二九十八(にくじふはち)(二番目)
▲シテ「この辺りの者でござる。某(それがし)、いまだ定まる妻がござらぬ。それについて、又、清水の観世音は、霊験あらたにござる。今日(こんにち)、参詣致し、申し妻を致さうと存ずる。誠に、世間の世話にも、あるは嫌なり思ふはならず。と申すが、かれこれ差し支へて、談合も極(き)まらぬ。何とぞ、観世音の御陰(おかげ)を以て、良い妻を授かりたうござる。何かと云ふ内に、清水ぢや。まづ、御前へ向はう。じやぐわん、じやぐわん。只今参詣致す事、別の義ではござらぬ。未だ定まる妻がござらぬ。あはれ、観世音の御利生を以て、似合(にあは)しい妻を授けて下されい。南無観世音、南無観世音。今宵は、此所(こゝ)に籠らうと存ずる。はあ、はあ。あら、ありがたや。暫く睡眠の内に、あらたな御夢想を蒙つた。扨も扨も、ありがたい事かな。西門(さいもん)の一のきざ橋に立つたを、汝が妻に定めよ。との御事ぢや。まづ、急いで西門へ参らう。この様の事を存じてござらば、迅(と)うにも参らうものを、今まで延引致した。いや、何かと申す内に、西門ぢや。扨、御夢想の御妻は、どれに居らるゝ事ぢや知らぬ。さればこそあれに、女中が衣(きぬ)を被(かぶ)つて立つてゐらるゝ。まづ、言葉を掛けう。これは、恥づかしくて、中々物の云はるゝ事ではない。誰(た)そ人が通らば、頼うで尋ねて貰ひたいものぢや。いやいや。男の心は太うても太かれ。と云ふ。思ひ切つて、尋ねてみよう。申し申し。御前(おまへ)は、御夢想の御方ではござらぬか。うむ、うむ。なうなう、嬉しや、嬉しや。御夢想の御方かと云へば、うむうむ。扨も扨も、悦ばしい事ぢや。さりながら、主のある人ぢやも知れぬ。尋ねて見よう。申し申し。これは、念のためでござる。御前はもし、主のある御方ではござらぬか。
▲アト「つまぞ無き我が身一つのから衣、袖を片しき一人寝ぞする。
▲シテ「これはいかな事。歌を詠まれた。主のある御方ではないかと云うたれば、つまぞ無き、我が身一つのから衣、袖をかたしきひとり寝ぞする。これは、疑ひもない一人身ぢや。申し申し。それならば、御迎ひを進じませうが、御所(おところ)は何処でござる。
▲シテ「これはいかな事。歌を詠まれた。主のある御方ではないかと云うたれば、つまぞ無き、我が身一つのから衣、袖をかたしきひとり寝ぞする。これは、疑ひもない一人身ぢや。申し申し。それならば、御迎ひを進じませうが、御所(おところ)は何処でござる。
▲アト「我が宿は、春の日ながら御駕路(みこしぢ)の、風の当たらぬ里と云ふべし。
▲シテ「又、歌を詠まれた。御迎ひを進じませうが御所は何処でござる。と云うたれば、我が宿は春の日ながら御駕路の、風の中らぬ里と云ふべし。まづ、春の日は、春日。御越路は、北。風の当たらぬ里とは、何処であらうぞ。総じて、室(むろ)には風の当たらぬものぢや。扨は、糀屋の娘であらう。いやいや。その様な人でもあるまい。はゝあ。春日町(かすがまち)の室町といふ事か。総じて、人に歌を詠みかけられて返歌をせねば、口ない虫に生まるゝ。と云ふ。さらば、身共も今の返歌を致さう。春日なる里とは聞けど室町の、角(かど)よりしてはいくつなるらむ。
▲アト「あゝ、二九(にく)。
▲シテ「あゝ、申し申し。これこれ。これはいかな事。ついと行かれた。扨、気の短い事かな。但し、身共の返歌が気に障つたか。別に、憎む筈は無いが。春日なる里とは聞けど室町の、角よりしてはいくつなるらむ。と云うたれば、あゝ、にく。別に、憎まるゝ筈はないが。これは、九九の算用を以て、二九十八軒目といふ事であらう。まづ、急いで室町番日町へ参らう。誠に、歌ばかり達者なかと思へば、算勘にまで達してゐらるゝ。観世音のお引き合(あは)せぢやによつて、たいていの人ではない筈なれども、まづ、我等如きの妻に算勘の達したは、いち調法でござる。いや、何かと申す内に、室町春日町ぢや。まづ、角から一軒、二軒、三軒、五軒、八軒、十七軒、十八軒。さればこそ、あれに、つゝくりとしてゐらるゝ。申し申し。御前は、最前の御方でござるか。最前の御方かと云へば、むゝ、むゝ。それならば、追つ付け、迎ひを進じませうか。馬に乗らせらるゝか。但し、乗物に乗らせらるゝか。嫌ぢや。それならば、身共が手を引きませうか。馬の、乗物のと仰(お)せあつても、せう事もないに、某が身代相応に、手を引かれて行かうと仰(お)せある。それならば、手を引きませう。さあさあ、ござれ。誠に、そなたと身共は、観世音の御夢想の事ぢやによつて、五百八拾年、万々年も連れ添ひませう。扨、只今までは一人身で、第一、縫ひ針の事に難義致した。これから万事、世帯の事に気を付けてくれさしめ。いや、何かと云ふ内に、私宅(うち)ぢや。まづ、かう通らしめ。扨、対面を致さう。その衣をお取りあれ。嫌ぢや。それは定めて、恥づかしいといふ事であらう。ありやうは、身共も恥づかしい。さりながら、まづ窮屈にもあらうず。平(ひら)にとらしめ。これはいかな事。嫌と云つて、いつまでその様にしてゐるものぢや。早うとらしめ。それならば身共がとるぞ。訳もない。さらば、対面致さう。ありあ、何ぢや。興がつた者ぢや。
▲アト「申し申し。どれへ行かせらるゝ。
▲シテ「いや、どれへも行きはせぬが。観世音も、聞こえぬ事ぢや。あの様な者と、何と、添はるゝものぢや。
▲アト「そなたと妾(わらは)は、観世音のお引き合(あは)せぢやによつて、五百八拾年、万々年も連れ添ひませうぞ。
▲シテ「あゝ、人が見るわいやい。おのれが様な者は、かうして置いたが良い。長者になると云うて、あれが、何となるものぢや。
▲アト「なう、どこへ行かせある。
▲シテ「あゝ、許してくれい、許してくれい。
▲アト「どちへもやる事ではないぞ。
▲シテ「許してくれい。
底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.)
二九十八(ニクジウハチ)(二番目)
▲シテ「此辺りの者で御座る、某いまだ定まる妻が御座らぬ、夫について又清水の観世音は、霊験{*1}あらたに御座る、今日参詣致し、申し妻を致さうと存ずる。誠に、世間の世話にも、有るはいやなり思ふはならずと申すが、彼是差支へて談合も極まらぬ、何卒観世音の御陰を以つて、よい妻をさづかりたう御座る、何かと云ふ内に清水ぢや、先御前へ向はう、じやぐわんじやぐわん、唯今参詣致す事別の義では御座らぬ、未だ定まる妻が御座らぬ、あはれ観世音の御利生を以つて、似合しい妻をさずけて下されい、南無観世音南無観世音、今宵は此所に籠らうと存ずる、ハアハア、荒有難や、暫くすゐ眠の内に、あらたな御夢想を蒙つた、扨も扨も有難い事かな、西門の一のきざ橋に立つたを、汝が妻に定めよとの御事ぢや、先急いで西門へ参らう、此様の事を存じて御座らば、迅にも参らう者を、今迄延引致した、いや何かと申す内に西門ぢや、扨御夢想の御妻はどれに居らるゝ事ぢやしらぬ、去ばこそあれに、女中が衣を被つて立つてゐらるゝ、先言葉を掛けう、是は恥か敷くて、中々物のいはるゝ事ではない、たそ人が通らば、頼うで尋ねて貰ひたい者ぢや、いやいや男の心は、ふとうても太かれと云ふ、思ひ切つて尋ね
てみやう、申し申し、御前は御夢想のお方では御座らぬか、うむうむ、のうのう嬉しや嬉しや、御夢想の御方かといへばうむうむ、扨も扨も悦ば敷事ぢや、去ながら主のある人ぢやも知れぬ、尋ねて見やう、申し申し、是は念の為で御座る、お前はもし、主のある御方では御座らぬか▲アト「つまぞ無き、我身一ツのから衣、袖を片敷独り寝ぞする▲シテ「是はいかな事、歌を詠まれた、主の有るお方ではないかと云ふたれば、つまぞ無き、我身一ツのから衣、袖をかたしきひとり寝ぞする、是はうたがひもない独り身ぢや、申し申し、夫ならばお迎ひを進じませうが、お所は何処で御座る▲アト「我宿は、春の日ながら御駕路の、風のあたらぬ里といふべし▲シテ「又歌を詠まれた、お迎ひを進じませうが、お所は何処で御座ると云ふたれば、我宿は、春の日ながら御駕路の、風の中らぬ里と云ふ可し、先春の日はかすが{*2}、御越路{*3}は北、風の当らぬ里とは何処で有らうぞ、総じて室には風の当らぬ者ぢや、扨は糀屋の娘で有らう、いやいや、其様な人でも有るまい、はゝあ春日町の室町と云ふ事か総じて人に歌を詠みかけられて返歌をせねば、口ない虫に生るゝと云ふ、さらば身共も、今の返歌を致さう、春日なる、里とは聞けど室町の、角よりしてはいくつ成らむ▲アト「あゝ二九▲シテ「あゝ申し申し是々、是はいかな事ついとゆかれた、扨て気の短い事かな、但身共の返歌が気に障つたか、別に憎む筈は無いが、春日なる、里とはきけど室町の、角よりしてはいくつ成らむ、と云ふたれば、あゝにく別に憎まるゝ筈はないが、是は九九の算用を以て、二九十八軒目と云ふ事であらう、先急いで室町番日町へ参らう、誠に、歌ばかり達者なかと思へば、算勘に迄達してゐらるゝ、観世音のお引合せぢやに依つて、たいていの人ではない筈なれ共、先我等如きの妻に、算勘の達したは、いち調法で御座る、いや何かと申す内に室町春日町ぢや、先角から一軒二軒、三軒五軒八軒、十七軒十八軒、去ばこそあれにつゝくりとしてゐらるゝ、申し申し、お前は最前のお方で御座るか、最前のお方かと云へばむゝむゝ、夫ならば追付迎ひを進じませうか、馬に乗らせらるゝか、但乗物に乗らせらるゝか、いやぢや、夫ならば身共が手を引きませうか、馬の乗物のとおせ有てもせう事もないに、某が身代相応に、手を引かれて行うとおせある、夫ならば手を引きませう、さあさあ御座れ、誠にそなたと身共は、観世音の御夢想の事ぢやに依つて、五百八拾年万々年も連添ひませう扨只今までは独り身で、第一縫針の事に難義致した、是から万事世帯の事に気を付けて呉さしめ、いや何かと云ふ内に私宅ぢや、先かう通らしめ、扨対面を致さう、其衣をお取りあれ、いやぢや、其は定めて恥か敷と云ふ事で有らう、有様は身共も恥か敷い、去ながら先きふくつにもあらうづひらにとらしめ{*4}是はいかな事、いやと云つて毎迄其様にしてゐる者ぢや、早うとらしめ{*5}夫ならば身共がとるぞ、訳もない、さらば対面致さう、ありあ何ぢや、興がつた{*6}ものぢや▲アト「申し申し、どれへ行かせらるゝ▲シテ「いやどれへも行はせぬが、観世音もきこえぬ事ぢやあの様な者と何とそはるゝ者ぢや▲アト「そなたとわらはは観世音のお引合せぢやに依つて、五百八拾年万々年も連添ませうぞ▲シテ「あゝ人が見るわいやい、おのれ{*7}が様な者はかうして置たがよい、長者に成と云ふて、あれが何と成る者ぢや▲アト「のうどこへ行かせある▲シテ「あゝゆるして呉い、ゆるして呉い▲アト「どちへもやる事ではないぞ▲シテ「ゆるして呉イ
校訂者注
1:底本は、「霊現(れいけん)」。
2:底本は、「春の日はかすか」。
3:底本は、「御駕路(みこしぢ)」。
4:底本は、「▲シテ「是はいかな事」。
5:底本は、「▲シテ「夫ならば身共がとるぞ」。
6:底本は、「與かつたものぢや」。
7:底本は、「おれが様な者は」。
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