同「腰に梓の弓を張り、翁錆たる鑓長刀を、かたげつれてぞ押よせたる▲頭「若衆の勢は是を見て、若衆の勢は是を見て、むかしはしらず当代は、にやくぞくずきこそひとてはとれ、いかにいきおひ給ふ共、さしたる事はあらじ者をと、一度にどつとぞわらひける一度にどつとぞわらひける、《笑》{*4}▲シテ「年寄共は是をきゝ、年寄共は是をきゝ、熊坂の入道六十三、斎藤別当実盛も、六十にあまつて討死する、其上老武者の、くうたる所が蛸に成るぞと、▲シテ「或は七十▲同「或は▲シテ「八十▲同「いづれもおとらぬ老武者共、切つ先をそろへてかゝりける{ヱイトウトウと互によせあう}▲三位「若衆の内より下知をなし、若衆の内より下知をなし、皆々是はおや方達なり、かまへてかまへてあやまちすなと、はしりよりいだきつけば、思の外なるにやくぞくずきし、思の外成若俗ずきして、わが家わが家にぞ帰りける{ト云つて児を手車にのせて老人共かいて入るなり}{但し}▲シテ「なういとしい人{を云}▲児「足のつめたいに、ぞうりかうてたもれ{を云ふてはしりこぎして入るあり其時は立衆の老人謡すむと先へ入るなり}
校訂者注
1:底本は、「{道行打切 ヤ}」。
2:底本は、「▲立頭「心得た」。
3:底本は、「したをたして」。
4:底本は、「一度にどつとぞわらひける(二字以上の繰り返し記号)、笑ふ」。
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