因幡堂(いなばだう)(二番目)

▲シテ「この辺りの者でござる。某(それがし)が妻は、つゝとならず者で、朝寝をして、有り明(あか)つて起きて{*1}、縫ひ針の事は申すに及ばず、苧(を)を一裂(ひとさ)き績(う)む事がならぬ。これは、まだ堪忍も致さうが、女のあらう事か、大酒を呑うで酔狂を致す。これをうるさう存じて、暇をやらうと思へば、常々わゝしう云うて、中々身共に口をあかせぬ。今日(けふ)は、親里へ用があつて帰つた程に、幸ひと存じて、後(あと)から暇の状をやつて、埒をあけてござる。扨、片時も一人居ては、世帯の事が何ともならぬ。又、因幡堂の薬師如来は、験仏舎と申す。今日参詣致し、申し妻を致さうと存ずる。やれやれ、さりたいさりたいと存じたに、ざつと、良い病晴(やまひば)れを致した。又、信心に祈誓申してござらば、定めて宜しい妻をお与へなされて下されうと存ずる。参る程に、これぢや。まづ、御前(おまへ)へ向かはう。ぢやぐわんぢやぐわん。
{と云つて、鰐口を打ち、拝みて、}
私、只今参る事、余の義でござらぬ。只今までの妻は、殊の外のならず者で、大酒ばかりたべて、役に立ちませぬによつて、離別致してござる。あはれ、薬師如来のお引き合(あは)せで、似合(にあは)しい妻を与へて下され。南無薬師瑠璃光如来、南無薬師瑠璃光如来。今宵は、これに籠らうと存ずる。
▲アト「なうなう、腹立ちや、腹立ちや。わ男が、妾(わらは)を嫌うて、親里へ用があつて帰つたれば、後(あと)から暇の状をおこして、又、因幡堂の薬師様へ、申し妻に参つて籠つて居ると聞いてござる。この様な憎い事はござらぬ。あれへ参つて、致し様がござる。
{一の松より舞台までの、しかじか。}
云うても云うても、妾を騙して去りをつた所が、憎うござる。見附け次第、致し様がござる。さればこそ、あれによしよしと臥せつて居をる。何とせうぞ。いや、妾が御薬師様になつて、示現をおろさう。やい、汝。良う聞け。西門(さいもん)の一のきざ橋に立つたを、汝が妻に定めい。ゑい。
{と云つて、中入りする。}
▲シテ「はあ、はあ。あら、ありがたや。少し睡眠の内に、あらたな御霊夢を蒙つた。扨も扨も、忝い事かな。西門の一のきざ橋に立つたを、汝が妻に定めよ。との御事ぢや。扨々、ありがたい事かな。まづ、急いで西門へ参らう。扨も扨も、仏の利益を、かりそめにも疑ふ事ではござらぬ。この様にあらたな事は、ござるまい。何かと云ふ内に、西門ぢや。扨、かの人はどれにゐらるゝぞ。
{と云つて、尋ねる。アト、帛を被(かつ)ぎ、一の松へ出て居る。シテ、見付けて笑ふ。「言葉を掛けう」と云つて、掛けかねる所、悉く「二九十八」同断。アト、うなづく。シテ、悦うで笑ふ。この類、同様。「追つ付け、馬か、乗りものか」と云ふ。「嫌」と、かぶりを振る。「手を引いて行かう」と云ふ。アト、うなづく。「身上相応」を云つて悦び、手を引く。しかじか云ふまで同断。}
さあさあ、ござれ。誠に、そなたと身共は、薬師如来のお引き合(あは)せで夫婦になりました程に、五百八拾年、万々年も連れ添ひませう。扨、初めて逢うて云ふは、異なものでござれども、後(あと)で、とても知れる事ぢやによつて、話しまする。某、只今まで一人身でもござらぬ。これまでの妻は、殊の外のならず者で、朝寝をし、有り明つて起き、隣辺りへ行(い)て、大茶を飲うで人事を云ひまする。この分は堪忍も致さうが、聞こえて下され。女のあらう事か、大酒を呑うで酔狂を致す。それ故、暇をやりました。又、そなたは薬師如来の御仲人でござる。随分、仲良うしませう。さう、心得て下され。何かと云ふ内に、私宅ぢや。まづ、かう通らせられい。それにゆるりとござれ。扨、盃を致さう。
{と云つて、盃を持つて出て、}
まづ、その上の衣(きぬ)をとらつしやれ。
{アト、かぶり振るなり。}
初々しいによつて、恥づかしいも、尤ぢや。それは、互ぢや。扨、この様な時は、呑うでさすものぢや。そなたから参つて下され。
{と云つて、盃を持たせ、酒をつぐ。シテ、ちよつとつぐ。女、盃を突き出す。}
こりや、そなたも、ちとなるか。
{と云つてつぐを、アト、受けて呑む。}
これは、一つなるさうな。さあさあ、これへ下され。
{かぶり振つて、盃をさし出す。とらうとすれば引つ込め、差し出す。}
まだ、参るか。
{と云つて、又つぐ。差し出す。又つぐ。}
これはいかな事。身共が仕合(しあは)せも、知れた。今までの女共も、余の事は堪忍致せども、酒を呑むが嫌さに離別致したれば、あれは、重を越えた大酒呑みぢや。扨も扨も、苦々しい事かな。さあさあ、盃をおこさしめ。
{アト、又前の通り、盃をさし出す。とらうとすれば引つ込め、又差出す。}
献(こん)を合(あは)さうといふ事か。
{と云つて、ちよつとつぐ。又、盃さし出す。シテ、仕様色々あるべし。}
それならば、何程なりともお呑みあれ。
{と云つて、又つぐ。}
扨も扨も、興のさめたるかな。女といふものが、その様に酒を呑むものではおりない。こちへおこさしめ。
{と云つて引つたくり、腹を立て、盃仕舞ふ。}
いざ、対面せう。その衣(きぬ)をお取りあれ。
{かぶりを振る。}
合点の悪い。いつまでその様にして居るものぢや。
{と云つて、無理に衣をとつて、驚く。}
▲アト「やい、そこなやつ。何ぢや。妾はならず者ぢや。真実、暇をくるゝか。
▲シテ「いや。ありやうは、遁世の望みで、一人身にならうと思うて、暇を出した。
▲アト「ゑゝ、腹立ちや、腹立ちや。因幡堂へは、何のために籠つた。
▲シテ「そなたの息災な様に、願をかけに参つた。
▲アト「何の、卑怯者。噛み付かうか、喰ひ付かうか。腹立ちや、腹立ちや。
{と云つて、追ひ込み入るなり。}

校訂者注
 1:「有り明(あか)つて起きて」は、「(日が昇ってすっかり)明るくなってから起きて」というほどの意か。同じ表現が次の「鎌腹」にも見える。

底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.

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因幡堂(イナバドヲ)(二番目)

▲シテ「此辺りの者で御座る、某が妻はつつとならず者で、朝寝をして有り明つておきて、ぬい針の事は申すに及ばず、苧をひとさきうむ事がならぬ、是はまだ堪忍も致さうが、女のあらう事か、大酒を呑うで{*1}酔狂を致す、是をうるさう存じて暇をやらうと思へば、常々わゝしう云ふて、中々身共に口をあかせぬ、今日は親里へ用が有つて帰つた程に、幸ひと存じて、跡から暇の状をやつて埒をあけて御座る、扨片時も一人居ては世帯の事が何共ならぬ、又因幡堂の薬師如来は験仏舎{*2}と申す、今日参詣致し、申し妻を致さうと存ずる{*3}やれやれさりたいさりたいと存じたに、ざつとよい病はれを致した、又信心に祈誓申して御座らば、定めて宜しい妻をおあたへ被成て下されうと存ずる、参る程に是ぢや、先づお前へ向はう、ぢやぐわんぢやぐわん{と云つて鰐口を打をがみて}{*4}私唯今参る事、余の義で御座らぬ、唯今迄の妻は殊の外のならず者で、大酒計りたべて役に立ちませぬに依つて、離別致して御座る、あはれ薬師如来のお引き合せで、似合しい妻をあたへて下され、南無薬師瑠璃光如来南無薬師瑠璃光如来、今宵は是に籠らうと存ずる▲アト「のうのう腹立や腹立や、わ男がわらはを嫌うて、親里へ用があつて帰つたれば、跡から暇の状をおこして、又因幡堂{*5}の薬師様へ、申し妻に参つて籠つて居るときひて御座る、此様な憎ひ事は御座らぬ、あれへ参つて致し様が御座る{一の松より舞台迄のしかじか}{*6}いふてもいふても妾をだまして去りをつた所が憎う御座る、見附次第致し様が御座る、さればこそあれによしよしとふせつて居をる、何とせうぞ、いや妾がお薬師様になつて示現をおろさう、やい汝ようきけ、西門の一のきざはしに立つたを、汝が妻に定めいヱイ{と云つて中入する}▲シテ「ハアハア荒有難や、すこし睡眠の内にあらたな御霊夢を蒙つた、扨ても扨ても忝けない事かな、西門の一のきざ橋に立つたを、汝が妻に定めよとのお事ぢや、扨て扨て有難い事かな、先急いで西門へ参らう、扨ても扨ても仏の利益を、かりそめにも疑ふ事では御座らぬ、此様にあらたな事は御座るまい、何彼と云ふ内に西門ぢや、扨て彼の人はどれにゐらるゝぞ{と云つて尋ねるアト帛{*7}を被ぎ一の松へ出て居るシテ見付けて笑ふ言葉を掛ふと云つて掛かねる所悉く二九十八{*8}同断アトうなづくシテ悦で笑ふ此るい同様追付馬か{*9}のりものかと云いやとかぶりをふる手を引て行ふと云ふアトうなづく身上相応を云つて悦手を引しかじか云ふ迄同断}{*10}さあさあ御座れ、誠にそなたと身共は薬師如来のお引合せで、夫婦に成りました程に、五百八拾年万々年もつれそひませう、扨て初めて逢ふて云ふは異な者で御座れども、跡で迚もしれる事ぢやに依つて咄しまする、某唯今迄独り身でも御座らぬ、是までの妻は殊の外のならず者で、朝寝をし有り明つておき、隣辺りへいて、大茶を呑うで人事を云ひまする、此分は堪忍も致さうが、聞えて下され、女の有らう事か大酒を飲うで酔狂を致す、夫故暇をやりました、又そなたは薬師如来のお仲人で御座る、随分中ようしませう、そう心得て下され、何かと云ふ内に私宅ぢや、先づかう通らせられい、夫にゆるりと御座れ、扨て盃を致さう{と云つて盃を持て出て}{*11}先其上のきぬをとらつしやれ{アトかぶりふるなり}{*12}ういういしいに依つて恥かしいも尤もぢや、夫は互ひぢや、扨て此様な時は飲うで{*13}さす者ぢや、そなたから参つて下され{と云つて盃を持たせ酒をつぐシテちよつとつぐ女盃を突出す}{*14}こりやそなたもちとなるか{と云つてつぐをアト請て呑む}{*15}是は一つなるさうな、さあさあ是れへ下され{かぶり振つて盃をさし出すとらうとすれば引込差出す}{*16}まだ参るか{と云つて亦つぐ差出す亦つぐ}{*17}是れはいかな事、身共が仕合せもしれた、今迄の女共も余の事は堪忍致せども、酒を呑むがいやさに離別致したれば、あれは重を越えた大酒呑みぢや、扨ても扨てもにがにがしい事かな、さあさあ盃をおこさしめ{アト亦前の通り盃をさし出すとらふとすれば引込め亦た差出す}{*18}献を合さうと云ふ事か{と云つてちよつとつぐ亦盃さし出すシテ仕様色々あるべし}{*19}夫ならば何程なりともお呑みあれ{と云つて亦つぐ}{*20}「扨ても扨ても興のさめたるかな、女と云ふ者が其様に酒を呑む者ではおりない、こちへおこさしめ{と云つて引たくり腹を立て盃仕舞}{*21}いざ対面せう其きぬをお取りあれ{かぶりをふる}{*22}合点のわるい、いつ迄其様にして居るものぢや{と云つて無理にきぬをとつて驚く}▲アト「やいそこなやつ、何ぢや妾はならず者ぢや、真実{*23}暇をくるゝか▲シテ「いや有様はとんせいの望で独り身にならうと思ふて暇を出した▲アト「ゑゝ腹立や腹立や、因幡堂へは何のために籠つた▲シテ「そなたの息災{*24}な様に願をかけに参つた▲アト「何のひきやう者、かみつかふか{*25}喰ひつかふか、腹立や腹立や{{*26}と云て追込入るなり。}

校訂者注
 1:底本は、「大酒を呑うて」。
 2:底本は、「現仏舎(げんぶつしや)」。
 3・4・10~12・14~22:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
 5:底本は、「因輻堂(いなばだう)」。
 6:底本は、「▲アト「いふても(二字以上の繰り返し記号)」。
 7:底本は、「箔」。
 8:底本は、「二九十九」。
 9:底本は、「馬がのりものか」。
 13:底本は、「飲うてさす者ぢや」。
 23:底本は、「直実(しんじつ)」。
 24:底本は、「息才」。
 25:底本は、「いかみつかふか」。
 26:底本、「と云て追込入るなり」は地の文(ト書き割注ではない)。