清水(しみづ)(二番目 三番目)

▲アト「この辺りの者でござる。この中(ぢゆう)、方々の御茶の湯は、夥(おびたゞ)しい事でござる。それに付き、太郎冠者を呼び出し、申し付くる事がござる。
{と云つて呼び出す。出るも常の如し。}
汝呼び出す、別の事でない。何とこの中(ぢゆう)、方々の御茶の湯は、夥しい事ではないか。
▲シテ「御意なさるゝ通り、事長じた義でござる。
▲アト「それにつき、明日(みやうにち)は、この方(はう)へも各を申し受くる。茶の水には、どれが良からう。
▲シテ「されば、どれが良うござりませうぞ。
▲アト「どれが良からうなあ。
▲シテ「どれこれと仰せられうより、野中(のなか)の清水は、何とてござらう。
▲アト「これは、一段と良からう。則ち、汝に云ひ付くる程に、太儀ながら、行(い)て汲んで来い。
▲シテ「畏つてはござれども、私は、御内証に御用もござらう程に、次郎冠者に仰せ付けられませ。
▲アト「次郎冠者にも、相応の用を云ひ付くる。とかく、汝行け。
▲シテ「それならば、参りませうまで。
▲アト「暫くそれに待て。
▲シテ「心得ました。
▲アト「やいやい。これは、身共が秘蔵の手桶ぢや程に、随分、損なはぬ様にして、持つて行け。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「扨、汝は、水の汲み様を知つてゐるか。
▲シテ「いゝや、存じませぬ。
▲アト「総じて、野中には木の葉がある。上の木の葉をかきのけて、下のたゝぬ様に、中程を汲んで来い。
▲シテ「それ程の事は、知つて居ます。
▲アト「又、知つた者をやらいで、知らぬ者をやらうか。急いで行(い)て、やがて戻れ。
{不返事(ぶへんじ)にする。アト、きつとつめて、云ひ付ける。}
▲シテ「扨も扨も、迷惑な事を云ひ付けられた。この水を汲む程の事は、女わらべでも済む事を。あそこへは太郎冠者、こゝへは太郎冠者と、この様に使はれては、身も骨も続く事ではない。よし、今一度は参らうが、この様な事は、重ねての例になりたがる。何とぞして、参りとむないものぢやが。いや、致し様がござる。まづ、この手桶は、これに置いて。なう、悲しや。あ痛、あ痛。
▲アト「これはいかな事。太郎冠者の声ぢやが。やい、太郎冠者。何とした。
▲シテ「誰ぢや。
▲アト「身共ぢや。
▲シテ「頼うだ御方でござるか。
▲アト「中々。
▲シテ「後(あと)から誰も、追うては来ませぬか。
▲アト「いゝや。誰も追うては来ぬ。
▲シテ「こゝ元に、歯型はござらぬか。
▲アト「その様なものも、かつてない。まづ、心元ない。何事ぢや。
▲シテ「扨々、恐ろしい目に遭ひました。まづ、仰せ付けらるゝと、その儘清水へ参つて、水を汲まう、汲むまいと存ずる内に、向かうの山が、どゝどゝどつと鳴つて参ると、いかめの鬼{*1}が出まして、取つて噛まう、取つて噛まうと申してござる。こゝへ、どの様に逃げて参つたやら、覚えませぬ。
▲アト「扨々、合点の行かぬ事ぢや。あの清水に鬼の出(づ)るといふ事を、つひに聞いた事がない。して、最前の手桶は、何とした。
▲シテ「よう、その手桶の段ではござらうぞ。
▲アト「これはいかな事。あれは、身共が秘蔵の手桶ぢやによつて、損なはぬ様に持つて行けと云うてやるに、それを覚えぬといふ事があるものか。
▲シテ「さう仰せらるゝに付いて、思ひ出してござる。
▲アト「又、思ひ出さいでならうか。
▲シテ「余り、鬼がきしらう{*2}追つては参る、致し様はござらず、かの手桶を押つ取りて、鬼の面(つら)へほうと投げつけまして、逃げ逃げ聞きますれば、くわりくわりと、噛み割る音が致してござる。もはや、参つたりとも、手桶はござるまい。
▲アト「これはいかな事。鬼が手桶を喰ふといふ事を、つひに聞いた事がない。その上あれは、身共が秘蔵の手桶ぢやによつて、そちが命にも、替ふる事ではない。
▲シテ「これは、御意とも覚えませぬ。あの手桶は、今仰せ付けられても、何程でも調(とゝの)ひまする。年久しう召し遣はるゝ、太郎冠者が命にもお替へなされぬとは、余りお情けない事でござる。
▲アト「何をぬかしをる。行(い)て取つてうせう。
▲シテ「私は、あの様な鬼の出(づ)る所へ参る事は、嫌でござる。
▲アト「汝が行かずば、身共が行かう。
▲シテ「まづ、お待ちなされませ。
▲アト「何と、待てとは。
▲シテ「確かに、鬼が出まするぞや。
▲アト「何の、出(づ)るものぢや。退(の)きをれ。
▲シテ「これはいかな事。行かれたりとも、鬼は出まい。何としたものであらう。いや、致し様がござる。
{と云つて、大鼓座にて、武悪の面を着て、杖竹を持つて居るなり。}
▲アト「あの清水に鬼の出(づ)るといふ事を、つひに聞いた事がござらぬ。その上、きやつは日頃、臆病者でござるによつて、何ぞ、むさとした物を見て、鬼ぢやと存じたものでござらう。
▲シテ「取つて噛まう、取つて噛まう。
▲アト「あゝ、お許されませ、お許されませ。
▲シテ「やい。おのれは、憎いやつぢや。最前の手桶が欲しさに、取りに来をつたな。
▲アト「いや、左様ではござりませぬ。どうぞ、命を助けて下され。
▲シテ「まだ、ぬかしをる。総じて、おのれは人遣ひの悪いやつぢや。汝が使ふ者に、太郎冠者といふ者があらうがな。
▲アト「成程、ござりまする。
▲シテ「あの太郎冠者は、つゝと心の優しい者で、そちが事を大切に思うて奉公をするものを、夜とも昼ともなく遣ひをる。その上彼は、一つ呑む者の事なれば、夏ならば冷(ひや)、冬ならば、はつたりと燗をし済まして、彼が呑まうといふ程、呑ませうか。呑ますまいならば、取つて噛まう。
▲アト「あゝ、呑ませませう。命を助けて下され。
▲シテ「何ぢや。呑ませう。
▲アト「はあ。
▲シテ「まだある。夏、蚊屋を釣つて寝させぬげな。よう思うても見よ。夏、蚊屋を釣らいで、何と寝らるゝものぢや。今から、蚊屋を釣つて寝させうか。寝させまいならば、あゝ、あゝ。
▲アト「あゝ。成程、蚊屋を釣つて寝させませう。
▲シテ「何ぢや。寝させう。
▲アト「はあ。
▲シテ「まだある。聞けば、給分の残りを算用せぬげな。これも、早々帰つて算用せうか。せまいならば、取つて噛まう。
▲アト「成程、算用致しませう程に、どうぞ命を助けて下されい。
▲シテ「何ぢや。算用せう。
▲アト「はあ。
▲シテ「すれば、おのれが心も直つたさうな。命の義は助くるぞ。
▲アト「それは、ありがたう存じまする。
▲シテ「総じて、鬼の行く姿を見ぬものぢや程に、見をるな。
▲アト「いかないかな。見る事ではござりませぬ。
▲シテ「見るな、見るな。
▲アト「見は致しませぬ。
{と云ふ内、そつと顔を上げて見る。シテ、後(あと)見る。アト、うつむく。}
▲シテ「そりあ、見たわ。
{と云つて、後(あと)へ戻り、杖にて打つて、アトを叩くなり。仕様、口伝。}
見をるなと云ふに、見をる。扨々、憎いやつかな。見るな。
▲アト「見は致しませぬ。
▲シテ「見たら、取つて噛むぞ。見るな、見をるな。
{と云つて、忍びて太鼓座へ行きて、面をとる。}
▲アト「なうなう、恐ろしや恐ろしや。太郎冠者の申したを、嘘かと思うて参つたれば、誠に鬼が出た。まづ、急いで帰らう。
▲シテ「も、良い時分でござる。迎ひに参らうと存ずる。
▲アト「えい、太郎冠者。
▲シテ「えい、頼うだ御方。
▲アト「汝は、どれへ行く。
▲シテ「あまり遅さに、お迎ひに参りました。
▲アト「いらぬ迎ひの。
▲シテ「御前(おまへ)は、いかう御色が悪うござる。どうぞなされましたか。
▲アト「別に、色の悪い筈はないが。
▲シテ「いや、興(きよう)がつた御色でござる。
▲アト「扨は、色の悪いが定(ぢやう)か。
▲シテ「中々。人の色ではござらぬ。
▲アト「辺りに人はないか。
▲シテ「いや、誰も居りませぬ。
▲アト「扨、汝が云うたを嘘かと思うて、清水へ行(い)たれば、誠に鬼が出てな。
▲シテ「何の。鬼が出ませうぞ。
▲アト「それについて、不審な事がある。もし、汝は、鬼に親御は持たぬか。
▲シテ「御前も、よつぽどの事を仰せらるゝ。鬼に親御を持つて良いものでござるか。
▲アト「でも、汝が事を、いかう贔屓をしてゐたぞよ。
▲シテ「あの、私が事をや。
▲アト「中々。
▲シテ「はて、合点の行かぬ事でござる。いや、それは、物でござる。
▲アト「物とは。
▲シテ「私の先祖が、あの清水へ身を投げたとやら申しまする。孫子の末を憐れみまして、お嘆きかな申したものでござらう。
▲アト「皆まで云ふな。大方、その様な事であらう。扨、そちが行(い)た時も、向かうの山が鳴つたか。
▲シテ「成程、向かうの山が、どゝどゝどつと鳴つて参ると、いかめの鬼が出まして、取つて噛まう、取つて噛まうと申してござる。
▲アト「何云うた。
▲シテ「はあ。
▲アト「暫くそれに待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「はて、合点の行かぬ事ぢや。最前の清水の鬼の声と、今、太郎冠者の声が、一つでござる。いや、致し様がござる。太郎冠者、太郎冠者。やい、太郎冠者。
▲シテ「やあ。
▲アト「鬼は何と云うた。
▲シテ「取つて噛まうと申してござる。
▲アト「最前の様に云うて見よ。
▲シテ「最前の様に、取つて噛まうと申してござる。
▲アト「はて扨、最前の様に、いかい声をして、云うて見よ。
▲シテ「最前の様に、いかい声をして、取つて噛まうと、ちよつと申してござる。
▲アト「扨は、おのれは、しかと云はぬか。
▲シテ「まづ、お待ちなされませ。
▲アト「何と、待てとは。
▲シテ「申しませう。
▲アト「急いで云へ。
▲シテ「取つて噛まう。
▲アト「もひとつ。
▲シテ「取つて噛まう。
▲アト「思へば思へば、手桶が惜しい。も一度、取りに行かうわいやい。
▲シテ「一度で懲りいで、二度の死をなさるゝとは、御前の事でござる。これは、御無用になされませ。
▲アト「いやいや。いかにしても、手桶が惜しい。も一度、取りに行かう。
▲シテ「まづ、お待ちなされませ。
▲アト「何と、待てとは。
▲シテ「又、鬼が出まするぞや。
▲アト「何をぬかしをる。退(の)きをれ。
▲シテ「又、鬼にならずばなるまい。
{と云つて、始めの通り、又、面を着、出る。}
▲アト「扨も扨も、憎い事かな。最前のは、まさしく太郎冠者でござつたものを、まんまと騙された。おのれ、今度出をつたらば、致し様がござる。
▲シテ「取つて噛まう、取つて噛まう。
▲アト「あゝ、御許されませ。
▲シテ「取つて噛まう。
▲アト「何の、取つて噛まう。
▲シテ「取つて噛まう。
▲アト「おのれは、太郎冠者ではないか。
{と云つて、前に面をとりて、所々にて打擲するなり。}
▲シテ「あゝ。御許されませ、御許されませ。
▲アト「あの横着者。やるまいぞ、やるまいぞ。
{と云つて、追ひ込み入るなり。}

校訂者注
 1:「いかめの鬼」は、不詳。或いは「厳(いか)き目(大きい目)目」の意か。
 2:「きしらう」は、不詳。

底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.

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清水(シミヅ)(二番目 三番目)

▲アト「此辺りの者で御座る、此中方々のお茶の湯は夥たゞしい事で御座る、夫れに付き太郎冠者を呼出し申し付る事が御座る{ト云て呼出す出るも如常}{*1}汝呼出す別の事でない、何と此中方々のお茶の湯は夥たゞしい事ではないか▲シテ「御意なさるゝ通り事てふじた義で御座る▲アト「夫につき明日は此方へも各を申請る、茶の水にはどれがよからう▲シテ「さればどれがよう御座りませうぞ▲アト「どれがよからうなあ▲シテ「どれ是と仰せられうより、野中の清水は何とて御座らう▲アト「是は一段とよからう、則ち汝にいひ付る程に、太儀ながらいて汲んでこい▲シテ「畏つては御座れ共、私は御内せうに御用も御座らう程に、次郎冠者に仰せ付られませ▲アト「次郎冠者にも相応の用を言ひ付る、兎角汝ゆけ▲シテ「夫ならば参りませう迄▲アト「暫く夫にまて▲シテ「心得ました▲アト「やいやい是は身共が秘蔵の手桶ぢや程に、随分そこなはぬ様にして持つて行け▲シテ「畏つて御座る▲アト「扨汝は水の汲様を知つてゐるか▲シテ「いゝや存じませぬ▲アト「総て野中には木の葉がある、上の木の葉をかきのけて、したのたゝぬ様に中程を汲んでこい▲シテ「夫程の事は知つて居ます▲アト「又知つた者をやらひで知らぬ者をやらうか、急ひでいて頓て戻れ{不返事にするアトきつとつめて云つける}▲シテ「扨も扨も迷惑な事を言ひ付られた、此水を汲程の事は女わらべでも済事を、あそこへは太郎冠者爰へは太郎冠者と、此様に使はれては身も骨もつゞく事ではない、よし今一度は参らうが、此様な事は重ての例に成たがる、何卒して参りとむない者ぢやが、いや致し様が御座る、先此手桶は是におひて、なうかなしや、あいたあいた▲アト「是はいかな事、太郎冠者の声ぢやが、やい太郎冠者何とした▲シテ「誰ぢや▲アト「身共ぢや▲シテ「頼うだお方で御座るか▲アト「中々▲シテ「跡から誰も追ふては来ませぬか▲アト「いゝや誰も追ふてはこぬ▲シテ「爰元に歯がたは御座らぬか▲アト「其様な物も曽てない、先心許ない何事ぢや▲シテ「扨々恐しい目にあいました、先仰付らるゝと其儘清水へ参つて、水を汲う汲まいと存ずる内に、向うの山がどゝどゝどつと鳴て参るといかめの鬼が出まして、とつてかまうとつてかまうと申して御座る爰へどの様に逃て参つたやらおぼへませぬ▲アト「扨々合点のゆかぬ事ぢや、あの清水に鬼の出ると云ふ事をつひに聞ひた事がない、して最前の手桶は何とした▲シテ「よう其手桶の段では御座らうぞ▲アト「是はいかな事、あれは身共が秘蔵の手桶ぢやに依つて、損なはぬ様に持つて行けというてやるに、夫を覚えぬといふ事がある者か▲シテ「さう仰せらるゝに付て思ひ出して御座る▲アト「又思ひ出さひでならうか▲シテ「余り鬼がきしらう追ては参る、致様は御座らず、彼の手桶を押つ取り{*2}て、おにのつらへほうとなげつけまして、逃々きゝますれば、くわりくわりと{*3}かみわる音が致して御座る、最早参つたりとも手桶は御座るまい▲アト「是はいかな事、鬼が手桶を喰ふと云う事をついに聞いた事がない、其上あれは身共が秘蔵の手桶ぢやに依つて、そちが命にもかふる{*4}事ではない▲シテ「是は御意とも覚へませぬ、あの手桶は今仰付られても何程でも調ひまする、年久敷召つかわるゝ太郎冠者が命にもおかへなされぬとは、余りお情けない事で御座る▲アト「何をぬかしおる、いて取つてうせう▲シテ「私はあの様な鬼の出る所へ参る事はいやで御座る▲アト「汝がゆかずば身共が行う▲シテ「先おまちなされませ▲アト「何とまてとは▲シテ「慥に鬼が出まするぞや▲アト「何の出るものぢや、のきおれ▲シテ「是はいかな事、ゆかれたりとも鬼は出まひ、何とした物で有う、いや致様が御座る{ト云て大鼓座にて武悪の面をきて杖竹を持つているなり}▲アト「あの清水に鬼の出るといふ事をつひに聞た事が御座らぬ、其上きやつは日頃臆病者で御座るに依つて、何ぞむさとした物を見て、鬼ぢやと存じた物で御座らう▲シテ「とつてかまうとつてかまう▲アト「あゝおゆるされませおゆるされませ▲シテ「やいおのれは憎いやつぢや、最前の手桶がほしさに取りに来おつたな▲アト「いや左様では御座りませぬ、どうぞ命を助けて下され▲シテ「まだぬかしおる、総じておのれは人遣ひのわるひやつぢや、汝がつかう者に太郎冠者といふ者があらうがな▲アト「成程御座りまする▲シテ「あの太郎冠者はつツと心のやさしひ者で、そちが事を大切に思ふて奉公をするものを、よるとも昼ともなく遣ひおる、其上かれは一つ呑む者の事なれば、夏ならばひや、冬ならばはつたりとかんをしすまして、かれが呑うといふ程呑ませうか、呑すまひならば取つてかまう▲アト「あゝ呑ませませう命を助けて下され▲シテ「何ぢや呑ませう▲アト「はあ▲シテ「まだ有る、夏蚊やを釣つて寝させぬげな、よう思ふても見よ、夏蚊屋をつらひで何と寝らるゝ物ぢや、今から蚊屋をつツて寝させうか、ねさせまひならば、あゝあゝ▲アト{*5}「あゝ成程蚊屋を釣つて寝させませう▲シテ「何ぢや寝させう▲アト「はあ▲シテ「まだある、聞けば給分の残りを算用せぬげな、是も早々帰つて算用せうか、せまいならば取つてかまう▲アト「成程算用致しませう程に、どうぞ命を助けて下されい▲シテ「何ぢや算用せう▲アト「はあ▲シテ「すればおのれが心もなほつたさうな、命の義はたすくるぞ▲アト「夫は有難う存じまする▲シテ「総じて鬼のゆく姿を見ぬ者ぢや程に見おるな▲アト「いかないかな見る事では御座りませぬ▲シテ「見るな見るな▲アト「見は致しませぬ{ト云ふ内そつと顔を上て見るシテ後{*6}見るアトうつむく}▲シテ「そりあ見たわ{ト云て後トへ戻り杖にて打つてアトをたゝく{*7}なり仕様口伝}{*8}見おるなと云ふに見おる扨々憎ひやつかな、見るな▲アト「見は致しませぬ▲シテ「見たら取つてかむぞ、見るな見おるな{ト云て忍て太鼓座へ行きて面をとる}▲アト「なうなう、恐しや恐しや太郎冠者の申したをうそかと思ふて参つたれば、誠に鬼が出た、先急ひで帰らう▲シテ「も、よい時分で御座る、迎ひに参らうと存ずる▲アト「えい太郎冠者▲シテ「えい頼うだお方▲アト「汝はどれへ行く▲シテ「あまりおそさにお迎ひに参りました▲アト「いらぬむかひの▲シテ「お前はいかうお色がわるう御座る、どうぞ{*9}なされましたか▲アト「別に色のわるひ筈はないが▲シテ「いやきやうがつたお色で御座る▲アト「扨は色のわるいが定{*10}か▲シテ「中々人の色では御座らぬ▲アト「あたりに人はないか▲シテ「いや誰も居りませぬ▲アト「扨汝がいうたをうそかと思うて清水へいたれば、誠におにが出てな▲シテ「何の鬼が出ませうぞ▲アト「夫につひて不審な事がある、もし汝は鬼に親御{*11}はもたぬか▲シテ「お前もよつぽどの事を仰せらるゝ、鬼に親御{*12}をもつてよい者で御座るか▲アト「でも汝が事を、いかうひいきをしていたぞよ▲シテ「あの私が事をや▲アト「中々▲シテ「果合点のゆかぬ事で御座る、いや夫は物で御座る▲アト「物とは▲シテ「私の先祖が、あの清水へ身を投げたとやら申しまする、孫子のすゑをあはれみまして、おなげきかな申した者で御座らう▲アト「皆迄云ふな、大方其様な事で有う、扨そちがいた時も向うの山が鳴つたか▲シテ「なる程向うの山がどゝどゝどつとなつて参ると、いかめの鬼が出まして取つてかまふ取つてかまふと申して御座る▲アト「何いふた▲シテ「はあ▲アト「暫く夫にまて▲シテ「畏つて御座る▲アト「果合点のゆかぬ事ぢや、最前の清水の鬼の声と、今太郎冠者の声が一つで御座る、いや致し様が御座る、太郎冠者、太郎冠者、やい太郎冠者▲シテ「やあ▲アト「鬼は何といふた▲シテ「取つてかまふと申して御座る▲アト「最前の様に云ふて見よ▲シテ「最前の様に取つてかまうと申して御座る▲アト「果扨最前の様にいかい声をしていうて見よ▲シテ「最前の様にいかい声をして、取つてかまうと鳥渡申して御座る▲アト「扨はおのれはしかと云はぬか▲シテ「まづお待ち被成ませ▲アト「何とまてとは▲シテ「申しませう▲アト「急ひで云へ▲シテ「とつてかまう▲アト「最ひとつ▲シテ「とつてかまう▲アト「思へば思へば手桶がおしひ、も一度{*13}取りに行うはいやい▲シテ「一度でこりいで二度の死を被成るゝとはおまへの事で御座る、是は御無用に被成ませ▲アト「いやいやいかにしても手桶がおしひ、も一度{*14}取りに行かう▲シテ「先おまち被成ませ▲アト「何とまてとは▲シテ「又おにが出まするぞや▲アト「何をぬかしをるのきおれ▲シテ「又おにゝならずば成まい{ト云て始の通り又面をき出る}▲アト「扨も扨も憎ひ事かな、最前のは、まさしく太郎冠者で御座つたものを、まんまとだまされた、おのれ今度出おつたらば致し様が御座る▲シテ「とつてかまうとつてかまう▲アト「あゝ御ゆるされませ▲シテ「とつてかまう▲アト「何のとつてかまう▲シテ「とつてかまう▲アト「おのれは太郎冠者ではないか{ト云て前に面をとりて所々にてちやうちやくするなり}▲シテ「あゝ御ゆるされませ御ゆるされませ▲アト「あの横ちやく者{*15}やるまいぞやるまいぞ{ト云て追込入るなり}

校訂者注
 1:底本は、「▲アト「汝呼出す別の事でない」。
 2:底本は、「追つ取りて」。
 3:底本は、「くわり々(二字以上の繰り返し記号)と」。
 4:底本は、「命にもかゆる」。
 5:底本は、「▲シテ「あゝ成程蚊屋を釣つて寝させませう▲アト「はあ▲シテ「まだある」。
 6:底本は、「シテ後ト見る」。
 7:底本は、「跡をいたゝくなり」。
 8:底本は、「▲シテ「見おるなと云ふに」。
 9:底本は、「御座がる、何卒(どうぞ)」。
 10:底本は、「誠(ぜう)」。
 11・12:底本は、「親子(おやご)」。
 13・14:底本は、「今(も)一度(いちど)」。
 15:底本は、「あの大(おほ)ちやく物(もの)」。