引括(ひつくゝり)(二番目)

▲シテ「この辺りの者でござる。某(それがし)、五六年以前、妻を持つてござる。殊の外、わゝしい女でござる。余程、連れ添うてはござれども、ほうど、厭(あ)き果てゝござる。離別致さうと存ずる。さりながら、中々、大抵の女でないによつて、むさと申し出されぬ。今日は、面白可笑しう申して、親里へ帰さうと存ずる。
{と云つて、楽屋向いて、女を呼び出す。常の如し。}
そなたを呼び出す事、別の義でない。誠に、おぬしと連れ添うて、五六年にもなるが、近頃、夫婦の中で恥づかしい事なれども、近年打ち続いて、物事、思ふ様にならぬ。それ故、人などもえ使はぬ。しつけも召されぬそなたに、きいたい事{*1}をさせて、辛労な体(てい)を見る。この様な、気の毒な事はおりない。
▲アト「これは、今めかしい事を仰せらるゝ。そなたの外様(とざま)をも、え勤めさせられず、しほしほさせらるゝこそ、お笑止に思ひますれ。内の事に骨を折るは、女の役でござる。必ず、苦労に思はせられな。
▲シテ「扨々、神妙な心入れでこそあれ。その様に仰(お)せあるを聞いては、猶、身共が胸を裂く程苦しい。いかに心よう仰(お)せあるというても、そなたばかり骨を折らせて、身共一人(いちにん)楽をしても、人は、冥加といふものが大事ぢや。その上、外のそしりもあるものぢや。向後は、朝夕のし拵へも、随分楽に致さうず。まづ、当分は休息のため、そなたはちと、親里へ行かしめ。
▲アト「何を、訳もない事を仰せらるゝ。妾(わらは)はどれ程辛労しても、苦しうござらぬ。気遣ひをさせらるゝな。
▲シテ「いよいよ過分な心ざしでこそあれ。されども、身があつての事ぢや。その様に世話を召されて、もし病気でも出づれば、結句、身共がためにならぬ。とかく、まづ暫く休みに行かしめ。
▲アト「まだ仰せらるゝ。一日や二日休んで来たというて、さまでの事はござらぬ。
▲シテ「それならば、十日(とをか)なりとも廿日(はつか)なりとも、休みに行かしめ。その間、骨を折るが、則ち身共が身の懲らしめでおりやる。
▲アト「何の、云はせらるゝ事は。妾が片時(かたとき)内に居いでも、埒があけぬではござらぬか。その上、十日廿日というても、日の経つは僅かの間で、又、後の辛労は同じ事ぢや。とかく、内に居るが、ましでござる。
▲シテ「十日や廿日は日の経つに間がなくは、三年五年、乃至十年なりとも、休んで行(い)たが良い。
▲アト「何ぢや。十年なりとも休んで来い。
▲シテ「おゝ、扨。年月(としつき)に構ひはない。何程なりとも気にいつた程、休んで来さしめ。
▲アト「扨は、妾を厭(あ)いて、暇をくれうといふ事ぢやな。
▲シテ「いやいや。暇をやらうではない。只、そなたに楽をさせたいばかりの事ぢや。
▲アト「ゑゝ、腹立ちや腹立ちや。妾はおのれに執心を残すではないが、そなたの様な男は、薮を蹴出しても、五人や三人は蹴出せども、せめて人にも笑はれぬ様にと思うて、肩を裾に結んで世話するに、妾をうつけにしをる。おのれも、箸に目鼻をつけば男ぢや。男らしう、暇をおこしをれいやい、おこしをれいやい。
▲シテ「暇をやらうとは云はねども、望みならば、止めたりとも了簡もあるまい。是非に及ばぬ。これまでの縁でこそあれ。思ひ切つて暇をやらう。出てお行きやれ。
▲アト「くどうぬかし居るに及ばぬ。何なりとも、暇の印(しるし)をおこせ。
▲シテ「暇をやるからは、惜しみはせぬ。何なりとも、欲しい物を取つてお行きやれ。
▲アト「心得た。
{と云つて、大鼓の座より、袋を持つて出るなり。}
▲アト「やいやい。妾が欲しい物を取つて、これに入れて行くわ。
▲シテ「扨も扨も、世間にすぐれて邪見なわゝしい女なれども、さすが女ぢやによつて、愚かな所もある。その袋へ、何程の物が入るものぢや。それで良くば勝手次第、何なりとも入れて行け。
▲アト「必ず後で、ならぬと云ふなよ。
▲シテ「その袋に一杯で足らずば、二杯なりとも三杯なりとも、取つて行け。
{と云つて、笑ふ。}
▲アト「妾が欲しい物は、ものぢや。
▲シテ「何ぢや。
▲アト「それそれ、それぢや。
▲シテ「何ぢや。
▲アト「これぢや。
{と云つて、シテの頭へ袋をかぶせて、引いて入るなり。}
▲シテ「あゝ、これはならぬ。許してくれ。
▲アト「何の、許すものぢや。
▲シテ「許せ、許せ。

校訂者注
 1:「きいたい事」は、不詳。

底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.

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引括(ヒツクゝリ)(二番目)

▲シテ「此辺りの者で御座る、某五六年以前妻を持つて御座る、殊の外わゝしい女で御座る、余程連れ添ふては御座れども、ほうどあき果てゝ御座る、離別致さうと存ずる、去り乍ら、中々大抵{*1}の女でないに依つて、むさと申し出されぬ、今日は面白おかしう申して、親里へ帰さうと存ずる、{ト云つて楽屋むいて女を呼び出す如常}{*2}そなたを呼出す事別の義でない、誠におぬしと連れ添ふて五六年にもなるが、近頃夫婦の中で恥しい事なれども、近年打つゞいて物事思ふ様にならぬ、夫故人抔も得つかはぬ、しつけも召されぬそなたに、きいたい事をさせて、辛労な体を見る、此様な気の毒な事はおりない▲アト「是は今めかしい事を仰せらるゝ、そなたの外様をも得勤させられず、しほしほさせらるゝこそお笑止に思ひますれ、内の事に骨を折るは女の役で御座る、必ず苦労に思はせられな▲シテ「扨々神妙な心入でこそあれ、其様におせあるを聞いては、猶身共が胸を裂く程苦しい、いかに心ようおせあるといふても、そなた計り骨を折らせて、身共一人楽をしても、人は冥加と云ふ物が大事ぢや、其上外のそしりもある物ぢや、向後は朝夕のしこしらへも随分楽に致さうず{*3}、先当分は休息のため、そなたはちと親里へゆかしめ▲アト「何を訳もない事を仰せらるゝ、妾はどれ程辛労しても苦しう御座らぬ、気遣をさせらるゝな▲シテ「いよいよ過分な心ざしでこそあれ、され共身があつての事ぢや、其様に世話をめされて、もし病気でも出づれば結句身共が為にならぬ、兎角{*4}先しばらく休みにゆかしめ▲アト「まだ仰せらるゝ、一日や二日休んで来たと云ふて、さまでの事は御座らぬ▲シテ「夫ならば十日なりとも廿日なり共休みにゆかしめ、其間骨を折が則身共が身のこらしめでおりやる▲アト「何のいはせらるゝ事わ、わらはが片時内に居いでも埒が明ぬでは御座らぬか、其上十日廿日といふても日のたつは僅かの間で、又跡の辛労は同じ事ぢや、兎角{*5}内に居るがましで御座る▲シテ「十日や廿日は日のたつに間がなくは、三年五年乃至十年なりとも、休んでゐたがよい▲アト「何ぢや十年なりとも休んでこい▲シテ「おゝ扨年月に構はない、何程なりとも気にいつた程休んで来さしめ▲アト「扨は妾をあいて暇をくれうといふ事ぢやな▲シテ「いやいや暇をやらうではない、唯そなたに楽をさせたい計りの事ぢや▲アト「ゑゝ腹立や々々、わらははおのれに執心を残すではないが、そなたの様な男は薮をけ出しても、五人や三人はけだせども、せめて人にも笑はれぬ様にと思ふて、肩を裾にむすんで世話するに、妾をうつけにしをる、已れ{*6}も箸に目鼻をつけば男ぢや、男らしう暇をおこしをれいやいおこしをれいやい▲シテ「暇をやらうとはいはね共、望みならばとめたりとも了簡もあるまい、是非に及ばぬ是れ迄の縁でこそあれ、思ひきつて暇をやらう出ておゆきやれ▲アト「くどうぬかし居るに及ばぬ、何なりとも暇の印をおこせ▲シテ「暇をやるからはおしみはせぬ、何なりともほしい物を取つてお行きやれ▲アト「心得た、{ト云つて大鼓の座より袋を持て出る也}{*7}▲アト「やいやい妾がほしい物をとつて、是に入れて行くわ▲シテ「扨も扨も世間にすぐれて、邪見なわゝしい女なれ共、さすが女ぢやに依つておろかな所もある、其袋へ何程の物が這入る物ぢや、夫でよくば勝手次第、何なりとも入れて行け▲アト「必らず跡でならぬと云ふなよ▲シテ「其袋に一ぱいでたらずば二杯なりとも三杯なりともとつてゆけ、{ト云つて笑ふ}▲アト「わらはがほしい物はものぢや▲シテ「何ぢや▲アト「夫々夫ぢや▲シテ「何ぢや▲アト「是ぢや、{ト云つてシテの頭へ袋をかぶせて引て入るなり}▲シテ「あゝ是はならぬ、ゆるしてくれ▲アト「何のゆるす物ぢや▲シテ「ゆるせゆるせ。

校訂者注
 1:底本は、「大低(たいてい)」。
 2:底本は、「▲シテ「そなたを呼出す事」。
 3:底本は、「致さうす」。
 4・5:底本は、「兎斯(とかく)」。
 6:底本は、「已(おの)れ」。
 7:底本は、「▲アト「やいやい妾が」。