鏡男(かゞみをとこ)(二番目)

▲シテ「越後の国・松の山家(やまが)の者でござる。永く在京致す所、訴訟、悉く相叶ひ、安堵の御行書(みげうしよ)頂戴し、只今、本国へ罷り下る。まづ、急いで参らう。誠に、国元を出づる時は、いつ戻らうと思うたに、早速、埒があいて、この様な嬉しい事はござらぬ。帰つたらば、さぞ一門どもが悦ばうと存ずる。いや、はたと失念した事がある。女共が方(かた)へ、何なりとも、調法になる土産をとらせうと約束致したを、ほうど忘れた。何ぞ、求めて行きたいものぢやが。いや。こゝに色々の店を出した。何を求めうと、儘な事ぢや。なうなう。その美しいは、帯でござるか。
▲アト「中々。帯でござる。
▲シテ「又、その丸い、光る物は何でござる。
▲アト「これは、鏡でござる。
▲シテ「鏡とは、何の事でござる。
▲アト「こなたは、鏡を知らぬか。
▲シテ「いや。何になる物ぢやも、存ぜぬ。
▲アト「まづ、わごりよの国はどこぢや。
▲シテ「越後の国・松の山家の者でござる。
▲アト「して、松の山家に鏡はないか。
▲シテ「名を聞いたも、今初めてゞござる。
▲アト「これは、鏡と云うて、宝物でおりやる。天照大神(てんせうだいじん)の御神鏡と申すも、この鏡の事なり。別して、女のためには並びない調法でおりやる。
▲シテ「それは、何故(なぜ)調法になりまする。
▲アト「惣じて、女は貌(かたち)を大事にする。されども、我と我が姿は見られぬ。この鏡を前に置いて向かへば、我が姿が、ありありと見ゆるものぢや。
▲シテ「あの、その鏡で。我が姿が見えまするか。
▲アト「中々。
▲シテ「それそれ、見せさせられい。はあ。何も見えませぬ。
▲アト「いや。それは、裏ぢや。表を見さしめ。
▲シテ「どれどれ、表を見ませう。わあ。これは、中に人がゐる。
▲アト「それは、わごりよの顔ぢやわいの。
▲シテ「これはいかな事。扨も扨も、良う見えまする。初めて私の面(つら)を見ました。
▲アト「何と何と、調法な物であらうが。
▲シテ「これは、調法な物でござる。求めませう。代物(だいもつ)は、何程でござる。
▲アト「五百疋でござる。
▲シテ「それは、高値にござる。もそつと負けて下されい。
▲アト「いや。負けは、おりない。嫌ならば、止(よ)しに召され。
▲シテ「それならば、求めませう。則ち、代物は、三條の大黒屋で渡しませう。
▲アト「成程。大黒屋、存じて居る。あれで受け取るであらう。
▲シテ「も、かう参ります。
▲アト「何と、お行きあるか。
▲シテ「中々。
▲二人「さらば、さらば。
▲シテ「なうなう、嬉しや、嬉しや。調法な珍しい物を調(とゝの)へた。天照大神の御神鏡と云ふも、この鏡の事ぢやと云はるゝ。すれば、昔は神のもので、たやすう人間の手に触るゝ事もならぬに、今、この御代めでたければ、上方にては、上(うへ)つ方・下々までも、もて囃すとはいへども、我が住む山家などでは、見た事は扨置き、噂に聞いた事もない程に、国元へ下つたらば、女共は申すに及ばず、在所の者どもまで、悦ばうと存ずる。扨も扨も、明らかに映る。これは、女のためには、並びのない重宝ぢや。まづ、この鏡に向かひ、付子鉄漿(ふしかね)・紅白粉をつけて身を嗜めば、見にくい顔も、美しくなる。又、男のためにも重宝ぢや。まづ、若く盛んなる体(てい)を見ては満足し、年寄りたる体(てい)映らば、物事を考へ分別し、老いかがまりたる体(てい)映らば、何とぞして世を渡る営みを逃れ、身を安うして仏道修行するならば、現当二世を取りはずゝまいと思ふは、この鏡でござる。扨も扨も、ありありと見ゆる事かな。いや。我ながら、うつゝない顔かな。あはや、笑ふわ、笑ふわ。扨々、機嫌の良い顔ぢや。いや。又、機嫌の悪からう筈もない。訴訟は叶ふ、御暇は下さるゝ。腹立てう様がない。さりながら、今度、一度腹を立てゝみよう。なうなう、恐ろしや、恐ろしや。腹を立てゝ向かへば、たちまち、絵に画(か)いた夜叉に、その儘ぢや。扨々、凄まじい事かな。これについて、思ひ当たる事がある。在京中、所々の寺々へ参つて、説法を聴聞申してござる。心から地獄へも落ち、心から又、極楽へも生まるゝと説かれた。全くさうぢや。腹を立てゝ向かへば、全く夜叉の如くに見ゆる。この様な事を思うては、かりにも、怒る心を持つ事ではござらぬ。いや、何かと云ふ内に、程なく松の山家に着いた。則ち、私宅(うち)はこれぢや。まづ、女共を呼び出さう。なうなう。これの人、居さしますか。おりやるか。今、下つておりやる。
▲女「これのが戻らせられたさうな。なうなう、嬉しや、嬉しや。戻らせられた。
▲シテ「今、戻つておりやる。
▲女「やれやれ。御息災で下らせられ、嬉しうござる。
▲シテ「成程、身共も無事で下る。そなたも息災さうで、嬉しうおりやる。
▲女「扨、内々(ないない)の御訴訟の事は、何とでござる。
▲シテ「それは、充分の仕合(しあはせ)ぢや。悦ばしめ。
▲女「妾は、それのみ案じましたに。この様な、めでたい事はござらぬ。
▲シテ「久々で下る事なれば、そなたへも、何がなと思うたれども、別に、土産もおりないぞ。
▲女「これは、今めかしい事を仰せらるゝ。そなたの、首尾良う無事で戻らせらるゝこそ、嬉しけれ。何の、土産に及びませうぞ。
▲シテ「さりながら、そなたにおませうと思うて、世に稀な宝を求めて来た。追つ付け、おませうぞ。
▲女「何でござるの。
▲シテ「これこれ、これを見さしめ。
▲女「扨々、これは、美しい物でござる。松もあり、竹もあり。
▲シテ「いや。それは、裏ぢや。表を見さしめ。
▲女「こゝは、裏でござるか。
▲シテ「表をお見やれ。肝がつぶれう。
▲女「わあ。中に、女がゐる。
▲シテ「それは、中に女がゐるではない。もと、それは、鏡といふもので、一切、向かふの物の影を映す物ぢや。お主が向かふによつて、そなたの影が映る。
▲女「ゑゝ、腹立ちや、腹立ちや。これ程、中に女が居るに、その様な事を云うて、妾(わらは)を騙し居るかいやい、騙し居るかいやい。
▲シテ「悪い合点な人ぢや。良うお聞きあれ。今云ふ通り、これは、鏡と云うて、何でも、向かふ物の影を映す物ぢや。扇を映せば、あの様に、扇が映る。お主が向かへば、そなたの影が映る。
▲女「ゑゝ、腹立ちや、腹立ちや。中の女めが、おぬしに吸い付いた様にして居をる。身が燃えて、腹が立つわいやい。
▲シテ「それは、そちが脇へ、身共が寄るによつて、そちが影と、一つ所(ところ)に見ゆるのぢや。
▲女「何の、一つ所に見ゆるといふ事があるものぢや。妾がこの様に云へば、中の女が、喰ひ付かうといふ様な顔をして居をるわいやい、居をるわいやい。
▲シテ「それも、汝が腹を立てゝ向かふ、その影ぢやわいやい。
▲女「まだぬかし居る。長く在京中、淋しからうと思うたに、よう、この様な事を拵へて居たなあ。おのれを何とせうぞ。
▲シテ「如何に女ぢやと云うて、余り不合点な事ぢや。よいよい。そちに持たせて置かうによつてぢや。こちへおこせ。よそへやるぞ。
▲女「妾に見付けられて、せう事がなさに、他所(よそ)へやらう。それならば、なぜ遥々(はるばる)連れて来た。おのれに騙さるゝ事ではないぞい、やいやい。
▲シテ「扨も、由(よし)ない物を求めて来て、迷惑な事ぢや。
▲女「思へば思へば、腹が立つ。おのれを存分にせねばならぬ。
{と云つて、追ひ込む。}

底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.

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鏡男(カゞミヲトコ)(二番目)

▲シテ「越後の国松の山家の者で御座る、永く在京致す所訴訟ことごとく相叶ひ、安堵の御行書頂戴し、唯今本国へ罷下る、先急いで参らう、誠に国元を出づる時は、いつ戻らうと思ふたに、早速埒があいて、此様な嬉しい事は御座らぬ、帰つたらば嘸ぞ一門共が悦ばうと存ずる、いやはたと失念した事がある、女共が方へ何なり共、調法に成る土産をとらせうと、約束致したをほうど忘れた、何ぞ求めて行きたい者ぢやが、いや爰に色々の店を出した、何を求めうと儘な事ぢや、のうのう、其美しいは帯で御座るか▲アト「中々、帯で御座る▲シテ「又其丸い光る物は何で御座る▲アト「是は鏡で御座る▲シテ「鏡とは何の事で御座る▲アト「こなたは鏡を知らぬか▲シテ「いや何に成る物ぢやも存ぜぬ▲アト「先わごりよの国はどこぢや▲シテ「越後の国松の山家の者で御座る▲アト「して松の山家に鏡はないか▲シテ「名を聞いたも今初めてゞ御座る▲アト「是は鏡と云ふて宝物でおりやる、天照大神の御神鏡と申すも此鏡の事なり、別して女の為には、ならびない調法でおりやる▲シテ「夫は何故調法になりまする▲アト「惣じて女は形を大事にする、去れ共我と我が姿は見られぬ、此鏡を前に置いて向へば、我が姿がありありと見ゆるものぢや▲シテ「あの其鏡で我が姿が見えまするか▲アト「中々▲シテ「それそれ見せさせられい、はあ何も見えませぬ▲アト「いや夫は裏ぢや、表を見さしめ▲シテ「どれどれ表を見ませう、わあ是は中に人がゐる▲アト「夫はわごりよの顔ぢやわいの▲シテ「是はいかな事、扨も扨もよう見えまする、初めて私のつらを見ました▲アト「何と何と調法な物で有らうが▲シテ「是は調法な物で御座る、求めませう、代物は何程で御座る▲アト「五百疋で御座る▲シテ「夫は高値に御座る、最そつと負けて下されい▲アト「いや負けはおりない、いやならばよしに召され▲シテ「夫ならば求めませう、則代物は三條の大黒屋で渡しませう▲アト「成程大黒屋存じて居る、あれで請取るで有らう▲シテ「最かう参ります▲アト「何とお行きあるか▲シテ「中々▲二人「さらばさらば▲シテ「のうのう嬉しや嬉しや、調法な珍しい物を調へた、天照大神の御神鏡と云ふも、此鏡の事ぢやといはるゝ、すれば昔は神のもので、たやすう人間の手にふるゝ事もならぬに、今此御代目出たければ、上方にては上ツ方下々までももてはやすとはいへども、我住む山家抔では見た事は扨おき、うわさに聞いた事もない程に、国元へ下ツたらば、女共は申すに不及、在所の者共迄悦ばうと存ずる、扨も扨も明かにうつる、是は女のためにはならびのない重宝ぢや、先此鏡に向ひ、ふしかね紅白粉を付けて身をたしなめば、見にくい顔も美しくなる、又男の為にも重宝ぢや、先若くさかんなる体を見ては満足し年寄たる体うつらば、物事を考へ分別し、老かがまりたる体うつらば、何卒して世を渡るいとなみをのがれ、身を易うして仏道修行するならば、現当二世を取りはずゝまいと思ふは此鏡で御座る、扨も扨もありありと見ゆる事かな、いやわれながらうつゝない顔かな、あはや笑ふわ笑ふわ、扨々機嫌のよい顔ぢや、いや又機嫌のわるからう筈もない、訴訟{*1}は叶ふお暇は下さるる、腹立てふ様がない去り乍ら、今度いちど腹を立ててみやう、のうのう恐敷や恐敷や、腹を立てむかへば、たちまち絵にかいた夜叉に其儘ぢや、扨々すさまじい事かな、是について思ひ当る事がある、在京中所々の寺々へ参つて、説法を聴聞申して御座る、心から地獄へも落ち、心から又極楽へも生るゝと説かれた、真ツ度さうぢや、腹を立て向へば全く夜叉の如くに見ゆる、此様な事を思ふては、かりにも怒る心を持つ事では{*2}御座らぬ、いや何かと云ふ内に、程なく松の山家に着いた、則私宅は是ぢや、先女共を呼出さう、のうのう是の人、居さしますかおりやるか、今下ツておりやる▲女「是のが戻らせられたさうな、のうのう嬉しや嬉しや戻らせられた▲シテ「今戻つておりやる▲女「やれやれ御息災で下らせられ嬉しう御座る▲シテ「成程身共も無事で下る、そなたも息災さうで嬉敷おりやる▲女{*3}「扨内々の御訴訟{*4}の事は何とで御座る▲シテ「夫は充分の仕合ぢや、悦ばしめ▲女「妾はそれのみ案じましたに、此様な目出度イ事は御座らぬ▲シテ「久々で下る事なれば、そなたへも何がなと思ふたれども、別に土産もおりないぞ▲女「是はいまめかしい事を仰せらるゝ、そなたの首尾よう無事で戻らせらるゝこそうれしけれ、何の土産に及びませうぞ▲シテ「去り乍らそなたにおませうと思ふて、世に稀な宝を求めて来た、追付おませうぞ▲女「何で御座るの▲シテ「是々是を見さしめ▲女「扨々是はうつくしい物で御座る、松もあり竹もあり▲シテ「いや夫は裏ぢや表を見さしめ▲女「爰は裏で御座るか▲シテ「表をお見やれ肝がつぶれう▲女「わあ中に女がゐる▲シテ「夫は中に女がゐるではない、もと夫は鏡といふもので一切向ふの物の影を写す物ぢや、お主が向ふに依つてそなたの影がうつる▲女「ゑゝ腹立や腹立や、是程中に女が居るに、其様な事を云ふて妾をだまし居るかいやいだまし居るかいやい▲シテ「わるい合点な人ぢやようお聞きあれ、今云ふ通り是は鏡と云ふて何でも向ふ物の影を写す物ぢや、扇をうつせばあの様に扇がうつる、お主が向へばそなたの影が写る▲女「ゑゝ腹立や腹立や、中の女めが、おぬしにすい付いた様にして居をる、身がもえて腹が立つわいやい▲シテ「夫はそちが脇{*5}へ身共が寄るに依つて、そちが影と一ツ所に見ゆるのぢや▲女「何の一ツ所に見ゆると云ふ事がある者ぢや、妾が此様に云へば中の女が喰ひ付かうと云ふ様な顔をしてゐをるわいやいゐをるわいやい▲シテ「其も汝が腹を立てて向ふ其影ぢやわいやい▲女「まだぬかし居る、長く在京中淋しからうと思ふたに、よう此様な事を拵へて居たなあ、おのれを何とせうぞ▲シテ「如何に女ぢやと云ふて余り不合点な事ぢや、よいよいそちに持たせて置かうに依つてぢや、こちへおこせ、よそへやるぞ▲女「妾に見付けられてせう事がなさに、他所へやらう、夫ならばなぜはるばる連て来た、おのれにだまさるゝ事ではないぞいやいやい▲シテ「扨もよし無い物を求めて来て迷惑な事ぢや▲女「思へば思へば腹が立つおのれを存分にせねばならぬ。{ト云テ追込ム}

校訂者注
 1・4:底本は、「訴詔」。
 2:底本は、「持つ事でば」。
 3:底本は、「▲二「扨内々の」。
 5:底本は、「そちが側(わき)へ」。