鎌腹(かまばら)(二番目 三番目)
▲女「ゑゝ、腹立ちや、腹立ちや。
{と云つて、内より追つて出る。シテ、逃げて出る。アト、後(あと)より出て、中へ入つて止めるなり。}
▲アト「まづ、待て。これは何事ぢや。
▲女「まづ、聞いて下され。皆、在所の者どもは、朝、疾(とう)から起きて、山へ柴をしに行きまする。わ男にも、行けと云うて、この様に棒や鎌まであてがうて、色々と申せども、何のかのと云うて行きませぬ。思うても見さつしやれ。山へ行かいで、何で渡世をするものでござる。退(の)かつしやれ。打ち殺してのけます。
▲アト「まづ、待て待て。身共がきっと、云ひ付けてやらう。
▲女「きっと云ひ付けて下され。
▲アト「心得た。やい、太郎。これは見苦しい。何事ぢや。
▲シテ「良い所へ出て下された。
▲アト「良い所と云ふ事があるものか。又しても又しても、女に追ひ走らかされて、外聞の悪い。なぜに山へ行かぬ。
▲シテ「山へ行くまいではござらぬ。山へ行かうと思うて、今朝からこの様に身拵へまでして居ますれども、何を云うても喰ふ物をくれぬによつて、山へ行かう様がござらぬ。
▲女「やい、そこなやつ。
▲シテ「何ぢや。
▲女「おのれ、今朝喰はせた物を、早(はや)忘れ居つたか。
▲シテ「どこに喰はせ居つた。おのれはな、朝臥(あさぶ)せりをしをつて、有り明(あか)つて起きて、隣辺りへ行(い)て大茶を飲うで、人事(ひとごと)をぬかし居るではないか。
▲女「やい。おのれこそ、朝臥せりをし居つて、有り明つて起きて、隣辺りへ行(い)て、鍋釜の下さへ燃ゆれば無理に居敷(ゐし)かつて居て{*1}、何ぞ喰はねば戻らぬ様にし居る。おのれ、それは誰(た)が恥ぢやぞい、やいやい。
▲シテ「誰殿。あれ、あれを聞いて下され。藁で束ねても、男は男でござる。それに、女の口から今の様な事をぬかし居る。あの棒や鎌を取つて下され。
▲アト「あの棒や鎌を取つて、女を已(や)ませうといふ事か。
▲シテ「いかないかな。きやつは親子びろいやつぢや{*2}によつて、聊爾に已まさるゝ事ではござらぬ。
▲アト「それならば、山へ行くか。
▲シテ「どうなりともしませう。まづ、棒や鎌を取つて下され。
▲アト「心得た。これこれ。山へ行かうと云ふ程に、その棒や鎌を、こちへおこさしめ。
▲女「山へ行かうと云ひますか。
▲アト「中々。
▲女「それならば、早う行きをれと云うて下され。
▲アト「心得た。さあさあ、早う山へお行きあれ。
▲シテ「おこさつしやれ。扨も扨も、腹の立つ事ぢや。女に今の様な事を云はれて、何と堪忍がなるものぢや。
{と云つて、鎌をほどき、棒を捨てかゝる。}
▲アト「やいやい、太郎。それは何をする。
▲シテ「えゝ。何をするといふ様な、うろたへた事があるものか。もはや堪忍がならぬによつて、今、鎌腹を切りまする。
▲アト「何ぢや。腹を切る。
▲シテ「さあ、切りまする。
▲アト「扨々、短気な事を云ふ。まづ、待て待て。
▲シテ「いやいや、切りまする。
▲アト「身共が居るからは、聊爾はさせぬ。
{と云つて、止める。}
▲女「これこれ、何と云ひまする。
▲アト「腹を切ると云ふ。
▲女「扨々、人らかしい。切りたくば切りをれと、云はつしやれ。
▲シテ「やい、女め。
▲女「何ぢや。
▲シテ「おれが腹を切ると云うて、只切らうと思ふか。腹十文字に切つて見せう。
▲女「おゝ。十文字になりと八文字になりとも、切りたい様に切りをれ。
▲アト「その様な事は、云はぬものぢや。
▲シテ「さあ、退(の)かつしやれ。切りまする。
▲アト「やれ。まづ、堪忍をせい。
▲女「これこれ。そなたがその様に云はつしやるによつて、あいつが人戯(ひとそばへ)をします。構はずと、こちへござれ。
{と云つて、無理にアトを連れて入る。この処、仕様あり。口伝。}
▲シテ「あゝ、これこれ。今、腹を切りまするぞや。誰殿、誰殿。これはいかな事。つゝとお行きあつた。扨々、苦々しい。止むるなら、とつくりと止めおほせたいものではないか。この様な半端尺(なからはじやく){*3}な事をして、これが、何となるものぢや。又、身共も最前の時、良い止まり潮(じほ)であつたものを、余り強弓(つよゆみ)を引き過ぎて、今、後(あと)へも先へも行かぬ。何としたものであらう。腹を切らうと云うたに、もし切らずば、常々身共を敷き居るによつて、人の様にはぬかしをるまい。是非に及ばぬ。腹を切らうまでよ。さりながら、鎌が切れずば痛からう。まづ、鎌を研いで、とても死ぬるならば、痛うない様にして死なう。云うても云うても、あの誰殿は、日頃は地下(ぢげ)で口を利く人ぢやが、肝心の時、役に立たぬ人ぢや。とつくり止めおほせさつしやれば、今、この様な難義には及ばぬものを。いや。又、誰殿は止める心であつたれど、何を云うても女めが、ついと連れて行きをつた。扨々、苦々しい事かな。おゝ。こりや、鎌の刃が良う付いた。とてもの事に、良う揉み柔らげて、そつとなりとも、痛うない様にせう。
{と云つて、諸肌を脱ぎて、}
扨、腹を切るといふは、まづ、弓手(ゆんで)へ打ち立てゝ、右手(めて)へ引き廻すものぢやと聞いた。すれば、無雑作な事ぢや。何にもせよ、まづ、この鎌を弓手へ打ち立てゝ。
{と云つて、鎌を打ち立たうとして、ちやつと退(の)き、}
あゝ、恐ろしや、恐ろしや。既に、鎌が腹へ立たうとした。思ひなしか、腹がひりひりする様な。扨も扨も、危ない事であつた。いやいや。この様な臆病な事ではならぬ。思ひ切つて死なう。いや、なうなう、誰殿。今、腹を切りまするが、出て見物さつしやれぬか。女め。今、腹を切るぞよ。さあ、今が最期ぢや。
{と云つて、両手にて、鎌を腹の方へ寄せる。仕様あるべし。}
これは、手が筋張(すぢば)つて、鎌が腹の方へ寄らぬ。何の、寄らぬといふ事はあるまい。寄せてみよう。
{と云つて、力むなり。}
とかく、寄らぬ。その上、我とわが腹へは、打ち立てにくい。何とぞ、無雑作に切り様がありさうなものぢやが。いや。あの大木に、この鎌をくゝりつけて、扨、木へ抱き付いて、ぐつと突き通さう。
{と云つ。仕方の内、鎌を脇柱に結び付くるなり。}
これこれ。これで良いぞ。やいやい、女め。今、腹を切るぞよ。何某殿(なにがしどの)も、出て見物をせられぬか。さあ、今が最期ぢや。
{と云つて、柱に取り付けて、}
これは又、腹が鎌の方へ寄らぬ。何の、寄らぬといふ事はあるまい。寄せて見せう。いかないかな。後(あと)へは寄れども先へは寄らぬ。何としたものであらうぞ。いや、良い仕様がある。あれから走りかゝつて、ひと思ひに死なう。これこれ、誰殿。今、腹を切りまするぞや。女め、出て見物せぬか。今が最期ぢや。さあさあ。
{と云つて走りかゝり、ちやつと前へ引く。}
恐ろしや。今ひと足で、あのとがつた鎌が、この柔らかな腹へ突き通つて良いものか。これでは切りにくい。何とせうぞ。愚かや、愚か。最前から、あの鎌が目に見ゆるによつて、手が筋は攣(つ)るの、鎌が寄らぬのと云ふ。今、合点が行(い)た。今度は目をふさいで、あれから走りかゝつて、ひと思ひに死なう。いや、これこれ。今こゝで、けなげ者が鎌腹を切るが、皆出て見物せぬか。女め。今、死ぬるぞよ。誰殿も、出て見物さつしやれぬか。さあ、おれが、かう云うてからは、誰殿がお止めあつても、いかないかな、止まる事ではないが、それも又、止め様によつて、止まるまいものでもない。止めようならば、今ぢやが。止めさつしやれぬか。人音もせぬ。是非に及ばぬ。まづ、目をきつとふさいで、さあ、今が最期ぢや。さあさあさあ。
{と云つて目をふさぎ、走り掛かり、鎌の前にて目をあく。}
あゝ。扨も扨も、危ない、危ない。既に、命を捨てうとした。扨も扨も、苦々しい事ぢや。これは、延びれば延びる程、死にたうない。その上、腹を切るといふは、辺りに大勢見物があつて、何のかのと云うてこそ、腹も切り良かつたものなれ。今日に限つて、人通りさへない。この様な時に死ぬるは、畢竟、犬死も同然ぢや。何としたものであらうぞ。いや、良い事を思ひ出した。今日(けふ)は已(や)めに致さう。これこれ。まづ、今日(けふ)は腹を切る事を已めて、堪忍をして、山へ行かう。この思案が、疾(とう)から出れば良かつたものを。又、重ねて死ぬるならば、まづ一番に、女めを切り殺し、その上へ飛び上がつて、腹十文字に切つてのけう。《カゝル》こゝを見れども、人もなし。かしこを見れど、人もなし。制する程は已まずして、あら、腹立ちや、腹立ちや。
《上》{*4}惜(あつ)たら命捨てんより、鎌と朸(あふこ)を打ちかたげ、いざ柴刈に行かうよ、いざ柴刈に行かうよ。
山から戻るは、菊千代ではないか。じやあ、それならば、内へ言付(ことづ)けがしたい。腹を切らうと思うたれども、機嫌を直して山へ行く程に、洗足(せんそく)の湯を沸かして置けと云うてたもれや。何ぢや。云うてくれう。やれやれ、けなげな者ぢや。やがて戻つて会はうぞ。さらば、さらば、さらば。
{と云ひて、留めて入るなり。}
校訂者注
1:「居敷(ゐし)かる」は、「居座る」意。
2:「親子びろい」は、不詳。
3:「半端尺(なからはじやく)」は、「中途半端」の意。
4:底本、ここから「いさ柴刈にゆかうよ」まで、傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第二巻』(山脇和泉著 1917年刊 国会図書館D.C.)
鎌腹(カマバラ)(二番目 三番目)
▲女「ゑゝ腹立や腹立や{と云つて内より追つて出るシテ逃て出るアト{*1}跡より出て中へ入てとめるなり}▲アト「先まて是は何事ぢや▲女「先きいて下され、皆在所の者共は朝とほからおきて、山へ柴をしに行きまする、わ男にも行けと云ふて、此様に棒や鎌まであてがうて、色々と申せども、何の彼のと云ふて行きませぬ、思ふても見さつしやれ、山へゆかいで何んで渡世をする者で御座る、のかつしやれ打殺してのけます▲アト「先まてまて、身共が吃度言ひ付けてやらう▲女「吃度言ひ付けて下され▲アト「心得た、やい太郎、是は見苦しい何事ぢや▲シテ「よい所へ出て下された▲アト「よい所と云ふ事が有る者か、又しても又しても、女に追ひはしらかされて外聞{*2}のわるい、なぜに山へ行かぬ▲シテ「山へゆくまいでは御座らぬ、山へ行かうと思ふて、けさから此様に身拵へまでして居ますれ共、何を云ふても喰ふ物をくれぬに依つて、山へ行かう様が御座らぬ▲女「やいそこなやつ▲シテ「何ぢや▲女「おのれけさくはせた物を早やわすれ居つたか▲シテ「どこに喰はせ居つた、おのれはな朝ぶせりをしをつて有り明ツて起きて、隣あたりへいて大茶を飲うで人事をぬかし居るではないか▲女「やい、おのれこそ朝ぶせりをし居つて、有り明ツて起きて隣り辺りへいて、鍋釜の下さへもゆれば無理にいしかつて居て、何ぞ喰はねば戻らぬ様にし居る、おのれ夫は誰が恥ぢやぞいやいやい▲シテ「誰殿あれ、あれを聞いて下され、わらでたばねても男は男で御座る、夫に女の口から今の様な事をぬかし居る、あの棒や鎌を取つて下され▲アト「あの棒や鎌を取つて女をやませうと云ふ事か▲シテ「いかないかなきやつは親子びろいやつぢやに依つて、りやうじにやまさるゝ事では御座らぬ▲アト{*3}「夫ならば山へ行くか▲シテ「どう成共しませう、先棒や鎌を取つて下され▲アト「心得た、是れ是れ山へ行かうと云ふ程に其棒や鎌をこちへおこさしめ▲女「山へ行かうと云ひますか▲アト「中々▲女「夫ならば早う行きをれと云ふて下され▲アト「心得た、さあさあ早う山へお行きあれ▲シテ「おこさつしやれ、扨も扨も腹の立つ事ぢや、女に今の様な事を云はれて何と堪忍がなる者ぢや{と云つて鎌をほどき棒{*4}をすてかゝる}▲アト「やいやい太郎、夫は何をする▲シテ「エゝ何をするといふ様なうろたへた事が有る者か、最早堪忍がならぬに依つて、今鎌腹を切りまする▲アト「何ぢや腹を切る▲シテ「さあ切まする▲アト「扨て扨て短気な事を云ふ先まて々々▲シテ「いやいや切まする▲アト「身共が居るからはれうじはさせぬ{と云つてとめる}▲女「是れ是れ何と云ひまする▲アト「腹を切ると云ふ▲女「扨て扨て人らかしい切りたくば切りをれといはつしやれ▲シテ「やい女め▲女「何ぢや▲シテ「おれが腹を切ると云ふて唯切らうと思ふか腹十文字に切ツて見せう▲女「おゝ十文字になりと八文字になりとも切りたい様に切りをれ▲アト「其様な事は云はぬものぢや▲シテ「さあのかつしやれ切りまする▲アト「やれ先堪忍をせい▲女「是れ是れそなたが其様に云はツしやるに依つて、あいつが人そばへをします、かまはずとこちへ御座れ{と云つて無理にアトをつれて入る此処仕様あり口伝}▲シテ「あゝ是れ是れ今腹を切まするぞや、誰殿誰殿是れはいかな事、つツとおゆきあつた、扨て扨てにがにがしい、とむるならとつくりととめおほせたいものではないか、此様ななからはじやくな事をして、是れが何ンと成る者ぢや、又身共も最前の時、よいとまりじをであつた者を、余りつよ弓を引過て、今後へも先へもゆかぬ、何としたもので有らう、腹を切らうといふたに若し切らずば、常々身共をしきをるに依つて、人の様にはぬかしをるまい、是非に及ばぬ腹を切らう迄よ、去り乍ら鎌が切れずば痛からう、先鎌をといで、迚も死ぬるならば、痛うない様にして死なう、言ふても言ふてもあの誰殿は日頃{*5}は地下で口を利く人ぢやが、かんじんの時役に立たぬ人ぢや、とつくり留めおほせさつしやれば、今此様な難義には及ばぬ者を、いや又誰殿は止める心であつたれど、何を云ふても女めが、ついとつれて行きおつた、扨て扨てにがにがしい事かな、おゝこりや鎌の刃がようついた、迚もの事によう揉みやはらげて、卒ツ都成共痛うない様にせう{と云つてモロハダを脱{*6}て}扨て腹を切ると云ふは、先弓手へ打ちたてゝ、右手へ引廻すものぢやと聞いた、すれば、無雑作な事ぢや、何にもせよ先此鎌をゆん手へ打ちたてゝ{と云つて鎌を打立たうとしてちやつとのき}あゝ恐ろしや恐ろしや、既に鎌が腹へ立たうとした、思ひなしか腹がひりひりする様な、扨ても扨てもあぶない事であつた、いやいや、此様な臆病な事ではならぬ、思ひ切ツて死なう、いやのうのう誰殿、今腹を切りまするが、出て見物さつしやれぬか、女め今腹を切るぞよ、さあ今が最期ぢや{と云つて両手にて鎌を腹の方へよせる仕様可有}是は手が筋ばつて鎌が腹の方へよらぬ、何のよらぬと云ふ事は有まい、よせてみやう{と云つて力む也}兎角よらぬ、其上我とわが腹へは打ち立てにくい、何卒無雑作に切り様が有さうなものぢやが。いやあの大木に此鎌をくゝりつけて、扨て木へだき付てぐつとつきとうさう{と云つしかたの内鎌をワキ柱に結び付る也}是れ是れ是れでよいぞ、やいやい女め、今腹を切るぞよ、何某殿も出て見物をせられぬか、さあ今が最期ぢや{と云つて柱に取り付けて}是れは又腹が鎌の方へよらぬ、何のよらぬといふ事はあるまいよせて見せう、いかないかな後へはよれども先きへはよらぬ、何としたもので有らうぞ、いやよい仕様がある、あれから走りかゝつて一ト思ひに死なう、是れ是れ誰殿、今腹を切りまするぞや、女め出て見物せぬか、今が最期ぢや、さあさあ{と云つて走りかゝりちやつと前へ引く}恐ろしや、今一足であのとがつた鎌が、此やはらかな腹へ突き通つてよい者か、是れでは切りにくい何とせうぞ、おろかやおろか、最前からあの鎌が目に見ゆるに依つて、手が筋はつるの、鎌がよらぬのといふ、今合点がいた、今度は目をふさいで、あれから走りかゝつて一ト思ひに死なう、いや是れ是れ、今此所でけなげ者が鎌腹をきるが、皆出て見物せぬか、女め、今死ぬるぞよ、誰殿も出て見物さつしやれぬか、さあおれがかういふてからは、誰殿がお留めあつてもいかないかな、留まる事ではないが、夫も又留め様に依つて、留まるまい者でもない、留めやうならば今ぢやが、留めさつしやれぬか、人音もせぬ、是非に及ばぬ、先目をきつとふさいで、さあ今が最期ぢやさあさあさあ{と云つて目をふさぎ走り掛り鎌の前にて目をあく}あゝ扨ても扨てもあぶないあぶない、既に命を捨うとした、扨ても扨てもにがにがしい事ぢや、是はのびれば延る程死にたうない、其上腹を切ると云ふは、あたりに大勢見物が有ツて、何の彼のと云ふてこそ腹も切りよかつた者なれ、今日に限つて人通りさへない、此様な時に死ぬるは畢竟犬死も同然ぢや、何とした者であらうぞ、いやよい事を思ひ出した、けふはやめに致さう、是れ是れ先今日は腹を切る事をやめて、堪忍をして山へ行かう、此思案がとほから出ればよかつた者を、又重ねて死るならば、先一番に女めを切殺し、其上へ飛び{*7}上つて腹十文字に切ツてのけう、《カゝル》{*8}爰を見れ共人もなし、かしこを見れど人もなし、せいする程はやまずして、荒腹立や腹立や、《上》{*9}あつたら命捨んより、鎌とおゝこを打かたげ{*10}、いざ柴刈に行かうよいざ{*11}柴刈にゆかうよ。山から戻るは菊千代ではないかジヤア夫ならば内へ言付{*12}がしたい、腹を切らうと思ふたれ共、機嫌を直して山へ行く程に、洗足の湯をわかしておけと云ふてたもれや、何ぢやいふてくれう、やれやれけなげな者ぢや頓て戻ツてあはふぞ、さらばさらばさらば{{*13}と云ひてとめて入るなり。}
校訂者注
1:底本は冒頭で「アト 女房/小アト 扱人」としているが、脚本本文は、それぞれ「▲女/▲アト」としている。
2:底本は、「外分(ぐわいぶん)」。
3:底本は、「▲シテ「夫ならば山へ行くか」。
4:底本は、「捧をすて」。
5:底本は、「日比は」。
6:底本は、「モロハダを投て」。
7:底本は、「飛ひ上つて」。
8:底本、「カゝル」は地の文であり、ト書き割注になっていない。
9:底本、「上」も地の文であり、ト書き割注になっていない。
10:底本は、「打かたけ」。
11:底本は、「いさ柴刈に」。
12:底本は、「言伝(ことづけ)」。
13:底本、「と云ひてとめて入るなり。」は地の文(ト書き割注ではない)。
コメント