抜殻(ぬけがら)(二番目)

▲アト「この辺りの者でござる。この中(ぢゆう)、方々の御振舞は、夥(おびたゞ)しい事でござる。それにつき、太郎冠者を呼び出し、申し付くる事がござる。
{と云つて、呼び出す。出るも常の如し。}
汝呼び出す、別の事でない。何とこの中(ぢゆう)、方々の御振舞は、夥しい事ではないか。
▲シテ「御意なさるゝ通り、事長じた義でござる。
▲アト「それについて、明日(みやうにち)は、この方(はう)へも各々を申し受くる。こゝ元の肴では、馳走にならぬ。汝は太儀ながら、和泉の堺へ行(い)て、肴を求めて来い。
▲シテ「畏つてござれども、私は、御内証に御用もござらう程に、次郎冠者に仰せ付けられませ。
▲アト「いやいや。次郎冠者にも、相応の用を云ひ付くる。その上、不調法な者を遣はしては、心元ない。とかく、汝行け。
▲シテ「それならば、参りませうまで。
{と云つてつめるも、常の如し。}
はて、異な事の。いつも御使ひに行く度ごとに、御酒(ごしゆ)を一つ宛下さるゝ。今日(けふ)に限つて、何の沙汰がない。今日(こんにち)一度など下されぬというて、苦しうなけれども、この様な事は、重ねての例になりたがるものぢや。これは、気を付けて、呑うで参らう。申し申し、ござりますか。
▲アト「太郎冠者の声ぢやが。えい、太郎冠者。汝はまだ行かぬか。
▲シテ「追つ付け参りまするが、何と、肴は、新しいを求めて参りませうか。但し、古いを求めて参りませうか。
▲アト「いや、こゝな者が。古い肴が、何の役に立つものぢや。随分念を入れて、新しいが上にも新しい肴を、求めて来い。
▲シテ「私も、左様に存じてござれども、何程肴が新しいと申しても、御酒が悪うては、いかゞでござる。その御酒の所へ、御気を付けられたらば、良うござりませう。
▲アト「成程、これは尤ぢや。それについて、ちと用事がある。暫くそれに待て。
▲シテ「何ぞ、御用がござりまするか。
▲アト「成程、用がある。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「これはいかな事。下々(したじた)に、悪う癖を付けうものではござらぬ。いつも使ひに遣はす度ごとに、酒を一つ呑ませて遣はす。今日(けふ)は、はたと失念致したれば、気を付けに帰つたと見ゆる。これは、呑ませずばなるまい。
▲シテ「やうやうと、御気がついたさうな。
▲アト「太郎冠者。やい、太郎冠者。
▲シテ「はあ。
▲アト「面目もない事があるわ。
▲シテ「それは、何でござりまする。
▲アト「いつも使ひにやる度ごとに、酒を一つ呑ませて遣はす。今日(けふ)は、はたと失念致した。一つ、呑うで行け。
▲シテ「御用がある。待て。と仰せられたは、この御酒の事でござるか。
▲アト「中々。
▲シテ「扨も扨も、御律儀千万な事でござる。私は又何ぞ、外の御用でござるとこそ存じましたれ。いつも下さるゝ御酒を、今日(こんにち)一度下されぬと申して、それが何でござる。その御用ならば私は、も、かう参りませう。
▲アト「あゝ、これこれ。いつも呑ますに、今日(けふ)に限つて呑ませいでは、何とやら気がかりな。是非とも一つ、呑うで行け。
▲シテ「左様ならば、たつた一つ、下さりませうか。
▲アト「まづ、下に居よ。
▲シテ「扨も扨も、御気のつかせられた事ぢや。
▲アト「さあさあ、呑め呑め。
▲シテ「これは、例の大盃が出ました。
▲アト「そちは、小さいが嫌ひぢやによつて、大きいを出した。
▲シテ「何(いづ)れ、これで一つ下されたらば、悪うはござりますまい。
▲アト「さあさあ、一つ呑め。
▲シテ「これは、御酌、慮外でござる。
▲アト「身共が、慰みに酌をせう。
{と云つて、酒つぐ。}
▲シテ「あゝ、ござりまする。
▲アト「恰度(ちやうど)呑め、恰度呑め。
▲シテ「これは、恰度つがせられた。
{と云つて受け、一つ呑む。常の如し。}
▲アト「何とあつた。
▲シテ「只、冷(ひい)やりとばかり致して、何も覚えませぬ。
▲アト「それならば、もう一つ呑うで、味を覚えい。
▲シテ「それでは、御約束が違ひまするが。
▲アト「苦しうない。も一つ呑め。
▲シテ「左様ならば、も一つ下されて、味を覚えませう。
{と云つて、又受けて呑む。しかじか、常の如くあるべし。}
今、覚えました。
▲アト「何とあつた。
▲シテ「これは、常に下さるゝ御酒と違ひまして、殊の外良い御酒でござる。これは、どの御酒でござる。
▲アト「そちに酒を振舞うて、惜しうない。これは、身共が寝酒にたぶる、遠来ぢや。
▲シテ「何。御遠来。
▲アト「中々。
▲シテ「さればこそ私が、並ならぬ結構な御酒ぢやと、たべ覚えた事でござる。扨、この御酒を下されて申すではござらぬが、御前(おまへ)の事を、世間でいかう、人が褒めまする。
▲アト「何と云うて褒むる。
▲シテ「第一、御慈悲が深い。下々までも、細かに御気がつかせらるゝ。あの御心入れならば、追つ付け御立身なされう。と申して、いかう人が褒めまする。
▲アト「それは、悪い事を聞く様になうて、悦ぶ事ぢや。
▲シテ「それに付きまして、私も、いかう人が羨みまする。
▲アト「それは、何と云うて羨むぞ。
▲シテ「あの太郎冠者が様な果報者は、あるまい。いつ御使ひに出る顔を見ても、色の良い、機嫌の良さゝうな顔ぢや。と申しまするによつて、まづさうぢや。何が、結構な御主(おしゆ)に使はるゝによつて、諸事に御心がつかせられて、御使ひに行く度ごとに、太郎冠者、行(い)たか、戻つたか、一つ呑め、などと仰せらるゝ。これで機嫌の悪からう様がない。と申してござれば、扨も扨も、羨ましい。あやかり者ぢや。その様な御主をあだに思うたらば、罰が当たらう。と申しまするによつて、何しに悪う思うぞ。良いが上にも良かれかし、良かれかしと願ふ事ぢや。と申しまする。
{と云つて、盃を出す。}
▲アト「これは、まだ呑むか。
▲シテ「献(こん)が悪うござる。
▲アト「過ぎうぞよ。
▲シテ「何の。この結構な御酒を、二つや三つ下されたとて、酔ふ事ではござらぬ。
▲アト「それならば、呑め。
▲シテ「さりながら、ちと軽うついで下され。
▲アト「とても、呑むならば、恰度呑め。
▲シテ「いや。軽うつがつしやれ。
▲アト「恰度呑め、恰度呑め。
▲シテ「こします、こします。
{と云つて、又一つ受けて、悦び笑ふ。扨、半分呑みて、むせるなり。}
▲アト「何とした。
▲シテ「余り大盃で、とつかけとつかけ下されましたれば、ちときけました。
▲アト「それならば、休んで呑め。
▲シテ「静かにたべませう。
▲アト「それが良からう。
▲シテ「扨、物でござる。
▲アト「物とは。
▲シテ「いつも、この盃で二つたべますと、ほうど、厭(あ)きまする。今日(けふ)の御酒は、結構にござるによつて、まあ、酔ふ事ではござりませぬ。
▲アト「いやいや。少し酔うたさうな。
▲シテ「いかないかな。存じもよらぬ。酔ひは致しませぬ。扨、いつぞは申さう申さうと存じましたが、御前の事を、いかう人が褒めます。
▲アト「それは、最前聞いた。
▲シテ「早(はや)、聞かせられたか。
▲アト「中々。
▲シテ「ぢや所で、私を人が羨みまする。そちが様な、果報な者はあるまい。あの結構な御主を悪う思うたら、罰が当たらう。と申すによつて、それは、皆達が仰(お)せあるが、くどい。何しに悪う思はうぞ。良いが上にも、良かれかし、良かれかしと願ふ事ぢや。と申しまする。
{と云つて、呑むなり。酒の酔ひ、この類、同断。}
さあ、取らつしやれ。
▲アト「も、呑まぬか。
▲シテ「も、嫌ぢや。
▲アト「それならば、取るぞよ。
▲シテ「はて、取つたが良い。あゝ、くどい人ぢや。良いが上にも、良かれかし、良かれかしと、願ふ事ぢや。と申しまする。
{と云つて、笑ふ。}
▲アト「太郎冠者。やい、太郎冠者。
▲シテ「やあ。
▲アト「行かぬかいやい。
▲シテ「どこへ。
▲アト「和泉の堺へ。
▲シテ「それは、良う知つてゐます。
▲アト「急いで行(い)て、やがて戻れ。
{シテ、受けて、これより酔ひ強く、笑ふ仕様、色々あり。}
▲シテ「あゝ。扨も扨も、結構な御方ぢや。嫌と云ふものを、大盃で三つ。
{と云つて、笑ふ。小謡あるべし。}
ちと、謡うて行かう。(小謡)やあ。こなた、誰ぢや。見知らぬ人が手をついて、この方への御辞儀ならば、御手を上げられい。それは、迷惑ぢや。さあさあ。平(ひら)に、御手を上げられい。こなた、誰ぢや。人か人かと思うたれば、石仏ぢや。
{と云つて、笑ふ。}
石仏が人に見えては、行かれぬ。ちと、この所に寝て行かう。えいえい。
{と云つて、寝るなり。}
▲アト「太郎冠者を、和泉の堺へ使ひに遣はしてござる。殊の外、酒に酔うて参つた。路次の程も心元ない。後(あと)を慕うて参らうと存ずる。誠に、酒を呑ますれば、酔う。呑ませねば、気を付けに帰る。この様な気の毒な事はござらぬ。
{と云つて、行き当たり、肝をつぶす心なり。}
さればこそ、あれに正体もなう寝て居る。太郎冠者、太郎冠者。むゝ、熟柿くさや、熟柿くさや。したゝか酒に酔うて居をる。扨も扨も、苦々しい事ぢや。何とぞこれに懲りて、以来、ふつふつ酒を呑まぬ様にしたいものぢやが。いや、致し様がござる。
{と云つて、面を持つて出て、そつと着せ置く。さし足するなり。}
まづ、帰つて様子を見ようと存ずる。
{シテ、目を覚まし、あくびなぞする。}
▲シテ「あゝ。寝た事かな、寝た事かな。誰(た)そ、湯か茶か一つくれい。これはいかな事。身共が部屋かと思うたれば、これは野原ぢや。何として、こゝに寝て居た事ぢや知らぬ。おゝ、それそれ。頼うだ御方の使ひに、和泉の堺へ行く筈であつた。また、いつもの御酒にたべ酔うて、この所に寝て居たものであらう。まづ、急いで和泉の堺へ参らう。はあ。枕下(まくらさが)りに寝た故か、どうやら顔が面腫(おもば)れたやうな。水がな欲しや。冷(ひい)やりと手水が使ひたいものぢやが。いや、このあなたに清水がある。あれへ行(い)て、手水を使はう。扨も扨も、正体もなう寝て居た。頼うだ御方がお聞きなされたらば、良いとは仰せられまい。どれどれ、こゝで手水を使はう。
{と云つて、水を見、驚き逃げる。}
なう、恐ろしや恐ろしや。あの清水に鬼が居る。急いで、頼うだ御方へ申し上げうか。いやいや。常々、身共を臆病者ぢやと仰せらるゝ。何ぞむさとした物が、鬼に見えたも知れぬ。篤(とく)と見定めいでは、申し上げられまい。あゝ。これは、気味の悪い事ぢやが。確かに今のは、鬼であつたが。あゝ、気味の悪い事ぢや。
{と云つて、怖がり見に行く所、色々仕様あるべし。水鏡を見定め、我が身を色々映し見、泣くなり。}
清水に鬼が居るかと思うたれば、これは、身共が鬼になつた。あれあれあれ。
{と云つて、泣く泣く、又手を出し、上げつ下げつ、色々我が身を試し見て、泣く。}
つひに、人を悪かれと思うた事はないに、何とした因果で、この様な浅ましい面(つら)になつた事ぢや。この面で余所外へ行(い)たりとも、人が寄せ付けはせまい。まだ、御馴染みぢや。頼うだ御方へ御詫びを申して見よう。云うても云うても、何とした因果で、この様な恐ろしい面になつた事ぢや。これと云ふも、日頃、酒を呑む故の事ぢや。重ねては、禁酒に致さうと存ずる。こゝぢや。申し、頼うだ御方、ござりまするか。
▲アト「いや、太郎冠者が、戻りをつたさうな。
{と云つて、常の如く出る。アト、袖にて顔覆ひ、}
なう、恐ろしや。鬼が来た。あちへ行け、あちへ行け。
▲シテ「あゝ、申し申し。声でなりとも、聞き知らせられて下され。私は、太郎冠者でござりまする。
▲アト「成程、声は太郎冠者なれども、面が鬼ぢや。何としてその様な、恐ろしい面にはなつたぞ。
▲シテ「さればの事でござる。最前、和泉の堺へ行け。と仰せられたを、又、いつもの御酒にたべ酔ひまして、路次とも存ぜず臥せつて居りましたれば、いつの間にやら、この様な浅ましい面になりましてござる。
▲アト「それは、不憫な事ぢや。さりながら、身が内に、人が生きながら鬼になつたと云うては、世間の外聞も悪い。身が内には叶はぬ程に、出て行け。
▲シテ「御尤には存じますれども、この面で余所外へ参りましたりとも、寄せつけは致しますまい。只今までの御奉公は叶ひませずとも、御門の番なりとも、おさせなされて下されませ。
▲アト「これはいかな事。身が門に、鬼が番をすると云うたらば、人の出入りがあるまい。身が内には叶はぬ。出て行け、出て行け。
▲シテ「左様ならば、御台所の御釜の火なりとも、焚(た)かさつしやれて下され。
▲アト「いや、こゝなやつが。台所へは女童(をんなわらべ)も出るに、その様な恐ろしい面で、何と、火が焚かさるゝものぢや。さあさあ、出て行け、出て行け。
▲シテ「あゝ、申し申し。左様ならば、どうぞ御医者衆に仰せ付けられて、ひと療治おさせなされて下されませ。
▲アト「いよいよ、むさとした事を云ふ。医者は、人間の病ひをこそ治せ。鬼の療治をしたといふ事は、つひに聞いた事がない。とかく、身が内には叶はぬ程に、出て行け、出て行け。あちへ行け、あちへ行け。
▲シテ「あれあれ。御馴染みの頼うだ御方さへ、あの様に仰せらるゝ。この面で余所外へ行(い)たりとも、人が寄せつけはせまい。これはまづ、何としたものであらうぞ。あゝ、さうぢや。この上は、是非に及ばぬ。最前、鬼になつた所へ行(い)て、草へ喰ひ付いて、くさり死になりとも、致さうと存ずる。扨も扨も、浅ましい事ぢや。何として、この様な面にはなつた事ぢや知らぬまで。これこれ、こゝぢや。この所は、身共がためには、何とした因果な所ぢや。
{と云つて、こける。こけ、道に面を落とす。肝をつぶして、そつと面を直し着て、}
申し。頼うだ御方、ござりまするか。
▲アト「何事ぢや。何事ぢや。
▲シテ「ちやつとござれ。物を見せませう。
▲アト「何事ぢや、何事ぢや。
▲シテ「これに、鬼の抜け殻がござる。
▲アト「何の、抜け殻。あの、やくたいもない。退(しさ)りをれ。
{常の如くつめて、叱り留めなり。}

底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.

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抜殻(ヌケガラ)(二番目)

▲アト「此辺りの者で御座る、此中方々のお振舞はおびたゞしい事で御座る、夫につき太郎冠者を呼出し申し付る事が御座る{ト云て呼出す出るも如常}{*1}汝呼出す別の事でない、何と此中方々のお振舞はおびたゞしひ事ではないか▲シテ「御意なさるゝ通り、事ちやうじた義で御座る▲アト「夫について明日は此方へも各々を申請る、爰元の肴では馳走にならぬ、汝は太儀ながら和泉の堺へいて肴を求めてこい▲シテ「畏つて御座れ共、私は御内せうに御用も御座らう程に、次郎冠者に仰せ付られませ▲アト「いやいや次郎冠者にも相応の用を言ひ付くる、其上不調法な者を遣はしては、心元ない兎角汝ゆけ▲シテ「夫ならば参りませう迄{ト云てつめるも如常}{*2}果異な事の、いつもお使に行く度毎に御酒を一つ宛下さるゝ、けふに限つて何の沙汰がない、今日一度抔下されぬといふて苦敷うなけれども、此様な事は重ての例になりたがるものぢや、是は気を付て呑ふで参らう申申御座りますか▲アト「太郎冠者の声ぢやが、えい太郎冠者汝はまだ行ぬか▲シテ「追付参りまするが、何と肴は新しひを求めて参りませうか、但し古ひを求めて参りませうか▲アト「いや爰な者が古い肴が何の役に立つ物ぢや、随分念を入れてあたらしいが上にも新しひ肴を求めてこひ▲シテ「私も左様に存じて御座れども、何程肴が新しひと申しても御酒がわろうてはいかゞで御座る、其御酒の所へお気を付られたらばよふ御座りませう▲アト「成程是は尤ぢや、夫についてちと用事が有る、暫く夫にまて▲シテ「何ぞ御用が御座りまするか▲アト「成程用がある▲シテ「畏つて御座る▲アト「是はいかな事、下下にわるうくせを付う者では御座らぬ、いつも使に遣す度毎に酒を一つ呑せて遣す、今日ははたと失念致したれば、気をつけに帰たと見ゆる、是は呑せずば成まい▲シテ「やうやうとお気がついたさうな▲アト「太郎冠者やい太郎冠者▲シテ「はあ▲アト「面目もない事があるは▲シテ「それは何んで御座りまする▲アト「いつも使にやる度毎に酒を一つ呑せて遣す、けふははたと失念致した、一つ呑うで行け▲シテ「御用があるまてと仰られたは、此御酒の事で御座るか▲アト「中々▲シテ「扨も扨もおりちぎ千万な事で御座る、私は又何ぞ外の御用で御座るとこそ存じましたれ、いつも下さるゝ御酒を、今日一度下されぬと申して夫が何で御座る、其御用ならば私はもかう参りませう▲アト「あゝこれこれ、いつも呑すにけふに限つて呑せいでは、何とやら気がかりな、是非共一つ呑うでゆけ▲シテ「左様ならばたつた一つ下さりませうか▲アト「先下に居よ▲シテ「扨も扨もお気のつかせられた事ぢや▲アト「さあさあ呑め呑め▲シテ「是は例の大盃が出ました▲アト「そちはちいさいがきらひぢやに依つて大きいを出した▲シテ「何れ是で一つ下されたらば、わるうは御座りますまい▲アト「さあさあ一つのめ▲シテ「是はお酌慮外で御座る▲アト「身共が慰に酌をせう{ト云て酒つぐ}▲シテ「あゝ御座りまする▲アト「恰度呑め恰度呑め▲シテ「是は恰度つがせられた{ト云て受け一つ呑如常}▲アト「何んとあつた▲シテ「唯ひいやりと計り致して何も覚えませぬ▲アト「夫ならば最一つ呑うであぢを覚えい▲シテ「夫ではお約束が違ひまするが▲アト「苦敷ない最一つ呑め▲シテ「左様ならば最一つ下されて、味を覚へませう{ト云て又受けて呑しかしか如常可有}{*3}今覚ました▲アト「何とあつた▲シテ「是は常に下さるゝ御酒と違ひまして、殊の外よい御酒で御座る、是はどの御酒で御座る▲アト「そちに酒を振舞うておしうない、是は身共が寝酒にたぶる遠来ぢや▲シテ「何御遠来▲アト「中々▲シテ「さればこそ私が、なみならぬ結構な御酒ぢやと、たべおぼへた事で御座る、扨此御酒を下されて申すでは御座らぬが、お前の事を世間でいかう人がほめまする▲アト「何と云うてほむる▲シテ「第一お慈悲が深ひ、下々迄もこまかにお気がつかせらるゝ、あのお心入ならば追付御立身なされうと申して、いかう人がほめまする▲アト「それはわるひ事を聞く様になふて悦事ぢや▲シテ「夫に付まして私もいかう人がうらやみまする▲アト「夫は何といふてうらやむぞ▲シテ「あの太郎冠者が様な果報者は有まいいつお使に出る顔を見ても、色のよい機嫌のよささうな顔ぢやと申しまするに依つて、先そふぢや、何が結構なお主につかはるゝに依つて、諸事にお心がつかせられて、お使に行く度毎に、太郎冠者いたか、戻つたか、一つ呑め抔と仰せらるゝ、是で機嫌のわるからう様がないと申して御座れば、扨も扨も浦山しいあやかり者ぢや、其様なお主をあだに思ふたらば、ばちが当らうと申まするに依つて、何しにわるう思ふぞ、よいが上にもよかれかしよかれかしと願ふ事ぢやと申しまする{ト云て盃を出}▲アト「是はまだ呑か▲シテ「献がわるう御座る▲アト「過うぞよ▲シテ「何の此結構な御酒を二つや三つ下されたとて、酔ふ事では御座らぬ▲アト「夫ならば呑め▲シテ「去り乍ら、ちと軽うついで下され▲アト「迚も呑むならば恰度のめ▲シテ「いや軽うつがつしやれ▲アト「恰度のめ恰度のめ▲シテ「こしますこします{ト云て亦一つ受て悦笑ふ扨半分呑てむせるなり}▲アト「何とした▲シテ「余り大盃でとつかけとつかけ下されましたれば、ちときけました▲アト「夫ならば休んで呑め▲シテ「静にたべませう▲アト「それがよからう▲シテ「扨物で御座る▲アト「物とは▲シテ「いつも此盃で二つたべますと、ほうどあきまする、今日の御酒は結構に御座るに依つて、まあ酔ふ事では御座りませぬ▲アト「いやいや少し酔ふたさうな▲シテ「いかないかな存じもよらぬ、酔は致しませぬ、扨ていつぞは申さう申さうと存じましたが、お前の事をいかう人が褒めます▲アト「夫は最前きひた▲シテ「早きかせられたか▲アト「中々▲シテ「じや所で、私を人が浦やみまする、そちが様な果報な者は有まい、あの結構なお主をわるふ思ふたら罰があたらうと申すに依つて、夫は皆達がおせあるがくどい、何しにわるう思はふぞ、よいが上にもよかれかしよかれかしと願う事ぢやと申しまする{ト云て呑なり酒の酔此類同断}{*4}さあとらつしやれ▲アト「最呑まぬか▲シテ「最いやぢや▲アト「それならば取るぞよ▲シテ「果取つたがよい、あゝくどい人ぢや、よいが上にもよかれかしよかれかしと願ふ事ぢやと申しまする{ト云て笑ふ}▲アト「太郎冠者やい太郎冠者▲シテ「やあ▲アト「ゆかぬかいやい▲シテ「どこへ▲アト「和泉の堺へ▲シテ「夫はよう知つてゐます▲アト「急いで{*5}いて頓て戻れ{シテ受て此より酔強く笑仕様色々有}▲シテ「あゝ扨も扨も結構なお方ぢやいやといふ物を大盃で三つ{ト云て笑ふ小謡ある可}ちと謡ふて行ふ(小謡)やあこなた誰ぢや、見知らぬ人が手をつひて、此方へのお辞儀ならばお手を上られい、夫は迷惑ぢや、さあさあひらにお手を上られい、こなた誰ぢや、人か人かと思ふたれば石仏ぢや{ト云て笑ふ}石仏が人に見へてはゆかれぬ、ちと此所に寝て行う、えいえい{ト云て寝る也}▲アト「太郎冠者を和泉の堺へ使に遣はして御座る、殊の外酒に酔うて参つた、路次の程も心許ない、跡をしたうて参らうと存ずる、誠に、酒を呑ますれば酔う、呑ませねば気を付に帰る、此様な気の毒な事は御座らぬ{ト云て行当り肝をつぶす心也}{*6}さればこそあれに正体もなう寝て居る、太郎冠者太郎冠者むゝ熟柿くさや熟柿くさや、したゝか酒に酔うてゐおる、扨ても扨てもにがにがしい事ぢや、何卒是にこりて、以来{*7}ふつふつ酒を呑ぬよふにしたい物ぢやが、いや致様が御座る{ト云つて面を持て出てそつときせをく{*8}さし足するなり}先帰つて様子を見やうと存ずる{シテ目をさましあくびなぞする}▲シテ「あゝ寝た事かな寝た事かな、たそ湯か茶か一つくれい、是はいかな事、身共が部屋かと思ふたれば是は野原ぢや、何として爰に寝て居た事ぢやしらぬ、おゝ夫々、頼うだお方の使に、和泉の堺へ行く筈であつた、またいつもの御酒にたべ酔うて、此所に寝て居たもので有う、先急いで和泉の堺へ参らう、はあ枕下りに寝たゆへか、どふやら顔がおもばれたよふな、水がなほしや、ひいやりと手水がつかひたい物ぢやが、いや此あなたに清水がある、あれへいて手水をつかはう、扨も扨も正体もなう寝ていた、頼うだお方がおきゝなされたらば、よいとは仰られまい、どれどれ爰で手水をつかはう{ト云て水を見驚きにげる}{*9}のふ恐しや恐しやあの清水に鬼がいる、急いで頼うだお方へ申上うか、いやいや、常々身共を臆病者ぢやと仰せらるゝ、何ぞむさとした物が、鬼に見へたも知れぬ、とくと見定めいでは申上られまい、あゝ是は気味のわるい事ぢやが、慥かに今のは鬼であつたが、あゝ気味のわるい事ぢや{ト云てこわがり見に行所色々仕様あるべし水鏡を見定め我身を色々うつし見泣くなり}{*10}清水に鬼が居るかと思ふたれば、是は身共が鬼に成つた、あれあれあれ{ト云て泣く泣く亦手を出し上げつさげつ色々我身をためし見て泣く}{*11}ついに人をわるかれと思ふた事はないに、何とした因果で此様な浅間しいつらになつた事ぢや、此つらで余所外{*12}へいたりとも人がよせ付はせまい、まだお馴染ぢや、頼うだお方へお詫を申して見やう、いふてもいふても何とした因果で、此様な恐ろしいつらに成つた事ぢや、是と云ふも日頃{*13}酒を呑む故の事ぢや、重ねては禁酒に致さうと存ずる、爰ぢや、申し頼うだお方御座りまするか▲アト「いや太郎冠者が戻りおつたさうな{ト云て如常出るアト{*14}袖にて顔をゝい}{*15}のふ恐しや鬼が来た、あちへ行けあちへ行け▲シテ「あゝ申々、声でなり共きゝしらせられて下され、私は太郎冠者で御座りまする▲アト「成程声は太郎冠者なれ共つらが鬼ぢや、何として其様な恐ろしいつらにはなつたぞ▲シテ「さればの事で御座る、最前和泉の堺へ行けと仰せられたを、又いつもの御酒にたべ酔ひまして、路次とも存ぜず{*16}ふせつて居りましたれば、いつの間にやら此様な浅間しいつらに成まして御座る▲アト「夫は不憫{*17}な事ぢや、去り乍ら、身が内に人がいきながら{*18}鬼になつたといふては、世間の外聞もわるい、身が内には叶はぬ程に出て行け▲シテ「御尤には存じますれども、此つらで余所外へ参りましたり共、よせつけは致しますまい、唯今迄の御奉公は叶ひませず共、御門の番なりともおさせ被成て下されませ▲アト「是はいかな事、身が門に鬼が番をするといふたらば、人の出入があるまい、身が内には叶はぬ出て行け出て行け▲シテ「左様ならばお台所のお釜の火なりともたかさつしやれて下され▲アト「いや爰なやつが、台所へは女童も出るに其様な恐ろしひつらで、何と火がたかさるゝ物ぢや、さあさあ出て行け出て行け▲シテ「あゝ申し申し、左様ならばどふぞお医者衆に仰付られて、ひと療治おさせ被成て下されませ▲アト「いよいよむさとした事をいふ、医者は人間の病ひをこそなほせ、鬼の療治をしたといふ事は、つひに聞ひた事がない、兎角{*19}身が内には叶なはぬ程に、出て行け出て行け、あちへ行けあちへ行け▲シテ「あれあれお馴染の頼うだ{*20}お方さへあの様に仰せらるゝ、此つらで余所外へいたりとも、人がよせつけはせまい、是は先何としたもので有うぞ、あゝさうぢや此上は是非に及ばぬ、最前鬼になつた所へいて草へ喰ひ付てくさり死に成共致さうと存ずる、扨も扨も浅間敷い事ぢや、何として此様なつらにはなつた事ぢやしらぬまで、是々爰じや、此所は身共が為には何とした因果な所ぢや{ト云てこけるこけみちに面ををとす肝をつぶしてそつと面をなをしきて}{*21}申し頼うだ御方御座りまするか▲アト「何事ぢや何事ぢや▲シテ「ちやつと御座れ物を見せませう▲アト「何事ぢや何事ぢや▲シテ「是に鬼のぬけがらが御座る▲アト「何のぬけがらあのやくたいもないしさりおれ{如常つめてしかり留也}

校訂者注
 1・6・15:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
 2~4・9~11・21:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
 5:底本は、「急いて」。
 7:底本は、「已来(いらい)」。
 8:底本は、「そつときせををく」。
 12:底本は、「余所他(よそほか)」。
 13:底本は、「日比(ひごろ)」。
 14:底本は、「シテ袖にて顔をゝい」。
 16:底本は、「存せず」。
 17:底本は、「不愍(ふびん)」。
 18:底本は、「いきなから」。
 19:底本は、「兎斯(とかく)」。
 20:底本は、「頼うたお方」。