歌仙(カセン)(脇狂言 二番目)
▲アト「大果報の者。天下治まつて、めでたい御代なれば、上々(うへうへ)の事は申すに及ばず、下々(したじた)までも、存ずる儘の折柄でござる。それに就いて、某(それがし)、歌道に就いて、祈願の義がござるによつて、玉津島の明神へ参詣致さうと存ずる。
{と云つて、二人を呼び出す。二人出る、常の如し。}
▲アト「某、歌道に就いて、祈願の事があるによつて、玉津島の明神へ参詣する。両人ともに、供をせい。
▲二人「畏つてござる。
▲アト「扨、云ひ付けて置いた歌仙の絵馬は、出来たか。
▲太郎「成程、出来(しゆつたい)致してござる。
▲アト「それならば、持参せい。
▲次郎「畏つてござる。
▲アト「さあさあ、来い来い。
▲二人「はーつ。
▲アト「誠に、我等如きの歌道に好くなどゝ云ふは、似合(にあは)ぬ事なれども、和歌の徳は、夥(おびたゞ)しい事ぢやによつて、思ひ立つた事ぢや。
▲次郎「これは、御尤でござる。
▲アト「扨、この度は、暫く逗留する程に、その用意をせい。
▲太郎「その段は、御心の儘でござる。
▲アト「何かといふ内に、早(はや)、参り着いた。
▲太郎「誠に、お参り着きなされてござる。
▲アト「まづ、御前(おまへ)へ向かはう。
▲二人「一段と良うござらう。
{アト、正面にて拝む。}
▲アト「何と、殊勝な神前ではないか。
▲次郎「誠に、ありがたい御神前でござる。
▲アト「急いで絵馬を掛けい。
▲二人「畏つてござる。
{四方の柱へ二人、絵馬を打つて退(しさ)り、格好見る心なり。}
▲アト「一段と良い。誠に名人の画(か)いた絵馬程あつて、人丸は、その儘生きてござる様な。
▲太郎「小町の絵は、別して美しうござる。
▲次郎「僧正遍照は、豊かな御顔でござる。
▲アト「猿丸太夫は、慎莫(しんまく)な顔ぢやなあ。
▲太郎「左様でござる。
▲アト「いざ、汝等も、信を取つて拝をせい。
▲二人「畏つてござる。
▲アト「心中の願、成就なさしめ給へ。玉津島大明神、玉津島大明神。あら、奇特や。絵馬の絵の様子が変つた。
▲太郎「申し申し。この絵も、様子が変つてござる。
▲次郎「この絵は、動く様にござる。
▲アト「これは、名人の画(か)いた絵ぢやによつて、奇特もある筈ぢや。まづ、傍(かたはら)へ寄つて、様子を見よう。両人ともに、これへ寄れ。
▲二人「畏つてござる。
{下がり破。打上。}
▲シテ「{*1}豊かなる、豊かなる、今この御代に歌合(うたあはせ)、月雪花をとりどりに、目に見る事も聞く事も、皆和歌(やまとうた)の種なれや。詠じて君を、仰がん、仰がん。
{渡り拍子。二の句、打上。}
磯の浪、磯の浪、松吹く風の音までも、処からなる和歌の浦。名も面白や、立ち出でゝ、いざいざ、月に遊ばん。今宵の月に遊ばん。
{この返しの内より、皆々、舞台へ入つて、下にゐるなり。何(いづ)れも、云ふ事なし。勿体なくありたし。六人ともに、座に着く。仕方、口伝なり。}
誠に、天地(あめつち)の開(ひらけ)け初まりしよりこの方(かた)、和歌を以て国を治め、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をも和(やは)らぐるは、皆、和歌の徳でござる。
▲僧正「仰せのごとく、日本は、小国なれども神国にて、外国の侮りを受けず、豊かにめでたい御国(みくに)でござる。
▲猿丸「げにも、一首を詠ずれば、万(よろづ)の悪念を遠ざかり、男女夫婦の仲立ちとなるは、只、和歌の徳でござる。
▲業平「何(いづ)れ、男女夫婦の道を和(やは)らげて、調法な事は、某の良う存じてをりまする。
▲シテ「殊更、今宵は名月なれば、何方(いづかた)も月を愛して、賤しい者までも皆、和歌を口ずさむでござらう。
▲僧正「いかさま、今宵の月見に、酒をしたゝか呑うで、生肴を賞翫するであらうと存じて、愚僧は、けなりい事でござる。
▲元輔「又々、僧正の御麁相(ごそさう)が出ました。
{皆々、笑ふ。}
▲シテ「その御麁相について、思ひ出しました。僧正はこの頃、落馬して腰を打たせられたげなが、まだ、痛みまするか。
▲僧正「されば、嵯峨野の辺りを通りましたれば、女郎花が心良う咲いてござつた。扨も見事な、見事なと存じて、うかうか見てゐまして、馬からころりと落ちまして、したゝか腰の骨を打つて、腹の立つ余り、一首、連ねてござる。
▲シテ「成程その時、我落ちにきと人に語るな。の御歌、天晴(あつぱれ)出来ました。
▲各「名歌を詠ませられたと、承つてござる。
▲シテ「とかく、僧正は、女郎花の類が、御好物でござる。
▲僧正「又々、悪口を仰せらるゝ。
▲シテ「とにかく、日本に生まれて歌を詠まぬは、さもしい事でござる。されば、その理(ことはり)を知つて、当社へも、夥(おびたゞ)しい参詣でござる。
▲小町「扨、それについて、参詣の者が紙を噛うで、妾(わらは)が顔へ打ち付けてござる。
▲シテ「それは、力紙(ちからがみ)と云うて、力(ちから)の願を掛けると聞きました。
▲僧正「いやいや。小町は、隠れもない美人で、顔が美しさに、何ぞ外の願でござらう。
▲シテ「すれば、某の顔も美しいと見えて、折節、身共へも紙を噛うで当てまする。
▲猿丸「いや。それは、的違ひでござらう。
▲元輔「逸(そ)れ矢でござらう。
{と云つて、皆々、笑ふ。}
▲シテ「扨、今宵は、何をして遊びませうぞ。
▲僧正「されば、何が良うござらうぞ。
▲シテ「某が存ずるは、探り題で、一首づゝ詠まうと存ずるが、何とござらう。
▲立衆「これは、一段と良うござらう。
▲シテ「猿丸太夫、題を出させられい。
▲猿丸「成程、思ひ寄つた、珍しい題を出しませう。
{と云つて、三宝に短冊を載せて、持つて出る。}
さあさあ、何(いづ)れも題を取らせられい。
{人丸より、段々、題を取るなり。}
▲シテ「さあさあ、開かせられい。
▲僧正「まづ愚僧は、蛤に寄する長刀といふ題でござる。
▲業平「某は、恋の千人切りと申す題でござる。
▲シテ「これは、御家(おいへ){*2}の事でござる。
▲元輔「某は、蜘の巣にかゝる釣鐘といふ題でござる。
▲シテ「扨、小町は何といふ題ぞ。
▲小町「紫に寄する紅(くれなゐ)といふ題でござる。
▲僧正「しほらしや、しほらしや。小町相応の題が向かうた。
▲シテ「太夫の題は、何でおりやる。
▲猿丸「富士の山に寄する石臼といふ題でござる。
▲僧正「扨、宗匠の題は、何とでござる。
▲シテ「雪の夜の山姥といふ題でござる。
▲僧正「御年相応の、面白い題でござる。
▲シテ「いやいや。これは、何(いづ)れも難題で、中々急には浮かみますまい。いざ、酒宴を始めて、酒をえ呑まぬ者から、詠ませませう。
▲立衆「これは、一段と良うござらう。
▲シテ「小町、酌にお立ちあれ。
▲小町「心得ました。
▲シテ「とてもの事に、小町始めて、盃は、どれへなりとも思ひざしに召され。
▲小町「これは、恥づかしい事なれども、妾が始めませうか。
▲業平「何と、あの盃は、どれへ行きませうぞ。
▲僧正「あの盃の落ち付き所が知れませぬ。
▲シテ「某はこの中(ぢゆう)、美しい十二一重を調(とゝの)へて置いた。あれは、誰にやらうぞ。
▲小町「この盃は、慮外ながら、僧正様へ上げませう。
▲僧正「やあ。あの、この坊主にや。
▲小町「中々。
▲僧正「これは、ありがたい事ぢや。いつは、たべずとも、一つたべう。
{と云つて、僧正、頂きて呑むを、各(おのおの)、不機嫌の体(てい)なり。}
▲元輔「これは、こびた所へ盃が飛びました。
▲シテ「今宵の月見は、面白うござらぬ。
▲猿丸「かつて、面白うござらぬ。
▲僧正「この坊主が盃、誰も頂きたがる者もあるまい。小町へ戻して、結びませう。
▲小町「どれどれ、頂きませう。
▲シテ「いよいよ、面白うござらぬ。
▲立衆「さんざんの月見でござる。
▲シテ「小町、小町。それはならぬ。丁度一つ、呑ましめ。
▲小町「いや、妾はえたべませぬ。
▲シテ「呑まれぬというて、呑ませずには置かぬ。是非とも、お呑みあれ。
▲元輔「酌を致さうか。
▲僧正「はて扨、呑みもせぬ人に、無理を云はせらるゝな。
▲シテ「御坊のお知りあつた事ではない。これこれ、小町。最前からの約束ぢや。酒が呑まれずば、最前の題で一首、お詠みあれ。
▲僧正「いや。これこれ、人丸。銘々も、覚えのある事ぢや。この難題で、何と、急に詠まるゝものぢや。
▲シテ「そなたが知つた事ではない。歌が詠めずば、酒をお呑みあれ。
▲小町「それならば、かうもござらうか。
▲僧正「早(はや)、出たか。何と、何と。
▲小町「色見えて移ろふものは世の中の、人の心の花にぞありける。
▲僧正「したり、したり。扨も、出来た。今に始めぬ事ながら、達者なものぢや。出かいた、出かいた。
▲シテ「いや。この歌は、合点が行きませぬ。
▲各「余り、面白うござらぬ。
▲シテ「まづ、色見えてといふ五文字が、合点が行かぬ。色見えでと濁つたらば、題の心に叶ふ所もあるが、澄んでは、一向面白うない。
▲僧正「これは、宗匠の言葉とも覚えぬ事ぢや。まづ、澄むと濁るは、現在・未来の違ひぢや。色見えてと澄んでこそ、題の心も深く、移ろふものはといふ歌の様(さま)で、優しい。濁るは賤しい。とかく、これは、名歌でおりやる。
▲シテ「やあら、僧正は、合点の行かぬ事を仰(お)せある。某を始め、各(おのおの)一統に悪いと云ふを、御坊一人、贔屓を召さるゝ。但しこれは、御坊と小町と内々(ないない)で、格別懇意な訳があるものであらう。
▲僧正「これこれ、人丸。そなたの云ひ分では、小町と愚僧が中には、訳もありやうに仰(お)せある。必ず、穢(けが)らはしい名を立つる様な事は、仰(お)せあらぬものぢや。
▲シテ「いやいや、心得がたい。なう、何(いづ)れも。いつぞや、清水寺の歌なども、合点が行きませぬ。
▲僧正「いよいよ、人聞き悪い事を仰(お)せある。今一度、仰(お)せあつたらば、仏祖かけて、堪忍致さぬ。
▲シテ「推参千万な。言葉が過ぐると、目に物を見するぞよ。
▲僧正「何を見する、人丸。
{と云つて、立つてかゝる。四人立つて、僧正を叩くを、小町、両方を留める。四人とも座につく。}
▲僧正「腹立ちや、腹立ちや。やがて、思ひ知らせうぞ。
{と云つて、中入りする。小町、止め止め、付いて入る。}
▲猿丸「やあやあ、何と云ふぞ。遍照が、最前のを無念に思ひ、長道具を持つて、こゝへ押し寄する。これはいかな事。なうなう、人丸。僧正が、最前のを腹を立つて、これへ押し寄すると申す。用心をさせられい。
▲シテ「苦しうない。何程の事があらう。かまはせられな。
▲猿丸「いやいや。油断は大敵の基(もとゐ)ぢや。まづ、身拵へをさせられい。
▲シテ「それならば、何(いづ)れも、用意をしませう。
▲各「一段と良うござらう。
{と云つて、四人、杖を持ち、脇座に並びてゐるなり。}
《一セイ》▲僧正「{*3}夜嵐の。
▲二人「もの凄まじき荒磯に、寄せて打ちとれ浦の浪。《ヱイヱイオー》
▲シテ「三十六人の歌詠みは、各(おのおの)和歌を争ひて。
▲同「衆議判ずるこそ優しけれ。
{この所、カケリ。一段。太鼓打上聞きて。但し、カケリ、元輔舞台もあり。}
▲シテ「その中に、人丸。
▲同「その中に、人丸進み出で、ほのほの見れば、赤地の袿(うちき)、えならぬ匂ひ、香り来ぬれば、千年(ちとせ)の坂をも越ゆると詠みし、笹竹の枝を押つ取りのべて、かゝり給へば。
▲僧正「花山の僧正、馬より下(お)り立ち。
▲同「人丸に渡り合ひ、むんずと組めば、我も我もと歌詠みは、我も我もと歌詠みは、皆腰折れて、休らひしが。
▲シテ「夜明け烏の声々に。
▲同「夜明け烏の声に驚きて、元の絵馬となりにけり。
{留めと、初めの通り、座につく。六人とも、仕方あり。筆紙に尽くし難し。仕方、皆々口伝なり。}
校訂者注
1:底本、ここ「ゆたかなる」から「今宵の月にあそばん」まで、傍点がある。
2:「家(いへ)」は、「得意とするもの」の意。
3:底本、ここ「夜嵐の」から最後まで、全て傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.)
歌仙(カセン)(脇狂言 二番目)
▲アト「大果報の者、天下納つて目出たい御代なれば、上々の事は申すに及ばず下々迄も、存ずる儘の折柄で御座る、夫に就いて、某歌道に就いて、祈願の義が御座るに依つて、玉津島の明神へ、参詣致さうと存ずる、{ト云つて二人を呼出す二人出る如常}▲アト「某歌道に就いて、祈願の事が有るに依つて、玉津島の明神へ参詣する、両人共に供をせい▲二人「畏つて御座る▲アト「扨いひ付けておいた歌仙の絵馬は出来たか▲太郎「成程出来致して御座る▲アト「夫ならば、持参せい▲次郎「畏つて御座る▲アト「さあさあこいこい▲二人「ハーツ▲アト「誠に我等如きの歌道にすく抔{*1}といふは、似合ぬ事なれ共、和歌の徳は、おびたゞしい事ぢやに依つて、思ひ立つた事ぢや▲次郎「是は御尤で御座る▲アト「扨此度は暫く逗留する程に、其用意をせい▲太郎「其段はお心の儘で御座る▲アト「何かといふ内にはや参りついた▲太郎「誠にお参りつき被成て御座る▲アト「先御前へ向はう▲二人「一段とよう御座らう、{アト正面にておがむ}▲アト「何と殊勝な神前ではないか▲次郎「誠に有難い御神前で御座る▲アト「急いで絵馬をかけい▲二人「畏つて御座る、{四方の柱へ二人絵馬を打つてしさりかつこう見る心なり}▲アト「一段とよい、誠に名人のかいた絵馬程あつて、人丸は其の儘いきて御座る様な▲太郎「小町の絵は、別して美くしう御座る▲次郎「僧正遍照は、ゆたかなお顔で御座る▲アト「猿丸太夫はしんまくな顔ぢやなあ▲太郎「左様で御座る▲アト「いざ汝等も、信を取つて拝をせい▲二人「畏つて御座る▲アト「心中の願成就なさしめ給へ、玉津島大明神玉津島大明神、あら奇特や、絵馬の絵の様子がかはつた▲太郎「申し申し此絵も様子が変つて御座る▲次郎「此絵はうごく様に御座る▲アト「是は名人のかいた絵ぢやに依つて、奇特もある筈ぢや、先かたはらへよつて、様子を見よう、両人共に是へよれ▲二人「畏つて御座る、{サガリ破打上}▲シテ「ゆたかなるゆたかなる、今此御代に歌合せ、月雪花をとりどりに、目に見る事もきく事も、皆和歌の種なれや、詠じて君をあふがんあふがん、{渡り拍子二の句打上}{*2}磯の浪磯の浪、松ふく風の音迄も、処からなる和歌の浦、名もおもしろや立ち出でて、いざいざ月にあそばん、今宵の月にあそばん、{此返しの内より皆々舞台へ入て下にゐるなり何も云ふ事なし勿体なくありたし六にんともにざにつくしかたくでんなり{*3}}{*4}誠に天地のひらけ初まりしより此かた、和歌をもつて国をおさめ、目に見えぬ鬼神をもやはらぐるは、皆和歌の徳で御座る▲僧正「仰せのごとく日本は、小国なれ共神国にて、外国の侮を受けず{*5}、ゆたかに目出たい御国で御座る▲猿丸「実も一首を詠ずれば、万の悪念を遠ざかり、男女夫婦の仲立となるは、唯和歌の徳で御座る▲業平「何れ男女夫婦の道をやはらげて、調法な事は某の、よう存じてをりまする▲シテ「殊更今宵は、名月なれば、何方も月を愛して、賤しい者迄も、皆和歌を口ずさむで御座らう▲僧正「いか様今宵の月見に、酒をしたゝか呑うで、生肴を賞翫するであらうと存じて、愚僧はけなりい事で御座る▲元輔「又々僧正の御麁相が出ました、{皆々笑ふ}▲シテ「其御麁相について思ひ出しました、僧正は此ごろ、落馬して腰をうたせられたげなが、まだいたみまするか▲僧正「されば嵯峨野のあたりを通りましたれば、女郎花が心よう咲いて御座つた、扨も見事な見事なと存じて、うかうか見てゐまして、馬からころりと落ちまして、したゝか腰の骨をうつて、腹のたつ余り、一首つらねて御座る▲シテ「成程其時、われおちにきと人に語るなのお歌、天晴出来ました▲各「名歌をよませられたと、承はつて御座る▲シテ「兎角僧正は女郎花のるゐが、御好物で御座る▲僧正「又々わる口を仰せらるゝ▲シテ「兎に角日本に生れて、歌をよまぬはさもしい事で御座る、されば其ことはりをしつて、当社へもおびたゞしい参詣で御座る▲小町「扨夫について参詣の者が、紙をかふで、妾が顔へ打付けて御座る▲シテ「夫は力紙といふて、ちからの願をかけるときゝました▲僧正「いやいや小町は、かくれもない美人で、顔がうつくしさに、何ぞ外の願で御座らう▲シテ「すれば某の顔も、美しいと見えて、折節身共へも、紙をかふであてまする▲猿丸「いや夫は的違ひで御座らう▲元輔「それ矢で御座らう、{ト云つて皆々笑ふ}▲シテ「扨今宵は何をして遊びませうぞ▲僧正「されば何がよう御座らうぞ▲シテ「某が存ずるはさぐり題で、一首づゝよまうと存ずるが、何と御座らう▲立衆「是は一段とよう御座らう▲シテ「猿丸太夫題を出させられい▲猿丸「成程思ひよつた、珍らしい題を出しませう、{ト云つて三宝に短冊をのせてもつて出る}{*6}さあさあ何れも、題をとらせられい、{人丸より段々だいをとる也}▲シテ「さあさあひらかせられい▲僧正「先愚僧は、蛤によする長刀といふ題で御座る▲業平「某は恋の千人切と申す題で御座る▲シテ「是はお家の事で御座る▲元輔「某は蜘の巣にかゝる釣鐘といふ題で御座る▲シテ「扨小町は何といふ題ぞ▲小町「紫によする紅といふ題で御座る▲僧正「しほらしやしほらしや、小町相応の題が向ふた▲シテ「太夫の題は何でおりやる▲猿丸「富士の山によする石うす、といふ題で御座る▲僧正「扨宗匠の題は何とで御座る▲シテ「雪の夜の山姥といふ題で御座る▲僧正「お年相応の面白い題で御座る▲シテ「いやいや是は何も難題で、中々急にはうかみますまい、いざ酒宴を始めて、酒を得飲ぬ者からよませませう▲立衆「是は一段とよう御座らう▲シテ「小町しやくにおたちあれ▲小町「心得ました▲シテ「迚もの事に小町はじめて、盃はどれへ成共、思ひざしに召れ▲小町「是ははづかしい事なれ共、妾が始めませうか▲業平「何とあの盃はどれへ行きませうぞ▲僧正「あの盃の落付所がしれませぬ▲シテ「某は此中美しい十二ひとへを調へておいた、あれは誰にやらうぞ▲小町「此盃はりよ外ながら、僧正様へ上げませう▲僧正「やああの此坊主にや▲小町「中々▲僧正「是は有難い事ぢや、いつはたべず共一つたべう、{ト云つて僧正いたゞきて呑をおのおのふきげんの体なり}▲元輔「是はこびた所へ、盃が飛ました▲シテ「今宵の月見は、面白う御座らぬ▲猿丸「かつて面白う御座らぬ▲僧正「此坊主が盃、誰もいたゞきたがる者もあるまい、小町へ戻してむすびませう▲小町「どれどれいたゞきませう▲シテ「いよいよ面白う御座らぬ▲立衆{*7}「さんざんの月見で御座る▲シテ「小町小町夫はならぬ、丁ど一つのましめ▲小町「いや妾は得たべませぬ▲シテ「のまれぬといふて、のませずにはおかぬ、是非共おのみあれ▲元輔「酌を致さうか▲僧正「果扨のみもせぬ人に、無理をいはせらるゝな▲シテ「御坊のお知りあつた事ではない、是々小町、最前からの約束ぢや、酒がのまれずば、最前の題で一首およみあれ▲僧正「いや是々人丸、めいめいも覚えのある事ぢや、此難題で、何と急によまるゝ者ぢや▲シテ「そなたが知つた事ではない、歌がよめずば酒をおのみあれ▲小町「夫ならばかうも御座らうか▲僧正「はや出たか何と何と▲小町「色見えてうつらふ物は世の中の、人の心の花にぞありける▲僧正「したりしたり扨も出来た、今にはじめぬ事ながら、達者な者ぢや、出かいた出かいた▲シテ「いや此歌は合点が行きませぬ▲各「余り面白う御座らぬ▲シテ「先色見えてといふ、五文字が合点がゆかぬ、色見えでとにごつたらば、題の心に叶う所もあるが、すんでは一向面白うない▲僧正「是は宗匠の言葉とも、覚えぬ事ぢや、先すむとにごるは、現在未来の違ひぢや、色見えてとすんでこそ、題の心も深く、うつらふ物はといふ歌の様でやさしい、にごるは賤しい、兎角是は名歌でおりやる▲シテ「やあら僧正は、合点のゆかぬ事をおせある、某を始め、各一統にわるいといふを、御坊一人ひいきをめさるゝ、但し是は、御坊と小町と内々で、格別懇意な訳があるものであらう▲僧正「是々人丸、そなたの云分では、小町と愚僧が中には、訳も有様におせある、かならずけがらはしい名を、たつる様な事は、おせあらぬ者ぢや▲シテ「いやいや心得がたいのう何も、いつぞや清水寺の歌抔も、合点が行きませぬ▲僧正「いよいよ人ぎゝわるい事をおせある、今一度おせあつたらば、仏祖かけて堪忍致さぬ▲シテ「すいさん千万な、言葉が過ると、目に物を見するぞよ▲僧正「何を見する人丸、{ト云つて立つてかゝる四人立つて僧正をたゝくを小町両方を留る四人共座につく}▲僧正「腹立や腹立や頓て思ひしらせうぞ、{ト云つて中入する小町とめとめ付て入}▲猿丸「やあやあ何といふぞ、遍照が最前のを無念に思ひ、長道具を持つて爰へ押しよする、是はいかな事、なうなう人丸、僧正が最前のを腹を立つて、是へ押しよすると申す、用心をさせられい▲シテ「苦しうない何程の事があらう、かまはせられな▲猿丸「いやいや油断は大敵のもといぢや、先身拵へをさせられい▲シテ「夫ならば何れも用意をしませう▲各「一段とよう御座らう、{ト云つて四人杖を持ワキ座にならびてゐるなり}《一セイ》{*8}▲僧正「夜嵐の▲二人「物すさまじきあら磯に、よせて打ちとれ浦の浪《ヱイヱイオー》▲シテ「三十六人の歌よみは、おのおの和歌をあらそひて▲同「衆議判ずるこそやさしけれ、{此所カケリ一段太鼓打上聞て但カケリ元輔舞台もあり}▲シテ「其中に人丸▲同「其中に人丸すゝみ出で、ほのほの見れば赤地のうちき、えならぬにほひかをりきぬれば、ちとせの坂をもこゆるとよみし、笹竹の枝を、押取{*9}のべてかゝり給へば▲僧正「花山の僧正馬よりおり立ち▲同「人丸に渡り合ひ、むんずとくめば、我も我もと歌よみは我も我もと歌よみは、皆腰おれて休らひしが▲シテ「夜あけからすの声々に▲同「夜あけからすのこえに驚きて、もとの絵馬となりにけり、{留と初めの通り座につく六人共仕方あり難筆紙に尽仕方皆々口伝なり}
校訂者注
1:底本は、「歌道にすく杯(など)」。
2:底本は、「▲シテ「磯の浪」。
3:底本、「くでんなり」の「な」の字、左半分欠。
4:底本は、「▲シテ「誠に天地の」。
5:底本は、「侮を請受けず」。
6:底本は、「▲猿丸「さあさあ何れも」。
7:底本は、「▲衆「さんざんの」。
8:底本は、「ならびてゐるなり一セイ}」。
9:底本は、「追取のべて」。
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