吹取(ふきとり)(二番目 三番目)
▲シテ「この辺りの者でござる。某(それがし)、未だ定まる妻がござらぬによつて、清水の観世音へ、申し妻を致してござれば、あらたに御夢想を蒙つてござる。名月の夜(よ)、五條の橋へ出て笛を吹け。その笛の音(ね)につれて女が出る程に、吹き取りにして汝が妻に定めよ。との事でござる。さりながら、身共はつひに、笛を吹いた事がござらぬ。又こゝに、常々御目を下さるゝ、有徳な御方がござる。これは、笛を良うなさるゝ。幸ひ、今晩は名月なれば、誰殿をお頼み申し、五條の橋で笛を吹いて貰はうと存ずる。誠に、何とぞ誰殿が、内にござれば良いが、余り、外へ出ぬ御方でござるによつて、大方、御宿にござらうと存ずる。何かと申す内に、これぢや。まづ、案内を乞はう。
{と云つて、案内乞ふ。出るも常の如し。}
只今参るは、別の義でござらぬ。御存知の通り、未だ定まる妻がござらぬによつて、清水の観世音へ籠つてござれば、夜半ばかりの頃、八十余りの老僧が、鳩の杖にすがらせられて、汝、今まで妻を儲けぬ事、不憫に思し召し、この度、似合(にあは)しい妻を授けてとらする。則ち、名月の夜、五條の橋へ出て笛を吹け。その笛の音に連れて、女が出(づ)るであらう。それを吹き取りにして、汝が妻に定めよ。との御事でござる。
▲アト「扨々、それはめでたい事ぢや。身共もかねがね、似合(にあは)しい事もあれかしと思うてゐた。これと云ふも、そなたの信心の深い故ぢや。
▲シテ「扨、それにつきまして、御無心がござる。
▲アト「何でおりやる。
▲シテ「御存知の通り、私は終に笛を吹いた事がござりませぬ。御前(おまへ)は良う御笛をなされまする程に、近頃御苦労ながら、五條の橋へ御出なされて、笛をお吹きなされて下さるならば、忝う存じまする。
▲アト「それは、何より易い事なれども、今宵は月見に行く約束をしたによつて、え行くまい。
▲シテ「それは気の毒でござる。月は、いつ御覧なされうとも、儘でござる。これは私、一世一代の事でござる。御恩に受けませう。どうぞ、御出なされて下され。
▲アト「それならば、笛を貸してやらう程に、そなたの口へ当てゝ、吹く体(てい)をしてしてゐさしめ。
▲シテ「いや。笛の音に連れて出らるゝとござれば、吹く体(てい)を致した分では、なりますまい。
▲アト「いかさま、笛の音が、善悪ともに聞こえいではなるまい。殊にこれは、一代に一度の事ぢや。行(い)ておまさうぞ。
▲シテ「それは近頃、忝う存じまする。
▲アト「笛を取つて来う。暫くお待ちあれ。
▲シテ「畏つてござる。
{アト、笛を懐中して出る。}
▲アト「さあさあ、笛を取つて来た。お行きあれ。
▲シテ「何が扨、御出なされませ。
▲アト「それならば、先へ参らう。さあさあ、来さしめ。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「誠にこれは、云うても云うても不思議な御夢想であつたなう。
▲シテ「御前の様に、御家内大勢ござる所は、お構ひもござらぬが、私の様な一人身(ひとりみ)は、留守居がござりませねば、万事不自由にござりまする。
▲アト「いや、何かと云ふ内に、五條の橋へ来た。
▲シテ「誠に、五條の橋でござる。
▲アト「あれあれ。今、月の出潮(でしほ)ぢや。何と、良い月ではないか。
▲シテ「何(いづ)れ、良い月でござる。
▲アト「あの、松にかゝつた月が、この水に映つた所は。あゝ、見事ぢや。
▲シテ「申し申し。御苦労ながら、御笛をなされて下されい。
▲アト「成程、合点ぢや。あれあれ。あの月の、水へ映る所を、この橋の上から見た所。何とも云はれぬ、面白い事ぢや。
▲シテ「申し申し。月は、今宵に限らず、いつ御覧なされうと儘でござる。まづ、御笛をなされて下されませ。
▲アト「そなたは、いかう急(せ)くの。今まで一人身で居たではないか。
▲シテ「いや。急(せ)くではござりませぬが、観世音の思し召しませうには、似合(にあは)しい妻を授けてやつたに、早う笛を吹かいで、但し、望みにもないか。などゝ、御気を触(ふ)られまいものでもござらぬ。まあちよつと、御笛をなされて下されい。
▲アト「いやいや。神仏は、御慈悲が深いによつて、その様な意地の悪い事が、何の、あるものぢや。
▲シテ「でも、物には良い頃がござる。最前から、何かと申す内に、月も余程、上(のぼ)らせられてござる。夜の更けませぬ内に、御笛をなされて下され。
▲アト「扨々、忙(せわ)しう仰(お)せある。この様な良い月を、又、五條の橋で見るといふ事はならぬ。もそつと眺めて居たいけれども、あまりお急(せ)きある程に、まづ、調べて見よう。
▲シテ「何の、お調べなさるゝには、及びますまい。
{アト、笛を取り出し、少し調べて見て、留むる。}
▲シテ「早(はや)、お已めなされましたか。
▲アト「久しう吹かぬによつて調べて見たが、中々、音(ね)が出ぬ。
▲シテ「いや。良う鳴りました。さあさあ、続いてお吹きなされて下され。
{また、長く吹く。「下がり端」良し。その内、帛を被(かづ)き、橋掛かりへ出る。シテ、見付けて悦ぶなり。}
申し申し。あれへ、女中が見えまするが、あれでござらうか。
▲アト「どれどれ。いかさま、あれでかなあらう。
▲シテ「さあさあ。早うお吹きなされて下されませ。
▲アト「心得た。
{と云つて又、笛吹く。シテ、正面へ出て、扇を広げて礼拝をする。}
▲シテ「あら、ありがたや。南無観世音菩薩、南無観世音菩薩。申し申し。もはや、宜しうござりまする。
{女、一の松に留まると、この文句を云ふなり。}
▲アト「もう、良いか。
▲シテ「何と、あれでござりませうか。
▲アト「もし、人違(たが)ひではないか。早う、尋ねて見さしめ。
▲シテ「畏つてござる。
{シテ、女に向かひ、「ほゝ」と云つて、笑ふ。}
これは恥づかしうて、物が云ひにくうござる。近頃慮外ながら、御前、お尋ねなされて下されい。
▲アト「これはいかな事。他に人があるではなし、何も恥づかしい事はない。早う、尋ねさしませ。
▲シテ「何(いづ)れ、男の心は太いが上には太かれ。と申す。思ひ切つて尋ねませう。申し申し。御前は、御夢想の御方でござるか。
{女、うなづく。シテ、笑ふ。}
申し申し。御夢想の御方かと申してござれば、ウゝウゝ。
{と云つて、二人笑ふ。}
扨々、悦ばしい事でござる。まづ、これへ連れて参りませう。
▲アト「さあさあ、まづ、これへおりあれ。
{女、舞台へ出て、アトにもたれかゝる。}
これこれ、身共ではござらぬ。誰、そちへ連れてお行きあれ。
▲シテ「畏つてござる。成程これは、そなたのが尤ぢや。ありやうは、身共は笛をえ吹かぬによつて、あなたを雇うて参りました、なう。
▲アト「成程、身共は雇はれて参つた。
▲シテ「ぬしは身共ぢや。さう心得さしめ。
{女、かぶり振りて、アトの傍へ寄る。}
▲アト「いや。私は、笛を吹くため、雇はれて参つた。御前の連れ合ひは、そこに居らるゝ。こゝを放されい。
{と云へども、放さず。}
これこれ。そちへ連れてお行きあれい、なうなう。
▲シテ「さりとては、悪い合点ぢや。連れ合ひは身共ぢや。こちへおりやれ。
{と云へども、アトにしなだれつくなり。}
▲アト「これは迷惑ぢや。誰、連れてお行きやれ。
{と云つて、アト、無理に突きやる。女、取り付く。シテは、女を引つ張る。その内に小袖とると、アトもシテも、肝をつぶすなり。}
なうなう。まづ以て、今日はめでたい。身共はこれから、月見の方(はう)へ行く。後(あと)から、夫婦連れで戻らしめ。
▲シテ「あゝ、申し申し。まづ、お待ちなされませ。
▲アト「何と、待てとは。
▲シテ「見ますれば、最前からいかう御前を慕はれまする。御前の方へ連れて、お帰りなされませ。
▲アト「これはいかな事。お知りある通り、身共は、妻もある者ぢやによつて、こなたに入り用にはござらぬ。
▲シテ「あゝ、申し申し。御前の御身の上で、奥様の五人や三人あつても、苦しうない事でござる。御召し使ひになりとも、平(ひら)にお連れなされませ。
▲小アト「申し申し、御前を妾(わらは)が、殿御にしませう。
▲アト「それそれ。ざつと、埒があいた。
{と云つて、入るなり。}
▲シテ「そなたの連れ合ひは、笛を吹いた人ぢや。
▲小アト「いゝや。御前ぢや。
{と云つて取り付き、これより後、「二九十八」の通り。この類、同断なり。}
底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.)
吹取(フキトリ)(二番目 三番目)
▲シテ「此辺りの者で御座る、某未だ定まる妻が御座らぬに依つて清水の観世音へ、申し妻を致して御座れば、あらたに御夢想を蒙つて御座る、名月の夜五條の橋へ出て笛をふけ、其笛の音につれて女が出る程に、吹取りにして汝が妻に定めよとの事で御座る、去り乍ら身共はついに笛をふいた事が御座らぬ、又爰に常々御目を下さるゝ有徳なお方が御座る、是は笛をよう被成るゝ、幸ひ今晩は名月なれば、誰殿をお頼み申し、五條の橋で笛をふいて貰はうと存ずる、誠に何卒誰殿が内に御座ればよいが、余り外へ出ぬお方で御座るに依つて、大方御宿に御座らうと存ずる、何彼と申す内に是ぢや、先案内を乞はう{ト云つて案内乞出るも如常}{*1}唯今参るは別の義で御座らぬ、御存知の通り、未だ定まる妻が御座らぬに依つて、清水の観世音へ籠つて御座れば、夜半ばかりの頃{*2}、八十あまりの老僧が鳩の杖にすがらせられて、汝今迄妻をまふけぬ事不憫{*3}に思召し、此度似合しい妻をさづけてとらする、則名月の夜五條の橋へ出て笛をふけ、其笛の音につれて女が出るで有らう、夫を吹取にして汝が妻に定めよとのお事で御座る▲アト「扨々其は目出たい事ぢや、身共も兼々似合しい事もあれかしと思ふてゐた、是と云ふもそなたの信心の深い故ぢや▲シテ「扨夫につきまして御無心が御座る▲アト「何んでおりやる、▲シテ{*4}「御存知の通り、私は終に笛をふいた事が御座りませぬ、お前はようお笛を被成まする程に近頃{*5}御苦労ながら、五條の橋へ御出被成て、笛をお吹被成て下さるならば忝なう存じまする▲アト「夫は何より安い事なれども、今宵は月見に行く約束をしたに依つて、得行くまい▲シテ「夫は気の毒で御座る、月はいつ御覧被成うとも儘で御座る、是は私一世一代の事で御座る、御恩に請ませう、どうぞお出被成て下され▲アト「夫ならば笛を貸してやらう程に、そなたの口へあてゝ吹く体をしてしてゐさしめ▲シテ「いや笛の音につれて出らるゝと御座れば、吹く体を致した分ではなりますまい▲アト「いか様、笛の音が善悪共にきこえいでは成まい、殊に是は一代に一度の事ぢや、いておまさうぞ▲シテ「夫は近頃{*6}忝う存じまする▲アト「笛を取つてかう暫らくお待ちあれ▲シテ「畏つて御座る{アト笛を懐中して出る}▲アト「さあさあ笛を取つて来たおゆきあれ▲シテ「何が扨お出被成ませ▲アト「夫ならば先へ参らうさあさあきさしめ▲シテ「畏つて御座る▲アト「誠に、是はいふてもいふても、不思議な御夢想であつたのう▲シテ「お前の様に、御家内大勢御座る所は、おかまいも御座らぬが、私の様な独り身は、留主居が御座りませねば、万事不自由に御座りまする▲アト「いや何彼といふ内に五條の橋へ来た▲シテ「誠に五條の橋で御座る▲アト「あれあれ今月の出しほぢや、何とよい月ではないか▲シテ「何れよい月で御座る▲アト「あの松にかゝつた月が、此水にうつゝた所は、あゝみごとぢや▲シテ「申し申し、御苦労ながらお笛を被成て下されい▲アト「成程合点ぢやあれあれ、あの月の水へうつる所を、此橋の上から見た所、何んともいはれぬ、面白い事ぢや▲シテ「申し申し、月は今宵に限らず、いつ御覧なされうと儘で御座る、先お笛をなされて下されませ▲アト「そなたはいかうせくの、今まで独り身で居たではないか▲シテ「いやせくでは御座りませぬが、観世音の思し召ませうには、似合しい妻をさづけてやつたに、早う笛を吹かいで、但し望にもないか抔と、お気をふられまい者でも御座らぬ、まあちよつとお笛を被成て下されい▲アト「いやいや、神仏はお慈悲がふかいに依つて、其様ないぢのわるい事が、何んの有る者ぢや▲シテ「でも物にはよい頃{*7}が御座る、最前から何彼と申す内に、月も余程上らせられて御座る、夜のふけませぬ内に、お笛を被成て下され▲アト「扨々、せわしうおせある、此様なよい月を、又五條の橋で見ると云ふ事はならぬ、最卒度眺めて居たいけれども{*8}、あまりおせきある程に、先しらべて見よう▲シテ「何んのおしらべ被成るゝには及びますまい{*9}{アト笛を取出しすこししらべて見て留る}▲シテ「はやおやめ被成ましたか▲アト「久しう吹かぬに依つてしらべて見たが中々音が出ぬ▲シテ「いやようなりました、さあさあつゞいてお吹被成て下され{また長く吹下り端よし其内帛{*10}をかづき橋掛へ出るシテ{*11}見付て悦ぶなり}{*12}申し申し、あれへ女中が見えまするが、あれで御座らうか▲アト「どれどれ、いか様あれでかな有らう▲シテ「さあさあ早うお吹きなされて下されませ▲アト「心得た{と云つて亦笛吹シテ正面へ出て扇を広げて礼拝をする}▲シテ「あら有難や、南無観世音菩薩南無観世音菩薩、申し申し最早宜敷う御座りまする{女一の松に留ると此文句を云ふなり}▲アト「もうよいか▲シテ「何んとあれで御座りませうか▲アト「若し人たがひではないか、早う尋ねて見さしめ▲シテ「畏つて御座る{シテ女に向ひホゝと云つて笑ふ}{*13}是は恥かしうて物が云ひにくう御座る、近頃{*14}慮外ながら、お前お尋ね被成て下されい▲アト「是はいかな事、外に人が有るではなし、何も恥かしい事はない、早う尋ねさしませ▲シテ「何れ男の心は、ふといが上にはふとかれと申す、思ひ切つて尋ねませう、申し々々、お前は御夢想のお方で御座るか{女うなづくシテ笑ふ}{*15}申し々々、御夢想のお方かと申して御座れば、ウゝウゝ{と云つて二人笑ふ}{*16}扨々悦こばしい事で御座る、先是へつれて参りませう▲アト「さあさあ先是へおりあれ{女舞台へ出てアトにもたれかゝる}{*17}是々身共では御座らぬ、誰、そちへつれておゆきあれ▲シテ「畏つて御座る、成程是はそなたのが尤ぢや、あり様は、身共は笛を得吹かぬに依つて、あなたを雇ふて参りましたのう▲アト「成程身共は雇はれて参つた▲シテ「ぬしは身共ぢや、さう心得さしめ{女かぶりふりてアトのそばへよる}▲アト「いや私は笛を吹く為め雇はれて参つた、お前のつれあいはそこに居らるゝ、爰をはなされい{といへどもはなさず}{*18}是々そちへつれておゆきあれいのう。のう▲シテ「去りとてはわるい合点ぢや、つれあひは身共ぢや、こちへをりやれ{といへどもアトにしなだれつくなり}▲アト「是は迷惑ぢや、誰、つれておゆきやれ{と云つてアトむりにつきやる女取付くシテは女を引はる其内に小袖とるとアトもシテも肝をつぶすなり}{*19}のうのう、先以つて今日は目出たい、身共は是から月見の方へ行く、跡から夫婦づれで戻らしめ▲シテ「あゝ申し申し、先お待ち被成ませ▲アト「何んとまてとは▲シテ「見ますれば最前から、いかうお前をしたはれまする、お前の方へつれてお帰り被成ませ▲アト「是はいかな事おしりある通り、身共は妻もある者ぢやに依つて、此方に入用には御座らぬ▲シテ「あゝ申し申し、お前の御身上で、奥様の五人や三人あつても、苦敷うない事で御座る、お召使ひに成共、ひらにおつれ被成ませ▲小アト{*20}「申々お前をわらはが、殿御にしませう▲アト「夫々、ざつと埒があいた{と云つて入る也}▲シテ「そなたのつれあいは笛を吹いた人ぢや▲小アト{*21}「いゝやお前ぢや{と云つて取付是より跡二九十八の通り{*22}此るい同断也。}
校訂者注
1:底本は、「▲シテ「唯今参るは」。
2・7:底本は、「比(ころ)」。
3:底本は、「不便に思召し」。
4:底本、ここに「▲シテ「」はない。
5・6・14:底本は、「近比(ちかごろ)」。
8:底本は、「詠(なが)めて居たけれども」。
9:底本は、「及ひますまい」。
10:底本は、「箔」。
11:底本は、「して」。
12:底本は、「▲シテ「申し申し、あれへ」。
13:底本は、「▲シテ「是は恥かしうて」。
15:底本は、「▲シテ「申し々々、御夢想の」。
16:底本は、「▲シテ「扨々悦こばしい」。
17:底本は、「▲アト「是々身共では御座らぬ」。
18:底本は、「▲アト「是々そちへつれて」。
19:底本は、「▲アト「のうのう、先以つて」。
20・21:底本は、「▲アト「」。
22:底本は、「二九十八の返り」。
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