髭櫓(ひげやぐら)(三番目 四番目)

▲シテ「下京辺に住居(すまひ)致す者でござる。この度、内裏において、大嘗会を執り行はせらるゝに付いて、幸(さい)の鉾は、大髭の役なれば、洛中洛外は申すに及ばず、隣国まで御詮議なさるれども、某(それがし)が髭程な者がござらぬによつて、則ち身共に、幸の鉾の役を仰せ付けられた。外聞と申し、かやうのありがたい仕合(しあはせ)はござらぬ。まづ、女共を呼び出し、万事談合致さうと存ずる。なうなう。これの人、居さしますか。おりやるか。
▲女「今めかしや、今めかしや。妾(わらは)を呼ばせらるゝは、何事でござる。
▲シテ「ちと、相談する事がある。まづ、かう御出あれ。
▲女「心得ました。扨、相談とは、何事でござる。
▲シテ「別の事でもない。この度、禁中において、大嘗会を執り行はせらるゝに付いて、幸の鉾は大髭の役なれば、洛中洛外は申すに及ばず、隣国まで御詮議なさるれども、某が髭程な者がないによつて、この度の役を、某に仰せ付けらるゝ筈ぢや。何と、忝い事ではないか。
▲女「扨々、それは、めでたい事でござるなう。
▲シテ「扨、それに付いて、装束が要る程に、その用意を召され。
▲女「その装束は、上(うへ)ツ方(がた)から出るではござらぬか。
▲シテ「いかないかな。この度の役を仰せ付けらるゝさへ、大切な事ぢや。装束などは、思ひも寄らぬ事ぢや。
▲女「扨々、億劫な事を云はせらるゝ。朝夕(あさゆふ)の煙さへ立てかぬる身で、何と、装束の用意がなるものぞ。これは、変改(へんかい)をさせられい。
▲シテ「心易さうに、一旦御受けを申した事が、何と、変改がなるものぢや。その上、かやうの役義を、願うたと云つて仰せ付けらるゝものではない。これを勤むれば、名を上ぐる事ぢや。すれば、人間の名を上ぐる、出世といふものぢや。その上、装束はいかやうともならう。そなたはまづ、この髭の掃除を召され。
▲女「なうなう、うたてやの、うたてやの。その髭が、朝夕見たむなうて、なりませぬ。その上、その髭があるによつて、何かと喧(かしま)しい。一向、髭を剃つて仕舞はつしやれ。
▲シテ「扨々、憎いやつの。この髭があればこそ、この度の役も、仰せ付けさせらるれ。洛中洛外は申すに及ばず、隣国近在までも隠れのないこの髭を、剃れと云ふ事があるものか。さあさあ、早う掃除をせい。
▲女「まだ、くどい事を仰(お)せある。お主は、身代がならいでも、その髭を調法召さるゝぢやまで。
▲シテ「おゝ、扨。人は一代、名は末代。徳を取らうより名を取れといふ事を知らぬか。
▲女「あの人らかしい口はいの。その見たむない髭を、いかう自慢に思はるゝさうな。何の益にもならぬ、むざむざとした大髭ぢやというて、世間からも笑ふ。とかく、この度を幸ひに、抜くか剃るか召され。
▲シテ「扨々、物を云はせて置けば、方量もない事をぬかしをる。おのれが大事にする髪を、抜けの剃れのと云つたらば、嬉しからうか。
▲女「あの、仰(お)せある事は。惣じて、女は髪かたちというて、これは、なうて叶はぬものぢや。そなたの髭は、なうても大事ないものでござる。まづ第一、人がむさいと云ふ事を、お知りあらぬかいなう。
▲シテ「やい。世間に、身共が様な大髭が、もう一人とあるか見よ。
▲女「さればこそ。そのむさい、見たむないものぢやによつて、外にないわいなう。
▲シテ「男に口をあかせぬ様に、ぬかしをる。おのれを、何とせう。
▲女「なう、腹立ちや、腹立ちや。妾も親を持つて居る。いかに女房ぢやと云うて、その様にしたものではおりないぞ。
▲シテ「まだ、そのつれをぬかしをるか、ぬかしをるか。扨々、憎いやつの。
▲女「なう、腹立ちや、腹立ちや。おのれ、今の間に、思ひ知らせうぞ。腹立ちや、腹立ちや。
▲早打「やあやあ、それは誠か。扨々、苦々しき事かな。なうなう、こゝな人、こゝな人。
▲シテ「あはたゞしく、何事でおりやる。
▲早「今、お主は御内儀を打擲召されたか。
▲シテ「中々。余り悪口をぬかしをつたによつて、已(や)ませておりやる。
▲早「それを、いかう腹立ちして、辺りの女房どもを語らひ、そなたの髭を是非抜かうと云うて、鎗・長刀、様々の長道具、大きな毛抜などを持つて、大勢こゝへ押し寄せてくるぞや。
▲シテ「何の。来たというて、深しい事はござるまい。
▲早「いやいや。油断大敵といふ事があり、平(ひら)に用心を召され。
▲シテ「扨は、誠に押し寄するか。
▲早「中々。まづ、その様な。なまぬるい事ではなるまい。用意を召され。身共が手伝つてやらうぞ。
▲シテ「それならば、髭の要害をせう。
《カゝル》{*1}旧苔(きうたい)の髭の周りの要害には、方八町に堀を掘り、瀬戸ひけまでも拵へて、寄する敵を待ちかけたり。
《一セイ》▲女「二世までと契りし甲斐もあら磯に、寄せて討ちとれ、浦の浪。
▲シテ「旧苔の髭の周りの要害には、櫓・垣楯(かいだて)上げたるぞや。かゝれやかゝれ、女子(をなご)ども。
▲アト「あら物々しき和男よ、あら物々しき和男よ。多勢に独りが叶ふべきか。あら面憎(つらにく)や、面憎や。
▲シテ「たとへ女は多くとも。
▲同「たとへ女は大磯の、虎の尾をば踏むとても、竜の髭をばよも抜かじ。
▲アト「互の問答、無益なり。
▲同「髭を挘(むし)りてくれんとて、切つ先を揃へ、かゝりけり。
▲シテ「こゝは逃れぬ所なり、こゝは逃れぬ所なりとて、城の扉を押し開き、口の内より切つて出で、横さま切り、縦さま切りに、切り立てられ、さすが女の悲しさは、堪(こら)へずぱつとぞ逃げたりける、堪へずぱつとぞ逃げたりける。えいえいおゝ。
▲女「その時女房腹を立て、その時女房腹を立て、たゞ垣楯を引き破れとて、熊手・薙鎌(ないがま)打ち立てゝ、えいやえいやと引きたりけり。
▲シテ「すはすは、この髭抜けさうなわ。
▲同「すはすは、この髭抜けかゝるとて、こゝやかしこを防げども、多勢に無勢、叶はずして、垣楯・櫓を引き落とされて、大勢ばつと寄り、さばかり慢ずる大髭を、大きな毛抜で挟まれて、大きな毛抜で挟まれて、根ながらぐつとぞ抜きにける。

校訂者注
 1:底本、ここから最後まで、全て傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.

前頁  目次  次頁

髭櫓(ヒゲヤグラ)(三番目 四番目)

▲シテ「下京辺に住居致す者で御座る、此度内裏において、大嘗会をとりおこなはせらるゝに付いて、幸の鉾は大髭の役なれば、洛中洛外は申すに不及、隣国迄御詮議なさるれ共、某が髭程な者が御座らぬに依つて、則ち身共に幸の鉾の役を仰せ付けられた、外聞と申し斯様の有難い仕合は御座らぬ、先づ女共を呼び出し、万事談合致さうと存ずる、なうなう是の人居さしますかおりやるか▲女「今めかしや今めかしや、妾を呼ばせらるゝは何事で御座る▲シテ「ちと相談する事が有る、先かうお出であれ▲女「心得ました、扨相談とは何事で御座る▲シテ「別の事でもない、此度禁中において、大嘗会を執り行はせらるゝに付いて、幸の鉾は大髭の役なれば、洛中洛外は申すに不及、隣国{*1}迄御詮議被成るれ共、某が髭程な者がないによつて、此度の役を、某に仰せ付けらるゝ筈ぢや、何と忝い事ではないか▲女「扨々夫は目出度い事で御座るのう▲シテ「扨夫に付いて装束が要る程に、其用意を召され▲女「其装束は上ツ方から、出るでは御座らぬか▲シテ「いかないかな此度の役を、仰せ付けらるゝさへ大切な事ぢや、装束などは思ひも寄らぬ事ぢや▲女「扨々おつくうな事をいはせらるゝ、朝夕の煙さへ立て兼ぬる身で、何と装束の用意が成る物ぞ、是は変改をさせられい▲シテ「心易さうに一たんお請けを申した事が、何と変改が成る物ぢや、其上斯様の役義を願ふたと云つて、仰せ付けらるゝ物ではない、是を勤むれば名を上ぐる事ぢや、すれば人間の名を上ぐる、出世と云ふ物ぢや、其上装束は如何様共ならう、そなたは先此髭の掃除を召され▲女「なうなう、うたてやのうたてやの、其髭が朝夕見たむなうて成りませぬ、其上其髭が有るに依つて、何かとかしましい、一向髭を剃つて{*2}仕舞はつしやれ▲シテ「扨々憎いやつの、此髭が有ればこそ、此度の役も仰せ付けさせらるれ、洛中洛外は申すに不及、隣国近在迄も隠れのない此髭を、剃れ{*3}と云事が有る物か、さあさあ早う掃除をせい▲女「まだくどい事をおせある、お主は身代がならいでも、其髭を調法召るゝぢや迄▲シテ「おゝ扨人は一代名は末代、徳を取らうより名をとれと云ふ事をしらぬか▲女「あの人らかしい口はいの、其見たむない髭を、いかう自慢に思はるゝさうな、何の益にもならぬ、むざむざとした大髭ぢやといふて、世間からも笑ふ、兎角此度を幸に、抜くか剃る{*4}か召され▲シテ「扨々物をいはせて置けば、方量もない事をぬかしをる、おのれが大事にする髪を、ぬけの剃れの{*5}と云つたらば嬉しからうか▲女「あのおせある事は、惣じて女は髪かたちと云うて、是はなうて叶はぬものぢや、そなたの髭は、なうても大事ない物で御座る、先第一、人がむさいと云ふ事を、お知りあらぬかいのう▲シテ「やい世間に身共が様な大髭が、最一人と有るか見よ▲女「去ばこそ、其むさい見たむない物ぢやによつて、外にないわいのう▲シテ「男に口をあかせぬ様に{*6}ぬかしをる、おのれを何とせう▲女「なう腹立や腹立や、妾も親を持つて居る、いかに女房ぢやと云ふて、其様にした物ではおりないぞ▲シテ「まだ夫つれをぬかしをるかぬかしをるか、扨々憎いやつの▲女「なう腹立や腹立や、おのれ今のまに、思ひしらせうぞ、腹立や腹立や▲早打「やあやあ夫は誠か、扨々にがにが敷事かな、なうなう爰な人爰な人▲シテ「あはたゞ敷何事でおりやる▲早「今お主はお内儀を、てうちやく召されたか▲シテ「中々余り悪口をぬかしをつたによつて、やませておりやる▲早「夫をいかう腹立して、辺りの女房共をかたらひ、そなたの髭を、是非抜かうと云ふて、鎗長刀様々の長道具、大きな毛抜抔{*7}を持つて、大勢爰へ押寄せてくるぞや▲シテ「何の来たといふて、深敷事は御座るまい▲早「いやいや油断大敵と云ふ事が有り、ひらに用心を召され▲シテ「扨は誠に押しよするか▲早「中々先その様な、なまぬるい事{*8}では成るまい、用意を召され、身共が手伝つてやらうぞ▲シテ「夫ならば髭の要害をせう《カゝル》{*9}旧苔の髭のまはりの要害には、方八町に堀をほり、瀬戸ひけまでも拵へて、寄する敵を待ちかけたり《一セイ》▲女{*10}「二世迄と契りしかいも荒磯に、よせて討ちとれ浦の浪▲シテ「きうたいの髭のまはりの要害には、櫓かいたて揚げたるぞや、かゝれやかゝれおなご共▲アト「あら物々敷和男よあら物々敷和男よ、多勢に独りが叶ふべきか、あらつら憎やつらにくや▲シテ「たとへ女はおほく共▲同「たとへ女は大磯の、虎の尾をばふむとても、竜の髭をばよも抜かじ▲アト「互の問答無益なり▲同「髭をむしりてくれんとて、切先を揃へかゝりけり▲シテ「爰はのがれぬ所成り爰はのがれぬ所成りとて、城の戸ひらを押開き、口の内より切て出で、横さま切り立てさまきりに切り立てられ、さすが女のかなしさは、こらへずぱつとぞにげたりけるこらへずぱつとぞにげたりける{*11}えいえいおゝ▲女「其時女房腹を立て其時女房腹を立て、たゞかひだてを引破れとて、熊手ない鎌打立て、えいやえいやと引たりけり▲シテ「すはすは此髭ぬけさうなわ▲同「すはすは此髭ぬけかゝるとて、爰やかしこをふせげども{*12}、多勢に無勢叶はずして、かいたて失倉を引落されて、大勢ばつと寄り、さばかりまんずる大髭を、大きな毛抜ではさまれて大きな毛抜ではさまれて、根ながらぐつとぞ抜きにける。

校訂者注
 1:底本は、「不及、国迄」。
 2:底本は、「髭を刺(そ)つて」。
 3:底本は、「刺(す)れと」。
 4:底本は、「刺(そ)るか」。
 5:底本は、「刺(そ)れの」。
 6:底本は、「口をあかせ様に」。
 7:底本は、「毛抜杯(など)」。
 8:底本は、「なまるい事」。
 9:底本は、「▲シテカゝル「旧苔の髭の」。
 10:底本は、「待ちかけたり、女」まで傍点があり、「{立衆一セイ}」次に「二世迄と」以下にも傍点がある。
 11:底本は、「▲シテ「えいえいおゝ」。
 12:底本は、「ふせげとも」。